紺碧の月

まあるい月

ぐんぐん父に手を引っ張られて梨花がドアをくぐったのは、閑静な住宅街の片隅にある喫茶店だった。店の中のひんやりとした鋭い空気は、梨花の汗ばんだ身体を包む。じっとりと貼りついた汗の膜が、一瞬にしてすうっと皮膚にすいこまれていくのを額に感じながら、不思議に感じた。なぜ父はこんなにも急いでこの店へ向かったのだろう。
店内の椅子には半円形で背の低い金属の背もたれがあり、入念に磨き上げられたような銀色の反射を梨花の視線に送っていた。季節は夏だったのか、それとも単に急いで歩いてきたために暑かったのか。4才の子供の記憶とはかなり曖昧だ。
背もたれの金属が放つ不思議な光に見とれている視界に何か動く物が入って来て、梨花がはっと顔を上げると、入口からはちょっと奥まった窓際の席から小柄な女性が梨花に向けて手を振ってよこした。ドアのすぐ横にある観葉植物に邪魔されて、背の高い父には見えないのかもしれない。
「ママじゃないし、おばあちゃんじゃない。やっちゃんのお母さんじゃないし久美ちゃんのママでもない。」
頭の中のリストを素早く繰ってみるのだが、梨花の知る限りの大人の女性は手を振る彼女とは重なっていかない。
「きっと新しいお友達のお母さんなんだわ」
辺りを見回すが梨花くらいの子供が隠れているようでもない。もう一度窓際に目を戻すと、女性は手を振るのやめ席を立つところだった。相変わらずそれが誰だかは分からないのだが、自分へ向けて手を振ってくる女性に梨花はかすかな好感を抱いた。
着ている服は梨花の大好きなピンク色だったし、髪は長くてサラサラしていた。天然パーマで生え際の髪がいつもふわふわしている梨花にとって、長いつるつるの髪は憧れだった。
時々家にやってくる父の知り合いが
「ここのところがくりくりしてて可愛いね」
と言いながら梨花の頭を撫でることがあったが、その言葉を聞いて嬉しいという気分になれないどころか、自分が一番嫌っている部分を誉められるような居心地の悪い気持ちになったものだ。
その憧れの髪の女性が自分に向けて手を振っていることが、梨花には嬉しくてたまらなかった。
「パパ、あのお姉さんが梨花に手を振ってるの」
握った父の手をくいっと引っ張り、窓際を指差して耳打ちする。
「あ、またやっちゃった」
日頃「人を指差してはいけない」というのは、父と母に幾度となく注意されていること。分ってはいるものの、言葉の数をそうそうもたない子供にとって手っ取り早く石を伝える方法で、ついつい梨花が繰り返す癖でもある。梨花は急いで親指だけをこぶしの中引っ込めながら、またしても
「人を指差すものじゃありません」
そんな言葉が父の口から吐き出されるのではないかと首をすくめて身構える。
「いやぁ、遅くなったよ」
父の顔にはふいに姿を見せた優しげな微笑みは、梨花を素通りしていき、近付いて来た女性がそれをしっかりと受け止める。
女性は言葉を返すかわりに、父の眼差しに応えるように手を伸ばす。白い蝶のようなか細い指先が、ふんわりと小さな弧を描いて父のごつごつとした二の腕のあたりに留まるのは、まるでスローモーションでも見ているようだった。微かにレモンかグレプフルーツのようなみずみずしい匂いがどこからともなく流れて来て、父と女性の間に響き始めた。

両親と連れだって歩く時、梨花は決まって2人の間に入る。それはなかば当然のことであり、そこが梨花の場所でもあったのだ。母と父の手がいつも自分の掌に触れているように、いや父が母の手だけを握ってしまわないようにするには真中に居ることが一番安心だった。
「ママと梨花とどっちが好き?」
父と散歩に出掛けた時のお決まりのフレーズだが、答えはいつも
「梨花だよ」
でなければならなかった。一度だけ
「両方」
と冗談で答えたことがある。父の目をとっさに見返した梨花の目に落胆が急速に色合いを深め、灰色の翳りは梨花を沈黙させてしまった。
何度も
「冗談だよ」
と繰り返す父から目を逸らし、散歩を終えて家に帰り着き
「一番好きなのは梨花だよ」
と父が訂正するまで機嫌は直らなかった。
梨花の中には初めから他の答えなど存在しないのだ。梨花は母の優子をやすやすと越えた存在であり、父の恋人のつもりだったのだから。
「大きくなって結婚するならパパと結婚しよう」と信じきって、何の疑問も持ってはいなかったのだからそれも仕方ない。

女性的な流れるような仕種と鼻に覚えのない未知なる香り。そのすべてが父の微笑の中へと受け入れられていくことに、ついいましがた目の前の女性にかすかに感じた好意的な感情は砕け跳び、梨花の気持ちを引っ掻いた。
女性の纏っていた甘酸っぱい香水の尾は梨花の鼻孔を通る間に刺すような不快さに変わり、喉の奥にトゲのような鋭さで張り付いた。
「今の気持ちは何かに似てるんだけど」
悲しいお話や、意地の悪い言葉を聞いた時に、鼻をツーンと抜けていくあの感覚にかなり近いのだ。いや、間違ってドライアイスに手を触れてしまったような乱暴なざらつきのようでもあった。
梨花はいつものように目をつぶり息を止める。そして喉の奥を突いて登ってくる塊がそれ以上大きくならないように身構えて待つのだ。塊が堤防の前で一瞬足をとめるその瞬間、ぐっと力を入れて呑み込んでしまえばバラバラのかけらとなって、身体のあちこちに吸い込まれ消えていく。そして夕凪のような静かな風が徐々に身体に戻って来る。

父の隣の席についてすぐ、なんとか2人の大人の話に割って入ろうとやっきになってその糸口を探してみる。
「パパ、なんか目に入った」
「どれどれ、見せてごらん。パパがふーって吹いたら取れて痛くなくなるからね」
そんな言葉を期待して目をこすってみたのだが、父は女性から視線を逸らすことなく梨花の頭を数回撫でただけだった。
あまりにおざなりな父の対応に梨花は戸惑う。父に嫌われるようなことをしたのだろうか、さっき人を指差した梨花を怒っているのだろうか..。
父の顔色をそっとうかがったが、どこにも怒りの色は浮かんではいない。梨花はもう一度試してみようと思った。
父の脇腹あたり、細い縦縞の白っぽいシャツを、いつも梨花がするようにかすかに下へ引っ張った。
「パパ、お手洗い」
「まっすぐ行って右に曲がったところだから、自分で行けるね?」
予期しなかった父の言葉で女性と父との間には割って入るすきなど無いことを確認したかのようで、一人で静かに洗面所へと向かう梨花の気持ちを暗くした。

最初から洗面所に用事があった訳ではない。意味もなく手を洗う梨花は、ひどく惨めな気分で蛇口からの水をひたすら両手に受ける。最初生ぬるかった水が、徐々に冷たくなてきて体温を洗い流す頃、はっと我に返る。ひどく情けない、歪んだ自分の顔が蛇口の金属の部分にぼんやりとにじんでいた。

席に戻ってからも、梨花は透明で見えない置物のような自分をどうしていいのか分からなかった。
家で母と父が話すことの全ては梨花にもおぼろげに分かる話だったし、少なくとも梨花の知っている人達が登場人物だ。ところが父とこの女性が話していることは、何一つ梨花には理解出来ない。
初めて父が梨花に見せたうっとりと女性を舐める視線は、何よりも梨花の気持ちを毛羽だたせた。
大好きな桃のジュースを目の前に置かれても、梨花は自分ではどうしようもない粗削りな塊の前で戸惑ったままだった。

