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戦国史ニュース速報




このページは、戦国史関係の最近のニュース・イベントなどを拾ってきたものです。特に石田三成関係に限定したものではありませんが、ご参考になれば幸いです。



05/24 細川幽斎ろう城の絵図見つかる 熊本

 熊本の細川家の初代当主、細川幽斎が、関ヶ原の合戦の直前、西軍に囲まれて城にこもった様子を詳しく描いた絵図が見つかりました。
 細川幽斎は、関ヶ原の合戦の直前、石田三成に従った西軍の軍勢に取り囲まれ、現在の京都府舞鶴市にあった居城の田辺城におよそ二か月間ろう城しました。
 この時の様子を描いた田辺籠城(ロウジョウ)の絵図は、これまでに五つの写しが見つかっていますが、原図は見つかっていません。
 熊本市の市史編纂室によりますと、今回、八代市の民家から見つかった絵図は、縦・横ともおよそ一メートル二十センチで、これまでのものと比べてろう城の攻防の様子が詳しく記されているのが特徴です。
 絵図には「宮村出雲記す」という意味の記述があり、日本近世史が専門の熊本大学文学部の吉村豊雄教授は、ろう城に参加した宮村出雲が描いた絵図の原図かその写しではないかと推測しています。
 吉村教授は「関ヶ原の合戦の前哨戦というべき戦いでありながら、これまで研究が進んでいなかった田辺ろう城戦の様子が詳しくわかる貴重な資料だ」と話しています。

03/18 名護屋城跡で外堀の中になぞの区画 佐賀

 国の特別史跡に指定されている佐賀県鎮西町の名護屋城跡で、外堀の中に石垣で囲んだとみられる区画があるのが見つかり、佐賀県立名護屋城博物館では全国的に例がないとして本格的に調査することになりました。
 この区画が見つかったのは、名護屋城跡の北にある「鯱鉾池(シャチホコイケ)」と呼ばれる外堀です。
 去年から堀の底を発掘する調査を進めた結果、直径七十センチから、八十センチほどの石が、堀の中に向かって長さ十二メートルにわたって積まれていることがわかりました。
 石垣の内側には自然の地形を削ったり、玉砂利を敷いて整地した跡があるのも確認され、堀の中に石垣で囲んだ区域があったものとみられています。
 この区画は、かつての名護屋城の姿を伝えているとされる「肥前名護屋城図屏風」に描かれている船の発着場所や浮き島の可能性も考えられています。
 しかし、佐賀県立名護屋城博物館は「堀の中に区画を造っている例は全国的にもなく、目的や使われ方は見当もつかない」と首をひねっていて、このなぞの区画を本格的に調査することにしています。

01/29 「醍醐の花見」再現した障壁画が完成

 京都市伏見区、醍醐寺三宝院で、豊臣秀吉の「醍醐の花見」や四季の彩りを金粉などで華麗に表現した障壁画百二十面が完成、二十九日から一般に公開された。
 秀吉は、応仁の乱で荒廃した三宝院の庭園を復興させ、一五九八年(慶長三)春、妻の北政所ら約千三百人で盛大な花見を催した。障壁画の制作は、昨年の秀吉没後四百年記念に日本画家浜田泰介さん(66)(大津市)が取り組んでいた。
 秀吉の「花見御殿」を移築したと伝えられる純浄観(重文)には、春夏秋冬を表した五十三面を配置。春の間では、桃山時代をほうふつとさせる金や薄桃の華やかな色の枝垂れ桜が風に舞い、花吹雪の中にいるよう。秋の間は、燃えるような紅葉を金銀粉で表現。夏は、ふすまを開けて庭園(特別名勝・特別史跡)をめでる趣向で、部屋にいながら四季が楽しめる。


01/27 来年の大河ドラマ「葵〜徳川三代」出演者発表

初めて全編がハイビジョンで制作される来年の大河ドラマ、「葵(アオイ)〜徳川三代」の出演者がきょう発表されました。
 来年の大河ドラマ「葵〜徳川三代」は、ジェームス三木さんの脚本で、ちょうど四百年前の西暦千六百年に起きた関ヶ原の合戦から徳川家康、秀忠それに家光の三代の将軍の時代を描くもので、大河ドラマでは初めて全編がハイビジョンでの制作になります。
 きょうは東京渋谷のNHK放送センターで、主な出演者が発表され、徳川家康役の津川雅彦さんや二代将軍秀忠役の西田敏行さん、それに石田三成役の江守徹さんや、秀忠の妻のお江役の岩下志麻さんらが顔をそろえました。
 このうち津川雅彦さんは「大河ドラマの主役を務めるのは役者にとって一つの目標で、私にとって記念すべき作品になると考えています。脚本、演出それに共演者と尊敬する仲間に恵まれて、青年のように目を輝かせて存分に演じてみたい」と意気込みを話していました。
 大河ドラマ「葵〜徳川三代」は、来年の一月から一年間にわたって放送されます。


01/03 武田氏の館跡に大規模な土塁

 武田三代の本拠地として知られる甲府市古府中町の国史跡「武田氏館(やかた)跡」(別名「躑躅(つつじ)ヶ崎館」)で、武田信玄と、その父・信虎の時代に造られたとみられる大規模な防御用の土塁の跡が見つかった。館はこれまで、政務の拠点で敵襲への備えは手薄と見られていただけに、注目を集めそうだ。
 館は、信虎が一五一九年に着工。信玄の後継者の勝頼が新府城(山梨県韮崎市)に移転するまでの約六十年間にわたり一族の拠点だった。約二キロ北には有事用の山城もあり、館自体は、江戸時代の軍学書「甲陽軍鑑」でも「堀一重の屋敷構」と記されるなど、簡素な構造と伝えられてきた。
 甲府市教委によると、新たに土塁が確認されたのは、館の南側。これまでの調査で、現存する土塁のすぐ下層に桃山時代の築造と見られる土塁の存在がわかっていたが、さらにその下から見つかった。
 土塁の高さは、信虎期が約二メートルで、信玄期に約六メートルにかさ上げされた。
長さは、信玄期で十メートルだった。また、土塁の外側で、土塁に合わせて整備されたとみられる幅約七メートルの堀の跡も新たに見つかった。
 甲府市教委は「信虎から信玄の時代にかけて、段階的に館の防御能力を強化したと見られ、戦国大名の居館としては相当堅ろうなものだと改めてわかった」としている。
「人は城、人は石垣……」と人心掌握に心を砕く一方で、信玄らは、ハード面の防御もおろそかにはしていなかったようだ。


09/19 丸亀城の石垣 新たに東側を修復へ 香川

 国の史跡になっている丸亀城の石垣の修復に取り組んでいる香川県丸亀市は、今年度から四年間かけて新たに城の東側の石垣を修復することになりました。
 丸亀城は、およそ四百年前に当時の讃岐領主生駒親正によって築かれたのが始まりとされ、昭和二十八年に国の史跡に指定されました。 
この丸亀城の石垣は、扇のこう配と呼ばれる石組みの曲線の美しさで知られていますが、石垣の内側の土の圧力などによって一部が外側にふくらんだり石が割れたりして傷みが目立つようになりました。
 このため丸亀市は昭和五十一年度から石垣の修復を進めています。
 今回新たに修復されるのは三の丸の東側の石垣で、計画では今年度から四年間をかけ、上の部分の長さが五十八メートル、高さが十六メートルから十七メートルの石垣をいったん撤去して組み直すほか、割れている石を新しいものに取り替えることになっています。
 丸亀城の石垣の修復は今回が八か所目です。
 丸亀市では今後、さらに三の丸の西側の石垣や本丸の東西の石垣など、五か所で修復を行う計画で、事業がすべて終わるのは平成二十年ごろになる見通しです。


