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石田三成−忍城攻めの検証−


石田三成の事績検討の一回目として、石田三成の忍城攻めを取り上げます。
これはパソコン通信Nifty-serveの歴史フォーラム上での論議を抜粋したものです。著作権の関係上、私の発言のみを掲載してます。ネットの雰囲気をそのまま伝えるため、あえてNifty-serveの登録形態そのままの文章にしてみました。

ご存じのとおり、石田三成の忍城攻めは関ヶ原に先立つ10年前に行われ、その不手際が三成の戦下手、武将落第を大きく印象づけてるのですが、果たしてその真相は・・・?

なお左の写真は、再建された忍城三階櫓です。中は郷土資料館になっています。ちなみに忍城に三階櫓が作られたのは元禄年間なので、三成が攻めた時には、もちろんこんな立派なものはありません。



04218/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め
( 2) 96/05/28 00:23 コメント数:7

この度、勇太郎さん中島さん河合さんと忍城へ行ってまいりました。

実際にみんなで現地を歩いてみて、また各自および史料館の資料等付け合わせてみ
て、
「どうも忍城の攻防戦の実態は通説とは違うのでは無かろうか?」
という疑問が湧いてきました。
そこ、以下オフで話した「忍城攻めの真実」に関する内容をUPします。
(三成関係に興味の無い方、ご免なさい)

なお、私は三成ひいきでありますので、以下の内容はオフで話した内容より、更に三成に好意的になってるかもしれませんが、その辺はファン心理ということで(^^;;)ご了解ください。
96/05/28(火) SHUN(GAH00561)

04220/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め(1)通説
( 2) 96/05/28 00:44 04218へのコメント

まず通説での忍城攻防戦の様子です。
ご存じの方多いと思いますが、大体忍城攻めの通説は、こんな感じじゃないかと思います。

「秀吉の後北条征伐の際、小田原攻めの本隊とは別に、別働隊の諸将は関東各地に点在する北条方の城の攻略に向かった。
石田三成は、その中で大谷、長束、および関東諸将の兵約二万七千と共に忍城攻めを命じられた。
忍城は低湿地にある要害であり、城主成田氏長は小田原城に入城しているものの、城主夫人(太田氏)はじめ三千七百の兵、領民が立てこもっていた。
ここで地形を見た三成は、秀吉の高松城攻めに倣い、この城を水攻めにすることを思い立った。
三成は忍城の周囲をぐるりと堤で取り囲み、荒川の水を引き入れた。しかし、折からの豪雨と城方の攻撃により堤は決壊、溢れた濁流は逆に寄せ手を襲い、多くの溺死者を出した。更に濁流の引いた後は周囲は泥濘地となり、寄せ手はかえって攻めることに困難をきたすようになってしまったのである。
忍城は、結局三成隊の攻撃では陥落せず、小田原城落城後、城主成田氏長の勧告でようやく開城したのである。
諸将は、三成の戦下手をあざ笑い、三成は武将落第の烙印をおされた。この評判は後の関ヶ原戦にも影響した。
もし秀吉が実施していたら、この城攻めも成功していたであろう。やはり三成の器量は数段下がると言わざるを得ない。」

・・・てなとこでしょうか。

04221/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め(2)城は水攻め向きか?
( 2) 96/05/28 00:45 04218へのコメント

通説は本当に正しいか、検証の一番目として、まず忍城が本当に水攻めに向いていたかどうかについて、書きます。

この件については、以前から勇太郎さんが「忍城は地形的に水攻めは難しい」と書かれてますが、実際に現地を見て、また勇太郎さんの説明を聞いて、私も「これは水攻めは難しい」と思いました。
当時と現在とどれくらい地形が変わっているか良く分かりませんが、ともかく忍城の周囲は完全な平地です。唯一の高地は、三成が本陣を置いた「さきたま古墳群」ぐらいです。

