1999年3月の冒険より

 

湖南省と貴州省で冒険する 


プロローグ

「ちょっとそこまでお使いへ行って来てくれる?」
こんな風に頼まれた経験、誰にでも一度や二度はあるのではないだろうか。
母親に買物を言いつけられた青年は、小銭を手にぶらりと家を出て行くのだろう。
それきり五十年以上も家に帰れないだけでなく、見知らぬ島へ連れて行かれたとしたら?
……あなたがこの青年だったらどう思うだろうか?
「そんな馬鹿な」
そう思うかもしれない。
でも、これは一九三〇年代の中ごろにあった本当の話なのだ。
歴史の話を延々とするのは私の趣味ではないけれど、ちょっとこの時代の背景を紹介しておこう。私の知識としての歴史はどうやら台湾寄り、国民党よりであるらしいので……そのあたりを差し引い読んで貰えるとありがたい。
この頃というのは日本軍が中国大陸に攻め入っていて、国民党は共産党と勢力争いをして内戦を繰り広げていた。西安事件をきっかけにして第二次国共合作となったのが一九三六年。
ところが
「力をあわせて日本軍を倒そう!」
と国民党に約束しておきながら、共産党は国民党の兵士を相手に戦い続けたのである。
作戦だといえば作戦だったのだろうし、「日本人と中国人は外見が似ているから、日本軍だと思って殺したら国民党の兵士だった」なんてことも、当然あったとは思う。
しかし、実際この後の国民党は経済的にも軍事的にも勢力をどんどん失っていった。つまり、この頃の国民党にしたら、とにかく戦力になる若者が一人でも多く欲しかったのである。
そこで冒頭の話に戻る。
追い詰められた国民党は、若者と見れば兵士にスカウトして連れ去るということを始めた。お使いに出された青年がそれきり戻らなかったのは、国民党のしわざであった。
国民党は一九四九年に、共産党軍に追われて知っての通り台湾に逃れた。「見知らぬ島」と先ほど書いたのは私が住んでいる台湾のことである。

一九四五年以降に台湾へやって来た人達を「外省人」と呼び、現在国民の約十五パーセントほどを占めている。父親の省籍が外省ならば子供も外省人として扱われるので、この十五パーセントの中には外省人二世、三世も当然含まれている。
当時は六〇万人の軍人が台湾へやってきたというが、軍部の高官を除く彼らの多かれ少なかれが
「なんだか知らないうちに軍人に仕立てられ、なんだかよく分からないうちに台湾行きの船に乗せられてしまった」
という人達ということになる。
いざ台湾に着いてみれば、当然のことながら家族もなく、お金もなく、土地も無い。
「外から来た人だから、きっとすぐ中国大陸へ帰っちゃうわよ」
台湾の本省人達にはそうささやかれて、嫁に来てくれる女の子も少ない。
しかし、「すぐ帰るはず」の彼らが一九八七年十一月一日まで、台湾という島に閉じ込められることになろうとは誰も予想していなかったに違いない。

私がここで紹介するのは、こうして台湾へ連れてこられた「青年」との旅である。この「青年」、名前を黄さんと言うのだが、「乾父(がんばー)」と私は呼んでいる。「乾父(がんばー)」は「ゴッドファーザー」とでも訳せるだろうか。
*「父(ばー)」の文字、本当は下に「巴」というのがつくのだが、WEB上では表示できない。

当年八〇歳で「買物」に出て国民党に連れ去られた時は十七歳、場所は貴州省の山の中であった。
がんばーに初めて会ったのは、私が結婚してしばらく経ってからだったと思う。結婚式にも来てくれていたらしいのだが、なにせ四百人近くも出席者があったので私はまるきり覚えていなかった。
がんばーの家は、旦那の実家の近所にある。
「ま、お茶でも飲みに来なさい」
誘われて行ったら訛りがキツくて、いったい何を言ってるのかまるきりチンプンカンプンだったというのが最初である。
「なんだ、普通語も分からないのか」
と言われて叱られたのだが、どう考えてもがんばーの喋る言葉は「普通語」なんかではない。イメージとしては東北あたりのようなずーずー弁。私の中国語も「四声まるきり無視」で判りにくいと近所では評判であるが、がんばーの「普通語」もまわりの台湾人にとってはかなり手を焼くシロモノらしい。
そのがんばーが数年前から、足繁く中国大陸へ通っていた。
「なんでも弟さんが見つかったんだって」
近所の人から聞かされてはいたのだが、よくある外省人の「親戚訪問」だとばかり私は思っていた。
ところが今年(1999年)の旧正月に、がんばーから
「台湾を引き払って、大陸へ引っ込もうと思うんだ」
と聞かされてびっくり。
「引っ込むって、一生そこに住むってこと?」
「そう。弟の家族と一緒に暮らそうと思うんだ」
「ふぅん……そっか、寂しくなっちゃうね」
相変わらず私は訛りには慣れず、何度も繰り返して言ってもらわねばならない。しかもここ数年はがんばーの耳も遠くなって、耳元で叫ぶようにしないと会話は出来ない。
それでも、いつも私に家族のように接してくれる「茶飲み友達」を失うのはとても寂しかった。
それと同時に、私の気持ちの中には「嫌な感じ」が霧のように広がる。