09/04 城跡から16世紀後半の金ぱくがわら出土 長崎

 長崎県の北有馬町で城跡から十六世紀後半の金ぱくのかわらが出土し、当時、全国統一を果たしていた豊臣秀吉との関係を示す貴重な資料として注目を集めています。
 金ぱくのかわらが出土したのは、長崎県の島原半島にある北有馬町の国指定の史跡日野江城跡です。
 かわらは鬼がわらの上に置かれる鳥伏間(トリブスマ)と呼ばれる部分の直径十一センチの円いかわらで、巴文(トモエモン)、珠文(シュモン)と呼ばれる凹凸のある模様が施されていて、この部分の全面に金ぱくがはられています。
 北有馬町教育委員会によりますと、金ぱくのかわらは、これまで全国で三十例余り出土していて、九州では、今回が佐賀県の名護屋城などについで四例目となるということですが、完全な形で出土するのは珍しく、また凹凸のある面の全面に金ぱくがはられているのはこれが初めてだということです。
 金ぱくのかわらは、豊臣秀吉が全国を統一した時代に、重要な位置を占める城に用いられており、当時の城主のキリシタン大名有馬晴信氏とキリシタンを迫害した豊臣秀吉との関係の今後の研究が注目されます。


08/06 方広寺“幻の大仏”の鋳型が出土

 豊臣秀吉の嫡男・秀頼(一五九三〜一六一五)が方広寺(京都市東山区)に建立した金銅大仏の鋳造(ちゅうぞう)用の鋳型(いがた)の一部が、同市埋蔵文化財研究所の六日までの発掘調査で、京都国立博物館敷地内の同寺旧境内から出土した。この大仏は豊臣家滅亡後、徳川幕府によって鋳つぶされ、その実態は知られていないだけに、“幻の大仏”の往時の姿をしのぶ貴重な資料だ。
 鋳型が出土したのは、方広寺の石垣(国史跡)につながる新たに発見された石垣の南側の江戸時代末の地層。
 鋳型は小さな破片を含めると数十点にのぼり、うち一つは縦十五センチ、横二十五センチ、厚さ十センチ。内側が湾曲し、真土(まね)と呼ばれるきめの細かい粘土が張りつけられていた。大型の鋳型のうえ、豊臣家滅亡の引き金になった「国家安康、君臣豊楽」の銘文で知られる同寺の梵鐘(ぼんしょう)(重文)とは曲面が異なることから、金銅大仏の鋳型と判断される。
 方広寺は一五八六年、秀吉が高さ十九メートルの木造の大仏、盧遮那仏(るしゃなぶつ)を安置して創建。その後、地震で倒壊したため、徳川家康の勧めで秀頼が一五九九年に、ほぼ同じ大きさの金銅大仏を造って再建した。しかし、一六六二年にまたも大地震で被害を受け、徳川幕府は壊れた大仏を溶かして寛永通宝を鋳造したと伝えられる。
 久保智康・同博物館主任研究官の話「鋳型の曲面の角度が途中から急になっており、大仏の鋳型と考えられる。出土破片は全体の百分の一にも満たないと思われ、大仏の巨大さがうかがえる」


06/24 刀鍛冶の系図に刀の特徴・値段 江戸初期古文書見つかる

 刀を作る鍛冶(カジ)職人「刀鍛冶」の系図の中に刀の特徴や値段が記されている江戸時代初期の珍しい古文書が津市の三重大学で見つかり、全国の刀鍛冶の分布や技術交流の様子を示す史料として注目されています。
 この古文書は三重大学教育学部の日本史研究室に残されていた資料の中から見つかったもので、幅二十七センチ、長さ十三メートルほどの巻物に刀を作る鍛冶職人合わせて五百七十一人の名前が書き込まれています。
 系図は刀剣を好んだとされる後鳥羽上皇が各地の刀鍛冶に上洛を命じたという記述から始まっていて、中世の刀鍛冶の師弟関係やそれぞれの刀鍛冶が作った刀の特徴が日本各地の国ごとに詳しく記されています。
 また、刀鍛冶の名前の横には数字が書き込まれていて、この数字は刀を売り買いする商人が記した刀の相場と考えられています。
 この古文書は徳川家康が江戸幕府を開いた年に当たる「慶長八年」に作られたもので、江戸時代に書かれた刀鍛冶の系図のなかでは最も古い時期のものとみられています。
 これについて、この古文書を発見した三重大学教育学部の藤田達生助教授は「これまでに見つかっている刀鍛冶の系図に比べて情報量が非常に多く、流派を超えた技術の交流があったことなどがわかる。今後、この史料を基に中世の刀鍛冶の実態を調べていきたい」と話しています。


06/19 <キリシタン>集団墓地発見−−大阪府高槻市の高槻城址

 安土桃山時代のキリシタン大名、高山右近が城主だった大阪府高槻市の高槻城跡地から、木棺25基と11人分の人骨が見つかった。19日発表した高槻市立埋蔵文化財調査センターは、一部の木棺のふたに十字架の墨書があることから、キリシタンの集団墓地とみている。豊臣秀吉のキリスト教禁教令(1587年)以前のキリシタン墓地としては全国初の確認例とみられ、埋葬方法などを知るうえで貴重な資料という。
 同センターが高槻城三の丸跡地に計画中のマンション建設現場を発掘調査。木棺は地下約2メートルに、南北方向に埋まっていた。木棺はマツ材製で、全長約1・6〜2メートルの大型棺が9基、1メートル前後の小型棺が16基。最大級の棺のふたには、「干(ほし)十字」と呼ばれる十字架の墨書(縦10センチ、幅8センチ)がはっきり残っていた。
 木棺の人骨を鑑定した京都大学霊長類研究所によると、すべて日本人とみられ、男性は3体、女性は2体、残りは性別不明。10代の子どもと幼児とみられる遺体が1体ずつあった。副葬品はなかった。
 同センターは、発見された地層や、高山右近が1585年に領地を明石に移された後に、高槻にキリシタン墓地ができたとは考えにくいことから、禁教令以前の墓とみている。
 当時高槻付近に滞在していたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの布教記録「日本史」に「ある時の戦争で60人の死者を出した」との記述があることから、同センターは、右近が和田惟長(これなが)を討って高槻城主になった戦争(1573年)に絡む墓地の可能性もあるとみている。
 同センターの森田克行副所長は「当時高槻一帯の人口2万5000人の約7割がキリシタンという記録があり、右近が建てた天主教会堂跡がすぐ近くにある。かなり大規模なキリシタン墓地だったのではないか」と話している。
 下川達彌・長崎県立美術博物館次長(考古学)の話 長崎県内だけでも数百のキリシタン墓地跡があるが、墓標が残る程度。埋葬の様子が分かるのは全国でも例がなく、文献でしか分からなかったキリシタン文化の解明にとって貴重な発見だ。
 高山右近 1552〜1615年。安土桃山時代の代表的なキリシタン大名。一向宗対策に頭を悩ませた織田信長のキリシタン保護政策のなかで高槻城主になったが、豊臣秀吉の禁教令以後、勢力は衰え、江戸時代初期には国外に追放され、フィリピン・マニラで死亡した。


03/27 <蓮如展>「蓮如と本願寺」展 「蓮如」を知ってますか?

