地域通貨の歴史をちょっと(1)

 

森野 栄一

 

ずいぶん昔から

 

 地域通貨って、人々がモノやサービスを交換するのに普通のお金(つまり政府のお金だけど)を使わなくてもいいようにしようってことでしょ。人々が地域限定で(つまりローカルで)、また補助的なお金を自分たちで作ろうというわけ。こうした取組は、実は長い歴史があるんだ。

 例えば、英国ではね、1696年、まだ17世紀さ、クエーカー教徒にジョン・ベラーズという人がいた。彼はね、失業している人をなんとかしようとして、事務所を開設してさ、事務所が原料を労働者に提供して製品を作ってもらう、労働者には報酬として製品じゃあなくて、労働券というので支払う、それで事務所はその製品を、当の労働者自身や、労働者が食料を買ったり家賃の支払いに労働券を使うので、労働券を受け取った人たちに販売するわけ。事務所には労働券が戻ってくるよね。そーいうシステムを提案したんだ。 これは英国のブリストルというところで試みられたんだけど、残念ながら失敗しちゃった。それから140年くらい経って、似たような考えがローバート・オウエンの公正労働交換所という提案で生き返った。1832年に始められて2年間くらい続いたのかな。これも失敗した。フランスでは、所有は盗みであるといってよく知られているピエール・ジョゼフ・プルードンという社会主義者がいた。彼は交換銀行というシステムを提案して実行しようとしたんだけど、国の圧力があってうまくいかなかった。

 

両大戦間の時期

 

 第一世界大戦が終わってから、人類は懲りもせず第二次世界大戦をまたおっぱじめて、悲惨な経験を繰り返したわけだけど、それまでの期間、欧州のドイツやオーストリアで地域通貨はかなり力をもった運動になる。

 地域通貨のたくさんの取組が1930年代に行われたんだ。理由は簡単さ。当時ひどい経済不況で、経済活動に役立つお金が世間に出てこない。なんで出てこないかって?だって経済不況、つまりデフレっていうんだけど、考えてごらんよ、モノが売れなくてどんどん値段が下がるんだ、君がカネ持ちだと思ってごらん、今日買うより、明日買うほうが得だろう。だからお金が世間を回らなくなるんだ。そうすると景気はどんどん悪くなる。 そこで政府のお金が経済のお役に立ってくれないなら、自分たちでモノやサービスの取引に使えるお金を作り出そうじゃないかとなったわけさ。

 つまり、人々は自主的な通貨を作りだして、経済危機からの脱出と地域経済の繁栄を取り戻そうとしたんだ。それは1930年代のドイツで始まり、世界各地へ伝播していった。オーストリアのヴェルグルや米国での取組などは、「エンデの遺言」見た人は知ってるでしょう。えっ、見てない。そーいう人は、エンデの遺言っていう本も出ているから買ってね。でも、ドイツで最初に取り組まれたヴェーラについては詳しく触れなかったので、ちょっとみておくかい。

 

それはヴェーラから始まった

 

 当時、いちばん最初に始まったのがヴェーラというやつさ。ドイツでは経済危機のなか、ヴェーラという自主的な通貨を使用するヴェーラ交換組合が組織されたんだ。地域的な景気回復を図ろうとしたんだ。推進者は、ゲゼル理論の支持者であったハンス・ティムとヘルムート・レーディガー。彼らは1926年、循環が保証された貨幣を試験的に導入する準備に取りかかり、ちょうどニューヨーク証券取引所のブラック・マンデーによって世界大恐慌が始まったのとほぼ同じ時期の、1929年10月、ドイツのエアフルトでヴェーラ交換組合を設立したんだ。

 この交換組合は、規約によると、自らを「販売力の低下および失業を防止するための民間団体であり、その目的は交換クーポンを発行し、組合員相互の商品およびサービスの交換を促進することにある」と規定していた。

 すごいんだ、この交換組合は2年足らずで、組合員数は1000社以上を数えるまでになったんだ。組合員の分布は当時のドイツ帝国のすべての地域に及んで、食料品店、パン屋、酪農場、飲食店、自然食品店、肉屋、花屋、床屋、手工業品店、家具店、電機店、自転車屋、各種の工房、印刷所、書店および石炭販売店など多様な組合員から構成されていたそうだ。

 組合員の店の前には「ヴェーラ、使えます」という看板が掛けられていた。ヴェーラとは交換クーポンの名前だけど、この通貨がインフレやデフレの荒波を乗り越えて持続(ヴァーレン)していけるようにとの願いも込められた命名であったそうなんだ。

 交換組合取引所では、要請があったり必要がある場合に、ライヒスマルクやその他の外貨、あるいは受領書や担保提供と引き替えに各地の交換所に対してヴェーラを発行した。こうした交換所は、ベルリンを始め、各地に設けられ、交換所では、額面の違う三種類のヴェーラ紙幣が担保と引き替えに企業や個人に対して必要とされる分だけ交付されたんだ。

 ヴェーラはライヒスマルクに代わって交換手段として流通し、企業は賃金の一部をヴェーラで支給し、受け取ったヴェーラは消費財の購入に使用された。そうして恐慌による停滞によって循環しなくなったライヒスマルクと併存しながら、小規模な代替支払手段として浸透していき、経済を活性化していったんだ。

 

ヴェーラには推進装置が付いていた!

 

 ゲゼル理論に基づき、ヴェーラ紙幣には、不況の要因となる貨幣保蔵を防止するための循環を促す機能が組み込まれていた。紙幣の裏面に12の空欄が印刷されていて、各欄に毎月、額面の1パーセントに相当する額のスタンプを貼付するようになっていたんだ。

 組合員は、月末に、翌月もヴェーラに額面どおりの価値を維持させたいとすると、紙幣の1パーセントに相当するスタンプを交換所で購入し、貼付しなければらなかった。このスタンプ貨幣はお金を天下の回りモノにした。1年が経過してすべての欄にスタンプが貼られた紙幣は新紙幣と交換される仕組みだ。

 この最初の自由紙幣の実験は各地で反響を呼び、バイエルンの鉱山の町、シュヴァーネンキルヘンでも取り組まれ、デフレ不況を克服した、シュバーネンキルヘンの奇跡と讃えられる成果を生んだちゅうわけ。

 デフレ不況は、通貨の不足を特徴とする。黙っていてもモノの価値は下落していくんだから、貨幣を持つ者は支出を遅らせるほど有利。それがまたデフレを進行させる。こうした状況に対抗するために、30年代は欧州各地で、このヴェーラに触発されて、数多くの取組が生まれた。なかには、デンマークのJAKのように、当初、農業者の連帯によって独自通貨を発行しながら、国家当局による禁止を招き、ゼロ利子の貯蓄貸付組合として生き延び、今日、オルタナティブな銀行の事例として注目されているものもあれば、スイスのWIRのように、60年以上の歴史を誇り地域通貨のもっとも発展した事例となっているものもある。

 

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