一九九五年、がんばーと同じように大陸帰りを決めた台湾の老人が、香港で置き去りにされるという事件があった。この老人は身体が不自由だったので、大陸から奥さんが香港まで迎えに来ていた。奥さんというのは当時大陸に残して来た女性だろう。
車椅子で台北からの便を後にした老人が無事に奥さんと会え、荷物を渡してホッとしたのもつかの間。この奥さんは老人のパスポートから現金から、何から何までを持って姿をくらました。
車椅子に乗った老人は、どこかで迷ってしまったのではないかと、ひたすら奥さんが戻って来るのを待ったという。
パスポートさえ無いので、結局この老人は台湾へ送り返されたのだが……その胸中はフクザツであったに違いない。
「私に戻って来て欲しかったのではなく、私のお金が目当てだったのか」
がっくりと肩を落とし、車椅子に乗せられて行くしょげ返った老人をこの目で見た時のあの気持ちが、私の気持ちの中でむくむくと頭をもたげる。
こんな風に心配するのは私だけではない。がんばーの友達も近所の人も、みんな
「本当に大丈夫なのぉ?」
何度もがんばーに聞いたのだ。
「がんばーに帰って来て貰いたいんじゃなくって、がんばーのお金に来て貰いたいって思ってるんじゃないの?」
冗談めかしてではあるが、私も正直に聞いてみた。
「いや、そんなことない。今まで十二回も大陸に帰って、そうじゃないことを確信した。甥の嫁もよくやってくれるしな」
がんばーは私にはっきりとそう答える。
なんでも甥っ子が結婚したお嫁さんという人が家を切り盛りしていて、帰るたびにがんばーの面倒を見てくれるのも、このお嫁さんなのらしい。
がんばーは旧正月前に足が麻痺してしまって入院しており、目は緑内障が進んでいてあまり見えない。面倒をみてくれる家族が居るのであれば、家族と暮らす方がいいのではないか。
そんな風に思いはじめた私に
「身体が不自由で歩くのが精一杯なんだよ。だけど荷物は多いし……悪いんだけど、貴州の家まで君達夫婦で送って行ってくれないかな?」
がんばーは言うのである。
確かに杖をつきつき大きな引越し荷物を持って一人で帰るのは大変だろう。
かといって私もがんばーとのコミュニケーションには不安がつきまとう。しかも、貴州あたりの人々がみながんばーのような訛りで話すのだとしたら、これはもうお手上げである。しかも中国は簡体字のはずで、台湾・香港と繁体字に慣れ親しんで来た私には難しい。
これでは「オシでツンボで文盲の私」に他ならない。放送禁止用語の嵐が気になる向きには、「耳が不自由で、口が不自由で非識字である」と言い換えておこうか。
あーー、どうしよう。
手を貸してあげたいのも山々だし、がんばーの世話をこれからしてくれる人々がどんな人達なのかといのも見ておきたい。どんな場所に住むことになるのかという好奇心も勿論ある。
こうして台湾に住んでいなければ、なかなか「中国大陸に定住する」友人を家まで送って行くなどという機会はめったにないはずだ。
私は相当考えたのだが
「よし、荷物持ちでついてってやろうじゃん!」
と腹をくくった。


さて、腹をくくったのはいいのだが……。
当日がんばーの家まで迎えに行ってみて、私は激しく後悔した。もともと「荷物持ち」としてついていくのが前提だったのだから、荷物を持つことに関しては覚悟が出来ていた。しかし、しかし、それにしても異常な量なのである。
がんばーの荷物は私の身体くらいもあろうかという大きなバッグが二個、小さなボストンバッグが三個で合計五個。これに私の着替えを入れたバッグがひとつ、全部で六個である。
先にも書いた通り、がんばーは片方の足が麻痺しており……荷物はひとつも持てない。つえをついて歩くだけが精一杯なのだ。
げーーーっ、六個の荷物をどうやって二人で持てって言うんだよぉ。あたしら、千手観音かい!
と思ったが、今更じたばたしても始らない。
さらに
「行きの電車の中で食べるのだ」
と、リンゴや饅頭のいっぱい詰まった重たいビニール袋まで出して来たので
「がんばー、こんなにどうやって持てっていうの?もったいないけど、このリンゴとか饅頭とかは無理だから置いて行こう」
私は拒んだ。
がんばーは
「せっかく買って準備したのに……」
ブツブツ文句を言っていたが、なんとかなだめすかしてビニール袋は諦めさせる。
にも拘わらず空港でチェックインしてみると、二つの大きな荷物ですでに七〇s。

チェックインの手荷物。ファーストクラスのチケットを別にすれば、原則的にエコノミークラスは一人二〇sという決まりがある。
三人でも六〇s……どう考えても重量オーバーなのだ。