仕事が忙しくなかなか顔を見ることの出来ない父なのだから、せめて休みの日くらい梨花と2人だけで遊んで欲しかった。会ったこともない目の前の女性が早く消えていなくなれば、父は約束のままごとをしてくれるのではないか...そんなことを考えながらぼんやりと窓枠越しに切り取られた外の景色を眺めると、真っ青な空のにまあるい月が白い膜のようにうっすらと浮かんでいた。


裏山の月

縁側の脇から裏山に続く小道はかなり勾配が急で危ないからと、静岡の祖母は決して梨花が一人でこの道を上がっていくことを許さなかった。普段は
「してはいけません」
と言われれば尚一層ためしてみたくなる梨花だったが、この祖母の言うことだけは聞き分けが良かった。
「蓮池へ行きたい」
「まだ遊びたい」
「食べたくない」
という梨花のわがままを
「そうかねぇ」
と許していてくれるのは祖母だけである。暗くなる前に戻らなければいけない、絶対食べなくてはいけないという言葉を祖母の口から聞くことはなく、梨花のほうから
「ただいま」
「おなかが空いた」
と口にするのを辛抱強く待ってくれる。しかし実際は心配で仕方がなかったのだろう、池の傍の木の陰からひっそりと梨花を見守っている祖母の姿を目の端に覚えている。

梨花が裏山に行く時はいつも祖母が一緒で、その日もしっかりと手を繋いで木々の中を歩いていた。山といってもそう高さのないみかん山で、のぼりつめた頂上から眺めると、みかんの手入れをする女性のかぶった日本てぬぐいが、あちこちで小さく白く動いている。草の上に緩やかな太陽の光を受けて座っていると、ばったやかまきりが緑色の絨毯の上を跳ねまわる。夢中になってその姿を追いかけ、やっと捕まえて祖母の方を振り向くと、祖母は何も言わずにその目は空を仰いでいる。祖母の視線の後を追って梨花が紺碧の空に目をやると、そこにはぽっかりと幻のような月が黙って浮いていた。
声を出したらふっと消えてしまいそうな危なっかしい姿の月の姿が流れてきた雲の帯に呑み込まれてしまうまで、祖母のとなりに膝をつき、梨花も何も言わずに月を眺めていた。
「梨花ちゃん、ああいう月が見える人はね。心がきれいなんだよぉ」
「おばあちゃんにも見えるの?」
「梨花に見えるものは、もちろんおばあちゃんにも見えるんだよぉ」
そう言われてもういちど目をこらしたが、月はもう雲の彼方に煙ってどうしても梨花の目にとらえることは出来なかった。


うねり

おばあちゃんに会いたいな。梨花が祖母の顔を思い出しはじめた時
「このお姉さんが、梨花のお母さんになる人だよ」
父の口からふいに吐き出されたこの言葉は、外国語のような不思議な響きで梨花の耳に吸い込まれた。
「家に帰ればお母さんがいるのに、パパったら何を言ってるの?」
梨花の中でさざなみが音をたて、床に届かぬ足をぶらぶらと揺する。梨花が口を開こうとしたその瞬間
「梨花ちゃん、こんにちは。夏子おねぇちゃんよ」
テーブルの向こうの女性が視線を下げる。
何と答えていいのか分からず、梨花は顔をしかめてうつむくだけ。
「ママは『こんにちわ』なんて言わないわ」
ナツコ、ナツコ、ナツコ、ナツコ、ナツコ.....
名前だけが頭の中で幾度となくこだまして、梨花のささくれだったた気持ちを更にかき混ぜる。
さきほど無理矢理バラバラにした、身体のあちこちに散らばっていったかけらが一瞬にしてさざなみに荷担し、大きなうねりとなって梨花の中に押し寄せて来る。急いで目をつぶりそのうねりを受け止めようとしたが、それはもう梨花が今まで押し殺すことのできた悲しいお話や、意地の悪い言葉のように単純なものではなかった。呑み込むタイミングを確実に逃がし、嫉妬や妬みや悲しみという4才の子供には強烈すぎる見えない感情が梨花の喉の奥で静かに炸裂し、涙は2つの目から筋を引いた。
梨花の大粒の涙に父が慌てて機嫌をとったのか、夏子にあやされたのかはっきりと思い出せない。鋭い刃物ででも断ち切られたかのように、梨花の記憶はそこでぷっつりと途切れていた。

梨花は言い争うような声に目を覚ました。春休みも終盤に入っていたが、高校は休みだったからうつらうつら眠ってしまっていたのだろう。2年前に買ったベッド脇の目覚し時計に目をやると、すでに9時を半分以上まわっていた。
「うるさいなぁ、また夏子さんとパパなのかしら」
妹の亜美が家族に加わった当初から、この2年間というもの、朝は静かだったためしがない。亜美が家を揺らさんばかりの勢いで泣きわめいていたり、台所で離乳食のためのミキサーがけたたましい音をたてていたり。亜美が夜泣きをするからなのか夏子の機嫌も大抵悪く、父と夏子が言い争ったりするのは決まって朝のこの時間だった。

裁判所で梨花の養育権争いに母が敗れ、父と母が離婚届という紙切れに署名した時から、梨花と夏子は同じ屋根の下におさまった。
夏子のことはそれほど嫌いではなかった。夏子の作る食事はどれも文句のつけようがなく美味しかったし、専業主婦だった夏子は梨花の学校の集まりにも熱心でよく顔を出してくれた。幼稚園の芋掘りにしても、小学校の授業参観にしても、ずらりと並んだ母親達の中でもひときわ若く際立って美しい夏子を見るごとに、まんざら悪い気分ではなかった。
まるで初めから梨花と父と夏子で始めた家族のような、そんな錯覚を感じることさえもあった梨花は、あの初対面の日の大泣きを正直すまないと思ったこともあった。

「夏子さん」
と梨花が夏子を呼ぶようになったことを父はかなり気にしていた。
「夏子さんと呼ぶのはやめなさい」
部屋に入って来ては梨花に言い諭す父だったが、
「だってパパ、夏子さんは私のお母さんじゃないもの。私のお母さんはママなんだから、ママとは言えないわ」
冷静に答える梨花の腕を父の手が咄嗟につかみ、戒めるような深い眼差の奥で父の冷淡な怒りが梨花を凍らせ、その視線はじわじわと梨花の気持ちを蝕んで来る。
「わかったわ、お母さんって言えばいいんでしょ」
舌の奥の奥のまでこんな妥協の言葉があがってくることもあったのだが、父の温度がその言葉を閉じ込めてしまう。
火のように熱い夏の陽射しの中でも、怒りをあらわにした今も、そう、いつだって父の手は驚くほどに冷たい。
冬の冷たい空気の中ではその手が放つ不気味な温度に耐えられず、夏の空気の中では大気との温度差と氷のような視線そっくりの手に耐えられず、梨花は思いきりその手を振り払う。
「さわらないで」

夏子には感謝していたが、それはあくまでも恩人に対する他人に向けての感情であり、当然ではない厚意に対してのもので、母と呼ぶこととはまったく別の次元だった。
梨花は気持ちの中で夏子を母として受け入れないことで、せめてもの自分の居場所を守っていたのかもしれない。
ナイフの背のような不安定な居場所にしがみつこうとしている梨花を読みとれない父に、微かな失望を感じるがその失意を自分の中に閉じ込めた。
自分が線引きした中に乱暴に踏み入る者を拒む術、それが手を振り払うことだった。
もっと乱暴にもなることも出来るのだが、それをすれば、砂の上のもろい砦がよろよろと崩れ去ることを本能的に感じていたのかもしれない。

梨花と父の間では幾度かこんなやりとりが続いたが、諦めたのか父もそのうち言わなくなり、夏子の口から
「おかあさんと呼んで欲しい」
と頼まれたことは一度たりともなかった。
梨花の家はつぎはぎだらけの家族を載せた船にしては、順調な航海だったともいえるだろう。そう2年前までは..

