「ま、マヤ。なによ、それは」
研究室に入ろうとしたリツコの足が床上20センチで止まる。視線はマヤの抱いている物体に注がれたまま動かない。
「あは。先輩かわいいでしょ。vinceくんって言うんです」
「名前じゃなくって! なんで研究室に犬がいるのよっ」
マヤは生後1ヶ月くらいの子犬を抱いていた。子犬はマヤによくなついていた。頬をなめるたびにマヤはくすぐったそうな笑い声をあげる。
猫好きのリツコは犬が苦手だった。おびえて部屋の隅に隠れる。大型の実験器具の陰から顔だけをのぞかせている。
「なんで犬がいるのよっ!」
恐がってそれ以上近づこうとしない。エイリアンですら実験材料にしかねないリツコがおびえている。滅多に見られない姿だ。
「ジオフロントで迷子になってたんです。かわいそうだから連れてきちゃいました」
にっこり、天使の笑顔。しかしリツコには鬼の形相に見えたことだろう。背中を悪寒がのぼってゆく。”犬”その存在自体が許せなかった。
「大切な研究室にど〜ぶつ連れてきてもいいと思ってるの!」
本人は先輩として立派に説教しているつもりらしい。だが、震える声では迫力に欠けていた。
きゃん
子犬が鳴いた。
だだだだだだだだだだだだだだだ
ドップラーローレンツシフト効果を効かせてリツコは研究室から姿を消した。マヤが引きとめる時間もなかった。
一人残されたマヤは胸に抱いた子犬に向かって話しかける。
「かわいいのに。ねえ」
きゃん
「先輩があれじゃ、ここで飼うわけにはいかないか」
「加持さんだってスイカ作ってるんだから、犬くらいいいじゃない。ちゃんと世話だってするのにぃ」
碇司令の執務室から出てきたマヤは不機嫌だった。頬がぷっくりふくらんでいる。
たしかに加持はスイカ畑を作っていたし、リツコは与えられた本部内の自室で猫を飼っていた。結構みんな好き勝手なことをしている。
ジオフロントは広い。犬小屋をつくる余裕などいくらでもあるはずだった。
大丈夫だろうとマヤは司令に許可を求めにいったのだが、あっさり却下された。それもいつになく強い口調で。
「どうしようかしら。うちはペット禁止だし。やっぱり貰い手を探さないとだめかしら」
きゃん
部屋の外で待っていた子犬が一声鳴いた。
「かわいい子犬ですね。マヤさん」
本部内をうろうろしていたところにシンジから声をかけられた。シンジ君なら安心して任せられるのけど。
「かわいいでしょ。vince君って名前つけたの」
「ほらほら、vince」
シンジは手をのばして子犬の頭をなでようとする。
きゃん!
子犬はシンジの手にかみつこうとする。マヤを守るつもりらしい。すっかりマヤの番犬気取りだ。近づく者すべてを牽制する。
「先輩、犬嫌いだから研究室じゃ飼えないのよ。シンジ君、面倒見てもらえないかしら」
オペレーターをしていることが多いがマヤはリツコ直属の部下である。本部内での自分の部屋はリツコの研究室に間借りさせてもらっていた。
「シンジ君?」
シンジはマヤの言葉を聞いていなかった。
「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」
全神経を子犬に集中させている。子犬におどかされた自分が許せないらしい。
震える手を子犬に向かって伸ばす。
きゃっきゃん!!
うっ。
「僕は、僕は臆病で卑怯で意気地なしで、うわぁぁぁ〜〜〜ん」
子犬に破れたシンジは泣いて走り去った。
「あ、シンジ、くん」
マヤはただ見送るしかなかった。
「猫ならあずかってもいいけど、犬はだめよ」
マヤの半径2メートル以内に近づこうとせずにリツコ。その目はできるだけ犬が視界に入らないようにしている。
「そんな。この子、どうみたって犬ですし」
「ふふふ。そこで提案があるの。こんなこともあろうかと!」
お得意の台詞とともに白衣を翻したリツコの後ろには、なにやら大がかりな装置があった。まがまがしい気を放っているように見えるのはリツコに対する偏見だろうか。
「な、なんですか、これ?」
質問しながらもマヤはいやな予感を感じていた。リツコ の発明品がまともであったためしはない。
また先輩の変な発明だわ。大丈夫かしら? 絶対何か欠陥があるのよね。時間軸をずらしたり、空間に穴を開けたり、レーザーが出たり。
そんなマヤには気がつかずリツコは嬉しそうに続ける。
「説明しましょう。これは犬を猫に変える装置、『いぬねこコンバーター』! よ」
・・・・・・・・・・・・・・まっどさいえんてぃすと。
マヤは目の前が暗くなるのを感じた。いくら犬嫌いだからって、犬を猫に変える装置を作るなんて絶対まともじゃない。
ん?