 「蓮如さん」を知っていますか?
 もちろん、あなたが宗教に興味はなくとも蓮如の名前ぐらいは聞いたことがあるはず。でも、「その先」となると、どうですか?
 京都国立博物館で特別展「蓮如と本願寺――その歴史と美術」が始まっています。今年は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)と真宗大谷派(本山・東本願寺)が共に「中興の祖」と仰ぐ蓮如の没後500年。この特別展はそれを機会に東・西両本願寺が蓮如の生涯にスポットを当て、秘蔵の品々を厳選して初めて共同開催するものです。宗祖・親鸞ゆかりの展示品もたくさん並んでいます。
 で、「蓮如さん」です。多くの人が親しみを込めてこう呼ぶ人とその生きた時代を中学生の息子と父親の「親子問答」ふうに紹介しましょう。
 子 蓮如って、社会科の授業で一向一揆のことを習ったときに聞いたような気がするなあ。
 父 そうね。たぶん、そんなところだろう。たしかに蓮如は一向一揆と無縁じゃない。でも、たとえば五木寛之さんの「蓮如――聖俗具有の人間像」(岩波新書)を読めばよく分かるけど、この人をそれだけで考えたら、とんでもないみたいだ。
 子 いつの時代の人?
 父 1415(応永22)年に生まれて1499(明応7)年に亡くなった。数えで85歳。当時としては大変な長生きだね。時代でいえば、室町時代。君も親鸞のことは蓮如より知っているだろ。浄土真宗の開祖だよね。蓮如は親鸞から数えて8代目の本願寺の法主ということになるけど、本願寺が大発展していまのような大教団になる基礎は、この人が作った。それまでの本願寺は実のところ大変に衰退していた。
 子 応仁の乱って、そのころじゃなかったけ?
 父 応仁の乱は蓮如が53歳の年に起きている。戦国乱世の始まりといわれる応仁の乱だけど、蓮如はまさしく乱世に生きた宗教家だね。戦国乱世なんていうと、武将が戦争ばかりしていた時代のように思うかもしれないけれど、日本史で初めて民衆のエネギーが噴出した時代なんだ。土一揆って習わなかった?
 子 ドイッキ?
 父 土(つち)一揆ともいうね。一揆というのは、もともと何かのために連帯する集団のことだけど、土一揆はその民衆版さ。しかも飢えた民衆たちはこの時代たびたび、武器を手に支配者に対して借金を棒引きしてくれとか年貢を勘弁してくれとかを求めるようになった。ときには支配者を追い出してしまったケースもある。一向一揆もこの土一揆の一つといえる。荘園制度が崩れて民衆の団結力が強まったことがあるけど、それだけ民衆の生活が追い込まれていたってことでもあるよね。蓮如が47歳のときの寛正の大飢饉では2カ月間に京都だけでも8万2千人が餓死したっていう記録もあるそうだ。
 子 蓮如はそういう民衆に親鸞の教えを広めたってわけね。
 父 蓮如は若いときにすごく勉強したらしい。親鸞の書いた「教行信証」などは表紙が破れるほど読んでいる。悲惨な民衆を前にしてこの人たちを救うのは親鸞の教えしかないと考えたんだろうね。でも、そんなふうにいうと簡単だけど、蓮如の実際の生涯は波乱万丈だった。京都から近江、越前の吉崎、さらに山科と活動の拠点も何度も変わっているし。
 子 でも、本願寺を大発展させたんでしょ。蓮如にはやっぱり特別の才能があったのかな。
 父 親鸞は何よりも「思想家」だけど、蓮如は「組織者」といえるみたい。これは五木さんの受け売りだけど、蓮如はさまざまな苦難に直面しながら孤独に生きていた農民たちを念仏の思想によって一つの宗教共同体に結びつけることを目指したというだね。同朋意識がその核心だった。阿弥陀様の前ではだれもが平等だってことかな。
 子 ちょっとむずかし過ぎるよ。
 父 ウーン。「組織者」ということでは、蓮如は「御文(おふみ)」とか「御文章(ごんしょう)」といわれるものをたくさん書いて布教の手段にした。簡単にいえば、手紙だね。親鸞の教えをやさしい言葉にして多くの人に向けて書いた。200通以上が伝えられているそうだ。今みたいにメディアが発達していた時代ではないから、これは有力な伝道方法だった。筆写され広く回し読みされたし、字が読めない人々には読み聞かせたわけだ。いま京都国立博物館で開かれている展覧会には、この「御文」もいくつか展示されているようだね。

 西暦   年号  
1415 応永22 2月25日、京都・東山大谷で誕生
  20   27 生母、大谷を去る
  28 正長 1 全国的な飢きん。正長の土一揆起きる
  31 永享 1 青蓮院で得度
  57 長禄 1 本願寺第8代の法主となる
  61 寛正 2 最初の「お文」を書く
  65    6 延暦寺の衆徒、本願寺を破壊。近江に逃れる 
  67 応仁 1 応仁の乱起きる
  71 文明 3 越前・吉崎に吉崎道場を設立
  74    6 加賀で一向一揆。吉崎の坊舎焼ける
  75    7 吉崎を去り、河内・出口に草坊を建てる
  80   12 京都・山科で本願寺御影堂の造営始まる
  83   15 山科本願寺ほぼ完成
  85   17 山城の国一揆(連年、各地で土一揆が続く)
  89 延徳 1 山科の南伝に隠居
  96 明応 5 大坂御坊建設始まる
  99    8 3月25日、山科本願寺で死去

 東・西本願寺による今回のような大規模の共同企画は約400年前の江戸初期に両者が分派して以来初めてという。「歴史的な共同事業」だけに展示品は逸品ぞろい。国宝6件、重要文化財22件を含む約110件が次の五つのテーマと特別コーナーに分けて展示されている。
 ◆真宗の開顕
 宗祖・親鸞聖人の遺品を中心にした展示。若き親鸞の研さんぶりがしのばれる「観無量寿経註」や「安城御影」として知られる「親鸞聖人像」はともに国宝。ほかに親鸞の自筆書状、親鸞の生涯をたどった「絵伝」など。
 ◆本願寺の成立
 親鸞から蓮如までの歴代資料。歴代の本願寺法主の肖像画、蓮如の父親で本願寺7代目法主だった存如の書状などもある。
 ◆蓮如と教団形成
 蓮如の若き日からその生涯をたどる展示。「鹿子の御影」の名で知られる「蓮如六歳像」は、もともと蓮如を置いて寺を出ざるを得なかった生母が描かせたという逸話がある。これは江戸時代の作品。ほかに蓮如の若き日の勉強ぶりを示す蓮如筆「正信偈註」や「御文(御文章)」など。
 ◆大坂から京都へ
 蓮如の死後、本願寺教団は大坂の石山本願寺の拠って織田信長と10年に及ぶ石山戦争を戦った。ここでは、朝廷から石山本願寺に寄進された品々や石山戦争を指導した顕如の門徒あて書状などを展示。
 ◆本願寺のしつらえ
 両本願寺の諸殿を飾った障壁画を中心に展示。西本願寺飛雲閣の雪柳図鴬、雪中柳鷺図、東本願寺桜下亭の鴬など。
 ◆特別コーナー
 番外として名品を中央室に展示。親鸞自身が「鏡に映したようだ」といったとされることから「鏡御影」と呼ばれる「親鸞聖人像」は国宝。ほかに国宝「三十六家集」など。
 【会期】5月5日(火曜、祝日)まで。入館は午前9時〜午後4時(ただし、4月以降の金曜日は午前9時〜午後7時半)。4月20日と5月4日を除く毎月曜日は休館。
 【会場】京都国立博物館(京都市東山区茶屋町)
 【観覧料】大人1300円(950円)、大学・高校生900円(510円)、中学・小学生400円(230円)=カッコ内は20人以上の団体料金。


