検証・石田三成 

三成と北の政所は、本当に犬猿の仲だったのか!?


石田三成の事績の検証として、次に三成と秀吉未亡人・北政所の関係を考えたいと思います。

従来より北政所は、石田三成とは仲が悪く、徳川家康や加藤清正らと親しい、とされていました。そして通説では、秀吉の糟糠の妻であり、三成より政治眼の確かな北政所は、豊臣家の将来は徳川家康の庇護に頼るしかないと考え、清正・正則・小早川秀秋らに関ヶ原合戦で徳川方に味方するように諭した、とされています。

司馬遼太郎氏の名著「関ヶ原」でも、この通説に則って、例えばこんなシーンが登場します。

「家康は、北政所を上座にすえながら、下座でゆうゆうと清正を相手に世間ばなしをはじめたのである。普通ならば考えられぬほどの非礼であるが、それが不自然ではなかった。

北政所も上座から、にこにこ微笑んでふたりのやりとりを聴いている。このことは清正さえ、ひそかにおどろくほどだった。よほど北政所と家康は親密な間柄にあるのであろう。

(いつのまにこうなったか)

と清正は思った。」

(司馬遼太郎氏「関ヶ原」より)

しかし、これは本当に史実なのでしょうか?

三成が心中どんな野心を抱いていたかはともかく、三成が豊臣政権防衛を目的として挙兵したことは、客観的に明らかなことです。 北政所はそうした三成を見限り、その後豊臣家を滅ぼすことになる徳川家康に荷担したのでしょうか?

この疑問に対し、最近Nifty-serve歴史フォーラム上で、興味深い議論が交わされました。ハンドル名「隼人」さんが、通説に対して疑問を呈されたのです。
 隼人さんは、「北政所が家康に荷担したという通説は、江戸末期に作られたもの」とし、同時代史料である「梵舜日記」の記載などから、

  1. 加藤清正らと北政所が近しい関係にあったという史料はない。
  2. 逆に石田三成は、自分の娘を北政所の養女に出すなど親しい関係にあった。
  3. 北政所は関ヶ原では西軍を支援し、逆に淀殿が家康に頼ろうとしていた。

という新説を出されました。
 一次史料を駆使した、隼人さんの理論には説得力があります。
 しかし、この説には疑問を呈される方もいました。「梵舜日記」の読み方も、一筋縄ではいかないようです。

 三成びいきの私も、正直、隼人さんの見解に全面的に賛成するのは躊躇するところがあります。しかし、この隼人さんの問題提起は、歴史を見る目、史料の読み方等で大きく学ぶべき所があると思います。

以下、上記に関し、Nifty-serveで行われた侃々諤々の議論の経緯を転載します。
 通説が正しいか、新説が正しいか、お考え頂ければ幸いです。

なお、下記転載に関しては発言者の方の了解をとっています。

(注記)「梵舜日記」とは・・・

豊臣秀吉を神として祀った豊国神社の別当・神龍院梵舜が30才になった天正11年(1583)から病没する寛永9年(1632)まで書き綴った日記。
秀吉の死後すぐ作られ、やがて家康の手で破却される豊国神社の栄枯盛衰と、その間におきた関ヶ原・大坂の陣を巡る人々の動きを記した一級史料である。



022/049 VEN04565 隼人 家康の私婚騒動と三成

( 6) 97/07/07 13:34 コメント数:1

ども、お久しぶりです。隼人です。

 家康−三成ネタを一つ紹介します。出来ることならば以前、FREKIF #2戦国会議室でお話していた方の目にとまり、レスがいただければと思いアップしました。

結構強引な切り口ですので、レスをお願いします。
 文禄四年(1595)八月、秀吉が定めた掟には、「諸大名の縁組は、秀吉の許しを得ること」となっており、慶長三年にも再確認している掟があります。

 しかし、家康は、秀吉の死後まもなく独断で、これを破っています。
つまり、1〜3である。

 1.家康六男・忠輝と伊達政宗の娘・五郎八姫との婚約

 2.家康の外曾孫(小笠原秀政と信康の娘の間の娘)と蜂須賀家政の嫡子・蜂須賀至鎮との婚約

 3.家康の養女・満天姫(異父弟・松平康元の三女)と福島正則の養子・正之との婚約

これに対して、家康以外の四大老と五奉行が慶長四年正月に、承兌和尚と生駒親正を詰問の使者として送っている。その結果、大坂城の前田利家のもとと、伏見の徳川家康の間は派閥大名が結集し、いつ戦が起きてもおかしくない状態になった・・・

って言うシーン。司馬作品の関ヶ原にも、堺屋作品の巨いなる企てにも、出てきて、家康の勢力拡大を謀る作戦として描かれている有名なシーンですが、この場面よ〜く考えると、家康がうった他の策略に比べて、余りにもストレート過ぎると思いませんか? このシーンは実は、単に四大老と五奉行に喧嘩を売っただけでなく、凄く奥が深い気がします! つまり・・・

こっからが強引ですから・・・

先ず、忠輝の母親は於茶阿であり、於茶阿は三成の重臣・山田上野介の妹であり、忠輝は三成の娘婿・山田隼人の従兄弟の関係にある。

そして小笠原秀政の祖父・小笠原長時は、三成の岳父・宇多下野守頼忠(尾藤氏)の旧主であり、その縁により秀政の父・小笠原貞慶は三成の妻の伯父・尾藤左衛門尉を庇護している。そしてそのために松本城主を改易された人である。しかし家康は貞慶の改易直後に、その子の小笠原秀政を下総古河城主・三万石に復帰させている。

こういった関係は、周囲の諸大名が承知していたか否かは別として、三成は当然知っていたと思う。

つまり、家康がこの婚約の挙にでたのは、その時点での諸侯の動向を確認し、豊臣擁護派との力関係を推し量ろうとする行動であったろうが、この私婚騒動の真のターゲットが三成にあったと考えられないだろうか?

 この極めて単純に見える家康の私婚政略に、実は家康からの三成に対するメッセージがあったと見ることができ、家康の老練な政治的手法が見え隠れしているように感じる。

 隼 人


025/049 GHA12062 西岡 秀起    RE:家康の私婚騒動と三成

( 6) 97/07/08 02:15 022へのコメント コメント数:1

隼人 さん、こんばんは、

僕の意見なんですが

家康の私婚政略は老練な政治手段とも見えますが、秀吉亡き後は家康が天下人であると考え、接近しておきたかった諸大名も居たのではとも考えられます。

秀頼はまだ幼い。つい先ほど戦国が終わったばかりで幼い者をみんなでもり立てていくほど世が太平ではない。必ず乱になるなったとき勝つ方へ味方しておきたい。事実、藤堂高虎なんかはかなり早くから家康に接近してますしね。

家康から縁談を申し込んだ分もあるとは思いますが、諸大名の方からも積極的に申し込んだ分もあるように思います。福島、加藤、あたりは北政所が自らの意志で、家康に味方させるために積極的に動いているように思えます。

