松の廊下

現在の松の廊下跡

松の廊下

松の廊下跡の石碑

刀

上の二枚の写真は、現在の松の廊下跡を撮影したものです。元禄十四年(1701年)3月14日に浅野長矩が吉良上野介を斬りつけた場所(松の廊下事件)です。
現在は、気が生い茂り左右にベンチがあるとても静かな場所です。
では、実際の松の廊下はどの様な場所だったんでしょう。松の廊下は、将軍との対面の場所である白書院に至る大廊下であり、廊下という現代のイメージとは、違い畳敷きであり部屋とのしきりに障子や壁に松の絵が描かれていたので松の廊下と言われました。
何故、浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたんでしょうか?多分、服装の違いでしょうね。浅野長矩は、長袴の礼服で吉良上野介の服装は、狩衣でした。狩衣は、長袴と違い公家さんが狩りをするときに着た服で、長袴と違い足首の所で括っていたので走る事ができましたが浅野内匠頭の長袴では、とうてい走る事は、できません。それに殿中差しじゃ斬りつけても致命傷は、与えられないし斬りつけるなら刺しとうすのがどうしてできなかったんでしょうか?  また、あまり知られていませんが浅野内匠頭の母方の内藤家(母の弟)でも松の廊下事件の21年前に芝の増上寺で同じような刃傷沙汰を起こし母は方の内藤家は 断絶になっています。

忠臣蔵の討ち入りの真実
皆さまは、この松の廊下で実際の刃傷沙汰があったと思うでしょうが 実際は、この松の廊下ではなく、表白書院の大廊下であり松の絵は 書いておらず白壁に白障子でありました。何故、松の廊下と言いますと 赤穂藩は、松の間詰めの大名であったのであったのでその間の前で刃傷した ことにしてしまいました。  また、討ち入りの際の服装は、火事装束ではなく黒っぽい小袖を着て 服装は、揃ってませんでした。合い印には、袖に白い布を付けて集まった そうです。大石内蔵助が打ち鳴らす陣太鼓も実際は、ただのどらでした。 当日も雪は、降らず晴れていたそうです。討ち入りの日も14日ではなく 15日の午前四時でした。