16才という揺れ動く年齢だったこと。今まで部屋まで起こしにきてくれていた夏子が梨花の部屋のドアを開けることはなくなり、亜美の寝ている客間へばかりを一日に何度も足を運ぶようになったこと。梨花はあまり夏子に叱られた覚えがないのに、あんなに小さい亜美がちょっと子供らしい悪戯をしようものならひどく叱ること。小さい頃から風邪一つひかない梨花とは正反対で、医者とは縁のきれない亜美が病気になるなる度に夏子が見せる心配そうな横顔を見てしまったこと。
なぜ自分は亜美と違う扱いを受けるのだろう、夏子は梨花が嫌いなのではないか。
疑い始めればきりがないのに亜美のベビー服のデザインや、玩具の数までが気になりはじめたのもこの頃だった。
小さな事実の積み重ねが日を重ねるごとに多くなり、梨花の気持ちの中の夏子は善意の坂を転がり始め、次第次第に悪意へと崩れていった。
「家に年齢の離れた妹がいれば、どうしたってお母さんは妹の方に気をとられるわよ」

「妹に対する扱い?そりゃおんなじよ、私が小さかった時と」
友人たちの話はやはり梨花に雨雲を呼び込んだ。
梨花が2才の時に夏子といっしょに暮らしていたならば、今の亜美にしていたのと同じことを梨花にもしていたのかもしれない。ただ梨花にはその部分が空白であり、亜美の2才の時間を比べるのに梨花の4才の記憶をたどることしか道はなく、かといって
「夏子さん、私のこと嫌いなの?」
冗談ごかして尋ねてみることが出来るほど、世慣れてもいなかったのである。


椿の花

しかしその朝の喧騒は夏子でも父でもなく違う人物だった。2階の自分の部屋からパタパタとスリッパを鳴らして下りりてくると、玄関から廊下に抜ける空間にほんのりとした甘い香りが漂っていた。下駄箱の上に生けてある花からなのかと視線を流すが、そこには白と赤で織られた椿の花が一輪たたずんでいるだけだった。
「おかしいなぁ、椿が匂うはずないのに...」
一輪差しに鼻を近付いてみるが、香りは却って遠ざかるばかりだった。

居間のドアは開け放たれており、遠くからごしょごしょとつぶやく幾筋かの声が聞こえる。部屋の中をそおっとのぞいたが、人影は見当たらないので声の主を確かめるべく部屋の中ほどまで進む。
その時、突然
「梨花は私が連れて帰ります」
居間の奥にあるキッチンへのガラスの扉を突き抜けて大きな声が居間を満たした。
芯のある堅い声に梨花ははっと息を呑み、まぎれもないあの祖母の声に身体がこわばるのを感じる。とっさに梨花の脳裏を横切ったのは祖母に書いた手紙だった。何を書いたのか思い出そうとすればするほど、梨花の額には汗が浮かび思考への糸がどこかでほつれて硬い結び目になってしまう。キッチンの方へ誘われるように近付いていくが、閉ざされたドアに手をかける勇気は沸いて来ない。しばらく夏子の冷静な声が続くのを立ちつくして聞いていたが、あまりにも遠い声で内容は聞き取れなかった。
「母さんの好きなようにすればいい、亜美さえいれば私達はやっていける」
ぼそぼそとはしているものの父の声が耳へと入って、梨花の心臓をむんずとわしずかみにした。
「何ですって?今なんと言ったの?」
両腕と背中のあたりにかけて鋭い悪感が走り、梨花は目の前が灰色に色褪せていくのを感じる。もう喉の奥に突き抜ける塊も痛みさえも感じることを拒否してしまったのかもしれない。微かな息となってしまった言葉に出来ぬ想い、表現にならない不信感は嵐のように梨花の身体を駆け巡り、扉のすぐ前でへなへなと全身から力が抜けるのを感じた。
その時ガラスのドアがふいに開き、祖母の向こうの4つの瞳が梨花を切り刻んだ。その視線はまるで野良犬でも蔑むような力を持ち、にぶいガラスのような曲線でもあった。

泣いていたのかもしれない、何を考えていたのかも記憶がない。ただ無理矢理身体を支えられ電車に乗ったような記憶だけがあった。

玄関先で匂いたっていたあの甘い香りに鼻をくすぐられ、ふと我にかえると梨花の手を取った祖母の顔には怒りの線が走っていた。
「おばあちゃん」
「何も言わなくていい」
梨花の家から電車で2時間ほどの家に着くまで、祖母は口を一文字にキッと結び前をただまっすぐに向いて歩いた。あんなに怖い顔の祖母を見たのは、生まれてこのかた初めてではないだろうか。

「おばあちゃん、なんで?」
「梨花ちゃんのあの手紙読んだら、もう毎日いてもたってもいられなくなっちゃってねぇ。気付いたら朝一番の電車に乗ってたんだよぉ」
家に着いて掘りこたつの中に2人して足を落とし込む頃には、祖母の声も顔付きもいつものものおっとりとした色に戻っていた。
手紙には大したことを書いた覚えはない。夏子に対する気持ちや父への諦め..そんなことを書いてしまった記憶だけが宙ぶらりんのままよみがえってくる。
「ママにはちゃんと話してあるから、迎えに来るから。ママと暮らすのが一番いいよ」
胸の奥に引っかかっているどろどろしたものと戦いながらも、祖母の言葉は耳にやんわりと届いて来る。
知らぬ間にに梨花の緊張は解け、どんよりとした空から舞い下りている桜の花びらは、午後の浅い眠りの底へと梨花をいざなった。

黒とひとことで言ってしまうにはあまりにも深すぎる闇が梨花をとりまき、今にもその冷たい闇の中にまぎれていってしまいそうだった。この寒さは雪や雨の寒さではなく、誰一人として梨花に手を差し伸べてはくれない一人ぼっちの淋しさだった。

「夏子のどこが気に入らないんだ。夏子は精いっぱいやっている。文句があるならパパにはっきり言いなさい」
いつも出掛かっては押し殺し、飛び出そうとするのを溜息に変えていた言葉が、頭の中に浮かんでくる。確かに言葉は気持ちを伝えるための道具なのだが、梨花はすでに口に出してはならない自分の気持ちを粉々にする術を体得していたのかもしれない。
父と夏子の間には自分の入る隙間はなく、今度は亜美という新しい妹までもが、梨花と父との距離を広げつつある。
言っても無駄だという灰色の諦めが重苦しく梨花の気持ちの中で広がり、しばらく舌の奥に引っかかっていた言葉を口の中で転がし、いつも通りに胸にしまい込もうとした時
「私と亜美は扱いが違うわ」

咄嗟に口からこぼれてしまった梨花の言葉が、たった一條のこされていた光をも闇に閉じ込めてしまった。父は驚き、そして梨花自身もその言葉を口にしてしまった自分に驚愕して口元を手で塞ぐが、一度空を切ってしまった言葉は二度と元へは帰らない。砂の上の砦が音もなくさらさらと崩壊していく音が聞こえて来た時にはすでに遅く、梨花はまた冷たい闇の底へと沈んでいく。

