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三点ほど収蔵されています。
「近江八景」 4幅 絹本著色 各93.8×26.1(cm)
岡山県立美術館 展示中
元光, 拾得詩, 南北朝時代, (14世紀), 本館蔵. 岡本豊彦, 富士山図
飯田市美術館 井村コレクション
〒395-0034 長野県飯田市追手町2-655 TEL0265-22-8118
収蔵品 「山月図」 絹本墨画淡彩 24.0×67.7p
ホームページ上では豊彦に関する記事は出ていないが豊彦作「武陵桃源図」を所蔵されています。
宮津市の文化財
紙本墨画楼閣山水図襖貼付 岡本豊彦筆
島豚「アグー」の保存に力を尽くした沖縄県名護博物館に、一巻の絵巻がある。
江戸後期の京都四条派の画家・岡本豊彦(1773―1845年)がかいた『琉球嶌真(とうしん)景』だ。
豊彦作”松?” (Pines)を展示しています。
岡山の薬王寺を紹介しておられます。
江戸時代京都の文化人 フーズフー
●近世奄美の習俗、風景写す「琉球島真景」見つかる
南島雑話以前の近世奄美の習俗を描いた絵巻「琉球嶌真景」(りゅうきゅうとうしんけい)が、沖縄県名護博物館(島袋利則館長)に所蔵されていることがこのほどわかった。作者は江戸時代後期に活躍した四条派の岡本豊彦(1773―1845)。描かれている絵は11景で名瀬湾の舟こぎ競争や農作業風景とみられる絵もある。巻物に出てくる農具や人々の様子、さらに作者の活躍年代から「南島研究のバイブルといわれる南島雑話以前の習俗だろう」「4条派が描いた絵は県内では奄美だけ」(原口泉鹿児島大学法文学部教授)とみられ、歴史民俗、美術史を解明する貴重な資料。名護博物館によると、「琉球嶌真景」は18世紀から19世紀前半にかけての琉球・奄美を描いた巻物。縦42センチ、長さ14メートルに及ぶ長大な作品。顔料で色付けされている。11景で構成され、製糖風景や輪踊り(8月踊り)、相撲、船こぎ競争などが盛り込まれている。1987年、琉球新報から寄贈された名護市は「当時の風俗、集落の様子を知る1級の資料」と高く評価し、文化財に指定した。この中には奄美の風景、習俗とみられる絵も数点ある。名瀬湾を中心にした風景にはおがみ山と伊津部、金久集落、山羊島などが描かれ、現在の新川、屋仁川と思われる河川。大島海峡を挟み加計呂麻、徳之島と思われる風景画もある。ハーリー(舟こぎ競争)の作品には立神も見える。製糖風景も目を引く。砂糖車は馬を使って木製3転子(さんてんし=搾汁機)で作業する人々や水田でクワをふるう農民の姿など南島の典型的な農作業の様子が描かれている。大和村編さんのため、沖縄を訪れ巻物を確認した鹿児島大学原口教授や名瀬市在住の歴史研究者・弓削政己さんは「琉球嶌真景」は「南島雑話以前の琉球・奄美を描いている」とみる。岡本豊彦は1845年に死去。南島雑話を執筆した名越左源太(1819―81年)が奄美に滞在したのは1850―55年までの5年間。岡本が活躍した年代から南島雑話以前に描かれたことは明らか。(11・17)
http://61.205.68.50/kikaku/kurobuta/kb5-11.htm
南日本新聞
島豚「アグー」の保存に力を尽くした沖縄県名護博物館に、一巻の絵巻がある。江戸後期の京都四条派の画家・岡本豊彦(1773―1845年)がかいた『琉球嶌真(とうしん)景』だ。
キビ刈り、相撲など11景からなるが、島豚も描かれている。婦人が、耳につけたひもとむちで豚を操る。種付けに行くところだろう。豚は粗い黒毛に覆われ、バークシャーと違って尾が垂れ、鼻が長い。北部農林高校で見たアグーとそっくりだ。 絵巻は20年ほど前に、福岡県の旧家で見つかった。「やんばる(沖縄本島北部)の風景だ」ということで、名護博物館に寄贈された。ところが、8月踊りや港の風景の特徴などから、最近では「奄美を描いた可能性が強い」(同館の比嘉武則主査)との見方もある。専門家が間違うほど、奄美と沖縄は古くから同じ文化を持ち、島豚もまた生活に密着していたのだ。
http://www.murrieta.k12.ca.us/alta/dburlison/2002/15j/artist.html
Artist Project
Okamoto Toyohiko was born in Bizen, Japan. He was a pupil of Okyo and Gopshun. He was one
of the best painters at painting landscapes and animals at the Shijo School.
http://www.umich.edu/~hartspc/aapd/NOMA.html
Japanese Paintings from the New Orleans Museum of Art
9454, Okamoto TOYOHIKO (1773-1845)
Cranes and Pines
Hanging scroll
Ink and color on silk
46 x 22 1/4 in.