高松城の水攻めの際は、城の北側が丘陵で自然の堤防になっており、城の南側に堤を築くだけで、城を水没させられたのに較べると、確かに忍城水攻めは難しかったと思います。
これは高松城の水攻めが、僅か3kmの堤防を築けば良かったのに対し、忍城攻めは延々28kmの堤防を築かねばならなかったのにも表れていると思います。
(でも、その工事を2週間で終わらせたというのも凄いと思いますが)

・・・もし、このような無理な水攻めを強行したとすると、やはり三成はひいきの仕様もない、ということになるのかも知れませんが・・・
旧街道沿いの石田堤。石田堤は江戸期も治水に利用された。川沿いの石田堤。堤の断面が見える。

04222/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め(3)水攻めは既定方針?
( 2) 96/05/28 00:45 04218へのコメント

しかし、三成は本当に現地に行ってから、忍城水攻めを思いついたのでしょうか?

この事に関連し、オフで河合さんが、三成隊が三成以外にも、大谷吉継、長束正家など後の奉行派が中心になっていることを指摘されていました。

私自身は、三成隊が奉行派中心になっているのは、彼らの軍事訓練または軍事面での適性評価が目的と思っていたのですが(大抵の歴史書にはそう書いてある)、河合さんの指摘では、これは水攻めに備えた人選ではないだろうか、という事です。
また言われてみると、延長28kmの堤を2週間で完成させたことも周到な事前準備なしには、なし得ないことのように思えます。

・・・もしそうだとなると、水攻めはそもそも三成が忍城に赴く以前から、既定の方針として決まっていたのだ、ということになるのですが・・・

04223/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め(4)史料面から
( 2) 96/05/28 00:45 04218へのコメント

そこで史料面では、この辺のことはどうなっているのか、ということを次ぎに書きます。

まず忍城攻めでよく引き合いに出されるのは、既に勇太郎さんが紹介している「忍城戦記」のようで、これは何と言っても通説の元ネタになっているので、内容的には「通説」に近いです(・・・と思います。これはその内に勇太郎さんからコピーを貰ってじっくり読みたいですが・・・)
ただ、この本は勇太郎さんの説明によれば江戸時代の写本で、原典は良く分からない、とのことです。
同時代史料としては、三成・秀吉間の書簡のやり取りがあります。

行田市の郷土博物館には、秀吉が三成に宛てた手紙が展示されており、日付は失念しましたが、その内容としては・・・
・「忍城攻めは水攻めを第一にすること」
・「軍監を三成から他の人間に交代させるつもりは無いこと」
・・・などが書かれています。

一方、三成から秀吉に宛てた手紙としては、「埼玉県史」に収録されているものがあります。これも意味だけ書くと・・・
「城攻めの諸将は、水攻めと決めて掛かっているので、自ら攻め寄せようとする意
志がなくて困る」
・・・といった愚痴っぽい内容となっています。

・・・この書簡のやり取りからは、水攻めをしたかったのは、三成なのか秀吉なのか分からなくなってくるような気がします。
この辺は、かなり想像を逞しくできそうに思えます。

04262/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め(5)忍攻めの真相
( 2) 96/05/29 23:52 04218へのコメント

忍城攻め検証の五回目です。

今までの見解をまとめると・・・

(1)忍城は、必ずしも水攻めには向いていない城であった。
(2)三成自身は水攻めに、どちらかというと批判的であった。
(3)それに対し、秀吉は水攻めに固執していた。
(4)忍城を水攻めにすることは、当初からの既定方針であった可能性がある。

・・・といったことが、言えるのではないかと思います。
ここからは憶測が多分に入りますが、三成自身は通説のように、忍城に来てから水攻めを思い立ったわけではなく、むしろ現地に来てみて、忍城を水攻めにすることの困難さを悟ったのではないでしょうか?
秀吉に出した手紙には、その思いが現れてるように思います。