02/04 赤穂城跡で船着き場などの遺構 兵庫

 国の史跡に指定されている兵庫県の赤穂城跡で物資の搬入などに使われた船着き場と波を防ぐ波止場の遺構がそろって見つかり、四十七士ゆかりの城の全容を解明するうえで注目されています。
 遺構が見つかったのは赤穂城跡にある二の丸水手門跡のすぐ東側です。
 赤穂市教育委員会では、城跡の整備・復元事業に伴って去年の十二月から発掘調査をしていたところ、船着き場と波止場の遺構がそろって見つかりました。
 このうち船着場の遺構は、広さがおよそ十六平方メートルあり、一部に階段とみられる三段の石組みが残っていました。
 また、波止場の遺構は長さおよそ十八メートル幅およそ五メートルの規模で、打ち寄せる波を防ぐために大小さまざまな石が積み上げられていました。
 赤穂城は、江戸時代前期の寛文元年に完成した城で、築城当時は水手門のある南側が海に面していたということです。
 今回の調査について赤穂市教育委員会では「船着き場は物資の搬入のほか戦火の際の備えも考えて設けられたとみられる。赤穂城の全容を解明するうえで貴重な手がかりだ」と話しています。


01/05 熊本城全面復元へ

 「築城の名手」と言われた戦国武将・加藤清正が一六〇七年(慶長十二)に築造し、一八七七年(明治十)の西南戦争で焼失した熊本城(熊本市本丸、国特別史跡)の本丸御殿など十二の建造物について、熊本市が全面復元に乗り出すことを五日、明らかにした。
 一九六〇年に再建された天守閣などに続く一大復元プロジェクト。城郭内の本丸御殿や奉行丸、南北の大手櫓(やぐら)門、未申(ひつじさる)櫓、戌亥(いぬい)櫓などの主要建造物を復元させ、築城時の豪壮な姿をよみがえらせる。
 市は九九年度にも着工、「築城四百年」となる二〇〇七年の完成を目指す。総事業費は五十億円を見込んでいる。


12/16 <特報・古文書>大津寺散逸の秀吉書状など21点確認 重文

 大津市の名刹(めいさつ)・三井寺(園城寺)で、戦後間もない混乱期に散逸した史料のうち豊臣秀吉(1536〜98)や正親町(おおぎまち)天皇(1517〜93)の書状など安土桃山時代の古文書21点が、東京大学史料編纂(へんさん)所(東京都文京区)に所蔵されていることが分かった。専門家によると、いずれも重文級で、散逸史料がこれだけまとまって所在確認された例は極めて珍しいという。
 確認されたのは、正親町天皇の勅命文書5点など計6点を並べて巻物のように張り合わせたものと、秀吉や足利尊氏の弟直義が同寺にあてた書状など15点を同様にまとめたもの。
 秀吉の書状は、1575年8月の越前一向一揆に当たって大津浜に土蔵を造る際、同寺が大工や人夫を出したことへの礼状とみられる。同年のものだと、「羽柴筑前守」の署名がある最古の文書になるという。正親町天皇文書の1点は同年8月30日付で、「北国凶徒征罰」の成果を祈るよう寺に伝えている。
 三井寺関係者の話では、経済的に困難だった塔頭(たっちゅう)(寺に付属する子院)を援助する代わりに塔頭の倉庫を三井寺が借り受け、書状などを保管していたが、塔頭が1947年に別の宗教法人として独立した際、倉庫にあった重要文化財を含む寺宝約800点の所在が分からなくなった。三井寺は直後から追跡調査を続けたが、これまでに買い戻したり、所在確認ができたのは重文「木造獅子」や尊氏直筆「領地寄進状」など数点だけだった。
 今回、寺に伝わる古文書の読み下し本を出版するために組織された「園城寺文書編纂委員会」(委員長、松山宏・奈良大名誉教授)が調査する中で、東大関係者が明治時代、同寺で重要と認めた83点を書き写していたことが判明。うち21点については東大史料編纂所の目録に「原本アリ」との記述があったため、委員が出向いて現物を確認した。
 同編纂所によると、「原本」は1958年3月、東京都内の古書店から計5万3000円で購入したものという。
◎脇田修・大阪大名誉教授(日本史)の話
 
 「名門寺院の多くが昭和20年代後半から30年代にかけて財政がひっ迫し、未指定文化財が流出した。こうした文化財は死蔵されることが多く、表には出にくい。今回のケースは学術的な活用と保存の両面で幸運なケースといえる。発見された古文書は重文級だ。」


10/31 石見銀山遺跡から銀製錬の鉄なべ出土 島根

 島根県大田市の石見銀山遺跡から「灰吹(ハイフキ)」と呼ばれる技術で銀の製錬に使ったとみられる鉄なべが見つかり、石見銀山が日本の銀の製錬技術の発祥の地と伝えられてきたことを初めて証明する資料として注目されています。
 この鉄なべは島根県と大田市の調査で石見銀山遺跡の標高五百メートル余りの石銀(イシガネ)地区で見つかりました。
 直径およそ二十四センチ、深さ八センチほどの鉄なべで、地表から一・五メートル掘り下げたところで円形の石の上に置かれた状態で出土しました。
 また、鉄なべの内部にたい積していた灰状のものからは科学的な検査の結果、鉛が検出され、また横には鉄製の火ばしがあったことから、鉄なべが見つかった場所は銀を製錬するため「灰吹」を行った製錬の遺構ではないかとみられています。
 「灰吹法」は銀と鉛を灰の上で加熱し、鉛を灰に吸着させて銀の純度を高める技術で、古文書では十六世紀後半に朝鮮半島から日本で最初に石見銀山に伝わったとされています。
 鉄なべが見つかった同じ土の層からは十六世紀後半の中国の陶磁器の破片も多数見つかったことから、島根県教育委員会などでは、十六世紀後半に行われていた銀の製錬を実証するものとして注目しています。
 この調査を指導している奈良国立文化財研究所の松村恵司考古第二調査室長は「鉄なべや火ばしなど灰吹の技術を使った道具が使っていた状態のままで発見されたことは、日本の鉱山史のなかでは画期的なことだ。この発見で、石見銀山が日本の銀の製錬技術発祥の地と伝えられてきたことが証明された」と話しています。


10/18 東広島の鏡山城跡が国の史跡に

 東広島市にある中世の大規模な山城跡の鏡山城跡が国の史跡に指定されることになりました。これは国の文化財保護審議会が、きょう文部大臣に答申したものです。
 鏡山城跡は、東広島市に広がる西条盆地のほぼ中央に位置する高さ三百三十メートル余りの山の頂を切り開いて建てられた中世の山城の跡です。
 山城はおよそ三百メートル四方のほぼ正方形の敷地の中に郭と呼ばれる二つの建物が建てられ、周囲には堀切(ホリキリ)と呼ばれる敵を防ぐための堀が張りめぐらされていました。
 県内に残されている古文書などによりますと、南北朝時代から戦国時代にかけて鏡山城のあった西条盆地一帯は大内氏が支配し、十六世紀の前半に山陰の尼子氏の攻撃で落城するまで、この地方の支配の拠点になっていたということで、鏡山城跡は、堀切など当時の山城独特の構造や規模を知るうえで貴重な史跡とされました。
 広島県内の国の史跡は、これで二十一件目になります。