うみゅうみゅ〜
リツコの足元で跳ねている変なものに目が止まる。
ぬいぐるみのクマのような顔、顔の下はすぐに尻尾。変な生き物だ。やけにシュールな顔つきをしていた。尻尾で起用に立ち上がりぴょこぴょこ跳ねまわっている。
「それで、これは?」
「これ? ただの”できそこない”よ。たまに変換ミスでこんなのになるの」
やっぱり、欠陥品だわ。この様子じゃまだなにか隠していることがりそう。
「それで、成功の確率は?」
「0.000000001%よ」
はっ、リツコは言ってしまってから気がつく。科学者の性、データの嘘はつけない。でもこの場合、嘘でも100%と言うべきだった。
「ほとんど成功してないじゃないですかっ!!」
「失礼ね。ゼロではないわ」
「ゼロじゃなきゃいいってもんじゃないです!」
「理論上では大丈夫なのよ」
うみゅうみゅうみゅうみゅうみゅうみゅ・・・・・・・・・・・・・・・
リツコの実験室から”できそこない”の大群があふれだした。
「その理論で、コレですか」
「あはははは。だめ?」
「だめに決まってます!」
マヤは悲しそうな顔をするリツコを無視することに決めた。
同情したらだめよ。あれが先輩のテなんだから。
だいじょうぶよ。あなたはわたしが守るもの。マヤは子犬をぎゅっと抱きしめた。
「葛城さん!」
作戦室に向かうミサトを呼び止める。
「あの、お願いがあるんですが。この子、預かってもらえないでしょうか?」
ミサトがペンギンを飼っていることはNERV内でも知られている。ペンギンがよくて犬がだめということはないだろう。
問題は、ミサトの性格だ。世話はきっとシンジ君の役目になるだろうから問題ないとして。いじめられたり、アルコール中毒になったりしないかしら。
その辺はマヤも考えた。しかしこのまま子犬を放りだすこともできない。苦肉の選択だった。
「うち? penpenいるんだから、もう一匹くらい増えても問題ないけど。犬ペンの仲ってどうなのかしら」
「ミサト? どうしたの?」
「あら、アスカ。この子、うちで預かってもいいかしら」
廊下で立ち話をしている二人を見つけてアスカが寄ってきた。アスカの後ろにはシンジが従者のように従っている。
「きゃああっ、かっわい〜〜〜い」
アスカは少女らしいリアクションを見せてマヤから子犬を受け取った。ひとしきり撫で回した後、床におろして自分もその横にしゃがみこむ。
「ほら、お手」
ぷい
子犬は差し出された右手を無視する。アスカの額に#が浮かんだ。
「おかわり」
ぷい
今度は左手を差し出すがまたもや無視される。子犬にはアスカを怒らせることの恐さは分からない。アスカは何より無視されることが嫌いだった。額の#が三つに増える。
「なによ! このバカ犬。ちっとも言うこときかないじゃない!」
「アスカちゃん、それは無理よ。まだ何にも教えてないんだから」
さっき拾ってきたばかりなのだから当然だ。しかしマヤの弁護はアスカに通じない。
「ふん! あたしの言うことはなんでもきかなきゃいけないのよ。ほらシンジ、お手」
わん、シンジは左手をアスカに差し出す。すっかり調教されてしまっているようだ。
「いい! ミサト。そのバカ犬、連れて帰ったら承知しないから。シンジにも劣るわ!」
「あ、あはははははは。あたしは別に構わないんだけど。アスカがあれじゃね。ごめんね」
「レイちゃん、一人暮らしよね。この子の面倒、見てもらえないかしら?」
もう残るのはレイちゃんしかいないわ。レイに預けるのはかなり問題がある気がするのだが、背に腹はかえられない。それにペットを飼うことが彼女の情緒教育にもなるかもしれない。
そんなことを考えながらマヤはレイに話を切り出した。
レイはじっとマヤに抱かれた子犬を見つめる。
これはなに?
犬。
いぬと呼ばれるもの。
どうぶつ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「赤犬?・・・・・・・おいしい?」
「あ、あのね。レイちゃん。これは食べ物じゃないわよ」
レイの一言はマヤを混乱させるのに十分だった。どういう思考回路を経由すればそのような発想がでてくるのだろう。レイの考えは誰にも分かりはしない。
「何を言うのよ。食べたりしないわ。
肉、キライだもの」
びくっ、平然と肉あつかいをするレイに恐怖を感じた。マヤは子犬を背中に隠す。レイの目つきが恐かった。
「あ」
ぴぴん、レイの青い髪の毛が一房たった。
「碇くんが呼んでる」
よ、怪○あんてな??
たしかにレイには人と違う感じがあった。というより、 人間離れしていた。
「さよなら」
呆然とするマヤを残してすたすたと歩いていくレイ。その背中が見えなくなる頃、
ぴんぽんぱんぽ〜ん
『零号機パイロット綾波レイ、至急作戦会議室まで・・・・』
アナウンスが流れ始めた。
やっぱり、やっぱり、レイちゃんに預けようと考えたわたしが間違っていたのよ。レイと話した後に残るこの虚脱感は何なのだろう?