台湾の航空会社というのはがんばーのような大陸帰りのお客さんに慣れているのか、彼らの重量オーバーに関してはかなり寛容。
「どうせだから、それもチェックインしちゃいなさい」
小さいのひとつと私の荷物、超過料金も請求せず「目をつぶる」ということをしてくれた。死ぬほどありがたかった。
結局、二個の手荷物を持ち、がんばーの手を引いて飛行機に乗り込んだ。
機内では杖をついてそろりそろりと歩くがんばーを見かねてか、乗務員が
「香港で車椅子を手配してあげようか?」
と声をかけてくれる。
なんとか歩けることは歩けるのだが、なんといっても香港の空港は広い。乗り換えるのに車椅子があればがんばーも楽に違いない。手配してもらうように頼んで席につく。

しかして私は、不思議な気分になる。
香港で飛行機の乗務員をしていた時
「台湾のおじいちゃんっていうのは、なんで大荷物を抱えて飛行機に乗って来るのかなぁ。もーー、置く場所なんかありゃしない。頼むからチェックインしてくれぇ」
などとほざいていた。
しかし、何の因果か私はこうして、「頼むからチェックインしてくれぇー」と叫ばれる側に立たされてしまったのである。
人生というのは本当にわからない。

さて、貴州というのはどのくらいの温度なのであろうか。いつもなんとなぁーく旅に出てしまう私も、今回はさすがに事前にテレビのニュースなどで気温をチェックした。気温は二十度前後、台湾よりも少し寒いくらいであろうか。それでも万一に備えてとセーターを一枚余計に入れておいた。
薄手のパンツを履き、長袖のシャツを着て、カーディガンを羽織って出発したのだが、乗り換えた香港の気温はすでに二六度でむしむしっと暑かった。カーディガンを脱いで腰に巻き、シャツの袖もまくって飛行機の出口へ向かう。
香港のゲートでは車椅子が待っており、係の人が押してくれる。
搭乗はターミナルからの入口ではなく、簡易エレベーターのような機械を使って機体の外からとなる。飛行機において身体の不自由な人は、「最初に乗って、最後に降りる」というのが鉄則だ。逆側のドアから一番乗りで機内に入ると、ひんやりと冷房が効いていた。


長沙

長沙までは一時間半くらいなので、台北から香港くらいの時間である。
なんだ、近いんじゃないかぁ。
余裕の笑いをかましていたのだが、その笑いは到着前の機長アナウンスを聞いてひきつった。
とんでもないのである。長沙の気温は四度、雨がしとしと降っている。台湾よりちょっと寒いくらいだと聞かされて来たのに、どうしたことだろう?
長沙の空港に着いてみると車椅子の手配などなく、いきなりタラップである。ターミナルから機内へと続く橋のようなものがあるわけではないので、タラップを降りたらまたバスに乗り換えねばならない。これでは本当に歩くことも出来ないような人は、機体から降りることも出来ないではないか。香港での至れり尽くせりのサービスは期待しないまでも、身体の不自由な人のためになんらかの手段はないものかとちょっと溜息が出る。

長沙の黄花園空港からのタクシーは一五〇元とふっかけられたが、なんとか値切って八〇元にして長沙の街へと向かう。中国民航のバスに乗れば十三元だということは分かっていても、七〇sの荷物があってはどうにもならない。
タクシーが停まったのは駅の目の前。夜の汽車の切符を買いに窓口に走るが、今日の切符は全部売り切れだった。
明日の夕方五時過ぎの列車ならば軟臥のコンパートメントがあるといわれたので、とにもかくにもそれを入手。荷物が多いので軟臥でもいいだろう。
今晩はこのあたりに宿を取るしかないが、がんばーは足が悪くて長い距離は歩けないのだから、宿は駅の近くでなければならぬ。
がんばーに駅の前で荷物番をしてもらい、あちこちの招待所をあたってみるが、どれも

「うーーーーーん」
という感じなのである。
うーんと私が唸るのは、値段相応か否かという点。はじめから豪華なホテルなど期待してはいないが、くらぁーーくて、じめじめっとして暖房も無いのに一二〇元だのと言われると……なんとも納得がいかないのである。
やっと探し出したのは、駅の目の前の暁園百貨公司暁園招待所であった。三人部屋で風呂とトイレ付き、暖房もついて一三八元。
しかし、この招待所の客室は四階にある。杖をついたがんばーが階段を上るのは一苦労に違いない。しかし、数軒あたった中ではここが一番マシなのだ。
値切ってみたら一二〇元になったのと
「明日の電車って午後五時なので、なんとかチェックアウトの時間を遅くしてくれません?」
と頼み込んでみたら、本当は十二時のチェックアウトを一時に延ばしてくれたのとで、まぁいいやとここに決めた。
鼻水をずるずる垂らしながらも、駅へとがんばーを迎えに行く。がんばーのまわりには片手に人民紙幣を折りたたんだものを載せた、乞食のおじいさんやおばあさんが無言でまとわりついていた。
お金をねだるのなら、もっと金持ちそうな人に当たればいいのに……。
私はそんな風に思たが、カーキ色のジャケットに野球帽。台湾では一見して「ああ、もと軍人だな」と分かるいでたちのがんばーではあるが、こうして長沙の駅で見てみると……まるでこの土地の人のようにも見えるのだった。