豊臣の家を残すには、秀頼様を内府に託すしかないと考えたように思います。そうしないと、野心家が秀頼の名を使い乱を起こして豊臣の家をつぶしてしまうと思っていたと僕は考えます。事実乱が起こり家が潰れましたしね。

 諸大名の動向を確認したかったことはまちがいのないような気がしますが、家康が誰も自分に逆らえないことがわかっててやったんでしょうね。前田利家との間に戦争騒ぎが起こりますが、結局仲直りしてますし。三成を意識してのことというのはどうでしょうかね。利家が死んで利政との間に戦争騒ぎが起こってから、特に三成のことを意識しだしたと思います。

家康は前田でも上杉でも乱を起こさせそれに勝てば天下人になれるんですから。

97/07/08() 02:13 西岡 秀起(GHA12062)


026/049 VEN04565 隼人 RE:家康の私婚騒動と三成

( 6) 97/07/08 16:19 025へのコメント コメント数:1

西岡 秀起さん、こんにちは

早速のコメントありがとうございました。

 で、本題から離れちゃうんですが、一カ所質問させて下さい。

>                福島、加藤、あたりは北政所が自らの

>意志で、家康に味方させるために積極的に動いているように思えます。

>豊臣の家を残すには、秀頼様を内府に託すしかないと考えたように思います。 

 の部分、つまり北政所が家康に期待し、秀頼を託すしか豊家を残すことは 出来ないと思っていたと言うところなんですが、ほとんどの小説(司馬作品 関ヶ原はじめほとんど全部)などでも、同じ様な表現が使われていて、

 淀殿、三成 VS 北政所、家康、加藤、福島 

という構図で話しが進めら れていますが、北政所が家康に期待してたとか、福島、加藤らに指示したという事が、何か文献に残っているのでしょうか?

 私が、探した範囲では、これを証明できる文献を見たことがありません。

 むしろ、三奉行が、家康の悪行を弾劾した文章に見られる様に、北政所 を大阪城から追い出し二の丸に天守を築かせた事や、関ヶ原直後西軍が 負けた事を知った途端、北政所が非常に動揺した事や、北政所の側近・ 孝蔵主が西軍のために奔走したといった史実は、かなり信憑性の高い文献に見ることが出来るのですが・・・ 北政所が家康に組みした行動を取ったとされる史実を文献に見ることは出来ませんでした。

 是非とも、西岡 秀起さんが、そう思われるようになった、きっかけか、文献の名前が分かりましたら、是非とも教えて下さい。

  隼人


028/049 GHA12062 西岡 秀起    RE^2:家康の私婚騒動と三成

( 6) 97/07/09 01:12 026へのコメント コメント数:1

隼人 さん、こんばんは、

> 是非とも、西岡 秀起さんが、そう思われるようになった、きっかけか、

> 文献の名前が分かりましたら、是非とも教えて下さい。

北政所が家康に期待したというのは司馬遼太郎の「豊臣家の人々」の中で描かれてます。なぜそう思うようになったのかは、僕はどうしても家康びいきなんですが、秀吉が死んで、跡取りの秀頼が幼い。そのとき京で武党派と文治派が争いだしたて、その隙を突いて家康が関ヶ原で勝利し天下を取ったんですが、もし家康がいなかったら、たぶんその他の天下を狙う大名が関ヶ原を起こし、夏の陣をも起こしていたであろうと、僕は推測しています。

 秀吉が天下統一をしたが、彼の天下統一に対してどれだけの大名が喜んだのかということです。秀吉さえいなければ自分が天下を取っていたはずだと思っている大名はかなりいたはずです。伊達、島津、毛利、上杉、誰も秀吉の天下統一を歓迎していないはずです。

 そこで北政所は家康の人物と実力を見て、彼に天下を取らすことにより、豊臣家を家康に託そう。家康なら悪いようにはしないと考えたのではと思います。

97/07/09() 01:06 西岡 秀起(GHA12062)


032/049 RXK14446 まさひこ RE^3:北政所の立場

( 6) 97/07/10 00:41 028へのコメント コメント数:2

 西岡 秀起 さん、隼人さんどうも。まさひこです。

 北政所が尾張出身の清正や、正則、木下家の人々に東軍呼応を進めたことについては、津田三郎著「北政所」中公新書に詳しく書かれています。

 動機はお説のとおり、天下を家康に託すことで豊臣家は一大名として生き残ること、夫秀吉が利用価値がなくなった三法師を殺すことなく処遇したのと同じようにして欲しいとの意図だったろうと推測しています。

 関ヶ原では北政所の考えてとおりの経過となりました。晩年の家康の過酷な政策でこのもくろみはもろくも崩れてしまいますが。

97/07/09 まさひこ 日向より


037/049 GHA12062 西岡 秀起    RE^4:北政所の立場

( 6) 97/07/11 01:54 032へのコメント

まさひこ さん、こんばんは、

> 北政所が尾張出身の清正や、正則、木下家の人々に東軍呼応を進めた

> ことについては、津田三郎著「北政所」中公新書に詳しく書かれています。

ありがとうございます。早速買ってみましょう。

97/07/11() 00:57 西岡 秀起(GHA12062)


038/049 VEN04565 隼人 RE:RE^3:北政所の立場

( 6) 97/07/11 08:56 032へのコメント コメント数:2

西岡 秀起さん、まさひこさん、ども!

 司馬遼太郎の「豊臣家の人々」、津田三郎著「北政所」ですか。

ありがとうございました。で、出来れば、司馬さんなり、津田さんなりが、その本の中で引用した書物名(例えば、○○軍記とか、○○日記といった一次史料)なんかが分かりましたら、それを教えていただけないでしょうか? 司馬さんの作品は、私も大好きで、かなり史料を収集して小説を書かれた方と聞きますので、・・・出来れば、実際の関ヶ原当時の史料を引用されていれば、その名前が知りたいのですが(よく文中に○○によればなんて、一次史料の名前が載っているんですが・・・)。

江戸時代にかかれた俗書は、当然かもしれませんが、いい加減なモノが多く、当てにはなりませんが、

関ヶ原当時に書かれたものからも、現在通説となっている”北政所の家康加担説”を裏付ける様な史料があるのかが興味津々です。

 私が、現在注目しているのは『梵舜日記』と言う一次史料です。

この日記の著者・神竜院梵舜は、吉田神道家の五代目当主・吉田兼見卿(従二位)の弟であり、吉田家の氏寺・神竜院の住職です。慶長四年(一五九九) 四月十八日、豊臣秀吉を「豊国大明神」として祀った豊国神社の正遷宮祭が行われて以来、豊国社の奉祀一切を吉田家が管掌します。

 神竜院梵舜と北政所の接触が始ったのは、同年七月十八日頃からと推測され、さらに、九月二十六日、大坂城を出て京都に移った後には、一段と交流が深まり、『梵舜日記』に北政所が頻繁に登場す

る。そして、翌・慶長五年 (一六〇〇) には梵舜自身が豊国社の別当職に就任する。そして一六二四年九月六日に北政所が亡くなるまでの二十五年間、北政所や、その周辺の様子が『梵舜日記』に

詳細に記録されています。

1.宇喜多秀家の決起は北政所の示唆?