それに対し、秀吉は忍城の水攻めに拘った・・・これは、パフォーマンス好きの秀吉の性格が現れてるように感じられます。
おそらく、この当時すでに、備中高松城の水攻めのことは評判になっていたと思いますから、秀吉にしてみれば、全国から諸将の集まる関東攻めで、高松城の水攻めを再現し、居並ぶ連中の度肝を抜きたかったのだと思います。

三成は秀吉の無理な要求に苦しみながらも、2週間で堤を完成させ、曲がりなりにも水攻めの格好を整えます。
しかし、無理なものはやはり無理だった・・・結局、忍城の水攻めは失敗するわ
けですが、三成自身はその責任を一身にかぶりました。
そして、今日に至るまで
「忍城水攻めは三成の発案、失敗は全て三成のせい」
という通説ができあがっているのではないでしょうか?
96/05/29 <<GAH00561//SHUN>>

04263/04884 GAH00561 SHUN 【検証】忍城攻め(6)三成の評価
( 2) 96/05/29 23:53 04218へのコメント コメント数:1

忍城検証の最終回です。

三成は、忍城失敗のために、「武将落第」「いくさを知らない官僚」の烙印を捺され、
それが関ヶ原での三成の不人気につながった、というのが今日の定説になっています。

しかし、それは真実の姿なのでしょうか?

三成とともに忍城攻めに参加した武将のその後を見ると・・・

佐竹義宣 ・・・「治部が死んでは生き甲斐もなくなる。」というほどの三成
贔屓となり、関ヶ原では西軍よりの中立をとる。
戦後、その姿勢を家康に咎められ、秋田へ減知転封。
多賀谷重経・・・関ヶ原での西軍蜂起を知ると、小山の家康へ単独奇襲を企図。
(義宣に止められ為断念)。戦後、所領没収。
真田昌幸・・・・関ヶ原戦前、三成からの書状により、信州上田で単独蜂起。
戦後、紀州九度山へ流罪。
大谷吉継・・・ 改めて言う必要もないと思いますが、関ヶ原で奮戦戦死。
長束正家・・・ 関ヶ原で西軍に参戦。戦後、居城水口へ篭城、自害。

・・・など、大部分の武将が、三成と運命を共にしています。(浅野長政のような例外もありますが)
もし真実、忍城攻めが三成の戦下手を露呈したものだったら、彼らはその後も三成と行動を共にしたでしょうか?
三成の姿を間近に見ていた彼らこそ、忍城攻めの失敗の本当の理由を知っていたように思えます。

96/05/29 <<GAH00561//SHUN>>

04264/04884 GAH00561 SHUN 通説の裏側
( 2) 96/05/29 23:53 04218へのコメント

忍城攻めのことを長々と書かせていただきました。
(しかし、こういう通説を疑って調べると言うことは、実は大変好きだったりします(^^;;)。)

忍城攻めは、日本史上では特筆されることのない戦いですが、これは十年後の関ヶ原の戦いの伏線になっています。
関ヶ原戦に関しても、「三成は家康の思うつぼにはまった。」というのが通説になっています。しかし、最近の例えば笠谷氏らの研究で、関ヶ原戦というのは家康にとっては、決して会心の勝利ではなく、ホロ苦さの残るものであったということが論証されているようです。
忍城の三成の真の姿を知ることができれば、関ヶ原での戦いの裏側も透けて見えるのではないか、と個人的には思っています。

最後になりますが、今回の忍城オフでは勇太郎さん河合さん中島さんに、大変いろんな事を教えて頂きました。今回の【検証】・・のかなりの部分はお三方に伺った意見を編集したものです。本当にありがとうございました。

オフでも話していたのですが、この秋には是非「関ヶ原オフ」を実現させて関ヶ原戦の真実を、みんなで語れたらなあ、と思っています。

それでは、最後までおつき合い頂いた方ありがとうございました。

96/05/29 <<GAH00561//SHUN>>


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