大荷物はどうやったって四階までは運べないから、荷物預けに一個五元で大きいのを二つだけ預ける。
うーーん、一個五元。これは高い……。
杖をつきつき、ぼちぼちしか歩けないがんばーを横からささえ、雨の通りを招待所に向かう。
しかして、中国の街というのは身体の不自由な人のことなど何も考えていないように出来ている。信号も横断歩道も何もないので、体に何の支障もない私でさえ、駅前の道路を渡るのは一苦労だ。
車の間を縫ってさっと渡らなければいけないのだけれど、がんばーのよちよち歩きでは手際よく渡るなんてことはまず無理。
プップー!
クラクションを鳴らされまくって道を渡りながら、そんなに鳴らしたって早く歩けないものはしょーがないじゃないのっ!
なにやらむしょうに腹が立つ。


暁園招待所

招待所の受付のお姉さんは、がんばーの様子を目にしたからか
「二時に部屋を空けてくれればいいから」
と優しいことを言ってくれた。
四階までエレベーターがあればいいものを、エレベーターはあるにはあるが動いていない。
片手でてすりを握らせ、もう一方の手で杖を握り、その体を私が支えるという感じで階段を上る。
やっと四階について部屋に入れば、暖房のスイッチが見当たらない。
「どこだどこだ?」
さんざん探すのだが、どこにもない。
服務員のお姉さんに
「あのぉ、暖房のスイッチは?」
と訊ねてみると
「ああ、この部屋の暖房は壊れてるの」
とにべもなく返された。
え??壊れてる??
暖房付きって言ったじゃないかぁ!
壊れてるってどういうことだ!
怒ってみたところでどうにもならない。
壊れてるものは壊れているのである。
ふーーー。
がんばーは服を脱ぐでもなく、寒い寒いといってそのままベッドにもぐりこむ。
当たり前だ。
私だって死ぬほど寒い。
お風呂場を見てみると、がぁーーん。
あるのはシャワーだけであった。
せめて浴槽があれば、お湯を溜めて温まることもできるのに……。
寒くて震えているがんばーのために、何もしてあげられない自分が情けなくなった。
せめて暖かいものでもと思ってお茶をいれ、がんばーに渡すのだが、寒い寒いと丸まっているだけだ。
「シャワーを浴びたらどう?ちょっとはあったかくなると思うんだけど……」
そう言ってはみたものの
「寒いからやだ、お風呂は入らない」
といって、掛け布団を首までたくしあげるのである。
うーーん、そうだよねぇ。
なんて思っているところに、ホテルの服務員が来て
「寒いでしょうから」
と、厚い掛け布団を置いていった。
がんばーにそれを掛けてやり、私はシャワーを浴びることにする。
シャワーのお湯は思ったよりも熱くて、体を温めるということには勿論ならないけれど……解凍することはできた。
「ねぇ、お湯は結構熱いよぉ」
がんばーにそう言ってみると、気が変わったのか
「じゃ、入る」
のこのこと服を脱ぎ出した。
起きていても寒いだけだから、とにかく服を着まくって布団をかぶって寝てしまう。
さっ、寒いぃぃぃ。

買いだし

翌日は午後二時にチェックアウトして、がんばーを駅の待合所へ連れていく。
駅の待合所は三つのセクションに分かれていて、一番手前が一般の人、奥へ行くとお母さんと体の不自由な人、一番奥が軍人専用である。
体の不自由な人用の待合室には特別な入口があり、ここから乗車するようになっているのだ。
夕方の列車なので食料を調達しなくてはならないが、駅のまわりはどこも物価が高い。私は街の中心地に買いだしに出掛ける。
中心地といっても何がどこにあるんだか分からず、とにかく駅からまっすぐ西へ伸びる五一路をずんずん行く。
五月一日というのは労働節であり、日本のメーデーに当たるだろうか。社会主義中国においての「労働階級」というのは何よりも高いのである。道の名前もこんなところからつけられている。
さて、阿波羅(アポロ)という大きな百貨店があり、すぐ横にはファーストフードのKFCもある。
このあたりが中心地なのだろうか?
阿波羅(アポロ)の角を右へ曲がってしばらく行くと、右手に小さな路地がある。中をのぞくと小さな店が延々と軒を連ねている。
こういうところは結構好きなので、ずんずん路地を入ってみる。
食べ物屋の屋台がずらりと並び、クワイ(ウォーターチェストナッツ)を串に刺したものなどが売られている。お焼きのようなもの、蒸しパン、果物……。ありとあらゆるものがある。
しばらく行くと右手に市場があり、一階は肉や魚や香辛料、二階は青物になっているが果物はない。
野菜の中に大きな唐辛子があるのを見つけた。
昼食のおかずにも入っていたが、まるで赤いピーマンのようでもある。イメージとしては唐辛子をそのまま虫眼鏡で大きくしたような感じ。
よく見かける「赤いピーマン」がでっぷりと太めなのに対し、細長い感じなのだ。香辛料としてではなく、野菜としてこの赤い唐辛子は使われているのである。まるでブータンみたいだなと思う。
食べてみれば味は唐辛子の味だけれど、それほど辛くはない。ただし、色合いとしては食欲をそそるものがある。
インスタントラーメンだの、果物だの……列車の中で食べられるようなものを次々と買っていく。マンゴーは三個で一〇元、決して安くはない。

