side_story-10 (Masaya.T) 

京子さんがドアを開けて出ていくのを見送りながら、
僕は美也子さんの傍にイスを運び腰を下ろした。
「心配しましたよ。ほんと」
「ごめんね、寝ていたら治るかなって思ったんだけど」
「美也子さん前に入院したとき、言われてたじゃないですか。
 基礎体力が低下してるから、無理しちゃいけないって」
「うん」
「僕が電話してなかったら今頃…」
今頃、どうなっていたのだろう。後の言葉を飲み込んでしまう。
空白の時間が流れる。
と、タイミング良く京子さんが看護婦を連れて戻ってきた。
「お目覚めですか、どうですか?」
看護婦がてきぱきと質問し応対している間、僕たちは外に出ていることにした。

「やれやれ、とんだデートになったわねー」
「すみません」
「なによ、別に滝ぼんが謝ることでもないじゃない」
「なんとなく…」
「あぁ、もう気弱なんだから、滝ぼんは。
 男はね、もう少しガツーンと強気でいかなきゃダメよ?」
「京子さんみたいに強ければいいんですけどね」
僕は笑ってそう返した。
本当は、京子さんは強くない。強がってるだけだ。
それは判っていたけれど、京子さんは自分が虚勢を張っているのを
見破られるのが好きじゃない。だから、僕は騙されているフリをする。

「そうそう、軟弱過ぎなの。最近の男はね」
「あー、ストップストップ。こんなところで男談義、始めないでくださいよ」
「望むなら場所変えて朝までお聞かせするわよ」
顔を見合わせてお互い吹き出す。
美也子さんが大丈夫だったのを確認して、
二人とも少しほっとしたからか口数が多くなっている。

そうこうしているうちに看護婦が出てきた。
僕たちは軽く会釈して、中に入る。

「京子ちゃんにも心配かけてごめんね」
また美也子さんが謝る。
「まぁ、そう思ったら次から倒れないようにしてよ」
京子さんは病人にも容赦がない。
けれどそれは彼女の不器用な優しさだと思う。
美也子さんだってそれは判っているだろう。

「じゃ、京子さんこの辺で僕らは帰りましょう」
「そうね。美也子、何か持ってきて欲しいものとかある?」
「うぅん、今のところちょっと思いつかないから…」
「じゃ、何かあったら携帯にでも電話しておいで」
「ありがとう。あのね、お兄ちゃんとかには」
「はいはい、言わないでおくから。さっさと治しなさいよ」

美也子さんは体調を崩していることを親や兄に知られることを嫌がる。
絶えず実家に引き戻そうと考えている彼らにとって、
美也子さんの体調の悪さは格好の理由となるからだ。

「美也子さん、仕事のことは僕がなんとかしますから
 ゆっくり休んでくださいよ。また明日にでも寄ります」
「ありがとう」
「それじゃ」
京子さんがドアを開け、僕がそれに続いて出ようとしたとき、
「…滝川君に助けてもらったの、二度目だね」
美也子さんがぽつりとそう言った。
「そうですか?」
僕は言葉の意味に気付かない風を装った。
「ごめんね、いつも迷惑かけて」
「迷惑だなんて思ってません。早く治してください」

そう言って僕はドアを閉めた。

「二度目って?」
エレベーターのボタンを押し、乗り込む僕に、京子さんが問いかける。
「なんだ聞こえてたんですか」
「地獄耳の京子って、有名なんだけど知らなかった?」
「恐れ入ります」
「…で?二度目ってどういうことよ」
「美也子さん、一度崎谷先輩の後を追おうとしたことがあるんです」
「ふぅん」
「驚かないんですね」
「あたしにとっては、むしろ一度だけだったってのが奇跡的だと思うけど」

病院の前に停めてあった車に乗り込むと、
二人ともそれぞれに煙草を取り出し火を点けた。
「さて、じゃぁデートの続きをして、その話ゆっくり聞かせてもらいましょうか」
煙を吐き出し、京子さんが言う。
「長くなりそうですね」
「あたしの、男談義も合わせて、朝まで帰さないわよ」
「京子さんが言うと誘っているというよりは、脅しに聞こえますね」
「失礼ね。誘ってるのよ」
冗談とも本気ともつかない口調で、京子さんは返す。
やはり彼女の方が十枚くらい上手(うわて)らしい。

京子さんの提案で、彼女のマンションに行くことにした。
とても外で呑んで話せる内容じゃなかったからだ。
あの日最後に京子さんをマンションまで送り届けた場面が蘇る。
ここに足を踏み入れることも、二度とないだろうと思っていた。

「散らかってないから、あがって」
「普通、散らかってるけど、とかって言いませんか」
「あら、だって本当にちゃんと片づいてるもの」
京子さんは、本当におもしろい。

「久しぶりだなぁ、って思ってない?」
京子さんの右ストレートが炸裂する。
「まったく、京子さんには返す言葉がありませんよ」
「滝ぼんの、いいところでもあるし悪いところでもあるんだけど、
 すぐ顔に出るからね。考えることくらいすぐ判るわよ。
 滝ぼんの気持ちが判らないのってボケボケの美也子くらいでしょ」
今度は左ストレート。

「着替えてくるからその辺に座ってて。覗いちゃだめよ」
「覗きませんよ!」
「別にムキにならなくてもいいじゃない。純情ね。相変わらず」
けらけらっと笑いながら奥の部屋に京子さんは消えていったかと思うと
ひょいっとドアから顔を出し、
「シーバスあるから、水割りの用意しといてよ。
 前と同じところにあるから判るでしょ」
アッパーカットで、ノックダウン。