10/16 名護屋城跡から秀吉の茶室遺構出土

 豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点にした佐賀県鎮西町の名護屋城跡から、秀吉の草庵(そうあん)茶室の遺構が出土したと、県立名護屋城博物館が十六日発表した。文献などに茶室や茶会の記述があり、遺構によって初めて裏づけられた。茶の湯を愛した秀吉は他の居城にも茶室を設けたが、茶室跡が見つかったのは全国でも極めて珍しい。
 同博物館によると、草庵茶室は、大きな建物の一角に設けられる書院茶室と異なり、四畳半の小規模なもので、柱に竹を使い、屋根は草ぶき。遺構は、秀吉の住居があった「上山里丸(かみやまざとまる)内(本丸北側)で発見され、小さい建物跡を示す直径二十センチの柱穴が多数見つかった。長さ四・三五メートル、幅は最大二・三五メートル。床や縁も付いていたとみられる。
 南側に沿って幅五十センチの側溝が石垣の排水口につながっていた。くぎが見つかったことから、四角い筒状のといを土中に埋めた木樋(もくひ)だったとみられる。直径二メートルの石組みの井戸跡もあった。
 秀吉の住居からは、直径三十〜四十センチの丸みを帯びた飛び石二十八個が、延長二十メートルにわたり続いていた。
 遺構が見つかった場所は、城内の全体図を描いた「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(県重要文化財)に示された草ぶきの茶室の位置と一致した。さらに、名護屋城の茶室開き(一五九二年十一月十七日)に招かれた博多の商人だった神屋宗湛(そうたん)の日記に、茶室は四畳半の広さで、柱が竹だったことなどが詳細に書かれており、現場の規模とも合致している。
 同博物館は「千利休に代表される桃山時代の草庵茶室の遺構が見つかったのは全国で初めて。城郭史、建築史、茶道史の研究に及ぼす影響も大きい」としている。
 名護屋城跡 国の特別史跡。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(一五九二〜一五九八)の拠点。一五九一年(天正十九)に築城が始まり、翌年には完成したといわれる。総面積約十七万平方メートル。当時としては大阪城に次ぐ大きさで、桃山様式の城郭だった。秀吉の死後に廃城になり、天草の乱(一六三七年)に際して破壊された。


10/01 日光・東照宮を世界遺産に 市に推進班発足

 栃木県日光市にある二荒山神社、東照宮、それに輪王寺のいわゆる二社 一寺を世界遺産に登録してもらおうと、きょう日光市に世界遺産登録推進班が発足しました。
 日光市の二荒山神社、東照宮、それに輪王寺は二社一寺と呼ばれ、いず れも江戸時代初期の建築様式を今に伝える数少ない霊びょう建築として知られています。
 日光市では、これらの貴重な文化財を世界遺産に登録し、後世に残す必 要があるとして、きょう、世界遺産登録推進班を発足さたものです。
 推進班の開設式では、日光市の伊藤助役と本間教育長が事務室の入り口 に「世界遺産登録推進班」と書かれた看板を掲げました。
 そして、日光市や栃木県教育委員会の職員、それに二社一寺の関係者など推進班の十二人のメンバーに委嘱状が手渡されました。
 世界遺産は世界的な文化遺産や自然を積極的に保護しようと、ユネスコの世界遺産委員会が、世界遺産条約の加盟国の推薦を受けて登録するものです。
 日本では、姫路城や原爆ドームなど八つの世界遺産がすでに登録されています。
 推進班では、来年春までに国の史跡指定を実現させたあと、来年の六月には世界遺産委員会に推薦書を提出できるよう準備を進めていきたいとしています。
 日光市では、世界遺産への登録が実現すれば、文化財の保護だけでなく地域の活性化にもつながると期待しています。


09/10 安土城の要所に大邸宅  発掘基に秀吉邸の模型

 安土城の表門・大手門を入ってすぐの要所に構えた大邸宅。秀吉を織田信長がいかに信頼していたか―。国の特別史跡「安土城跡」(滋賀県安土町)の発掘調査を進めてきた滋賀県安土城郭調査研究所が、調査成果を基に、秀吉邸とみられる屋敷の四十分の一の復元模型を作製、十日公表した。
           
 同研究所は昨年から、大手門から天主に通じる大手道の入り口付近で、約四千八百平方メートルを発掘。築城約百年後の絵図に「羽柴秀吉」(後の豊臣秀吉)と記された区画で、武家屋敷の主要部分がほぼ判明した。
 主殿の両側には、家来が待機する式台などの座敷を備えた建物が接続し、総面積は約三百十平方メートル。模型ですら、横の長さが八十三センチにもなる。
 正門はやや小型だが、隅櫓(すみやぐら)が防備を固める。馬が六頭も入る厩(うまや)の区画には別に、二階造りのひと際大きな櫓門がそびえている。
 安土城は一五七九年、信長が天下統一の拠点として築城。秀吉は既に、家臣団で五指に入る地位だったという。
 同研究所の藤村泉所長は「一家臣が住むだけでなく、安土城全体の防備が可能な絶好の位置にあり、遺跡からイメージするより立派な屋敷になった」と話している。
 模型は、県立安土城考古博物館で今月二十日から一般展示される。無料。


08/26 甲府城の遺跡保存を市長に要望 山梨県考古学協会

 甲府市のJR甲府駅の北側の甲府城の跡地からおよそ四百年前の築城期の石垣などが見つかったことを受けて、きょう山梨県考古学協会などが山本栄彦(タカヒコ)甲府市長に対し、発見された遺跡の保存と整備を図っていくよう要望しました。
 要望したのは、山梨県考古学協会と山梨郷土研究会、それに武田氏研究会の三つの団体です。
 きょうは三つの団体の代表者十二人が午後、甲府市役所を訪れ、山本市長に甲府駅周辺の市の整備事業を見直したうえで遺跡の保存と整備を行っていくこと、県の史跡として追加指定するように県に働きかけること、さらに甲府城一帯への今後の調査研究と保存の計画を県と共同で策定することを求めました。
 これに対して山本市長は「甲府城は全国に誇りうる歴史的文化遺産で、これを保存・活用していくことは市にとって重要な課題です。しかし、一帯の土地は現在市の土地ではなく国鉄清算事業団の土地であり、今後どのように対応するかは国や県の関係機関と十分協議をしていきたい」と答えました。
 JR甲府駅の北側の甲府城の跡地では、六月下旬におよそ四百年前の築城時期の石垣や堀跡などが発見され、甲府城を建設した勢力や建設の目的などを探る貴重な手がかりだとされています。
 要望書を提出した山梨県考古学協会などは、来月県に対しても甲府城の保存と整備を求める要望を行うことにしています。