ある程度の買いだしも終わり
「コーヒーでも飲もうかな」
そう思ってKFCに入る。
手羽先とコーヒーがセットになったのを頼むと、四川でお気に入りだった麻辣粉がついて来た。麻辣を分解して説明すると麻が「山椒の粉」で、辣は「唐辛子の粉」。料理にもこの「麻辣」は多く、「麻辣牛肉」だの「麻辣鶏丁」だのがメニューに書かれている。辛いだけではなく「痺れるような感じ」、これが私にはたまらなくイイ。
日本では四川といえば辛い料理の代名詞のように思われているが、実は湖南省は四川にも増して辛いモノを食べると有名である。
話はちょっと逸れるが、中国のそれぞれの省にはニックネームのようなものがある。たとえばチベットは「藏」、四川は「蜀」、内モンゴルは「蒙」といった具合だ。湖南省と湖北省はこれでいくと「湘」ということになり、湖南は「湘南」とも呼ばれている。
私自身、日本湘南の出身だ。しかし、雨がしょぼ降り泥でまみれる灰色の省都・長沙は、海沿いの私の実家とは似ても似つかないのであった。


列車に乗り込む

買物を終えて駅に戻ると、ふと「求人広告」の立て看板が目についた。運転手やら事務員やら、いろんな商売が書かれていたけれど、だいたい一ヶ月四百〜六百元くらいの賃金が多かった。四百元、約七千円だ。
列車は239次17:42発の張家界行き、懐華までは十一時間の道のりである。
駅の構内へ入る段になって、やはり70sの荷物はどう考えても重い。荷物預けから取って来たはいいけれど、身動きが取れない。うんうん唸りながら荷物を引きずっていると、どうしてもバランスを崩してコケてしまう。すると、そのあたりを行く人達が私がコケた様子を見てゲラゲラ笑う。
あのなぁ……。どうして、そこで笑うかなぁ。
中国人がコケた私を見て笑う。なんだか非常に不快であった。
結局ポーターに、ひとつ五元で列車の中まで運んでもらうことにしたのだが、竹ザオで二つの荷物を肩に担いだポーターでさえ大汗である。
「こんなに重たい荷物、運んだことがない」
そりゃぁ、そうだろう。君の体重くらいは軽くあるよ。
細くてひょろりとしたポーターを見て私は思う。

さて、乗車という段になって、肝心の改札が開いていないのである。せっかく体の不自由な人専用の待合室に入口があるというのに、そこが開いていなくちゃどうにもならない。
結局また一般の人の改札口に戻り、係員に切符を見せてやっと入れてもらう。
いったい、どういう仕組みなのだぁ!
ポーターがえっさほいさと籠かきのように電車を目指し、がんばーは相変わらずのよちよち歩き。電車になんとかたどりつくと、乗客も乗員もみんな
「大丈夫ですよ、慌てなくていいですからね。ゆっくりゆっくり」
などと声をかけては道をあけてくれ、気を遣ってくれる。
私が駅で笑われたのは、何だったのだろう??

四つの寝台があるコンパートメントの中は暖房が効いていて暖かい。馬鹿デカイ荷物をはそのままコンパートメント内の床に置かれたが、今度はポーターが
「これで十元じゃ少ない」
とガタガタ言い出した。
そうは言っても、「ひとつ五元」と値段を決めたのは私ではなくてポーターである。
「だって、さっきそういう約束だったじゃない」
私は抵抗したのだが
「こんなに重いのははじめて担いだ」
とかなんとか言いながら、ポーターも立ち去ろうとしないのである。
仕方なく二元の札をさらに渡したが、それでもブツブツ言うので無視することにした。

そのうちもう一人男性が乗って来てコンパートメントは満員となった。あまりにも大きな荷物がでんと場所を占拠しているのと、私とがんばーが叫び合うような大声で話すのとで、この男性も面食らったようである。
「大陸に何をしに来たのだ?」
と聞かれてしまった。これこれこういう具合でがんばーが帰国して定住することになったと話せば
「なるほどぉ」
とうなずき、それからは大声も大きな荷物にも何の文句も言わずにおいてくれた。
備え付けのポットでインスタントラーメンを作ってがんばーに食べさせると、がんばーはいつのまにか眠ってしまった。私も日記やメモをつけると早々に布団にもぐり込んだ。

暖房がききすぎていたのだろう。乾燥しているのですぐ目が醒めるのか、がんばーは夜中に何度も私を起こしては
「今何時だ?」
とさかんに気にするのである。乗り過ごしては大変と思っているのだろうが、ちゃぁんと車掌に起こしてくれるように頼んであるのだ。
「大丈夫、大丈夫。まだ着かないから」
そんな風に言って聞かすのだが、こうやって大声で話しているので、もう一人の男性の眠りを妨げるのではないかと……そればかりが気になった。



 