Department of the History of Art
University of Michigan
Ann Arbor, Michigan 48109-1357
tel: (734) 764-5555; fax: (734) 6474121
http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/jinbutsu/2259/info.html
岡本茂彦( 〜天保15年)
画家。字は吾仲。合敬又は能久斎と号した。通称岡本兎毛又は左馬。京都の人。塔之壇幸神町に住し、岡本豊彦門下の俊足として賛えられた。天保十五年十月十二日没。年三十七。念佛寺に葬る
http://www.bbc.co.uk/paintingtheweather/csv/artist/toyohiko.shtml
イギリスBBCの天気に関するページに豊彦の作品で大英博物館に有る
「夏の海辺、冬の山中屏風」1827年作
{Seashore and Mountains in Summer and Winter}
http://www1.harenet.ne.jp/~co-kfs/tms-j/heso/heso.htm#kosyo
へそまつり
「第5回古書画名幅展」
− 没後180年記念特別展、郷土の歌人木下幸文とゆかりの人
と き : 8月25日(土)9時〜15時
と こ ろ : 玉島「羽黒神社内羽黒会館」
監 修 : 前倉敷市文化財保護審議会委員
古城真一
入場無料
展示予定
<特別展>
木下幸文、澄月上人、西山拙斎、慈延上人、小澤芦庵、伴 蒿蹊
香川景樹、小野櫟翁、熊谷直好、小野 務、平松安材、浅野 譲
田中年足、森 宣周ほか
<玉島をしのぶ木版画>
明治初年の玉島港、江戸期の円通寺ほか
<倉敷三代画人>
黒田綾山、岡本豊彦、古市金蛾
http://davinci.ntu.ac.uk/rws/researchers/visualarts/richardwoodfield/dasbuild/Berlin%20-%20legends.htm#_edn1
Problems of Painting and Viewing in the Eighteenth Century
Fifty painters and calligraphers were invited to a gala that lasted two days. Okyo was now dead, but his pupil Goshun and son and heir Ozui were present, as were Hara Zaichu, Watanabe Nankaku,
Okamoto Toyohiko and an assortment of other celebrities.
http://www2.memenet.or.jp/~acf/tabuchi/index.htm
赤穂市立田淵記念館
http://www.naoshima-is.co.jp/press/no5/part5.htm
蔵の中には「Changing Landscape」が展示されています。赤く塗られた掛軸の画面に、白く塗り残されたデジタル数字越しに山水画が描かれているのを見ることができます。この山水画は江戸時代の画家・<B>岡本豊彦</B>によるものです。江戸時代に描かれ、画面に留められていた自然の風景やそこに流れ続けていた時間が、現代の目を通して改めて感じられます。
パート5
http://www.murrieta.k12.ca.us/alta/grade3/artists/toyohiko.html
Keibun &amp; Toyo ,Toyohiko
http://www.museum.pref.mie.jp/miekenbi/catalogue/mie_kinsei/mokuroku.htm"
三重県立美術館
また、「諸家書画帖」は、1794年(寛政6)に京でつくられたことが序文から知られ、「諸家書画巻」は、1818年(文化15)に制作されたものという。
これらの書画集成では、画家では谷文晁、大原呑響、岡田米山人・半江父子、浦上玉堂・春琴父子、中林竹洞らの南画家に加えて司馬江漢や岡本豊彦らの名を挙げることができ、また書では菅茶山、大窪詩仏、皆川淇園、篠崎小竹、福原五岳、村瀬栲亭、亀田鵬斎ら当時の名高い文人学者たちが数多く参加している。
http://www.hq.kusa.ac.jp/bunka/k9911.html
■文化 ・郷土史−岡山の郷土を彩る画人群像−
11月12日(金)13:30〜15:30 講師:木村 重圭 (倉敷芸術科学大学 芸術学部 教授)