遠くからしゅわしゅわと音が聞こえたのでは目を凝らしてみるのだが、あまりの暗さに確かめることは出来ない。音は次第に遠のいて行き、静寂だけが残される。泣き出したいほどの不安感が梨花にじわじわと忍び寄り、自分が上を向いているのかうつぶせになっているのかそれさえも分からず、一切の感覚が機能していないかのように思えた。
身動きが出来ずじっとうずくまる梨花の傍に、人の気配を感じて振り返ると背後は一筋の薄明かりが射している。
「梨花は私がひきとります」
そんな祖母の声が暗闇の奥底で聞こえたような気がした。ここはいったいどこなのだろう、夢の中なのかそれとも現実なのか...
光は徐々に強さを増して、梨花の足元を照らし始める。光に近寄ろうとする梨花だが、その光は追いかければ追いかけるほど俊敏に動き、そして遠のいていってしまう。
しかし突然、目の前に明るい世界が開け無我夢中で走り続けた梨花を、光の両手が迎えてくれていることに気付くのだ。そしてその瞬間、立ち止まった梨花の右腕を氷のように研ぎすまされた温度がつかみ、梨花は驚いて硬直した身体からその温度を振り払おうとする。

目を開けた梨花の顔の前で顎の細い祖母の顔が笑っていた。とっさに右腕に目をやが、もちろん冷たい塊などなく、弾力のある祖母の掌をきつく握っているだけだった。
「梨花ちゃんギューと握るだから、おばあちゃん痛くてびっくりしちゃったよぉ」
ゆっくりと身体を起こしながら梨花が尋ねる。
「ママは?」
「明日には迎えに来るってさっき電話があったよぉ」
走っている夢などを見たためだろうか、まだ肌寒いというのに額にはじっとりと汗が浮き出ている。
「お茶でもいれようかねぇ」
立ち上がった祖母の後ろ姿をぼんやり見ていた。梨花が大きくなったせいなのだろうか、その背中は妙に小さくなったような、しぼんでしまったような印象を受ける。
梨花は祖母の旧仮名遣いの手紙をぼんやりと想い浮かべてみた。
最初に手紙をもらったのが何歳の時だったのかは覚えていないが、たしか小学校に上がって字を覚えたあたりなのだろう。手紙は4月、6月、12月と必ず届いた。
「ごにゅうがくおめでたう」
「お誕生日おめでたう」
「クリスマスおめでたう」
あまりに達筆すぎて、いくらひらがなばかりでも小さな梨花には難しかったのだが、父にせがんで読んでもらっては子供部屋の洋服ダンスの中にそっとしまった。
手紙と一緒に送られてくる物は人形や欲しがっていた玩具から徐々に図書券へと変わり、この12月にもやはり懐かしい文字を並べた手紙と共に梨花の元へ届いていた。祖母の手紙に対する梨花の返信がつまり、今日の朝へと続いていたのだ。
ぼんやりと何かを考えている梨花に
「梨花ちゃん、もうあの家へは帰らなくていいんだからねぇ。おばあちゃんちの子になっちゃいなさい」
本気とも冗談ともとれる祖母の台所からの声は、お茶が湯飲みに落ちていくポコポコという音に続いた。緑茶の香ばしい匂いが梨花の鼻先をゆっくりとかすめる。
「おぉ、梨花起きとったのか」
襖を開け放した隣の部屋の縁側で新聞をながめていた祖父がしわがれた声を響かせた。ほんのりとした桜色にも思えるこの部屋の雰囲気と祖父母、こんな平和な空気を噛みしめている自分が梨花にはまだ信じられない。掘りごたつの横には鏡台があり、その鏡に映る祖母の背中を見ているうちに急にその背中がいとおしくなった。ゆっくりと立ち上がり、そおっと近付いていって、祖母の背中におぶさるように梨花は体重を預けた。ふいに梨花を背中に感じ、祖母の身体は一瞬だけこわばったが
「なんだよこの子は、甘えん坊なんだからぁ」
恥ずかしそうな声が背中にあてた梨花の耳に振動となって伸びてきた。祖母のうなじからは甘いほんのりとした暖かみが匂いたち、何よりも梨花をしっかりと受け止めてくれるこの背中が嬉しかった。目をつぶり梨花はいつまでもその香りの優しさに包まれ、長いこと寒く一人ぼっちだった時間を取り返しているような気分でいた。顔を合わせることのなかった14年という空白を、精いっぱい埋めていくかのように...

その後梨花は母に引き取られた。初めの数日間こそぎくしゃくしていた母との関係だったが、女同士というのはおかしなもので
「その服..なんかダサイわねぇ。ママと探しに行こうよ」
「やだ、あんあた。そんなことも知らないの?馬鹿ねぇ」
歯に衣を着せない母の口振りや雰囲気はみるみる間に氷のような梨花の気持ちを溶かして行く。
「ママ、ひどいじゃない!」
「ママったら嘘ばっかり!」
3ヶ月もすると優子の口調に引き込まれるかのように、遠慮のない言葉が口をつく自分に、梨花自身が戸惑うほどになっていた。
今まで父の家において、梨花の口から吐き出される言葉はすべて監視されており、いつでも人を傷つけられる刃でもあったのだ。「馬鹿ねぇ」「ひどいわ」
という言葉は、梨花と夏子の間では決して口にすることは出来なかったのだ。あたりさわりのない言葉を選んで話し、小さな溝が大きな流れの川になってしまわないよう、いつも気をつけていなければならなかった。
それなのに優子に何を言われたところで溝が川になるわけでもなく、却って水溜まりのようなわだかまりが干上がっていくのを梨花は感じた。
優子の旧姓「渋谷」を名乗ることは梨花にとっては都合が良かった。転校先の学校でも、誰一人として以前の梨花を知っている者はおらず、自分が何者にでもなれるそんな気さえした。実際、佐藤梨花と渋谷梨花はまったく違う人間でもあった。
夏子と父の家にはなかった自分の居場所を、そして自分自身をようやっと梨花は手に入れたのだ。自由で気楽な優子との生活は、父や夏子との日々を遠く暗い部屋の片隅へと追いやり、渋谷梨花は以前の友人が
「本当にあの梨花?」
と目を疑うほどに明るく、奔放な性格になっていった。

梨花の親権をめぐる裁判の最終日。
学校が創立記念日で休みだったこともあり、母について梨花は法廷へ出掛けた。
父との日々が心の中で甦るのも憂鬱だったし、父が祖母に向けて投げつけた
「亜美さえいれば私達はやっていける」
という言葉以来、梨花は父の顔を見るのがとてつもなく怖かった。
初夏の太陽は建物へと続く石段を容赦なく焼いていたのだが、薄手のコットンパンツごしに伝わるその温度が梨花には心地良く、ぼんやりと淡いブルーの空へ風が舞い上がってくのを見ていた。
自分をとりまく環境の変化が激しすぎて、こんな風に空を見上げるのは久しぶり。注ぎ込む陽光は梨花の身体の中にじんわりと染み込み、少しづつ梨花の扉を開かせていくようだ。
「夜に考え事しちゃ駄目だよぉ。お日様が昇ってる時に考えれば、また明るい気持ちになれるからね」
あの日の翌日、優子が迎えに来て梨花が祖母の家を後にする時に、祖母が梨花に向けてささやいた言葉が胸の奥にふっと浮かんで来た。
閉じ込められていた自分を解放するドア、降り注ぐ陽光。嬉しい時、悲しい時、誰に遠慮をすることもなくそれを表現出来る幸せ。
梨花の中に広がる想いは腕の付け根あたりから身体全体に広がっていく。
しばらくその石段の上で風が木々を揺らす風景や、行き交う人を眺めていたのだがそろそろそれにも飽きて来た。持って来た文庫本を取り出そうと、後ろに置いたバッグを振り返った時、目を真っ赤にした優子が裁判所の建物の中から小走りに出てくるのが目にとまる。そして石段の梨花を視界におさめるやいなや、堰きを切ったようにまくしたてる。
「信じられなのよ、あの男ったら!」
母は父を「あの男」と呼んだが、今更何がそんなに母の肩を怒らせているのだろう。よく見れば眼だけではなく顔も上気して紅くなり、息も荒かった。