懐華

翌朝、車掌さんに起こされると四時半。四時四十五分には到着するので、急いで荷物をまとめる。
がんばーは
「タオル、これ使っていいか?」
と私のタオルを持って洗面所に行き
「はい」
と返してくれたタオルはびっちょびちょ。
うーーん、どうやったらタオルをこんなにびしょびしょに出来るのだ?
まぁいい。ビニール袋に濡れたタオルをぶちこんで電車を下りる。
雨がしとしと降っていて、またもや無茶苦茶寒い。
プラットフォームで大荷物を前に
「どうするべなぁ」
ぼぉっとしていると、ポーターのおじさんが声をかけてくる。
長沙でもそうだったけれど、ポーターは長い竹の棒を持っているのですぐ分かる。
「この二つなんだけど、いくら?」
聞いてみると
「全部で五元」
という返事。
そんなんじゃワリに合わないんじゃないのぉ?とは思うのだが、おじさんの言い値なのだから
「じゃ、お願い」
ということになる。

駅ではキップを集めるようすもなく、そのまま外へ出る。建物から出たとたん、わらわらっとタクシーの運転手が
「どこへ行くのだ?」
とすりよって来る。
ポーターにはタクシーに荷物載せてねと頼んであったので、まだ横に立っている。
本当ならば帰りの列車の時間をチェックしたり、キップを買ったりしたいところなのだが、そんなヒマはどこにもない。ポーターをこのまま待たせておくわけにはいかないからだ。
「朝七時に家の近くまで行くバスがある」
がんばーはそんなことを言うのであるが、誰がこの大荷物をそのバスに載せ、「家の近く」から家まで運べるというのだ。なんとしてもタクシーで行かねばならぬ。
しかし、今度はがんばーの家のある「孟渓」という場所を、タクシーの運転手が誰ひとり知らないのである。
「松桃の先だ」
とがんばーは言うのだが、どの運転手も松桃は知っていても孟渓は知らない。
一〇人ほどの運転手がかたまって
「いったいそれはどこなのだ?」
というようなことを言っていたが、そのうち一人が
「ああ、知ってる」
などと言い出したので値段の交渉をする。
運転手の言い値は八〇〇元であったが
「おかしいじゃないか、前回は六〇〇元だったぞ」
とがんばーが言いはって、六〇〇元でまとまった。しかし、今度はその運転手の車が小さくて荷物が載りきらない。日本でいう日産マーチのような車で、後ろの荷物を入れるスペースがまったく無いのである。後部座席に入れようにも、そこへ荷物を入れてしまうと人の乗るスペースがなくなってしまう。
どれだけ大きな荷物を持って行ったか、きっとこの説明で分かってもらえることだろう。
「これじゃ入らないよ」
「無理だ、絶対駄目」
ポーターと運転手がごちゃごちゃと言っていたのだが、そのうち別の車がバックしてきてトランクを開ける。
なんだか分からないのだが
「この車で行け」
とマーチの運転手が言うので、とりあえずトランクに荷物を入れる。
ポーターには黙って十元を渡したのだが
「もうけ、もうけ」
と嬉しそうだった。長沙とは物価が違うのであろうか?
なんとか荷物は入ったものの、運転していくのはマーチの運転手ではなく若い兄ちゃんであった。
ん?もしかしてマーチの運転手から行き方を伝授されたのだろうか?
そんなことを思いながらも乗り込むと車は走り出す。
しかし、走り出してしばらくすると
「どこへ行くのだ?」
若い運転手はコワイことを聞くのである。
知ってたんじゃないのかぁ!
「松桃なら知っている」
と運転手が言うので、じゃぁそこまで行って聞けばいいかということになる。十二回も行ったり来たりしているのだから、当然がんばーが行き方を知っていると思うでしょう?
それが、知らないのである。


孟渓

松桃まで行って
「孟渓ってどう行くの?」
と聞いてみると
「あー、とっくに過ぎちゃったよぉ」
と言うではないか。
な、なにっ?松桃より手前だったのか?
どうやら、松桃へ着く手前にある「太平」というガソリンスタンドを左折するはずだったのに知らずにまっすぐ来てしまったようだ。
仕方がないので太平まで十キロほどの道のりを戻って右折する。

まわりの景色はだんだん畑、黄色い菜の花畑が緑の畑を縫うように点在している。お茶の栽培をしているところも多い。道の脇では梅が花を纏っていて
「ああぁ、春なんだなぁ」
色で錯覚するものの、気温はまたしても低くて雨模様。どう考えても春という感じは私にはしないのだが、雪がすでに溶けた今、彼らにとっては春の訪れということになるのだろう。
びしょ濡れ寒くて、荷物が多くて、歩くのが不自由で……そんなことばかりが私の頭の中を占めていてすっかり忘れていたのであるが、貴州は少数民族の多い省でもある。途中、頭に長い布をグルグルに巻きつけ、倍くらいのサイズになってる苗族の人達が歩いているのを見かけた。