 『梵舜日記』の慶長五年七月五目の記録を見ると、その目、備前宰相(字書多秀家)が、豊国社に於いて「神馬立の神儀」、すなわち、出陣式を執り行なっている。

 しかも前代未聞の物々しい儀式であり、そのときの宇喜多秀家の並々ならぬ決意を漂わせている。さらに七月七日の記録によると、その日、備前宰相・女房衆(豪姫等)が必勝祈願の「湯立神楽」を奉納している。しかも、そのとき、北政所は自らの側近「東殿局」を代参として派遣している。

宇喜多秀家は備前領主・字書多直家の嫡子であり、幼くして秀吉の養子になり、その寵愛をうけ、北政所の膝の下で慈しみ育てられた人である。豪姫は加賀の前田利家の四女であるが、幼くして秀吉=北政所の養女になり、寵愛を一身に集めた人である。

 さらに、七月二十三日、伏見城攻略の最中にも宇喜多秀家は豊国社を参詣に訪れ、金子一枚を奉納し、権少副(吉田兼之)の所で月の出を待っていた。そのとき北政所からも祈祷の依顧があり、二位(吉田

兼見卿)が直接それを申し付けている。

 つまり、これらの日記を関連つけていくと、宇喜多秀家の決起は三成の要請によるものではなく、北政所の示唆があったと、確信できる記述がかなり出てくる。で三成の要請ではなく決起したと書いたのは、

日記の日付から分かるとおり、字書多秀家が決起を表明した慶長五年七月五日は、三成が大谷吉継を佐和山城に呼んだ日であり、豪姫が必勝祈願の揚立神楽を奉納した七月七日は、大谷吉継が三成の協力要請

を一旦断って、佐和山城を去り、美壊の垂井に帰った日である。しかし、三成一人を見捨てるに忍びなく、再び佐和山城に赴いて三成に殉ずる決意を伝えたのが七月十一目であり、増田最盛や、安国寺に同調

を求めたのはのが七月十二日である。すなわち、三成が異体的行動に移る前にすでに決起を表明している。

 そして、大谷吉継の同意を得た三成が、七月十二日に大坂在城の奉行衆に同意を求め、七月十七日付で三奉行連署により、諸大名に対し徳川家康弾劾の激文『内府ちがひの条々』を発送するが、それに先立

つ七月十二日付で、大坂城淀殿側近の奉行・増田最盛は、家康の家臣・永井直勝宛に、石田三成や大谷吉継の動向を既に密告している。

 「永井直勝宛、増田長盛書状」

 一筆申し入れ候。この度樽(垂)井に於いて大刑少(大谷刑部少輔吉継)両日柏煩両日滞留、石治少(石田治部少輔三成)出陣の申し分候て、ここもと雑説申入候。猶追々申すべく候。

 七月十二目                増田右衛門尉長盛

 永井右近太夫殿(永井直勝)       (『板坂卜斎覚書』)。

 まっ、とにかく、宇喜多秀家の決起表明は、三成が漸く決起の準備に動き出したときに、すでに表明されたことになり、それに対して北政所が同調した動きをしている。

 そしてさらに、北政所の執事・孝蔵主の動向と併せ考えるとき、けっして北政所が家康に天下を託したなんて思えない。

2.北政所

 北政所が、秀吉と結ばれたのは永禄四年(一五六一)、数え年で十四歳ということになる。一方、秀吉の生年が天文五年(一五三六)、または、天文六年と言われていることから、数え年・二十五〜八歳のときである。当時の秀吉は、織田信長の足軽であり、土間にむしろを敷きつめた結婚式であったと伝えられて、極貧の中で結ばれた二人。

 足軽頭となり、ひとかどの武将に成長し、近江・長浜城主として、十八万右を与えられ、一国一城の主とり、長浜城から山崎城に、そして姫路城へと変転の時代を迎えることになる。翌十一年には秀吉が柴田勝家を自害させ、実質的に天下を掌握することになり、その年の暮れには普請中の大坂城に迎えられる。そして、天正十三年(一五八五) には秀吉が関白に叙任され、於寧は北政所となり、姑の「なか」も大政所となって、名実ともに秀吉が天下人になる。

 しかし、その経緯や、大義名分は別として、秀吉は織田政権を実質的に纂奪したのである。しかも、北政所は、その過程を詳さに見聞し、体験して来ている。

 すなわち、「天下は強者のもの」とする「戦国時代の論理」を、身を持って体験し、それを影で支えてきた人である。

 したがって、秀吉役後の天下を狙って、いろいろ画策する家康の腹中を読み切れないはど甘い女ではない。秀吉が死に臨んで何を一番望んでいたかを、最もよく理解していたのは北政所であり、「家康に天下を託す」とは考えられない。

 すなわち、通説のように、家康の天下纂奪に手を貸す程の人では、到底、その夫を天下人にまで押上げることは出来なかったと思う。

 秀吉死後の家康の一連の動きに、最も危機意識を持ったのは北政所であろう。そこに、北政所が三成に期待するものがあり、三成もまた太閤の遺託に応えようと、決起したものと考えている。

 そのことは、『梵舜日記』に記録されている北政所の姿、すなわち、北政所が豊国社で亡夫に語りかける後姿を見れば明らかであり、何人も異論を差し挟むことが出来ないと思う。

 近年放映の「大河ドラマ」のように、豊臣秀長をして「兄者の死後は、徳川毅に天下を託しなさい」と、北政所に語り聞かせなければ理屈に合わないことになるのである。兄・秀吉とともにひたすら走り続けて手にした天下を、いとも簡単に「兄者の死後は、徳川殿に託しなさい」と言わせるシナリオは、まさに「生と死の狭間を生き抜いた人間」の、心の機微を理解出来ない現代人的発想に思える。

3.木下家の人々(北政所の甥っ子たち)

 北政所の兄の木下家定には現在七ち八人の男子のいたことが確認されている。すなわち、北政所の実の甥には、木下勝俊、木下利房、木下延俊、木下俊定、木下秀俊(小早川秀秋)、木下秀現、木下某?、紹叔(後の高台寺の住職)らである。

 そのうち、出家した紹叔は別として、東軍に属したのは、関ケ原合戦終了後の、田辺城回復戦で東軍に参じた、細川忠興の妹婿に当たる木下延俊(当時播磨三木二万石。戦後、豊後三万石)のみであり、その他の甥達は総て西軍として旗臓を掲げている(勿論、小早川秀秋は関ケ原決戦で西軍を裏切っているが)。

また、江戸期に入って父の遺領を縦承した足守藩・藩祖・木下利房自身も西軍に加わって戦後失領しており、大坂の陣の頃には家康の意向によって行動し、北政所の大坂城訪問を牽制している。それによって、戦後、父・木下家定の遺領「足守藩」の継承を認められている。その、木下利房の去就から考えても、木下家についての話しは、後世に創られた弁解が多いと思う。

