セルヴィウス


『『アエネイス』注解』

Servius, Ad Aeneid. 1.47 = SVF. 2.1066
 自然学者たちはヨヴィス神(ユピテル、ゼウス)をエーテルつまり火と理解しようとしているし、またユノ(ヘラ)は空気であるとしている。そして、希薄さ故にこうした要素は等しく行き渡っているので彼等はこれを充満したものと言ったのである。しかし、ユノつまり空気は火つまりヨヴィスの下にあるので、上位にある要素との正当婚約者の名を与えられたのである。

Servius, Ad Aeneid. 1.257 = SVF. 2.924
 また同時に、ストア派の教説を通り抜けることで明らかになるのは、運命付けられたものは全くどうやっても変えられえないということである。

Servius, Ad Aeneid. 1.381 = SVF. 2.559
 大地はより低い位置にあると言う自然学者達に則している。その上を統べている全てのものは実は統べられているのだ、というので。

Servius, Ad Aeneid. 1.604 = SVF. 3.45
 「そして魂は自ずから正しいことを知るものである」この句はストア派の人々に従っている。彼等が言うには、徳そのものが報償に値するのである、例え何の報償もない場合でさえ。

Servius, Ad Aeneid. 1.607 = SVF. 2.659
 しかし、星々、つまり天の火は、海の水で「消費される」、と自然学者は考えている。…太陽の光が大地の水分で消費されると考える人々もいる。

Servius, Ad Aeneid. 2.488 = SVF.2.142
 「叫び声を打ち出す」:自然哲学者に即している。彼等は声を物体だと言っている。

Servius, Ad Aeneid. 2.689 = SVF. 2.923
 ストア派の人々に従って語られている。彼等は運命には必然性がそなわっていると主張する。

Servius, Ad Aeneid. 3.90 = SVF. 2.938
 「直ちに見られた」:ストア派とアカデメイア派の人々に従っている。彼等の言うところでは、自然に反することは生じないのだが、しかし生じるようには見える。ここからして、全ての魔術は排斥されたのである、プリニウスが『自然史』で説いているように。

Servius, Ad Aeneid. 3.376 = SVF. 2.919
 運命の定義はトゥリウスに従っている。彼は言う。運命は事物の永遠にわたって自己変転する連続であり、固有の秩序と法によって変化するが、しかし変化そのものが永続性をもつという仕方においてである。

Servius, Ad Aeneid. 4.638 = SVF. 2.1070
 踏まえておくべきことだが、ストア派の人々の言説では、神は一つであり、行いや働きに応じて名前が変わるだけだというのだ。そこからして両性具有の神とも言われ、例えば、海々として働く時には、受け入れるという女性的な本性を持つのである。ここからして「悦ばしい妻の母胎に降臨する」(『農耕詩』2.326)とも言われるのだ。

Servius, Ad Aeneid. 4.696 = SVF. 2.958
 つまり、もし我々が運命に従って生きているのならば、人々は何故利益になることをするのか。もし我々が利益を計量するとしたら、運命に従った生とはどういうものであろうか。ここで、どのようにして運命と利益を両方認めるのであろうか。さらに、「日はどれもまさにその日に成り立つ」と言われていたのをどうしてここでは「その日の前に」と言うのか。こうした事柄は次のように説明される。運命付けられたものというのは、いわゆる予言された物事もそうであるが、それとは別に、条件付けられた物事と呼ばれるものもそうなのである。予言されたものとは、どのような仕方でもよいが、将来起こるであろうと判断された物事である。例えば、「ポンペイウスは三度勝利するであろう」あの人々が運命付けられたものと判断するものは、この例で言えば、地上のどこにいたとしても、彼は三度勝利するのであり、それ以外はありえない、というものである。それで、運命付けられたものでも、このようにして予言されたものは、予言的なそれと呼ばれる。さて、条件付けられたものとは、例えば「もし、ポンペイウスがファルサラの争いの後にエジプトの海岸に辿り着いたとしたら、自刃するであろう」のようなものである。この場合、ポンペイウスがエジプトを目の当たりにする必然性は全くなく、それどころか、偶然彼がどこか他の地に運ばれれば、また別のことが将来するのである。

Servius, Ad Aeneid. 6.727 = SVF. 2.1031
 彼等に従って語られているというのもあるいは確かなことである。彼等とは、神を物体だと言う人々であり、彼等は神をこう定義する。ギリシャ語では「叡智的火」、つまり知的能力を持った火であると。このことが真実だとすると、確かに神は物体である。

Servius, Ad Aeneid. 6.733 = SVF. 3.387
 ヴァロと多くの哲学者が言うところでは、4つの感情があり、2つは善いと思われるもの、もう2つは悪いと思われるものによる。つまり、苦痛と恐怖は2つとも悪に関する信念だが、一方は現在のそれ、他方は未来のそれに関わる。同様に、快楽と欲望は善に関する信念で、一方は現在の、他方は未来のに関わる。

Servius, Ad Verg. Aeneid. 8.334 = SVF. 2.972
 「万物の偶運と逃れえない運命」この句はストア派の人々に従って言われている。彼等は生と死を運命に、その中間の全てを偶運に委ねている。人間の生の全ては不確かであるから。(岩崎允胤訳)

Servius, Ad Aeneid. 10.18 = SVF. 2.1061
 「おぉ父よ!人神に及ぶ永遠の権能よ!」:ここでプロブスはこう呼び掛けている。しかし、自然学者たちに従うことと、理科学者たちに従うことを同時に語っているのだ。というのも、神々に及ぶ権能は、それは上天そのものであるが、主要原理に関わるが、人間へのそれは、ユピテルからの善なる照明が人間に栄誉を与えるからそうなっているに過ぎないのであるから。

Servius, Ad Verg. Aeneid. 10.272 = SVF. 2.691
 さて、水星はラテン語で巻き毛の星々と呼ばれている。ストア派の人々もこの星々について以下の32巻で語っている。


Servius, Ad Verg. Georg. 1.5 = SVF. 2.1070
 ストア派の人々の言説では、神は一つであり、同一の能力を持つが、その能力が働きに応じて様々な名で呼ばれる、という以外ではありえない。こうして、同じ神が、太陽、アポロン、酒神リベルと呼ばれるのである。さらにまた、月、多産神ディアナ、農神ケレス、豊穣神ユノ、冥界の女王プロゼルピナとも言われる。

Servius, Ad Verg. Georg. 1.249 = SVF. 2.657
 「我々に戻る」:つまりかの人々のところにということである。そしてこの句はストア派の人々に則している。彼等の言う所では、太陽は再度両方の天球を巡り、反対側の人々に夜をもたらす。

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