そのうち車酔いでゲーゲーやりだしたがんばーは、寒い寒いと訴える。ビニール袋を渡し、がんばーのバッグの中から毛布を取り出して掛けてやる。
飛行機に乗って、電車に半日乗って、車酔いになりながらタクシーで何時間も掛けて家に帰る。
こんなことを十二回も繰り返したのかと思うと、胸が痛くなる。
成田空港から私の家までは電車で三時間ほどなのだが、それでも
「遠い、遠い」
と文句を言っている私はいったい何モノなのであろうか?そんな気分にもなる。

途中で三回、パンクしたタイヤを替え、ライトをつけるとヘンな音がするというとんでもない車で、六時間後にやっと家の前に車は停まる。
が、ふと考えると
「いったい私は、どうやって帰ればいいのだろう?」
という疑問が浮かんで来る。
本当はがんばーの家で一泊させてもらって帰ろうと思っていたのだけれど、この疑問がある限りやはり滞在は無理そうである。
「ねぇ、懐華発の長沙行きの電車って何時にある?」
運転手の兄ちゃんに聞いてみると、夜中の一時に一本あると言う。
「じゃあさ、二〇〇元払うから帰りに乗せて帰ってよ。荷物もないことだし、途中で誰か乗る人が居たら乗せてくれていいからさ」
私はそう持ちかけてみた。ところが兄ちゃんは
「帰りにお客なんて拾わないよ」
と言うのである。
こんな辺鄙な場所では、誰もタクシーに乗らないと言うのだろうか。それとも六〇〇元という値段は行き帰りも見越した料金なのだろうか?
よくは分からないのだが、しばらく運転手の兄ちゃんには家で昼寝や食事をしてもらい、電車に間に合うように出発してくれるということで話をつけた。


がんばーの家

がんばーの家はコンクリートの二階建てで、白い壁に青い屋根、目の前には畑が広がっている。一見したところ、別段「ボロボロ」というわけでもない。
がんばーが「青年」の頃に住んでいたところは、ここから歩いて三時間の辺鄙な山の中。しかしこれでは不便だろうということで、がんばーが土地と家を買ってここに新しく引っ越させたのだそう。なるほど、新しい家なのである。
弟さん、甥、お嫁さんが出て来て迎えてくれ、近所の人も
「帰って来たのかぁ」
などとわらわらと集まって来る。なんだか知らないが、がんばーはここでは有名人であった。
「さぁさ、入って入って」
お嫁さんにうながされて、コンクリート打ちっぱなしの部屋に入る。新しい家ならばさぞかし中もキレイなのだろうと期待したのだが、がらんとして何も無いというのが正直な感想だ。こんなに寒いのに家の中には暖房器具はなく、入口を入ってすぐ左手にいろりのようなスペースがあるだけ。
こんなもんなのかな?
そう思っている私に
「家の中を案内するよ」
がんばーに連れられて、私は家の中をぐるりと見て回った。
部屋数だけは多いのだが、コンクリート打ちっぱなしの部屋にはベッド以外は何もなく、寒々とした印象だった。
弟さんの部屋のベッドの上には粗末な寝具があるだけで、布団は縦長に四つ折りにされ脇に寄せてある。もしかしたら普段は椅子としても使われるのかもしれない。壁から壁へと紐が渡してあって、そこに二つ三つのハンガーがぶらさがっているところを見ると、そこに服を掛けることになっているのだろう。しかし、服はどこにも見当たらない。
この部屋の奥にはもうひとつ小さな部屋があり
「ここが私の寝室だ」
がんばーが言うので入ってみたが、それは「物置小屋」という感じで雑然としていた。なにより弟さんの部屋を突っ切らなくては部屋へ入っていけないではないか。
入って右手には商店のショーケースのようなガラスのドアがついた棚があり、そこにはがんばーの服が畳んで入れられている。奥には木製のベッドがあり、マットレスもシーツも何もなく……毛布が一枚畳んで置かれている。
ひとつだけの窓からは灰色の空が見え、カーテンこそあるもののガラスは無かった。
ここにがんばーは死ぬまで暮らすの?
なんでこんなに小さな部屋しか無いの?
土地も家もがんばーが買い与えたんじゃないの?
喉の奥まで言葉は上がって来たのだが、私はぐっとそれらを呑み込んだ。

家の中には倉庫のようなところもあり、もみつきの米が山盛りに積み上げてあったが、私の興味を引いたのはシャンプーやトイレットペーパーやお酒や煙草など……いろんな雑貨が埃にまみれて置かれていた部屋である。
「あれ?ここは?」
私が聞くと
「甥が商売をするというので新たに増築してやったのに、途中で投げ出したんだ」
ちょっと怒ったような口調でがんばーが説明してくれる。
突き当たりのところに日本でいう雨戸のようなものがあり、それをはずすと表の道路。本来ならそこが売り手と買い手がモノの受け渡しをする場所になるのだろう。どこからどう見ても「村」であるこのあたりで、確かに品物が飛ぶように売れるとは思わないけれど……店を開けなければ商売というのは成り立たないのではないのだろうか。なんとももったいないような気分ではある。