 戦後、この兄弟の殆どが所領を没収されており、所領安堵されたのは三男の木下延俊と、小早川秀秋の二名だけである。その他の兄弟達は、やっと助命されたに過ぎない。したがって、戦後、木下延俊と、木下利房は北政所とその父に寄食し、木下俊定と今一人の兄弟(木下某)は、小早川秀秋に寄食している。

 そして、この秀秋に寄食した二人は、小早川秀秋が死去した同じ年月に死亡する。『梵舜日記』の慶長七年十月十八日

 小早川秀秋の死を伝える『梵舜日記』の記録

 「十八日(慶長七年十月)天晴。政所の社参無し、次いで金吾殿(小早川秀桃)備前岡山城にて死去、同月に兄弟三人病死なり、請人不思議と申す」。

 そして、六男の木下秀規は関ケ原合戦には西軍に属したのみではなく、大坂の両陣には大板城に入城し、豊臣家に殉じている。

 PS 市や虎の北政所との接近(秀吉没後から関ヶ原当時)については、また後で書きます。

    

北政所を好意に扱う人は「豊臣家存続のために天下を家康に託す」と書くし、悪意に扱う人は「淀殿に対する嫉妬から、天下を家康に馳走」と書くし、どちらにしろ、家康に天下を譲る許可をしたことになり、これじゃ北政所も浮かばれないと思う。ただ、ここまで家康に天下を託す(馳走)と言われる説(通説)が浸透しているとすると、何か根拠となる一次史料があるのかなって、思えてくるのは不思議だ???

隼 人


039/049 GHA12062 西岡 秀起    RE^5:北政所の立場

( 6) 97/07/12 01:57 038へのコメント

隼人 さん、まさひこさん こんばんは、

宇喜多秀家の決起が北政所の示唆であるのはよくわかりました。

>う。そこに、北政所が三成に期待するものがあり、三成もまた太閤の遺託に

>応えようと、決起したものと考えている。

”豊臣家の人々”では三成と北政所が仲が悪いように描かれています。

読んでいて三成を倒すことによって、豊臣家の安泰がはかれるような気がしました。前も書きましたが、関ヶ原で西軍が勝ったら、誰が天下を納めていくのかが一番重要ではないでしょうか。西軍に天下を納めるだけの武将がいたでしょうか?

三成では誰もいうこと聞かないでしょう。そのために北政所は宇喜多秀家に決起させて、秀頼が成人するまで天下の仕置きをさせるつもりだったんでしょうか?

秀家に野心家 戦国大名を仕切るだけの器量がありますかね。仕切り切れずに、元亀天正の戦国の世に逆戻りしてしまうのではと思います。そうなってしまっては豊臣家の存在価値が無くなってしまうと思うんですが、『梵舜日記』のことを聞いて、北政所の行動がわからないところがでてきました。

両天秤にかけていたのでしょうか。尾張衆と秀家のどちらかが勝てばいいと思っていたのでしょうか。

97/07/12() 01:47 西岡 秀起(GHA12062)


040/049 RXK14446 まさひこ RE^5:北政所の立場

( 6) 97/07/12 05:45 038へのコメント コメント数:2

隼人 さん、どうも。まさひこです。

 津田三郎「北政所」は副題が秀吉没後の波瀾の半生とあるように、秀吉の死から豊国神社の破脚、北政所の死までを扱った本です。旧F館でJIBUSHOUさんの紹介があったので、早速よんで、高台寺の意義など得るところ大でした。

  ご質問の引用一次史料なのですが、正に隼人さんご指摘の『梵舜日記』なのです(^_^;)

  同じ史料をつかって、どうして反対の結論がというところですが、津田説は関ヶ原前後、北政所は孝蔵主を使って福島、浅野、京極らの秀吉恩顧の大名に家康に付くよう説得したとするのですが、その部分には史料が引用されていないので、そのような孝蔵主の行動を裏付ける史料があるのかはわかりません。

 (逆に、隼人さんご指摘のように東軍側として大津城に籠もる京極高次を孝蔵主が説得し、西軍のために開城させているようですね。)

  結局福島、加藤、浅野という北政所に近い秀吉子飼いの武将が家康側についている、木下家定は大阪城留守居であったのに大阪城を出て、北政所の元いた、という結果からの判断でしょうか。

  小早川秀秋の内応を北政所が進めたことは「野史」が引用されていますが、これは江戸時代末の史書ですから、証拠としては弱い。

  

  ただ、津田氏が引用する「梵舜日記」の記載を見ると

   慶長5年7月15日 天下謀逆露顕、伏見城に内府家康軍云々

      10月 1日 今度謀反ノ衆三人、石田治部・・・六条河原に於い

            て首をはね・・

   と西軍を謀反軍として記述し、豊臣方としていないようです。日記とはいえ家康に批判的なことは書きにくかったのかもしれませんが、北政所をはじめとする、豊国社に関係する人々の雰囲気も三成を豊臣の為の行動と見ていない証かとも思えます。

   また、関ヶ原後についてみると

   慶長6年7月に家康から豊国社へ社領1万石が寄進(豊国大明神社領帳)

   (その後一部を削って智積院の再興に当てているようですが。)

   慶長7年5月23日 内府公御母儀豊国へ社参(於大の方、まだ生きていたのですね。)梵舜日記

   慶長9年  家康、秀吉7回忌の臨時大祭を許可

   慶長10年 高台寺建立につき、酒井忠世、土井利勝を造営ご用掛に任じ、京都所司代板倉勝重を普請奉行とする。

   と、家康は慶長14年木下家定死後に足守2万5千石を没収するまでは、豊国社と北政所に対してはむしろ積極的に援助を与えています。

   このような秀吉と北政所に近い武将の動きと、家康の北政所に対する態度が北政  所が家康を支持したとの説の由来ではないでしょうか。

       

    97/07/12 まさひこ 日向より


041/049 VEN04565 隼人 RE^5:北政所の立場

( 6) 97/07/13 00:37 040へのコメント コメント数:1

まさひこ さん、どうも隼人です。

 大変お手数をお掛けいたしました。一次史料の『梵舜日記』の引用箇所と、そうでない箇所まで分類して解説していただき恐縮します。

 たしかに、同じ史料を用いながら、正反対の結果になっているようですね! 通説を否定することの難しさを感じます。

この他の『梵舜日記』の記録…… 参考まで(^_^;

1.関ヶ原敗戦直後の北の政所の奇怪な動き

  慶長5年9月18日、三成の本拠地佐和山城が落城した日、北の政所は秀吉の遺品である太刀や装束を唐櫃につめて豊国社に運び込んでいる。これは梵舜自らの手によって南内陣に納めている。続いて10月1日には北の政所の琴や唐団扇や他の貴重品が宝殿に運び込まれ、梵舜自ら扉を開けている。

もし、北政所が家康に荷担していたのなら、東軍が勝利して、三成の居城が落城したのだから、秀吉の遺品や、貴重品を豊国社に隠すような行動をとるであろうか?