「いったいどうしたの?」
母の背中をかばうようにしてのぞきこんだ梨花に横顔を向けて、母は決心するように唇の端をきゅっと結んだ。
「こんな母の顔を何度かみたことがある」

確かまだ、父と優子と3人で暮らしていた時だった。どんな状況だったか思い出そうとたぐりはじめた記憶の糸を、ばっさりと断ち切るような優子の声。
「私とあなたはもう他人だけれど梨花とあなたはいつまでも親子なんだから、いつでも梨花が会いたい時に会う権利があるのよって言ったの」
「うん、そしたら?」
「そしたら何ていったと思う?梨花が会いたいっていう希望に、会いたくないと拒否する権利もあるんだって言うの」
「そう....」
もうこの時の梨花は、痛みも苦しみも父から向けられるものである限り無感覚にしてしまう不思議な壁を、心のまわりに築いていたのかもしれない。思ったよりもショックは少なく、諦めのような虚しいような気分が舌の上でざらりと転がっただけだった。
「ひどい男だと思わない?」
優子の同意を求める声を
「別に思わないよ」
梨花はきっぱりと撥ね返す。
優子は知らない人でも見るかのような顔になって梨花の眼を見たが、梨花はちょっと両肩をすくめてみせる。塊はもう喉の奥には存在せず、どうでもいい細かな砂のように散らばったのだ。
「いいじゃない、ママ。梨花にはママがいてママには梨花がいる。きっとパパに会いたくなることなんて無いと思うから。それでいいじゃない?」
優子は
「会いたいという娘を拒否する権利も父親にはある」
そんなことを言う父が許せなかったと同時に、そんな男に少しの間でさえ愛情を抱いていた自分を情けなく思った。しかし梨花の言い草にすうっと気分が軽くなり、真夏の明るい太陽からの光線が胸のつかえを少しづつ溶かしていくような感覚を覚えたのもまた本当だった。

歩道の向こうを親子連れが歩いて行く。子供が真ん中で両親の手を片方づつ握り、ぶるさがるような格好でじゃれている。ついこの間までの梨花には、自分が常に両親の真ん中であったことを思い出させる風景だったかもしれない。
しかし、今日の梨花の目には単なる街の風景にしか映らなかった。一度手からすべりおちたものを希求して伸ばした手は、いつまでも虚しく空をかき混ぜるのだということを知ってしまった。諦めることを覚え、現在手にしているものの中に幸せを見いだそうとしている自分が、そう悪くないと思えたのだ。
「子供に父親を選ぶ権利があったのなら...」
梨花の中をそんなとりとめのない考えが過ぎったが、これも透明な初夏の風にいつしか呑み込まれて消えていった。
晴れわたった空には白い雲が一筋、尾をひいて風に泳いでいた。

大学を卒業して銀行に就職した後も、裁判所の前で優子に告げた言葉通り、梨花は父に一切連絡することは無かった。
しかし結婚という節目を前に、梨花の気持ちは揺れはじめたいた。職場で知り合った婚約者の裕二は、梨花の家庭の事情を勿論知ってはいたのだが、非常に家庭的な男で
「結婚式にもパパを呼びたくないの」
梨花の冗談とは思えない真剣な顔つきと強い口調に、慌てた表情を隠しきれなかった。
「それはおかしいんじゃないかい?お父さんとお母さんが離婚したからって、梨花はいつまでもお父さんの娘に違いはないだろう」
「裕二さんには私の気持ちが分からないんだと思うわ」
「確かに君の気持ちを全部そっくり僕がわかることは不可能だと思う。でも、お父さんにしたら一生に1回の娘の花嫁姿見たいんじゃないかなぁ」
決して無理強いをするでもなかったのだが、裕二の純真な言葉は梨花の気持ちを複雑にかき混ぜた。

「きっとお父さんも梨花にそんなこと言ってしまったこと、今じゃ後悔してるに決まってるよ」
梨花の実家のダイニングテーブルの上で、式の招待状を書いている時に裕二が漏らしたこの言葉に背中を押されたのかもしれない。その夜何度もためらった梨花の指先は、まだ覚えのある父の電話を鳴らした。
呼び出し音に続いて応答したのは、留守番電話の硬い声。正直ほっとしながらも簡単に名前と用件を伝えて電話を切る。
「何の連絡がなくても、悲しんだりがっかりしたりするのはよそう」
そう自分に言って聞かせた。

数日後、仕事帰りに裕二と式の席順を決めることになり、会社から家に電話を入れると優子の不機嫌な声が受話器から流れて来る。
母は直情型でストレートな性格。何か嫌なことがあれば顔を見なくてもすぐに声から分かってしまう。
「なんか機嫌悪いじゃない?裕二さんと会うのが気に入らないの?」
裕二が沖縄の出身だということで母はこの結婚にも随分反対だった。一人娘が遠くに行ってしまって喜ぶ親などいないのだから優子の気持ちは痛いほど分かった。
しかし幾度となく家にやってきては母と長いこと話をしていく裕二の素朴な人柄に、
「梨花ちゃんのお母さんは僕のお母さんだから」
そんな裕二の言葉にいつしか根負けした形での祝福だった。
「裕二さんの人柄はママも認めてるのよ。そんなんじゃないの」
「じゃぁ、なに?なんで怒ってるの?」
「梨花.....」
「なぁに?」
「あの男に連絡したでしょう」
梨花は息を飲んだ。父から電話があるとは思ってもみなかったのだ。
今までも数回、父の方から事務的な用件で優子に連絡があった。
「話したくないから電話には出ない」
などと言っては梨花に伝達させていた優子だったが、今日は梨花の不在で父の電話をまともに受けてしまったのだ。不機嫌の理由はそこにあった。
優子には申し訳ない気持ちだったが、父の方から電話が戻ってきたことは梨花の気分を少しだけ丸くする。
「うん、ママには黙ってたんだけど、結婚式のことで連絡したの。だって裕二さんが..」
説明する梨花を遮るように
「世の親が聞いて呆れるわよ」
優子の声が切り込む。
「え?なんで?」
「忙しいから来れないって言ってたわよ」
「何の用があって忙しいか聞いた?」
「知らない、私には興味ないもの。まぁ、あの男が来れなくて私は正直ホッとしたけど。あ、それよりあんまり遅くならないうちに帰ってらっしゃいよ」
言葉を失ってしまった梨花の向こうで、電話は一方的に切れてしまった。
そっけない優子の声によって伝えられた父の言葉は梨花の耳に、父の声となってぺっとりと貼りついて離れない。
優子のつっけんどんな応対にきっと父はそんな言葉で簡潔に会話を閉じたに違いない。いや、何か重要な仕事があったからに違いない。気持ちを鎮めようと良い方へ良い方へと考えを進めるのだが、どこからともなく
「忙しいから行けない」
父の言葉が道の真中に立ちふさがるのだ。噛みしめれば噛みしめるほど、父の言葉からは邪悪な刺が顔を出して梨花の丸かった気持ちをちくちくと刺した。

結婚式の招待状を出したのにも拘わらず祖母から一向に返事が来ないので、式の数日前にしびれをきらして連絡を入れて初めて、祖父の口から祖母が入院していることを聞かされた。
「すまんなぁ。おばあちゃん宛ての手紙だったから、箱に入れてしまったのかもしれん。それにしてもおめでとう」
祖父はあいかわらずのんびりした声だったが、祖母が病気と聞いて黙っていられるわけがない。
「それなら今すぐにでも見舞いに行く」
といった梨花を
「いやぁ、大したことはないんだが、ちょっと大事をとってな。お前も式の前で色々と忙しいだから、終わって落ち着いたら顔でも見せてやってくれ。オマエにそんなせっぱ詰まった声出されると、こっちまで慌てるよ」
電話の奥の祖父の声や笑い声にかげりはなく、梨花は
「それじゃ新婚旅行から帰ったらすぐ病院へ行くね」
祖父に約束して電話を切った。