中庭には別棟があって、そこが台所、物置、トイレ。
台所にはプロパンガスのボンベに繋がったガス台も置いてあるのだが、使っている様子はない。料理をしているのは炭と薪を使ったかまど。
「こっちの方が便利じゃない」
私がガス台を指差すと
「ガスが切れてるのよ」
とお嫁さんは笑って言う。ガスが切れているのなら買いに行けばいいのに……。
そうは思ったものの、大きなお世話なのである。
煮炊きをするかまどは二つあって、タイル敷きの台には大きな中華鍋がはめこまれている。下の部分には窓があって、そこから炭や木を放り込むようになっている。鍋は取り外しできないので、どうやって洗うのだろうと不思議に思う。
水を入れて竹の器具でかきまわし、その水をおたまでかき出すのである。下で燃えている薪の火はすぐに消えないので、水をある程度かきだしておけば、あとは自然に余熱で乾くのだ。
掻き回す竹の道具だが、イメージとしてはたこ焼きなどを作る時に油を引く道具、あれに似ている。茶道に茶せんというものがあるが、あんな感じでもある。
台所にはがんばーが台湾から運んで来たという炊飯ジャーも置かれていたのだが、これも
「ここは電気が来てないんだよね」
ということで使われてはいない。
文明の利器がいくらあっても、これでは使いようがないのである。
台所にはやたらに人が居て、近所の奥さんやらお嫁さんのお母さんが忙しく立ち働いている。うろうろしている私は邪魔なのではないだろうか……。そんな風に思って振りかえると、そこには面白い形のバスケットがあった。イメージとしては竹で作った花瓶という感じで、下が細くて上が広くなっている。高さは八十センチくらいで、布の背負い紐がついている。
むむむ?これは何だ?
たんぼから採った野菜でも入れるのだろうか?
私が首を傾げていると、お嫁さんのお母さんという人があやしていた赤ん坊をその籠の中にスポッと入れた。なぁるほど、おぶい紐ならぬおぶい籠なんである。下が細くなっているので赤ん坊は自然と足を揃えて立たされ、暴れることができない。上は広くなっているので肩から上が自由になるという仕組みだ。なかなか考えた作りである。

トイレを見に行ってみると、案の定「ぼっとんトイレ」だ。ぼっとんトイレ自体、私はそれほど抵抗がないのだけれど、トイレに豚を飼っておくというセンスはどうにも馴染めない。用を足そうとしゃがんでみると、すぐ横で豚が鉄柵ごしに顔を出し
「キューキュー」
と鳴くのである。
ううむ、雲南の時と似たりよったりだ・・・・。

家の見学が終わると、この家のお嫁さん(24歳)が洗面器にお湯をはって出してくれる。
「さ、顔を洗って」
昨晩は列車の中だったのでお風呂に入ってなかったのだから、顔より何よりお風呂に入らせてもらえないかなぁとも思ったのだが、よく考えてみるとこの家には風呂場というのがないのである。
こうやって洗面器を床に置くところを見ると、水道もないのだ。台所にも蛇口はなく、どうやら井戸から水を汲んで来るらしい。
こんなに寒いのに、どうやってお風呂に入るのだろう?
不思議な気分にもなるが、どうやら洗面器にタオルを入れてちゃちゃっと身体を拭くくらいなのらしい。
うーーむ、どうりでがんばーにタオルを貸したら水浸しにしてくれるわけだ。
ここで一泊しないことにしたのは、やはり正解だったかもしれない。寒がりの私は家の設備を見てそう思った。
何か手伝おうとしても
「いいからいいから」
と追い払われるし、がんばーの弟さんはがんばーにも増して訛りがきつく……話をしていても、何を言っているのだかまったく想像もつかない。
居場所の無い私は、ふらりと玄関を出て家のまわりを歩くことにした。
畑を左に見てぬかるみの道をたらりたらりと歩いたのだが、右側に建っている家はどれもボロボロ。
「これじゃぁ、風が吹いたら崩れるでしょう」
とでも言いたくなるような家ばかりが続いている。家というよりも材木の切れ端を家の形に並べて、藁を上に置きましたという感じの傾いた家々。
げーーっ、ここにホントに人が住んでるのか?納屋じゃないの?
と疑いたくなるほど、煤けて真っ黒な家もあった。
がんばーの家のまわりをしばらくうろうろして分かったことというのがある。
つまり、先ほどからトイレに豚が居るだの、風呂場が無いだのとケチをつけていたがんばーの家は、実はこのあたりでは相当なお金持ちの部類に入るという事実である。

気温二十度前後の台湾から来たせいもあるのだろう。とにかく何をしていても寒い。
なのに
「お昼食べましょう」
とうながされて行ってみると、テーブルは中庭にあって吹きさらしなのである。
げっ、この寒いのに外で食べるの??
とは思ったけれど、歓待してもらっている私がぶつぶつ言うわけにもいかない。そのまま鼻水を拭き拭き食事をしたが、ぶるぶる身体が震えるのは止まらなかった。
食事を済ませ、使った食器を流しへ持って行こうとするが……そう、「流し」というものがここには存在しないのである。
どうしていいのか分からず、台所をうろうろしたが
「ああ、置いといて」
とお嫁さんに声をかけられたので任せることにする。
この後、いろりを囲んでみんなで話をしたのだが、このあたりからとんでもないことが次々と判明する。
 
 

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旅はまだ続く

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