時の流れは誠したたかに敏速なもであると同時に、学校教育とは、生徒の学びたい意志を尊重するのではなく国策(学校の方針に則った思考)を基準に人材を育成する。
基準と書いたが、ここでいう基準とは、「カリキュラム」である。学校と名の付く機関では必ずカリキュラムが存在する。ではカリキュラムはなんぞや。そう「授業」そのものなのだ。
学校の基本は「授業」であり、生徒は授業のために学校に日夜通っているのだ。その授業がどうであれ、学校の保守を前提として考えている授業のためにどんなに、つまらない、ためにもならない、といった意見も反映しないのはそのためなのだ。
学校とは、各学校のさまざまな教育指針をパンフレットに記載されてるが、それはあくまでも成立しない目標であると考える。その目標に則って授業を推進しているのかを判断するのも、無論生徒である。授業内容そのものが学校の評価基準である。優秀な教師がいるとか、最新の設備投資をしているからといって授業に反映されてるとは限らないのである。
著者の主張は、「情報科学などどいう高名な学校であるが、生徒の意向をこれっぽっちも耳を傾けず、その授業が自己中心的な凡人・教師のあつまりが教卓に立つ連中の集落である。に止まらず、学校の基本である授業があまりにもズサンで野蛮であることにつきる。」
注:授業内容の記事の詳細なことはこのページには記載せず。
時の流れ〜社会は変わった、だが・・・
コンピュータ系いや情報系と言おうか、情報を学ぶという観点から考えると紛れもなく、社会の情報に則ったコンピュータ育成をする場が、専門学校に託された社会的な指命ではないのか。
私は言いたい。学校という場の教育だけの知識の押しつけではなく、社会の流を見出せるような教育が必要なのだ。
資格社会などと持てはやされる時代だが、資格が経験程度のことだと定義した。だが資格(2種)がそんなにも名誉で実力のある人間像の象徴と主張するのであれば、あんなにも試験問題が固定化するのか。古くさい概念ばっかに囚われてばっかいる資格なのか。
著者の記憶では、在学中に資格は基本。みたいな発言したバカ教師がいた。資格が基本と立派に発言する教師ほど資格の本来の意味がまるっきり理解も見解もない人間である。なぜ基本というか、
「情報系の学校の教師になるための条件が、国家資格が大前提であり、資格=基本とう返答で生徒にたいして脅かしをしているのだ。資格を取得しないと就職先がまったくないように遠回りに脅しをかけているのだ。それと、国家資格取得をうまく美化し2種という売名を利用して差別化をはかっている、教師の思い上がりでも何者でもないのだ!!。
でも専門学校だから、せっかくだから資格とらないと意味がないとお思いになっている方々に、形式や名ばかりに囚われ、もっと大事でもっと必要な勉強、資格という値札みたいな者で判断出来ない何かを大事にしてほしいと切に祈る。」
資格でその人間像を判断にする風潮は残念ながら未だ根強い。それでも資格取得してバラ色の人生を歩んでいる大勢の人もいるのもこれまた確かだ。著者は資格取得を真っ向から批判しているように書いてるが決してそうではない。
もっと目的意識を持って資格取得を考えてほしいことにつきる。教師の脅かしなんかで安易にしてはならない。
社会は確かに変わった・・・・だが、学校は変わらない
生徒は確かに変わった・・・・だが、教師は変えない
この呪文のような暗示をよくみなさん考えてほしい。 そして全ての学生に言いたい。
目的意識・学習意識をもち、なおかつその学生の希望を叶えない学校には無理して通う必要はない。
お金も無駄だが、お金よりもっと大事で取り返せないものがる。著者がそうであるように、
時間(トキ)は戻ってはきません。
そして本来の学校の主役をもう一度考えてほしい。現在の学校運営は決して、生徒の立場なんか無視した運営なのは明白である。教師の立場を尊んじた運営である以上、その場で勉強する価値もサービスも生まれない。サービス受ける側のことをいっさい無視したサービス産業など紛れもない詐欺であるように・・学校法人などという綺麗な衣も我々消費者で成り立っていることを忘れてはならないと同時に、あの岩崎学園のビルのあの1枚1枚のタイルが消費者の汗と涙の変形であることの2点は把握しなければならない。