病室は6人部屋で陽光が痛いくらいに差し込む開け放たれた窓の向こうに、去り行く夏を追いかける初秋の風が踊っていた。
「なぁんとなくねぇ、梨花ちゃんが来るような気がしただよぉ」
語尾を長く引きずるような暖かい声、嬉しそうにはしゃぐ表情。少し痩せたのだろうか、それとも梨花自身がさらに大きくなったのだろうか。
やけに祖母が小さく思えることを除けば、父の家から無理矢理手を引っ張られて飛び出して来たあの日以来なのに、祖母の表情は何一つ変わってはいない。
新幹線の駅から祖父に病院の行き方を尋ねたから、すでに連絡が来ていたのかもしれない。祖母はベッドの上にちょこんと正座して梨花を待っていた。
「さっきからねぇ、新しい寝間着に着替えちゃって。紅は差すし香水はつけるし..やけにしゃれくりかえってると思ったらお孫さんかい」
隣の老婆が祖母をからかう。
「なんで私が来るって分かったの?おばあちゃん」
「梨花のことは何でも分かるんだよぉ」
冗談とも本気ともつかない祖母の言葉もいつも通りだ。
枕元のカレンダーには結婚式の9月3日に赤丸がしてあり、そこから1週間後の今日までえんえんと×印がついていた。この病室からぼんやりと外と眺めながら、毎日指折り数えて梨花が旅行から戻るのを待っていたに違いない。

持って来た結婚式の写真に目を落としながら
「あんたのことはいっつも気がかりでねぇ。他人ごとじゃないだよ」
目を細めながらふっとつぶやく祖母の皺の深い横顔。あの春の日のあたたかい時間が、背中から伝わった温度が梨花の喉元を渡っていく。
「梨花、いい男とくっついたねぇ、おばあちゃんはもう安心だよ」
「なんでいい男だって分かるの」
「だってうちのおじいちゃんに似てるもの」
祖母は小鳩のような声をあげて無邪気に笑う。
「あ、おばあちゃん、これ新婚旅行のお土産。元気になってゲートボールに復帰したら使って。きっと似合うと思うから」
南の島で買った麦わら帽子を受け取ると、祖母はさっそくかぶってみせる。浴衣にはまったく不釣り合いな姿だったが、手鏡を出してのぞいてみたり、同室の人達に見せてまわる祖母はまるで子供のようだった。
「梨花ちゃん、大切にするよぉ」
何度も何度も帽子をなでる祖母の姿とともに、気持ちのよい時間はゆったりと流れていた。

妊娠5ヶ月の安定期に入り、裕二の子供が自分のお腹にいきづいていることを考える時、梨花はたまらなく嬉しい気分と言葉に出来ないほどの不安に苛まれる。
「おめでとうございます、ご懐妊です」
医者に宣告されたその日から、裕二はなお一層梨花を気遣うようになった。
「やめろやめろ重いもの持つのは」
「大丈夫よ」
「流産でもしたらどうするんだ」
奪うように買い物の袋をひったくる裕二の、無骨ではあるが優しい気持ちの裏に涙ぐんでしまいそうな程の幸せを感じる。しかしそれと同時に決して人の気持ちに永遠という言葉が、存在しないという事実に怖くなるのだ。
かつての父がそうであったように、いつしか裕二の気持ちが他の女性に移っていくのではないか。そしてまだ見ぬこの子さえも取り上げられてしまうのではないか...
誰が見ても暖かい家庭を手に入れたはずの梨花なのに、暗闇のような恐怖は幾度も幾度も梨花を襲った。

そんな3月のある日、医者から言われるままに積極的に身体を動かし、家の中の家事をあらかた済ませたところに電話が鳴る。
「おばあちゃんが癌で亡くなった」
父の無機質な声を聞きながら、ぼんやりとした悲しみは急に加速して梨花を包みこんでいく。
「それで、お葬式はいつなの」
畳み掛けるように尋ねる梨花に
「もう葬式は済んだ。お墓にも入れた」
すべてを見通したように静かな父の声が、遥か彼方で鳴っていた。
なぜ教えてくれなかったのだ、最後に顔くらい見て別れの言葉をかけたかった...叫び出したい気持ちが喉までこみあげてきて
「どうしてもっと早く知らせてくれなかったの?」
責めるような口調になる。
「お前に来られると困るんだ、あそこは私の実家だ。それに形見分けするものもない」
動じるでもない父の淡々とした声は梨花の胸を、長く爪のような鋭さで引き裂いた。
絶対に許さない。祖母がどれくらい梨花のことを想い、梨花がどれくらい祖母を心の支えにしてきたかを父が知らないわけがない。世間体や体裁、そんなもののためになぜ人の心をいとも簡単に傷つけられるのだ。形見なんかどうでもいい、最後に顔を見て手を合わせたかった。これから旅立つ世界が祖母にとって素晴らしいものであることを祈りたかった...そんな小さな希望さえも硬い壁で拒む権利が父にはあるというのだろうか。
用件のみを伝えた父からの電話はいつしか切れていたが、受話器を持ったまま梨花はぼんやりと窓の外を見ていた。
隣の家の庭の塀に咲く背の高い椿の花が、梨花の目の位置からポトリと地面に吸い込まれるように落ちていった。
「からん」

ガラス窓越しだったので勿論、音など聞こえるわけがない。しかし梨花には大輪の花のままきっぱりと落ちていった椿の花を、祖母が梨花に最期を伝えに来てくれた証のように感じた。赤い椿のはなびらの部分には細く白が幾筋も刻まれており、あの朝祖母に手を引かれて出ていった玄関でたおやかに咲いていた一輪の花のことをふと思い出す。
居てもたってもいられず、上着も羽織らずに階下へと向かい、椿のある低い塀越しに花を見上げる。道端には樹から落ちたいくつもの花が身体を横たえており、その中の一つを拾い上げると、それは信じられないほどに軽く、そして柔らかかった。


祖母の死もショックだったが、むしろ父が平気で心を切り裂く冷酷な人間であることに対する怒りの方が何倍も大きく、それに潰されてしまわないように全身に力を入れ、大地に足を踏ん張ることしかその時の梨花には出来なかった。祖母の死に対する悲しみは、父への怒りの彼方で小さく翻った。

母と父が別れてしまったことは仕方がない、所詮夫婦は他人なのだし、原因が夏子であろうが優子であろうが、梨花には何も言う権利はない。しかし梨花にとって父はどこまでいっても父であり、拭い去ることのできない薄汚れた血が梨花の身体にも流れていることに対する嫌悪で、梨花の真綿のような胸が遠慮なく潰されていった。

祖母がすでにこの世には存在しないという事実は梨花の心にぽっかりとうつろな空洞を作り、父に対する憎悪や恨み、どろどろとしたものはどす黒く渦巻きそれから数年たっても決して消えることはなかった。

夏に裕二との間に誕生した女の子には、亡くなった祖母の名をそのまま取って多嘉子とつけたが、父には一切連絡しなかった。
「やっぱりハガキだけでも出しておこうよ」
裕二の人の良い言葉も今回はきっぱりと跳ねつけ、どこから聞きつけたのか父から送られてきた産着も
「私はもう、あなたを父だとは思っておりません。お気遣いなさらないでください」
という、ギスギスしたメモと共に即刻送り返した。こんなものを多嘉子に着せることなど、考えただけでも寒気がする。