岡山県からは雪舟にはじまり、江戸時代の文人画の大家浦上玉堂、春琴の父子、四条派の重鎮岡本豊彦、柴田義董らを輩出しています。そして、近代になると京都画壇を代表する日本画の巨匠小野竹喬、洋画家では日本洋画界の草分け松岡寿や原田直次郎、松原三五郎らがいます。
http://www.toyohaku.gr.jp/bihaku/jyunikeizu.htm
豊橋市美術博物館
十二景図(にじゅうにけいず)
原田圭岳(1803−1885)
原田圭岳は、江戸末期に西尾に生まれ、画を四条派の岡本豊彦に学びました。天保初年ごろに同門の友人を訪ねて吉田に逗留し、その後江戸に赴き活躍していましたが、安政大地震で再び吉田を訪ずれました。そして、吉田に永住を決意し恩田石峰・稲田文笠亡きあと吉田・豊橋画壇で活躍しました。
十二景図は六曲一双屏風に今も続く安久美神戸神明社の鬼祭、吉田神社の夏祭りでの頼朝行列など、12の画面に、この地域の四季折々の行事が描かれて見応えある作品となっています。
http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan146.html
岩手日報/21世への遺産
1997年10月31日付
Vol.146
「仙人図(せんにんず)」
(紙本淡彩、181×70a・江戸後期)=岩手県立博物館蔵
江戸時代後期の盛岡藩士であり漢画系の画人としても知られる沼宮内蘭溪(ぬまくないらんけい・一七九八ー一八三七)の作品。杖(つえ)をつき瓢箪(ひょうたん)を手にするのは中国の八仙人の一人で鉄拐 (てっかい)。鉄拐は隋代の仙人で名を李洪水(りこうすい)という。
仙人の術を習得中に魂が身体を離れ、還(かえ)るところを失い、やむなく乞食(こじき)の死体に乗り移ったという。仙人は永遠の生命を得たいという人間の現実的な願望が生み出した存在であり、人格的なものとして描かれている。
南部家が所蔵した絵画が記録されている「御掛物御判帳下帳」の中にも、著名な狩野派画人の筆になる仙人図・寿老人図などの作品が多く見られる。不老長寿や超人的な力を得た仙人・聖者は漢画を中心に多く描かれ、古くから親しまれた画題だったことがうかがえる。
蘭渓は名を秀厚(ひであつ)、通称を御杖(みつえ)といい、天保八年に三十九歳で没したことが「盛岡諸家忌辰録」(盛岡市史収録)に記されている。はじめ絵を本堂蘭室に学んだとされ、「蘭渓」の号も蘭室の一字を譲られたものであろう。後に京都に上り、円山四条派の<B>岡本豊彦</B>に学んだという。
残された作品には「水車に犬図」(岩手県立博物館蔵)のようにその影響を強く感じさせる写実性に富む作品も見られる。
(岩手県立博物館・阿部 守雅)
http://www.city.sayama.saitama.jp/history/bunkazai/kaiga.htm
絵画狭山市
さやまの歴史文化>>>さやまの文化財>>>絵画
狭山市指定文化財 〔有形文化財・絵画〕
昭和51年(1976)4月1日指定
所在地 狭山市柏原 1635 小谷野家
柏原にある「仙人の図」は柴田是真(しばたぜしん)の作で、鉄拐(てっかい)と蝦蟆(がま)が1幅ずつ描かれ、2幅で一対をなしています。鉄拐は隋(ずい・現在の中国)の仙人で、空中に自分の分身を吹き出すことができ、片足が不自由で、破れた着物をまとっていると伝えられています。この図では石に座り、杖にもたれた姿が描かれています。蝦蟆は、ガマガエルを飼いならして術を使うことが得意とされる仙人で、この図では手にガマガエルを持ち、腰にヒョウタンをぶら下げ、やはり破れた着物を身につけています。
作者の柴田是真は、江戸末期から明治前期にかけて活躍した画家です。文化4年(1807)に江戸で生まれた是真は、同14年(1817)に幕府蒔絵師(まきえし)の古満(こま)家に入門して蒔絵を、文政5年(1822)には円山(まるやま)派の絵師の鈴木南嶺(すずきなんれい)に師事し、南嶺の紹介で四条(しじょう)派の岡本豊彦(おかもととよひこのもとで絵画を学びました。
http://web.ktarn.or.jp/kurume-u-hp/nakatsu/art/gajin30.html
キャラバン中津久留米市
田中馬溪(たなか ばけい)
下毛郡耶馬溪の人(住所を詳にしない)。
初め岡本豊彦について画を修めた。のちよく漢風画を描いた。
天保(1830−1844)以降の作をのこすという。
晩年には、元・明の画風をも研究した。その他未詳。
http://www.yamatane-museum.or.jp/html-monthly/2001-01.html
山種美術館
柴田是真(しばた・ぜしん)
1807-1891(文化4-明治24)
子日図