マヤは崩れ落ちそうになる膝を支えるのがやっとだった。
『父さん! 父さんは僕を裏切ったんだ! そこにいるんでしょ。返事をしてよ!』
司令部のモニターにはエントリープラグの中のシンジが写し出されている。血を吐くような叫び。
こちらの映像は届いていないはずだが、全員が自分が責められているような気分を味わった。
せっかく、好きになりかけていたのに。どうしてだよ、父さん。シンジの流す涙はすぐにLCLに溶けこんでしまい頬を濡らすこともない。
その姿を見つめる碇司令は冷静だ。外部電源を外されたとはいえ初号機にはまだ内部電力が残っている。やけになったシンジが何をするか。そして今の彼を止められる者はいないというのに。
『父さん』
決意を秘めた目でモニターを見ているはずの碇司令をにらみつける。
『初号機に乗ってるこのvince君、父さんの部屋に入れるよ。』
LCLの中で犬かきをする子犬がモニターを横切った。
・・・・・・犬をいれるな、犬を。
モニターを見ていた碇司令の表情が変わった。滅多に見せることのない表情へと。
これは、使える、その変化に気がついたミサトは心の中だけで笑いをもらした。にひ。
「・・・・・・・分かった。要求はなんだ」
『約束してたおこづかいのアップ』
裏切りってそゆことだったのね。(暗くなるわけないじゃん。この話。
「こんこん、マヤちゃん、ちょっち、つき合って欲しいんだけど」
ノックの音真似をしてミサトが研究室の入り口から手招きしている。
先輩じゃなくってわたしに用だなんて。なんだろ?
「あ、vince君にもつき合って欲しいんだけど」
「はい。分かりました。おいで、vince」
子犬を抱いてマヤが立ち上がる。向かうは碇司令の執務室。
「また君かね」
「へへへ、お給料のことでご相談が・・・・」
「駄目だと何度言ったら」
碇司令の態度はそっけない。いきなり『帰れ』と言われないだけましかもしれないが。
「マヤ、入ってきてちょうだい」
ぱちん、ミサトの指が鳴り、それを合図にマヤが部屋の中に入ってくる。
マヤが抱いているものを見た碇司令の顔色が変わった。暗く落とされた証明、濃いサングラス、それでも分かるほどの劇的な変化だった。
きゃん
ずざざざざざっ、椅子がひっくり返るのではないかと思えるほど碇司令は大きくのけぞる。額に汗が浮かんでいた。
「・・・・・・要求を聞こうか」
碇司令は、墜ちた。
かくしてvinceは対碇司令の最後の切り札(そのわりに気軽に扱われる切り札だが)としてその席を確保した。
その後のお話
「このままでいいのか、碇?」
「ふ、問題ない」
サングラスを光らせるいつもの台詞。しかしそれが強がりであることは明らかだ。顔が青ざめている。
机の上には休暇届け、給料増額の直訴状、待遇改善の嘆願書、領収書の束(飲食店、備品、交際費、交通費、中には用途不明なものある)がうず高く積み上がっていた。
碇司令が極端な犬嫌い(恐怖症レベルだな)であることが広まって以来、連日のようにvinceを抱いたマヤとともにNERV職員たちが自分の要求を突き付けにやってきていた。
弱みを見せると付け込まれるのが世の常である。それはNERVとて変わりはない。
特に『恐い人』として知られてきた碇司令。みんな今まで言えずにいたうっぷんが溜まっていた。
「ところで、冬つ・・・・・・なんわぁぁっ!!」
後ろを振り返った碇司令はわけのわからない叫び声を上げる。
「すまん。碇、私も休暇が欲しいのだが」
わう
冬月の抱いていたものが声を上げた。
その後、NERV本部内で犬を飼うことが流行ったのは言うまでもない。
碇司令の受難はまだまだ続きそうである。
どもども、睦月@イブキマヤガスキーです。
記念ヒットを踏んでいただいたお礼SS、やっとお届けすることができました。
リクエストをいただいた『マヤちょんと自分(vinceさん)が出てくるお話』です。
今回は、辛かったぁぁ。
マヤガスキーなくせに(だから?)マヤものはなかなか書けないんすよ。それにマヤは自分とこにおきたいし。(笑
でもマヤのCGもいただきましたし、同じマヤガスキーの血を持つ者同士(爆)ということで、贈呈させていただきます。
子犬のvince君、気に入っていただけたでしょうか?
では、これからも『海の彼方』の発展をお祈りいたします。
ここまで読んでくださったみなさま
拙いお話に最後までお付き合いいただき感謝です。
もしもご縁がありましたならば、また別のお話でお会いしましょう。
睦月
mutsuki@eos.dricas.com
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