取りきれないあいまいな距離だった梨花の父への態度は、祖母の一件を境に嫌悪、怨恨といった感情へと向きを変え、どうにもならない速度で気持ちは離れており、父の方からの連絡も送り返した産着と同時にぱったりと途絶えた。

幼稚園に行くようになった多嘉子が
「おじいちゃんってどんな人?」
と尋ねる。
「沖縄のおじいちゃんじゃないの。多嘉子会ったことあるでしょ。ほら、ミッキーのぬいぐるみもらったじゃないの。忘れちゃったの?」
「ちがうよ、ちがうよ!おじいちゃんは二匹いるんだよ。もう一匹の方」
人間を匹という単位で数える子供らしい口調に笑いながらも、口からごく当たり前のように滑り出たのは
「もう亡くなっていないのよ」
という言葉だった。

実はこの時、梨花の父は死んでなどいなかった。父は肝臓癌で入院したと聞かされていたのだが、見舞いに行く気などさらさらなかった。受話器越しに伯母が告げる病院の名や病室の番号は、新聞に掲載されている他人の死亡記事のようでさえあった。
関係のない人、赤の他人ごと。
父という存在自体が梨花の心の中から、抹殺されていたというべきかもしれない。

しばらくして父が本当に亡くなったという連絡を受けても、梨花の心には悲しみのかけらさえも沸いてはこなかった。
伯母からは再三
「お葬式に来て、線香の1本もあげてやって。死んだ者に免じて許してあげて」
懇願されたが梨花は葬式にも顔を出さず、頑なに閉ざした気持ちは墓に足を運ぶことさえも自分自身にに許さなかった。

そうすることで、父が梨花にした数々の仕打ちに応えていたのかもしれない。

2ヶ月の海外出張を命じられた裕二が家を空けた8月。幼稚園も夏休みに入り、梨花は多嘉子を連れてしばらく実家に戻ることにした。白いバスケットを手に持ち、多嘉子の誕生日に優子が送って寄越した新しいワンピースを身に纏い、多嘉子は私鉄の駅から実家の門までスキップで行く。
梨花がやっと追いつくと多嘉子はすでに重いドアを一人で開け
「おばあちゃん!」
と声を張り上げる。奥から椅子をガタリと引く音が聞こえ、優子が居間から走り出てくる。
「あら、多嘉ちゃん。こんにちわ」
「こんにちわ」
幼稚園で教え込まれた通りぺこりと頭を下げる多嘉子を見守る優子の眼差しは、30年前の祖母とまったく同じだ。多嘉子が結婚して子供を産み、自分の孫が家を訪ねてくれば梨花もこんな眼をするのかもしれない。
蝉時雨の中で同じ名前を共有する祖母と多嘉子が、絹糸のように透明な細い糸でしっかりと繋がっていくのを感じた。

久しぶりに会う優子に散々じゃれ付くのにも飽きたのか、ソファーに腰をおろして話に夢中になる優子と梨花の傍で、多嘉子はいつしか床にぺったりと座り、画用紙にクレヨンで絵を描き始めていた。多嘉子が描くのはおさげ髪の少女か太陽と決まっているのだが、今日に限って花の絵を描いている。子供の描く絵なので大して上手いともいえないのだが、花びらを自由奔放に赤く塗りつぶす手つきを見ているうちに、梨花の心にあの冬の日の椿の花が蘇る。クレヨンが塗りつぶせなかった細かな隙間が、まるで白い筋を引いているように見えるのだ。
多嘉子の手元を見つめる梨花の視線に誘われて、優子が画用紙の上の花に目を移して「ぷっ」っと吹き出した。
「何がおかしいの?」
「やだ、覚えてないの?この花あんたが子供の頃壁という壁に描きつけたのとそっくり。血は争えないはねぇ」
「私が?」
「そうよ、本当に覚えてないの?あの頃住んでた家の壁が白だったでしょう?」
「覚えてない」
「3歳ぐらいだったから壁紙の色まで覚えてないのかもしれないけど...この花をいくつもいくつも描いてねぇ。初めは私もやっきになって洗剤でこすったりしたけど、そのうちいたちごっこに馬鹿馬鹿しくなってやめちゃったの。そしたらもう、家じゅうの壁に赤い赤い花が咲き乱れてねぇ。あの男が帰って来なくなった家が淋しいはずなのに、やたらに明るく光って見えたものよ」
優子は遠くを見るような表情だった。
「この花を私が...」
画用紙の中に幾重にも咲き乱れる赤い花を梨花が見つめると、多嘉子が急に顔をあげて
「この花はねぇ、写真の花」
「写真の花?」
優子が聞き返すと視線を優子に移し、大きな目をくりくりっと動かして頷いたかと思うと、思い立ったようにぱたぱたと走って、梨花達の荷物が置いてある客間の方へ行ってしまった。
「なぁに?」
優子の目が尋ねるような視線で梨花に向けられ、梨花も
「さぁ」
という、目だけの返事を返してテーブルの上の紅茶ポットを持って立ち上がった。座っていると気付かないが、むっとした空気が顔を包む。クーラーのきいている居間を出てキッチンに入り、やかんに火をかける。キッチンの扉ごしに多嘉子の足音が響いて来て、しばらく音が途絶える。
「梨花、ちょっとちょっと」
やかんからほの白い湯気がたちはじめた時、居間の方から優子の声が梨花を呼んだ。
「はいはい、ちょっと待って」
急いでポットに湯を注ぎ足して、居間へ戻った梨花に優子が差し出したのは一枚の写真。
「どっからこんな写真を引っ張り出して来たんだか..」
優子の呆れたような声を耳に、梨花はじっとそのセピア色の写真に見入った。優子に抱かれる梨花はまだ生まれたてで、静岡の祖母と祖父、父も優子も写真の中で笑っていた。初孫だった梨花の手をあやすように揺すっている祖母の顔は信じられないほど若い。ふいにあのぬくもりと、まどろみの暖かさが脳裏に甦る。
「ちがうってば、ママ。うしろうしろ」
多嘉子は跳ねるようにして、その写真を梨花の手から取ろうとしている。
「後ろ?」
写真の裏を返せば、そこには確かに梨花が描いたと思わしき微かに見覚えのある赤い花が、少し黄ばんだ写真の裏に大きく描かれていた。花びらの数も色の塗りつぶし方も、ほとんど先程多嘉子が画用紙に描きつけたものと違わない。
「やだ...」
いつも子供ながらの下手な絵だと思っていたものの、自分が同じ絵を多嘉子くらいの年齢に描き続けていたのだと思うと、恥ずかしかった。
「ほらね、言ったとおりでしょ。クレヨンの色も同じ赤」
優子は自分の言葉を裏付けるかのように、満足げな顔つきで言った。さかんに写真を取り返したがる多嘉子に写真を戻すと、テーブルの上に置かれた白いバスケットの中へ大切そうにしまいこんだ。
「本当よね。多嘉子を見ていると、時々自分の子供の頃の再現フィルムを見ている気がすることがあるの。でも不思議だわ。多嘉子が生まれた時は裕二さんに似てたのよ。もう嫌になるくらいにそっくり」
「あら、梨花や裕二さんだけじゃないわよ。裕二さんのお父様に似てるって思った時だってあるし、私に似てきたなって時だってあったわ」
「いやだ、そんなにコロコロ顔が変わるわけがないじゃないの」
「それが変わるのよ、不思議だけど..これが血の繋がりっていうのかもしれない」
そう言いながら優子のカップに紅茶を注ぎ足そうとして、梨花が身体を伸ばした時
声にならない息とともに、ポットから紅茶をテーブルクロスの上に撒き散らした。
あまりに突然だったので
「なに、どうしたの」
咄嗟に立ち上がり梨花の顔を見下ろす優子の横で、多嘉子だけが嬉しそうな笑い声をたてた。
これは多嘉子がよくやる悪戯で、梨花が何かしているとふいにその首筋あたりに手を当てて驚かす。いつもは軽く睨むくらいで怒ったことはないのだが
「多嘉子、危ないでしょ。ママが熱いものを持ってるのに。火傷したらどうするの?」
あまりにも突然だったのと、床に長いこと座り込んでいたためにクーラーの冷気で多嘉子の手が予想以上に冷やされていたからなのだろう、驚いた反動でつい声を荒げてしまった。
「はぁい」
梨花の口調に多嘉子はしょぼんとした声を出してうつむき、居心地悪そうに足をぶらぶらさせる。
「まぁ、いいじゃないの子供の悪戯なんだから」
台ぶきんを取りにいった優子の声をキッチンの方から聞きながら、投げ出された多嘉子の手を梨花は静かにとった。
「ん?お湯かからなかった?」
「だいじょうぶ」
子供にはクーラーが強すぎたのだろう、多嘉子の手は冷え切っている。しばらくその手を両手で暖めながら、梨花の心にふと浮かんで来たのはあの父の冷たい手のことだった。梨花の手の温度がしだいに多嘉子の掌に移って行き、徐々に梨花の温度に染まっていく。
「ままの手、春みたいにあったかいね」
ワンピースからのぞいている多嘉子の膝頭を触ってみると、かなりひんやりしている。
「この子、すっかり冷えちゃってるわ」
「多嘉ちゃん、寒かったんでしょ?」
こっくりとうなずく多嘉子を目の端に留め、優子は静かにクーラーのスイッチを切った。
旧式のクーラーがたてるウィンウィンという音が消えると、部屋は驚くほどの静寂が訪れた。庭へと続くガラス窓を開け放つと、忘れていた蝉の大合唱が流れ込んで来る。
「寒かったら寒いって言わなきゃ駄目でしょ」
優子が歯切れ良く多嘉子に向けた声は、妙に梨花の気持ちを爽快にした。その言葉を聞いた瞬間、梨花には26年前の父がなぜ優子から遠ざかっていったのか、分かったような気がしたのだ。
父ははっきりと自己主張する女性など求めていなかった。夏子を見れば分かるが、夏子は父が右を向いていろと言えば何年でも右を向いているような女性だった。梨花が一緒に暮らして来た10年あまりの間、声を荒げることもなければ、梨花にこうするべきだという意見をしたこともなかった。
優子と暮らし始めてからというもの、自分の感じるままを口にすることを梨花は優子から教わった。
あの時、自分が自由になったように感じたのは実は間違いで、梨花は単に元に戻ったに過ぎないのかもしれない。12年前の自分に。