08/22 石見銀山発見伝説刻む「げた」出土

 江戸時代初め、世界の銀産出の三割を占めたとされる島根県大田市の国史跡・石見銀山遺跡から、「博多の豪商が、日本海の船から山が光るのを見て銀山を見つけた」という発見伝説の様子を彫ったとみられる戦国時代末のげたが出土した。フランシスコ・ザビエルが日本を「銀の諸島」と呼び、世界経済に影響を与えながら、未解明な部分が多かった銀山の歴史を示す貴重な資料になりそうだ。
 県教委などが今月上旬、銀山のあった仙の山(五三七メートル)山頂東側に残る坑道入り口付近の地下一・五メートルから木片を発掘。げたの後ろの一部で、長さ、幅各約五センチ、厚さ一センチ。約五センチの歯があった。表面中央に、海に浮かんだ帆船、奥に仙の山周辺の特徴を示す二つの山が線刻されていた。全長は約二十センチと推定され、同時に見つかった唐津焼などから十六世紀末の物と判明した。
 江戸中期の一八一六年(文化十三)、銀山代官所役人が書いた「銀山旧記」では、大永年間(一五二一〜二八年)、博多の豪商・神谷寿禎が沖合を航行中、南の山が光るのを見て発見。採掘して持ち帰ってから、「諸国より人多く集まりて、花の都の如くなり」と記述されている。
 県教委は、大きさから女性か子供のものと推定。寿禎の霊をまつり、信仰やまじないの意味があったと見ている。
 同銀山は、戦国大名の毛利、尼子氏らが争奪戦を繰り広げ、江戸幕府でも財源として直轄領(天領)に。最盛期の十七世紀前半の年間採掘量は三十八トン。海外にも大量に運ばれ、ポルトガルの海図にも「銀山王国」として載っていた。
 田中義昭・島根大教授(考古学)の話「繁栄の始まりを忘れぬよう、記念や感謝の気持ちで刻んだのだろう。銀山町のシンボルマークだった可能性もある」


08/12 室町時代の城館跡から工房 岐阜・神岡町

 岐阜県神岡町の国の史跡に指定されている江馬氏城館跡(エマシシロヤカタアト)の発掘調査で、室町時代の城館跡としては全国的にも極めて珍しい職人たちの仕事場や工房などの建物跡が確認されました。
 岐阜県神岡町の教育委員会では、ことしの五月から神岡町殿町の国の史跡江馬氏城館跡のうち、南西部分のおよそ千二百平方メートルを発掘調査しました。
 その結果、建物を支えたとみられるおよそ六百五十の柱の穴が確認されこの柱の穴を組み合わせたところ、五棟の掘立柱(ホッタテバシラ)の建物があったことがわかり、去年の調査で確認された職人たちの住居に続く仕事場や工房であったことが確認されました。
 江馬氏は十四世紀後半の南北朝時代から十六世紀後半の戦国時代にかけて飛騨地方の北部を中心に支配した豪族で、江馬氏城館跡は十五世紀前半の室町時代の館跡で、昭和五十四年に国の史跡に指定されています。
 中世の歴史に詳しい神奈川大学の網野善彦特任教授は「室町時代の館跡から職人集団の住居や仕事場の跡が確認されたのは全国的にも極めて珍しい。飛騨地方の北部が当時、経済的にも文化的にも極めて進んだ地域だったことがわかる」と話しています。


07/20 初の歴史認定試験、4600人が受験

 日本史や世界史の知識を公認する初めての「歴史認定試験」が二十日、東京都や大阪府など全国十三都市の二十三会場で行われ、十二歳から九十七歳までの約四千六百人が受験した。
 試験は生涯学習の普及を進める財団法人「社会教育協会」(東京・千代田区)が主催した。
 日本史と世界史の二科目があり、江上波夫・東京大名誉教授や児玉幸多・学習院大名誉教授ら、歴史教科書の執筆者が出題を担当。三千六十四人が日本史、千五百三十二人が世界史の博識ぶりを競った。
 教科書の内容だけでなく、最近のニュースに登場する身近な話題も取り上げて歴史の魅力をアピールしようとの狙い通り、「太平洋戦争中に香港をどの国が統治していたか」、「日本と韓国の間で領有権が問題になっている地図上の島の名を答えよ」といった問題も出された。
 東京都新宿区下落合の会場で受験した会社員、辻村都さん(26)(調布市小島町)は「将来は歴史関係の本の出版社に勤めたい。試験結果が実力の裏付けとなると考えて受験した。難しさはセンター試験と同じくらいのレベルでは」と話していた。
 同協会では二回目の試験を来年二月一日に行う予定で、「大河ドラマなどによる歴史ブームの影響か、受験者は見込みの二倍以上。今後は、中学生や高齢者を対象とした比較的易しい基本コースも検討したい」と話していた。


07/09 室町時代の橋の遺構見つかる 百間川・米田遺跡 岡山

 岡山市の河川の改修工事に伴う遺跡の発掘調査で、長さが四十メートルにもおよぶ室町時代の橋の遺構が見つかって、橋脚の基礎部分の構造も明らかになり、土木工学の観点からも注目を集めています。
 橋の遺構が見つかったのは岡山市の百間川・米田遺跡で、岡山県古代吉備文化財センターが川の改修工事に合わせて発掘調査をしていました。
 見つかったのは直径三十センチほどの松を使った二本で、一対の橋脚七対から八対分で、復元すれば橋の規模は長さが四十メートル前後で、幅はおよそ二メートル三十センチと推定されています。
 特に注目されるのはこの橋の基礎部分で、橋脚を囲む形で上流と下流部分に木枠を作って、その中に「捨て石」と呼ばれる大量の石を詰め込んで水流で橋脚が壊れないよう保護しています。
 そしてさらに、この捨て石が川の底に沈み込んでいかないように石の下に木の枝を敷き詰めるなどなど、手の込んだ作りになっています。
 この橋は、一緒に出土した古銭などから室町時代のものとみられています。
 古代吉備文化財センターによりますと、全長が四十メートルにも及ぶ長大な橋のほぼ全体が明らかになったのは全国的にも極めて珍しく、また、橋の基礎部分の構造が発掘調査で明らかになったのは、滋賀県の唐橋遺跡に次いで全国で二つ目だということで、土木工学の観点からも貴重な資料として注目されています。


06/30 安土城天主閣、本格的な調査へ 滋賀県教委

 織田信長が建てた滋賀県安土町の安土城跡の天主閣周辺が今年度、本格的に調査されることになり、けんらん豪華だったとされる天主閣を明らかにする手がかりが得られるものと期待がかけられています。
 滋賀県教育委員会では、国の特別史跡に指定されている安土城跡の発掘整備事業を平成元年度から行っており、これまでに大手道(オオテミチ)の発掘や秀吉邸跡の整備などが進んでいます。
 そして、今年度は安土城の最も高い所にある天主閣周辺の本格的な調査が行われることになり、天主閣北側のおよそ五千平方メートルと、天主閣の東側で城の裏側にある搦手道(カラメテミチ)周辺のおよそ八千八百平方メートルが調査されます。
 織田信長が建てた当時の天守閣は、最上部が八角形をした七階建で、朱塗りの柱に金ぱくのかわらが施されていたとされています。
 そして、安土城が炎上した際、天主閣は北に向かって倒れたと伝えられていることから、今回の調査では石垣の上に積もった土から、けんらん豪華だったとされる天主閣に関連する遺物が発掘されるのではないかと期待がかけられています。



05/24 毛利氏の本拠で歴史講座ブーム

=9月には尼子氏の墓も探訪−山口=

大河ドラマの影響で広島県など中国地方を中心に「毛利元就」ブームになっているが、毛利家の本拠が置かれたこともある山口県萩市では、三十年近く前に始まった市民向けの歴史講座が続いている。講座にもブームが反映、今年は毛利氏にちなみ、ドラマではライバルとして登場する尼子一族の墓の訪問もするという。
萩市は、毛利元就の孫・輝元が開いた城下町で、幕末には、吉田松蔭や高杉晋作といった英傑も輩出。「松下村塾」など幕末の史跡も多い。
その萩で一九七○年から市の郷土博物館が主催し、大学教授や同博物館職員らが年十回、希望する市民に「萩と歴史」についてさまざまな観点から講座を開いている。
今年は近藤隆彦館長が八月に「姓氏に見る毛利家臣団の成立」と題して、小早川家などの各地の由緒ある豪族が毛利家の家臣団になっていく過程を解説。また九月には、富田城主の際に毛利氏から数カ月にわたって城を包囲され降伏した尼子義久の墓の実地探訪も実施する。
講座は無料で、年間十回。今年の募集定員は六十人だったが、百十人も応募した。しかし、関係者は毛利ブームで一層拍車が掛かった萩市民の歴史熱を歓迎している。
[1997-05-24-14:17]