この梵舜日記から伺えるのは、北政所は、東軍の狼藉を恐れていたとしか考えられない。そして、北政所の心境は、非常に複雑で、亡夫の願いをかなえるための行動が、大阪の淀殿やその周辺によって阻まれただけでなく、子飼の武将の多くが家康に籠絡され、しかも最も寵愛した小早川キンゴの裏切りによって戦の行方が決定されたのを聞いては、立つ瀬がないに違いなかったのでは・・・。

2.戦後の西軍に属した者と北政所の交流

  北政所は関ヶ原後、西軍に属していたために所領を没収された人々やあるいは流罪に処せられた人達と交流していたようです。

例えば、慶長8年1月9日豊国社に木下家定と参詣したとき、自分名で銀子2枚と願主サナダとして銀子7枚を奉納して湯立神楽を依頼しています。サナダといえば真田昌幸、幸村のことだとおもいます。3万数千の秀忠軍を足止めした真田親子への丁重な応対……。と考えるんですが・・・

>結局福島、加藤、浅野という北政所に近い秀吉子飼いの武将が家康側について

>いる、木下家定は大阪城留守居であったのに大阪城を出て、北政所の元いた、と

>いう結果からの判断でしょうか。

3.秀吉子飼いの武将と北の政所

通説では、大坂城を去り京都に移った北の政所は、加藤清正、福島正則、浅野長政ら(三羽がらす)に囲まれて、高台寺に籠もって禅正三昧の生活を送り、関ヶ原ではそれらの武将に家康への加担をを命じたと言われています。

  しかし、慶長4年4月18日、豊国社の正遷宮祭以降の梵舜日記のなかに、この頃、三羽がらすが豊国社に参詣した 記録がない。もし、北の政所の所に頻繁に通ったんなら、参詣が有ってしかるべきじゃないでしょうか?

  確かに参詣の記録に、肥後守という文字が視られる。だったら加藤清正は来ているじゃないか!と思われるかもしれないが、この当時肥後守は北政所の兄・木下家定であり、当時加藤清正は、主計頭である。

また福島正則が初めて豊国社を参詣したのは慶長8年1月2日、秀頼の名代として、藤堂高虎、浅野幸長と同道している。しかし、この正月に北の政所は、豊国社を参詣でしていない。

さらに同7月18日、加藤・福島が豊国社を訪れているが、この日も北の政所は参詣していない。

この時期(慶長4年3月から慶長9年まで)北の政所は、病の時でも豊国社参詣は欠かさないで日参したのに、加藤・福島など子飼の者達が、豊国社を訪れるときは決まって避けている。

  つまり、彼らが三成を襲撃し、佐和山引退に追い込んだ事などから、北の政所が彼らとの接触を意図的に避けたのではないでしょうか。

少なくとも、通説のようならば、同道するか側近の者を代参させるはずである。

※北の政所と彼らの関係修復は、高台寺建立計画が始まり、その役が豊臣恩顧の大名に割り当てられた慶長9年以降と思います。

4.三成と北政所の関係(石田三成の三女「辰姫」)

三成が北政所と非常に近い位置にいたことを確信したのは石田三成が、太閤逝去後(慶長3年)に自分の三女辰姫を北政所のもとに養女に出している点です。

そして、この辰姫は北政所に非常に可愛がられていたようです。自分の娘を養女に出すほどの密接な関係から、三成が淀殿派とはどうしても考えられないのです。

※ちなみに、辰姫は関ヶ原後、北政所は辰姫のことを津軽為信公に託しています。そして、津軽二代藩主信枚公の妻となり、三代藩主信義公の母になる人です。

                        隼 人


042/049 VEN04565 隼人 RE^5:むしろ淀殿が家康に豊臣を託した!

( 6) 97/07/13 00:49 040へのコメント

 まさひこさん、どうも、隼人です。

 ちょっと、過激ですが・・・

 私は、北政所じゃなくて、むしろ淀殿が家康に期待していたのではないかと、思うんですが・・・

 秀頼の生母であり、最も秀頼政権の存続を望む淀殿が、なぜ徳川殿に籠絡されたか?そして、秀頼公を関ヶ原決戦に参戦させなかったのか?

 淀殿は、承知の通り浅井長政・お市の方の娘であり、妹に京極高次の妻”おはつ”や、徳川秀忠の妻”おごう”がいます。また、京極高次は秀吉の側室松の丸(竜子)の弟であり、竜子、高次の母は浅井久政の娘であるから淀殿とは従姉弟(いとこ)関係にもあります。

 京極高次は明智光秀の付傭大名の関係で明智側として秀吉不在中の長浜城を攻撃したが、姉(竜子)が秀吉の側室になったことにより、助命されただけでなく大名として復帰し、大津城主6万石となって、近江源氏の京極家を復興させる。

 この京極高次は関ヶ原間近の9月3日、徳川殿の勧誘で東軍に転じ大津城に籠城している。そのため決戦前日14日まで1万数千の西軍は釘付けになる。

 この開城あたっては、三成は高野山の木食上人を派遣、北政所も孝蔵主を派遣して説得工作をしている。しかし、時すでに遅く大津城攻めの西軍兵を関ヶ原に転戦させる事が出来なかった。高次は高野山に蟄居するが、戦後、家康に功を賞され若狭小浜8万5千石を与えられる。

 繰り返すが、高次は淀殿と従姉弟であり、その妻は淀殿の妹である。すなわち秀頼の叔母に当たる人である。高次が、東軍に転じた9月3日には、大阪城の淀殿周辺に対する家康の調略工作が一応成功していたのではないだろうか。

 そして、秀忠の妻の存在は無視できない。秀頼と婚約を結んだ”千姫”の生母である!!

 ここで、淀殿は考える。

 「まさか、いずれは孫の婿になる秀頼の天下を簒奪するなんてことはするはずがない!」と…………。

 そして淀殿は、このことを乳母、大蔵卿に相談したであろう。しかしこの大蔵卿の息子が大野治長である。

 大野治長は、増田長盛・長束正家の密告により、家康暗殺計画に参画したとして、結城秀康に預けられたが、三成蜂起を機に釈放され東軍として参戦し、家康の意を体して、大阪城内の調略に参画している。当然、”家康を秀頼の忠実な後見人”と信じ………。具体的に城内に家康の意向を浸透させたのは片桐旦元であり、大蔵卿であっただろう。