所詮夏子と優子は正反対の領域に属しており、父と優子は糸が間違って絡まったにすぎないのだ。そしてその糸の中に自分は巻き込まれ、苦しんでもがいていたが、こうして今遠くからその糸を眺めてみれば自分の在るべき場所が単に間違っていただけのことなのだ。

しばらく腕や足をさすってやっているうちに、室温も外気とそう変わらなくなて来て、多嘉子はいつしか梨花に身体を預けるようにして眠ってしまっていた。

多嘉子を2階の優子のベッドに寝かしつけ、居間に降りて来た梨花は
「ちょっと出掛けて来る」
と優子のメモをテーブルに見つけた。階下で一人になった梨花がもう一度ソファーに身体を埋めると、テーブルの上にぽつんと置かれているバスケットが目にとまる。
椿にも見える赤い花、白い筋、そして家族の写真。なんとなくもう一度あの写真を見てみたい気分になって、バスケットの金具を指先で繰る。
大好きだった暖かい祖母がいて、祖父がいて、優子がいて、父がいて、梨花がいて、そして多嘉子がいる。ぼんやりとした想いが梨花を包む。
「私は母だけから生まれたのではない」
そんなことを思わせる雰囲気がその写真にはあり、多嘉子が梨花の首筋に押し付けて来たあの冷たい手は、そのままそっくり氷のような父の記憶を呼び覚ました。
腕を掴んだあの冷たい手が身体にふっとよみがえり、梨花の肌に鳥肌を呼ぶ。しかしこの時の梨花はその記憶を押し戻しはしなかった。
あの冷たい手を多嘉子にしたように拒んだのは、実は梨花自身ではなかったのだろうか。冷たい手をしばらく黙って受け入れていたならば、その掌はいつしか梨花の温度を奪いながらも刺のような冷たさから2人を救い出すことが出来たのではないか。
もう一度目を写真に釘付けると、祖母の手に視線が留まる。
写真の中で祖母が梨花の手を握っているような暖かい温度で、梨花自身が握りかえしてやれなかったのが父との距離のようにも思えて来る。
父が死んでいないうちから死んだなどと多嘉子にいつわり、父が梨花と祖母を引き裂いたのと同じ仕打ちを多嘉子にして来たのかもしれない。梨花が祖母に傾けるほどの想いが多嘉子から父にあったとは思えないが、多嘉子にとって父はあくまで祖父であり、その祖父の葬式から多嘉子を遠ざけた自分は、結果こそ違うものの、父とまったく同じことを繰り返しているのではないか。
絡まった糸に縛られていたのは自分自身ではなく、多嘉子であり紛れもなく梨花は、父と同じ糸の端を引っ張っていたのだ。
梨花の視線は愕然と宙をさまよった。そして踏みつけられたら踏みつけ返すことしか出来なかった自分を恥じ、冷たい手を押し付けられたら拒むことしか出来なかった自分がたまらなく悔しかった。


紺碧の月

多嘉子を連れていった霊園の空は雲一つなく晴れ渡り、富士に映える緑を夏の残り香の漂う風が撫でていた。
「ママ、っこにおじいちゃんが寝てるの?」
多嘉子の無邪気な声に梨花は微笑み
「寝てるんじゃないのよ、眠ってるの」
「ふうん..いつ起きるの?」
「もう起きないのよ。さぁ、こうして手を合わせてお祈りするのよ。おじいちゃんが天国で幸せになれますようにって」
「じゃぁ、おじいちゃんは今幸せじゃないの?」
「多嘉子がお祈りすれば、もっと幸せになれるのよ」
「うん、わかった」
分っているのかいないのか、多嘉子は目をつぶり黙って墓石に手を合わせている。
「長い間ごめんなさい。心を閉ざしていたのは私の方だったのかもしれません。でも私は冷たい手を握りかえすことをやっと覚え、あなたを越えられた気がしています」
梨花が父の全てを許せたのかどうかは分からない。しかし父が梨花に教えてくれたことを糧に、大きくなろうとする自分を見つけたのは確かなことだった。
「ねぇママ、おじいちゃんってどんな人だった?」
「そうねぇ..帰ったら、おじいちゃんが一人だけで写ってる写真見せてあげようか」
「あるの?多嘉子見たことないよ、おじいちゃんの大きい写真!」
嬉しそうにはしゃぎ、纏わりつく多嘉子の手を繋ぎながら
「ごめんね、多嘉子」
「なんでごめんなさいなの?ママは悪い事してないよ」
「いいのよ。いつかママがごめんなさいしたわけが、多嘉子にもわかる日が来るから」

遥か彼方の紺碧の空に浮かぶ明るい月が、ゆっくりと歩き去る2人の姿を、柔らかな秋の風の中で照らしていた。


あれ?僕はなぜ、こんなところに…………

冒険小僧に戻る 目次に戻る次の作品は未定