05/20 兵庫・出石町など10地域を指定

=文化財活用し地域づくり−建設省、文化庁=

建設省と文化庁は二十日、古代の遺跡や歴史的建造物など地域の文化財を生かして地域おこしを進めるモデル地域に、兵庫県出石町や島根県出雲市周辺など十県十地域を指定した。
指定地域へは、建設省の「歴史国道」整備や文化庁の伝統的建造物群保存など、まちづくり関連の各種補助金が重点配分される。この十地域の市町村は、一九九七年中に五−十年程度期間の推進計画を作り、個性ある街づくり進める。
指定地域は次の通り。
能登風土記の郷整備構想(石川県)=七尾市、鹿島、鹿西、鳥屋、田鶴浜、中島、能登島各町▽若狭小浜上中歴史街道(福井県)=小浜市、上中町▽城を活かした城下町活性化計画(兵庫県)=出石町▽史跡と花の回廊 高取−大淀−吉野(奈良県)=高取、吉野、大淀各町▽史跡上淀廃寺跡を活かした歴史公園整備基本構想(鳥取県)=淀江町▽古代出雲王国の里(島根県)=出雲市、加茂、斐川各町▽防府市歴史美遊感構想(山口県)=防府市▽脇町文化財モデル地域計画(徳島県)=脇町▽ボーダーレスの世界 末盧・名護屋(佐賀県)=唐津市、鎮西、呼子、玄海、浜玉各町▽臼杵城・大野路・岡城、遊学のネットワーク(大分県)=臼杵、竹田など三市と十町二村
[1997-05-20-14:54]


05/13 武田氏の金山・湯之奥は世界有数の高純度

戦国時代、武田氏の資金源になったとされる甲斐金山の一つ、山梨県下部町の湯之奥金山が、極めて高純度の金鉱を産出していた可能性の高いことが、九州大工学部の井沢英二教授(鉱床学)の調査でわかった。同金山遺跡の廃滓(はいさい)」一トン当たりの金含有量が平均十グラム前後で、海外金山の採算ベースのほぼ五、六倍と推定されている。中世の金山の研究は珍しく、井沢教授は来月四日から、東京で始まる資源地質学会で報告する。
湯之奥金山は、内山、中山、茅小屋金山の三金山を合わせた総称。廃滓は、採掘した金鉱石を粉砕した後、金だけを取り除いた後に出る不要物で、特に、内山金山には、至る所に散在している。井沢教授は、原子の種類によって吸収する光の波長の違いを見る原子吹光分析装置に廃滓をかけて、成分を調べた。
その結果、廃滓一トン当たり四−二十グラムの金が含まれていることがわかった。平均で同十グラム前後。海外での金山の採算ベースは鉱石一トン当たり六グラム前後、新潟県の佐渡金山も同五−十グラムで、井沢教授は「当時の技術レベルは低いと見られるが、仮に、鉱石から金だけを取り出せる率を五〇%としても、鉱石一トン当たり二十−四十グラムの金が含有していたことになる」と指摘する。
帝京大山梨文化財研究所の萩原三雄研究部長は「湯之奥金山は、良質の金を産出し、武田氏の軍資金として有効に使われたようだ。中世の金山研究は珍しく、武田氏と金山の関係や中世の鉱業史を探る上でも、貴重」と話している。
湯之奥金山 同町の毛無山(一九六四メートル)の中腹など三か所にある。十五世紀始めに採掘が始まり、武田信玄(一五二一―一五七三)・勝頼(一五四六―一五八二)の時代に最盛期を迎え、同県塩山市の黒川金山と並んで、武田氏の軍資金として使われたとされる。十七世紀初頭に閉山した。
[1997-05-13-14:24]


05/06 小田原城で不審火、天守閣に近い倉庫焼く◇

六日午前二時四十五分ごろ、神奈川県小田原市城内、小田原城跡の天守閣広場にある市営動物園の倉庫から出火、木造平屋建て六十平方メートルが全焼した。ふだんは火の気がなく、小田原署は、不審火とみて調べている。小田原城周辺では、先月十八日にも、不審火でほこらが全焼する火事があったばかりだ。いずれも、人通りがない未明に出火しており、同署は関連を調べている。
調べでは、焼けた倉庫は、ゾウのえさのワラを入れる施設で、天守閣から約二十メートルしか離れていない。管理する職員は午後五時ごろにいなくなり、夜間は無人になるため、警備員が巡回しているという。
先月十八日の火事は、午前三時半ごろに城から約三百メートル離れた林にあるほこらから出火した。木造のほこら約四・五平方メートルが全焼し、小田原城の「守り神」と伝えられる弁財天の木像(高さ約三十センチ)が焼けた。火の気はなかった。
北条氏の居城だった小田原城は、本丸、二の丸の遺構などが、国の史跡に指定されている。
[1997-05-06-16:06]


05/01 「歴史検定」はいかがですか?

=幅広い設問で7月に実施=

「風土記の丘はどこ?」「岡田山1号墳の鉄刀の銘文に登場する人名は?」−。こんな設問の歴史検定試験が七月に行われる。歴史上の英雄のエピソードなど話題性のあるものも取り上げることになっており、関係者は「漢字能力検定」並みに盛り上がりを期待している。
検定は生涯教育の普及活動をしている財団法人「社会教育協会」(松浦均理事長)が七月に全国十三カ所の会場で実施する。試験の出題委員には江上波夫東大名誉教授ら歴史教科書執筆者などが顔をそろえた。
学校で習う堅苦しい基礎知識ばかりでなく、英雄や有名人のエピソード、映画や小説の題材になったものなど多彩な問題を取り上げ、歴史の魅力をアピールする。社会的に広がれば文部省の認定を求めることも検討する。
公表された例題では、松江市南部の「風土記の丘」の地図上の正しい位置を選ばせたり、同丘にある岡田山1号古墳の形式を問うような設問もある。
試験は世界史と日本史に分かれ、どちらかだけでも受験できる。解答時間は各七十分で、四者択一式。百点満点で、九十点以上はA級、以下二十点刻みでB、C級と続き、二十九点以下でもE級の認定証書がもらえる。
試験日は七月二十日、申し込みは五月一日から七月三日まで。問い合わせは歴史認定試験実施委員会、電話03(3581)2761まで。
[1997-05-01-14:52]


04/18 史跡・名勝に11件答申◇

【史跡】
由利海岸波除石垣(秋田県金浦町)▽羽州街道 楢下宿、金山越(山形県上山市)▽河後森城跡(愛媛県松野町)▽原の辻遺跡(長崎県芦辺町、石田町)▽池辺寺跡(熊本市)=以上五件新規指定▽
東大寺旧境内(奈良市)=追加指定▽白滝遺跡群(北海道白滝村)▽赤松氏城跡 白旗城跡、感状城跡、置塩城跡(兵庫県上郡町、相生市、夢前町)▽鳥取藩台場跡 由良台場跡、境台場跡、淀江台場跡、橋津台場跡、浦富台場跡(鳥取県大栄町、境港市、淀江町、羽合町、岩美町)=以上三件追加指定による名称変更
【名勝】
川平湾及び於茂登岳(沖縄県石垣市)
【特別史跡】
水城跡(福岡県大野城市)=追加指定
[1997-04-18-16:28]