 これらの9月上旬の大阪城の動きは、三成も知っていて、9月2日付けで増田長盛宛書状が物語っている。

 このようなことがあって、片桐旦元は茨木城主に1601年起用されている。また、増田長盛も家康の弾劾状に署名しているのに、助命されている。

 つまり、淀殿は関ヶ原以前においては、家康殿を”信頼できる後見人”と信じていたのであろう。

 それに対して、北政所は秀吉死後の家康殿の動向から天下簒奪を見抜いていたのでは………。

北政所と淀殿の違いは、家康の本心を見抜く力を持っていたか否かの違いであると思う。

        いかがでしょうか?   隼 人                          


046/049 RXK14446 まさひこ RE^6:北政所の立場

( 6) 97/07/14 01:27 041へのコメント コメント数:1

 隼人 さん、どうも。まさひこです。

 >たしかに、同じ史料を用いながら、正反対の結果になって

 > いるようですね! 通説を否定することの難しさを感じま

 > す。

  誤解があるといけないので、付け加えておきますが、津田説は家康と北政所の関係については通説をとりますが、北政所の晩年については通説の言うように幸せではなく、家康により豊臣家は滅ぼされ、豊国社も破脚されて悲嘆の中に没したとしており、このことを「梵舜日記」により立証しようとしている点に本の眼目もあります。

 > この梵舜日記から伺えるのは、北政所は、東軍の狼藉を恐れていたとしか考えられない。

  津田説は北政所が家康を支援したことを怒った西軍(残党OR大阪方)の乱入を恐れて秀吉遺品を豊国社へ運んだとしています。同じ記述も説が違うと反対の解釈になってしまうのですね。

 >この正月に北の政所は、豊国社を参詣でし

 >ていない。

   慶長7年11月から、慶長8年1月8日まで参詣していないのは7年10月の小早川秀秋の死を悼んでのことというのが津田説です。

 >確かに参詣の記録に、肥後守という文字が視られる。

  これは慶長7年のことでしょうか。隼人さんのおっしゃるとおりなら、この年加藤清正が参詣したというのは史料の読み違いになりますね。

  同じ史料からも解釈が多様なことにひかれて、つい長文になりました。

 しかし、このように比べてみると確かに、隼人さんの読み方の方に説得力がある部分が多いかなと思えます。

  ただ、豊国社には秀忠や結城秀康も参詣していることから見ると、関ヶ原の時点では徳川が豊臣を潰そうとしていたとは思えませんから、むしろ北政所も淀殿もともに豊臣の将来を家康に託そうとしていた。 ただ、北政所には政権は徳川に移ることが見えていたが、淀殿にはそこが読めなかったという点が秀頼上洛問題以降、大阪陣へ繋がっていくのかと漠然と考えています。

  三成については知らないことが多いので、隼人さんの発言でいろいろ教えていただけることを期待しています。

 

97/07/13 まさひこ 日向より


047/049 VEN04565 隼人 RE:RE^6:北政所の立場

( 6) 97/07/14 13:11 046へのコメント コメント数:1

 まさひこ さん、どうも! 隼人です。

 まさひこさんの解説で、津田説がよく見えてきました。感謝です。

 さて、

> ただ、豊国社には秀忠や結城秀康も参詣していることから見ると、

>関ヶ原の時点では徳川が豊臣を潰そうとしていたとは思えませんから、

>むしろ北政所も淀殿もともに豊臣の将来を家康に託そうとしていた。

 について、少し書かせて下さい。徳川=徳川家康=徳川秀忠と位置づけると、確かに、まさひこさんの仰るとおりだと思います。ただ、秀忠と北政所や孝蔵主との関係は、家康との関係とは別に考えることが出来るのかな?と、思います。

 秀忠との関係は、各種の記録から見て、北政所のみではなく、孝蔵主との関係も、極めて友好的です。1587の秀吉の九州征伐のとき、秀忠12歳の少年時代に、短期間ながら北政所のもとに預けられています。(人質として)

 そのとき、北政所と孝蔵主は、わが子のように温かく接したようです。

その後も秀忠上洛のおりには、まず最初に北政所のところに立ち寄り、「髪の結い方から着物の着方まで、上方風に取り結ばれ、誠にご実子のごとく慈しみ給う」(『平姓杉原氏卸系図附言纂』)と記録されてます。

 したがって、秀忠のその後の対応を見ると、家康とは極めて対照的で、北政所や孝蔵主には好意的である。

 孝蔵主は三成の次女の婿(岡半兵衛)の義伯母に当たり、越後忠輝公の生母・於茶の方は三成の長女の婿(山田隼人正勝重)の叔母に当たる人のようです。慶長15年(1610)、徳川家に仕えた孝蔵主が、初め「於茶の万」付の老女に就任しているのを見れば、その辺の事情が理解されます。

 元和2年(1616)、忠輝公改易後にも孝蔵主の処遇をそのまま認め、しかも、その跡式を養子(甥)の川副六兵衛重次へ認めている。

 川副六兵衛重次は孝蔵主の末弟・河副瀕次郎正俊の嫡子であり、関ケ原合戦には父とともに西軍に参加し、大坂の両陣には父とともに大坂城に籠城し、父・瀕次郎正俊は討死し、六兵衛垂次を脱出させている。しかし、その後の寛永年問に孝蔵主の養子となり、孝蔵主の願いによって徳川家に幕府直参の旗本として取り立てられている。これが江戸・川副氏の初代であり、次第に累進し、千五百五十石を支給されるまでになります。

 一方、北政所に対する対応にも同様の気配を感じさせます。慶長13年(1608)北政所の兄・木下家定が没したとき、幕府はその後を木下家定の長男・木下勝俊と、その弟の木下利房に分割することを指示したのに対し、北政所は浅野長政を介して、木下家定の嫡子・木下勝俊一人に継承させることを、将軍秀忠に願い出て許されています。(慶長1453日付北政所宛て浅野長政書状『高台寺文書』)。

 ところが、それを聞いた家康が激怒し、その所領をことごとく没収し、浅野長政の次男・浅野長晟に与えてしまう。

 すなわち、将軍の決定を大御所が覆しただけでなく、その仲介に立った浅野長政の次男・浅野長晟(後の浅野家三代=家頗の三女振姫の婿)に与えてしまったのである。

 当時の徳川方の記録である『慶長年録』では、そのときの北政所の願いを「老耄か気違」と非難し、『当代記』では「近年、政所老気達」と記録している。徳川家康にしてみれば、関ケ原合戦に自らの命に反して伏見城警備の大任を放棄した木下勝俊と、西軍に参加した木下利房を、不憫に思って所領を与えようとしたのに「何たる我侭か」と激怒したに違いない。

 すなわち、関ケ原合戦を影で支えた北政所の行為を、先刻承知で「これ以上の我侭は許さんぞ」と激怒したものと考えます。

  ですから、「北政所が豊家を家康に託した」とは、私にはどうしても思えないのです。しかし、まさひこさんの解説の通り、史料の解釈の難しさを教訓にし、さらに掘り下げていこうと思います。 

  隼 人


048/049 RXK14446 まさひこ RE^8:北政所の立場

( 6) 97/07/15 00:33 047へのコメント

 隼人 さん、どうも。まさひこです。

  これ以上の紹介は中公新書1冊をまるごとアップしているのと同じになってしまいそうなので、興味があればお読みいただくということで差し控えますが。

 津田氏も関心を持った事実はほとんど隼人さんと同じであるのは面白いところです。一見逆の立場のようで、実は隼人さんと津田説は一枚の紙の裏表を見ているような極めて近い所に立っているのかも知れません。

