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「フェイク」第472号

「板本尊偽作論で攻めよ」
山崎正友と原島高が「慧妙」でウソ八百G
山友、身延僧に大石寺攻撃を示唆

山崎正友は学会→正信会→身延派→妙観講を渡り歩く度に、自分の都合に合わせてク
ルクルと主張を変える変節漢である。 学会を裏切って正信会に寝返ってからは日顕
の血脈相承疑惑を言い出し、学会に対して悪口雑言の限りを尽くす。また、身延派日
蓮宗の講演会に顔を出しては板本尊偽作論を掘り下げて学会、宗門を攻撃せよ、等々
と檄を飛ばしていた。
 
そして、妙観講に移籍した途端、日顕の血脈を認定(?)する発言をして、過去に相
承を否定したのは正信会僧侶の話を聞き、それを真に受けて書いただけ、と言い逃れ
ようとする。では、山崎が昭和58年の四国正信連合会第2回総会の席上、得意満面
で日顕の血脈相承を真っ向から否定した次の話は一体、誰に責任転嫁するのか?
 
「いつ一体相承を受けたのだという事に対して53年の4月15日、日達上人の誕生
日の時に相承に付いての大事なお話があったのだと、そういう事を云ったそうであり
ます。53年の4月15日頃には、その日は明確なる日達上人の行動のスケジュール
がございます。
 
午前中ある若い御僧侶の結納の事に関して色々動かれ、お昼は地元の人達の祝賀パー
ティを受けられて、一時過ぎには東京へ立って、東京のグランドパレスというホテル
にこられまして、5時から親族と一緒に誕生パーティをされました。そういう中で一
体どこでそういう大事な儀式が行なわれたのか、誰も知らないし、時間も無かった事
は物理的にはっきりしております。

これはおそらく阿部日顕の失言であろうかと思います」 これも正信会に責任転嫁
か!?
更に「週刊文春」(昭和55年11月13日号)では「日達上人は再び「阿部も、ど
うしようもない。譲る相手が当分はいない』と周囲に嘆きながら話される状態が昭和
54年4月までつづいたのである」と批判した。
 
これは「53年の4月15日に相承を受けた」との日顕の虚言を打ち消す意図で、山
崎が書いたことは明々白々! また、山崎は身延僧の数十人と下部温泉で懇親会を開
いたり、
身延山久遠寺で講演。身延派の僧に宗門・学会攻撃を煽動したことも判明している。

 
平成6年11月には日蓮宗山梨県連合布教会主催の講演会に出て、身延僧を煽て上げ
ていた。山崎の決定的な宗門攻撃の発言は同年12月6日、東京。新宿区の常圓寺
(住職=及川真介)で開かれた第19回京浜教区教化研究会議で講演した時だ。約百
人の僧を前に約2時間にわたって講演と質疑応答を行なったが、特に「小樽問答につ
いて、どう思うか?」との質問に、山崎はこう言い放った。
 
「小樽問答は創価学会が勝っています。日蓮宗は油断していたと思います(中略)こ
の
問題について、その後も先訓として生かすべきです。臭い物に蓋ではいけません。
『板本
尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほし
いと思います」
 
この「板本尊偽作論」を掘り下げるとは、何かというと――著者は安永弁哲という身
延僧で、板本尊偽作論に加えて歴代管長裏面史が書かれている。大石寺57世日正は
「博徒乞食の群れに転落、舌癌で相承せず狂乱臨終」58世日柱は「下克上弾劾事
件」、日顕の父・日開は「食法餓鬼」、61世日隆は「管長の闇取引」、62世日恭
は「焼死して腸だけの葬式」、63世日満は「泥仕合で幽閉、辞職を強要され恨んで
逝く」、64世日昇は「混血碧眼、養鶏で蓄財」といった具合だ。
 
山崎は板本尊の偽作と合わせ、これら管長裏面史を掘り下げて攻撃するよう促したの
である。今もこの考えに変わりないのか、山崎の弁解が楽しみだ(つづく)