04/18 新たに指定される国宝・重要文化財

<工芸品>刺繍種子阿弥陀三尊図(静岡県熱海市・世界救世教)▽黒漆大般若経厨子(奈良国立博物館)▽白磁蓮華文輪花鉢(東京都世田谷区・静嘉堂)▽色絵鱗波文茶碗(京都市・北村文華財団)▽志野茶碗(大阪市・湯木美術館)▽色絵五艘船図大平鉢(東京都港区・寿不動産)▽金銅宝塔(佐賀県大和町・実相院) <書跡>類秘抄(奈良国立博物館)▽松浦宮物語(大阪府箕面市・大阪青山学園)▽宋版一切経(横浜市・称名寺)▽松尾社一切経(京都市・妙蓮寺)▽大鏡(同・冷泉家時雨亭文庫)▽趙志集(奈良県天理市・天理大学)
<古文書>島津家文書(東京大学)▽薩摩国伊作庄日置北郷下地中分絵図(同)▽薩藩旧記雑録(同)▽後法興院記(京都市・陽明文庫)▽雑事要録(同・同)
<考古資料>北海道コタン温泉遺跡出土品(北海道八雲町)▽青森県風張1遺跡出土品(青森県八戸市)▽群馬県平井一号墳出土品(群馬県藤岡市)▽石川県矢田野エジリ古墳出土埴輪(石川県小松市)▽尖頭状石器、有舌尖頭器(福井県永平寺町・野沢英毅)
[1997-04-18-16:07]


04/16 備中松山城の本丸復元工事が完成 高梁

全国で一番高いところにある山城として知られる岡山県高梁市の備中松山城で進められていた本丸の復元工事が完成し、きょう落成式が行われました。
高梁市の標高四百三十メートルの臥牛山(ガギュウザン)にある備中松山城は今から三百年ほど前の江戸時代に古い城を改修してつくった山城で「天守」が残っている城のなかでは標高が最も高く、国の史跡にも指定されています。
本丸の復元は、昭和の初めに「櫓」や「土塀」などが老朽化して倒壊したため、高梁市が三億六千五百万円をかけて二年計画で建て直したものです。
山城の頂上の本丸で行われた落成式には、高梁市の文化財関係者ら百三十人が出席し、太鼓を合図に立木市長らが本丸の入口の門を開けて中に入り、櫓などの完成を祝いました。
本丸に新しく復元された櫓は、「天守」を警護する平櫓二棟で、明治時代の古い写真をコンピューターで解析して柱の長さや太さを割り出すなどして昔の櫓をほぼ忠実に復元しています。
また、まわりの石垣には白壁の土塀が新しく二百メートルも復元され、城下町高梁のシンボル、日本一高い山城に江戸の築城当時の本丸が三百年ぶりによみがえりました。


04/16 7月に初の歴史認定試験 全国13カ所で実施

「過去に学び、未来をひらく」をテーマに歴史に関する幅広い知識を問い、学習の指針とする、初めての歴史認定試験(主催・財団法人社会教育協会)が七月二十日、全国十三会場で実施される。
受験科目は日本史と世界史の二科目。設問は各五十問で、すべて四肢択一のマークシート方式。解答時間はいずれも一時間十分。一問二点の百点満点で、A級からE級までの五段階に判定し、認定証を渡す。
同協会によると、出題分野は基本的な史実から、香港返還などの時事問題や、最近発掘された遺跡など多岐にわたるという。
人物や建物の写真を見て答える問題、英雄や有名人のエピソードに関する問題など形式も多様という。
受験資格は特に設けられず、だれでも受験できる。受験料は日本史、世界史各三千円。試験会場は東京のほか、札幌、横浜、名古屋、静岡、金沢、大阪、京都、神戸、広島、福岡、熊本、沖縄。
申し込みの受け付けは五月一日から七月三日まで。申込書などの資料請求と問い合わせは同協会、電話03(3581)2761、ファクス03(3507)8789。申込書は大型書店にもある。
[1997-04-16-16:33]


03/27 鹿児島県北西部地震の史跡被害

二十六日夕、強い地震に見舞われた鹿児島県北西部では二十七日午前五時十九分に、川内市と宮之城町で震度3を記録するなど、同七時までに有感だけで四十回を超える余震が続き、被害の大きかった宮之城町などの住民は眠れぬ夜を過ごした。同町役場や阿久根市役所などでは早朝から、職員らが後片付けに追われた。
同町にある宮之城島津家歴代の墓地で県指定史跡の宗功寺では、石灯ろう四十三基が倒壊。同町文化財保護委員は「手が付けられない状態。復旧にはかなりの予算と時間がかかりそうだ」と話していた。


03/27 高台寺庭園で幻想ライトアップ

豊臣秀吉の妻、北政所が晩年を過ごした高台寺(京都市東山区)で二十七日夜、国史跡・名勝の庭園などがライトアップされ、開山堂(重文)、臥龍池(がりょうち)などが幻想的なライトで浮かび上がった。
今回のテーマは「行雲流水」。激動の織豊時代を静観してきた北政所の心を、画家の山岸いずみさん(34)が空間美で表現。霊屋(おたまや)に安置されている秀吉と北政所の木像を方丈内に移し、波心庭に桜や波などを描いた縦横約十二メートルの日本画を置いて、二人が花見をしているように演出している。
ライトアップは従来、春、秋の年二回だったが、今年は秀吉の四百年忌にあたるため、「桃山の心」と題し、六、十月を除く通年で行う。
[1997-03-27-21:39]


03/24 室町時代〜戦国時代の位牌 神戸・出石町の遺跡で発掘

城下町として知られる兵庫県出石町の遺跡で、室町時代から戦国時代にかけてのものとみられる位はいや素焼きの皿が見つかり、当時の人々の暮らしぶりを知る貴重な資料として注目されています。
位はいや素焼きの皿が見つかったのは、室町時代の守護大名、山名氏の城下町として栄えた兵庫県出石町の宮内堀脇遺跡です。
兵庫県教育委員会によりますと、位はいは長さ二十五・五センチで、表に山名氏の家臣とみられる出家した武士の戒名が記されています。
この時代の位はいが見つかったのは、兵庫県では初めてだということです。
また、素焼きの土器は土師器皿と呼ばれているものがおよそ六十点見つかりました。
皿の直径は九センチから十二センチで、表面に「藤兵衛」「虎千代」などと墨で書かれた当時の庶民の名前がはっきりと読みとれます。
これらの名前は遺跡の近くの寺に伝わる古文書に記されている名前と一致することから、いずれも室町時代の終わりから戦国時代にかけて出石城下にいた人々のものとみられ、兵庫県教育委員会では「当時の人々の暮らしぶりを知る貴重な資料だ」と話しています。


03/14 <遺跡>秀吉が造営命じた?湯船跡見つかる−−神戸

◇神戸市教委はこのほど、阪神大震災で全壊した同市北区有馬町の有馬極楽寺の庫裏跡地で、豊臣秀吉が造らせたとみられる安土桃山時代の湯船跡を確認した。
◇同寺所有の古文書「有馬縁起」に、秀吉が1598年に湯屋(温泉施設)を造らせたという記述があることなどから、建て替えに伴い調査していた。
◇湯船跡は地下約1mで、小石や瓦(かわら)片交じりの粘土、平らな石が敷きつめられている。震災の悲劇を乗り越えての発見に、大閤さんもひと安心?


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