 >「これ以上の我侭は許さんぞ」と激怒した 

  (改行再編しました)

  慶長7年に豊国社の唐門を竹生島へ寄付してしまうことといい、飴と鞭を使い分ける家康のバランス感覚はやはり老獪と言わざるを得ません。

 >慶長15年(1610)、徳川家に仕えた孝蔵主が

  「梵舜日記」に従うと、慶長15年夏ころを境として孝蔵主をはじめ、北政所に使えていた用人にかなりの変動があるようですね。津田氏はそれ以上の史料が無いとして理由の考察をしていませんが、この後も慶長 18年8、9月に「御小茶」が居なくなり、「御ムツ」が用人筆頭に、元和2年暮れには「御ムツ」「梅久」が去っているらしいことなど用人の出入りも、隼人さんの考えを当てはめると、単なる年季明けではなく親徳川派と大阪派のような動きがあったのかという気がしてくるのですが、 いかがでしょう。

  もう一つ、同じ津田三郎「秀吉英雄伝説の謎」中公文庫は新書と重なる部分も多いのですが、北政所ではなく、豊国社の運命に光をあてた記述になっていますが、こちらで見ると神龍院梵舜という人は死後の秀吉と運命を共にしたような不思議な感慨にとらわれます。私は一次史料を読みこなす力はない素人ですが、引用部分を見ていても「梵舜日記」は面白そうです。隼人さんの考察が進んだらさらに、発言をお聞かせいただけることを期待しています。

 

97/07/14 まさひこ 日向より


051/053 GAH00561 SHUN RE^9:北政所と小早川秀秋

( 6) 97/07/20 10:00 048へのコメント コメント数:2

隼人さん、まさひこ さん、どうも!

お二方の意見交換、興味深く読ませていただきました。

隼人さんと津田三郎氏が、同じ梵舜日記を典拠としながら、反対の結論を導いていると言うのは興味深いですね。

個人的な感想としては、隼人さんと白川亨さん(隼人さんの父君)の研究によって、通説言われてるように、

「北政所が、加藤、福島、浅野らを家康方に荷担するよう示唆した」(司馬さんの「関ヶ原」などで書いてるものですね)、という史実は無かったようだ、ということは明らかになっているように思います。

ただ、じゃあ北政所は、西軍ひいきだったか、というと・・・まあ、秀家・三成との関係はあるのですが、そこは慎重に考える必要もありそうに思います。

もともと、北政所が家康党だと言われたのは、関ヶ原後の両者の関係もありますが、小早川秀秋との関係もありますから。

北政所が、加藤らにどの程度影響力をもってたかは不明ですが、血縁の小早川秀秋には確実に彼女の影響力が及んでいたでしょうから、彼の裏切りをどう見るか、でしょうね。

また北政所が、小早川秀秋に東軍荷担を示唆した、という史料はいくつかありますよね。

私の知る範囲では・・・

(1)8月28日付浅野文書

(2)明良洪範

(3)大日本野史(まさひこさんが紹介されてましたね)

・・・があったと思います。後の二つは、江戸後期のものだから創作されたものとしても、徳富氏が発見したという(1)の文書等を、どう考えるかという問題はあるのじゃないでしょうか。

参考までに、笠谷氏「関ヶ原合戦」から、浅野・黒田両氏から秀秋へ宛てたもの

だという(1)の文章の要旨を引用すると・・・

「貴様何方へ御座候共、此度忠節肝要候、二三日中に内府公、御着に候条、其以前に御分別此処候、政所様へ相つつき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候、早々返辞示待候」

・・・となっています。

ちょっといろいろ考えられそうな文面ですね。


052/053 RXK14446 まさひこ RE^10:北政所と小早川秀秋

( 6) 97/07/20 23:52 051へのコメント

SHUN さん、どうも。まさひこです。

  

  浅野家文書の紹介ありがとうございます。

  隼人さんの意見を読むと、確かに北政所が単純に家康を支持していたとは言えないと思えるのですが、かといって積極的に三成側だったといえるのかが、関ヶ原後の流れとの繋がりでまだ疑問を残していたところです。

 >「政所様へ相つつき御馳走不申候ては」

  この部分はどのように現代訳されるのでしょう。「政所様の気持ちを受け継いで」ということなら、北政所は家康支持となりますが、浅野長政らが、北政所の意志は家康側にあるのだとかたって、秀秋に圧力をかけただけとみる余地もありますか。

97/07/20 まさひこ 日向より


054/062 GAH00561 SHUN RE^11:北政所と小早川秀秋

( 6) 97/07/22 00:43 052へのコメント

まさひこ さん、どうも!

> >「政所様へ相つつき御馳走不申候ては」

>  この部分はどのように現代訳されるのでしょう。「政所様の気持ちを

> 受け継いで」ということなら、北政所は家康支持となりますが、浅野長政ら

> が、北政所の意志は家康側にあるのだとかたって、秀秋に圧力をかけただけ

> とみる余地もありますか。

ふうむ、鋭いですね。

この文面は全体に脅迫めいているので、私も、字句通りに

「私たちのように、(北)政所へ奉仕・尽力するためにも、家康方へつきなさい。」

ととるべきなのか、

「家康方につかないと、政所の為にならないぜ。よく考えるんだな。」

という凄みが隠されてるのか、悩んでおりました。

この手紙自体は、秀秋に圧力をかける目的があったことは確かでしょうね。

また隼人さんも言われてますが、いずれの意味でも、秀秋に対しては、政所の名前を出すことが有効だった(政所の影響力が大きかった)、ということは、この手紙から読みとれるように思います。


053/053 VEN04565 隼人 RE^9:浅野家のその後の処遇

( 6) 97/07/21 00:05 051へのコメント

SHUNさんどうも! 隼人です。

>(1)8月28日付浅野文書

>・・・があったと思います。

>参考までに、笠谷氏「関ヶ原合戦」から、浅野・黒田両氏から秀秋へ宛てたもの

>だという(1)の文章の要旨を引用すると・・・

>「貴様何方へ御座候共、此度忠節肝要候、二三日中に内府公、御着に候条、其以前に御分別

>此処候、政所様へ相つつき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候、早々返辞示待候」

>・・・となっています。

>ちょっといろいろ考えられそうな文面ですね。

 いつもながら、鋭いところを突いてきますね〜。この文書は、確かに江戸期に書かれた俗書と違い、関ヶ原寸前のに小早川に発せられた文書に違いないですね。

 反論の余地はありません。

 そして、ここからは私の推測で、なんら証拠となる文書は無いですが、浅野幸長は、前田利家の死直後の三成襲撃にも加わった一人で、家康を次の天下人と”先物買い”をしていた一人で、関ヶ原の時も、確か秀忠に従軍し、既に家康家臣の振る舞いをしていたと思います。

 家康は、小山評定後、百以上の手紙を各中小大名に送り、自分の正当性と自軍に加わることを依頼し続けます。さらに、豊臣恩顧でありながら既に、家康家臣の振る舞いをする者を通じて間接的にも協力を要請し続けます。

 当然、浅野もその一人だったのでしょう。そして、小早川を動かす最も有効な手段を浅野は考え出します。それは、北政所の名前をチラつかせる事です。20才にも満たなく、また何不自由なく育てられた、この少年を動かす為に最も有効な手段は、北政所の名前を出すことで、かつ、その名前を出して話が出来るのは、やはり親戚筋の浅野家となるのではないでしょうか?