1882(明治15)
絹本・彩色・軸(1幅)
45.2×56.0cm
*この作品は「新世紀を迎える名画」展(2001年1月5日〜1月28日)に展示されています。
◆作品紹介◆ 本図は、幕末から明治期にかけての画家・蒔絵師(まきえし)である柴田是真の作であり、年中行事のひとつ、「子日」(ねのひ)の小松引を主題としている。
画面右下に「行年七十六是真」の落款(らっかん)があり、その下に朱文印「対柳翁」が捺されている。これにより1882年(明治15)制作であることが判明する。また本図を収める箱には、是真の弟子で蒔絵師・松野応真による箱書「子日図 先師是真翁筆」「応真鑒題」の墨書がある。
この作品の主題である子日とは、平安時代、正月最初の子の日に貴族たちが野に出て小松を引き抜いて一年の邪気を払い、不老長寿を願うという行事であった。そのあとで歌宴を張ったり、若菜を食すという、春のはじめの優雅な野遊びであったという。この子日の遊びは小松引きともいわれている。これらを絵画化した例としては、冷泉為恭筆「円融院子日御遊之図襖絵」(岡崎・大樹寺)や同「子の日図(若菜摘)」(東京国立博物館)などが知られる。
さて、本図では前景の右手には立烏帽子(たちえぼし)に狩衣(かりぎぬ)姿の公卿と、その傍らに童狩衣姿で垂髪の童子を配する。また、公卿の周辺には若松が数本生えており、その間に流水を配する。公卿の奥には淡墨によって、公卿の従者と推測される5人の人物を配している。明確に描かれた前景と、淡く描かれた群像との差が大きいため、霧でもかかっているのではないかと思われるほどである。
的確な人物描写、松や岩の描写などから柴田是真が蒔絵師としてだけでなく、絵師としても相当な技量をもっていったことがわかる。因みに1836年(天保7)刊の『公益諸家人名録』には、是真は本業は画家であると記載されており、蒔絵師としてより画家として世間では通用していたらしい。
なお、是真は本図にさかのぼる数十年前の青年期の京都遊学時代に、京都・大雄院に稚松図襖絵を描いている。稚松図(わかまつず)は小松引(子日遊び)から派生したものとの説もあり、本図の成り立ちを考えるうえで興味深い。
http://www.jade.dti.ne.jp/~riichi/sakka/-100/0052.htm
柴田是真 美術古書籍・ギャラリー りーち
(しばたぜしん)
文化4年(一八○七)〜明治24年(一八九一)幼名を亀太郎、のちに順蔵。字は?然、別号を令哉、対柳居、沈柳亭など。
はじめ古満寛哉に蒔絵を学び、のち四条派の鈴木南嶺に学んだ。天保元年に南嶺の紹介で京都の岡本豊彦についた。京都では香川景樹に国学を、頼山陽に漢字を、茶道を吉田宗意に学ぶ。画は是真一流を築いた。明治23年帝室技芸員となった。代表作は「瀑布図屏風」「富士田子の浦の図」。また蒔絵と漆絵に独特の作風で明治漆工界に貢献した。漆絵の代表作「烏鷲蒔絵菓子器」(東京国立博物館)がある。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~poietes/fragmenta/senraku/510koyama.htm"
510koyama
www.kokoha.com/info01/draw.html
有名人、著名人のお墓案内
http://www5b.biglobe.ne.jp/~poietes/fragmenta/senraku/510koyama.htm"
510koyama
理 性 類 比 者
洋画東漸の来歴(二)(美術新報第一巻第七、八号所載)
小山正太郎氏談
円山四条両派の特色
応挙は初め画を探幽派の石田幽汀に学んだけれども、其時代の作には感服する程のものなく、応挙の応挙たる所は全く此和漢の古法以外に写生を研究せし後の作にある。呉春も亦初めは種々の画風を習ひ、蕪村などにも学んだが、其呉春の呉春たる所は応挙に交り、共に写生を研究せし後の作にある。併し其筆勢の一部などには、後の作にも間々蕪村流の趣味の存するものがあるのを見受ける。それから景文、蘆雪、南岳・豊彦などの天才は相続いて出で来り、皆応挙呉春に従ひ、其指導に依て二氏の注目せし点と同じ所に注目し、各自の天才に由つて多少の異采はあるが、兎に角同一の軌道を進んだので、写生派なるものは忽ち天下に拡まり、殆んど当時の画界を風靡した。応挙の門人中で、特に深く蘭画を習つたのは森徹山である。高橋由一氏の所蔵せる徹山の粉本中には石版画を模写したもの杯に、非常なる骨折で又中々好く出来て居るものもある。併し此の円山派四条派も其後に至り、師弟受授の久しき自然一派を形造つたが為め、漸く先輩の格式に拘束せられ、今日では最初のやうに自由自在に働きが出来ぬことゝなつて、其源は遂に忘れられて来ました。