  まっ、この時の恩賞で、浅野家は大躍進を遂げ、山梨から、あの広島を手に入れてしまうのですから、家康も大変感謝していたのでしょう。

  因みに、浅野長政の方も、立場上、北政所を裏切ることは出来ず、かといって”家康先物買い”の一人であり、揺れ動いていたのは事実でしょう。

 大坂城を去った後の行動の素早さは、「次は家康」と分かっていながら、立場上なかなかアクションが起こせなかったのが、あの事件で急に糸が切れて、自国蟄居→武蔵府中と家康従順を超スピードで表したのはその証拠でしょう。

  ですから、あくまで推測ですが、8月28日付け小早川秀明宛の文章は、紛れもない一級史料ですが、北政所が東軍を指示していたを証明すると言うよりも、徳川方の小早川調略を浅野家が手伝っていた証拠資料と見ることは出来ると考えます。

      あくまで、推測ですが・・・    隼 人

      


055/062 VEN04565 隼人 RE:RE^9:浅野家のその後の処遇

( 6) 97/07/22 13:54 053へのコメント

 #53 の修正と整理・追加です。

  ども隼人です! #53の文章を整理して補足します。(#53はかなり端折って、 書いたので、もうチョット浅野家について書きたかったので・・・)

 <慶長四年、浅野長政蟄居に対する疑問をチョット掘り下げて・・・>

  通説のように、北政所が家康と蜜月状態であり、淀殿憎さから家康と連携を保っていたとしたら、北政所の親族にあたる浅野長政を、何故に「家康暗殺の密謀荷担」のえん罪を着せてまで、大板城から追放し、武蔵の府中に蟄居させたのであろうか?

  浅野長政は石田三成と同じ五奉行の一人であり、かつ、北政所の親族でもある。

  しかも、わずか半年の差で同じ立場に追いやられたのである。すなわち、石田三成と浅野長政は同じ経緯を辿って、大坂城という権力の中枢から遠ざけられている。石田三成のことは、いわゆる「七将の襲撃事件」という経過を経て、その嫡男・隼人正重家を実質は人質として差し出させ、佐和山城引退に追い込んでいる。

  一方、浅野長政のことは、その半年後の九月に、「家康暗殺密謀荷担」の冤罪によって三男・長重を人質として江戸に送らせ、長政自身を武蔵府中に蟄居させている。また、もう一つの疑問は、五奉行のうち何故に長政と三成だけがその地位を追われ、ほかの三奉行には手を触れなかったのであろうか?しかも、増田長盛、長束正家の場合は、そのまま奉行としての大坂在城を許容している。

  北政所が孝蔵主に命じて、豊臣恩顧の大名に家康への荷担を命じ、小早川秀秋に関ケ原合戦の土壇場での裏切りを命ずるほど、北政所と家康が親密な関係であるなら、何故に、浅野長政を三成と同じ様に、大坂城から追放しなければならないのであろうか?

  後年、『浅野家記』『慶長見聞録』では、『家康暗殺の密謀』をでっち上げたのは三成であり、その指示によって増田長盛と長束正家が家康に密告したとしている。しかし、その結果、三成は何ら得るものがないはずである。また、佐和山城に引退した三成に、そのような策謀が出来るわけもなく、増田長盛もその後の去就から見ても、そのような謀議に荷担する可能性はない。

  しかし、先入観を捨てれば、極めて明快な結論が出ると思う。すなわち、当時、北政所も大坂城におり、浅野長政も大坂城にいた。当然、そのままその状態を続けることが、家康にとって好ましくなかったからである。また、当時の浅野家にしても、そのままの状態を継続することは、北政所の縄縛から逃れられないことになり、「勝馬・家康に乗ろう」と考えていた浅野幸長にとっても、決して好ましいことではない。家康と浅野家の事前了解があったとは断定できないまでも、少なくとも、北政所周辺に浅野長政を存在させることは、家康にとって不都合だったと考えれば、どうだろうか・・・。

   そして、武蔵府中に蟄居した浅野長政は、その後の関ケ原合戦には、東軍として秀忠に随伴して中山道を上り、浅野幸長は関ケ原の本戦で家康配下として活躍している。関ケ原戦後、浅野長政は江戸城において、家康の御伽衆的存在に徹し、囲碁や茶会に同席した老後を送り、慶長十六年 (1611)、世を去っている。

   浅野幸長は関ケ原の戦後処理の論功行賞で、紀州和歌山城主・三十七万六千五百石に配されたが、大坂の陣に先立つ慶長十八年八月二十五日、僅か三十八歳の若さで世を去っている。浅野幸長は無子のため、弟が浅野家を継ぎ、元和二年(1616)、家康の三女・振姫を妻に迎えている。また、大坂の両陣では家康配下として活躍し、そのとき、紀州伊都郡に潜んでいた真田幸村の妻女を捕え、家康の面前に引さ出したとされている。その時、真田幸村の妻が持参していた黄金五十枚(五百両)と、来国俊の脇差しを召し上げ、浅野但馬守に下賜したとある(『駿府政治録』、『玉露叢』)。

  元和五年(一六一九) 六月には、福島正則改易に伴い、芸備四十二万六千五百石、広島城主となって幕末まで家名の存続が諮られている。

               隼 人


063/069 GAH00561 SHUN RE^11:浅野家のその後の処遇

( 6) 97/07/26 01:10 055へのコメント

隼人 さん、どうも!

>  なら、何故に、浅野長政を三成と同じ様に、大坂城から追放しなければならない

>  のであろうか?

>

>  しかし、先入観を捨てれば、極めて明快な結論が出ると思う。すなわち、当時、

>  北政所も大坂城におり、浅野長政も大坂城にいた。当然、そのままその状態を

>  続けることが、家康にとって好ましくなかったからである。

この辺の隼人さんの見方は、興味深いですね。

私たちは、後世の徳川家と浅野家の親密な関係を知っていますから、何となく、浅野は最初から家康シンパと思いこみがちですが、実際に時系列的に歴史の流れを見ていけば、浅野が家康与党になるまでには、それなりの葛藤や方針の揺らぎがあったことは、想像に難くありませんね。

逆に、北政所と家康の親密な関係というのは、後世、徳川与党になった浅野家の子孫によって創られた、と想定することもできるかも知れませんね。




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