京子さんの言うとおり、何もかも知った場所にあった。
グラス二つと、シーバスをとるとテーブルに並べる。
アイスペールに氷をいれ、ミネラルを冷蔵庫からとる。

着替えを済ませた京子さんが出てきた。
「お、優秀、優秀。ちゃんと用意できてるね」
「シングルですか、ダブルですか」
「んとね、最初はシングルでいいや。つくっといてよ。
 何かアテになるもの作るわ。ナッツとチョコはすぐに出せるけど」

サバサバしていて男っぽい性格と見られがちだが、京子さんはちゃんと料理もする。
凝ったものはつくれないけれどと言うが、なかなかどうして、
料理が得意だと豪語する女性よりもよほどレパートリーが広い。

別れてから、いいところばかり思いだしてしまうのはどうしてなんだろう。

京子さんが手早くアテをつくって次々と運ぶのを見て
ぼんやりそんなことを考えた。

「とりあえず、美也子が無事だったことに対して乾杯」
グラスを重ね合わせる。
「はぁー、美味しいわね」
「考えてみたら、僕、車じゃないですか」
「あら、泊まっていけばいいじゃない」
「そういう言葉は軽々しくいうもんじゃ…」
「あ、オヤジ的発言だねー。滝ぼん説教オヤジだよー」
「困らせないでくださいよ」
「何を困る必要あるってのよ。変な滝ぼん」
くすくすと笑う。

困った僕は時間稼ぎに煙草を取り出し、火を点けてくわえる。
「もーらいっ」
そういうと僕がくわえた煙草を京子さんが横取りした。
「何ですか。京子さん自分のが…」
「あー、Salemさっきのが最後の一本なんだ」
「だったら、こっちの箱からとって…」
「うろたえることないでしょ?からかうとほんとおもしろいね。
 滝ぼんは」
この人にかかると、僕なんて赤子以下らしい。
観念して、箱からもう一本とって火を点ける。

「あら、あたしの口から取り返せばいいのに?」
挑発するように、くわえた煙草を上下に揺らす。
「まだ言うんですか、ほんとに、口が減らない人だから」
「ふふん。口は減らないわよ、一つしかないんだし」
「はいはい、もう、僕の負けです、降参降参」
「きゃはははは、楽しいわ」
おかわり、といってグラスを僕に手渡すと、
何が可笑しいのかまだ笑っている。


かなり酔いも回ってきた頃、
さっきの話について口火を切ったのは京子さんだった。

「美也子が崎谷さんの後を追うんじゃないかって、
 思わなかった日は無かったわよ」
からん、っと空になったグラスを傾けながら、中の氷をくるくると回す。

「会社で顔を合わせるたびに、ああ、今日も大丈夫だったって思ってた」
「そうですか。そんなフリ全然見せませんね。京子さんは」
「あたしね、あなたのこと心配してるわよって、これ見よがしに表面に出すの、
 嫌いなの。心配してるのは自分の心の内だけにしまっておけばいいことでしょ」
「たしかにそれはそうですけど、普通の人は表に出しますよ」
「全然心配してないように見られても、冷たい女だと思われても、構わないわけ。
 心配している事実は自分が知っていればいいわけだから」
「その通りですけど」
「あの子、目一杯元気に振る舞ってたけど、いつも綱渡りだったと思うわよ。
 精神的にはね。何でも感情を抑えようとする人間は怖いのよ。
 いつ爆発するか判らないし、爆発すると取り返しがないくらい大きいから」
「美也子さんは爆弾を抱えてる、というわけですか」
「そーゆーこと。
 それで?さっき病院を出たときに言ってた、一度ってのは、どういうことなの?」
「京子さんは休みを取ってたんですけど…」
僕はそう言って話し始めた。

            * * *

担当者とクライアントとの、ちょっとした行き違いで全面改稿となってしまい、
印刷所との関係で、僕らは徹夜を余儀なくされた。
徹夜自体は珍しいことではなかったけれど、その時の仕事量はかなりのもので、
結局三日ほど完徹に近いものになってしまったのだ。
あの頃美也子さんは、仕事に自分を追い込むことで、
崎谷先輩のことを頭から追い出そうとしていたのだろう。
周りの僕らが心配するほど、遮二無二仕事を抱え込んでいた。
けれど当人がそれを望んでいるなら、周りの人間にとやかく言う権利はない。
困っていそうなら手をさしのべる。それくらいしか出来なかったのだ。
あまり体力のなさそうな美也子さんには、お昼間に頑張ってもらい、
とりあえず夜は帰宅してもらいたかったのだが、本人がそれを拒否した。
結局僕らと同じように職場で仮眠し、シャワーと着替えのためにいったん帰宅後、
また職場に戻り仕事に取りかかるということを、三日間やってのけたのだ。

やっとの事で印刷所に原稿を届ける目処が立ち、
やれやれという三日目の朝には、気力も体力もほぼ限界に近かった。
後はいいからと、美也子さんを帰そうとした矢先、
美也子さんの姿が見えなくなった。
洗面所か?と思っては見たものの、何か気になる。
「美也子さん、見なかったか?」
周りにいた同僚に訊いてみる。
「さっき、そこのエスカレーターのところに立ってたぞ」
「エスカレーター?」
「おう、ぼんやり下みてたけどな」

まさか、と思った。
うちの社はビルの三階にある。
このビルはエスカレーター部分が吹き抜けになっているのだ。

僕は、あわてて美也子さんを探しに行く。

まさか。

まだ早朝で動いていないエスカレーターのところに、確かに美也子さんは居た。
吹き抜けのところの落下防止のアクリル板のところに腕を乗せ、
微動だにしない。

「美也子さん?」
「…」
返事がない。
「美也子さん」
僕はそっと彼女の肩に手をやった。
ゆっくりと振り向いた彼女は、泣いていた。
いや、泣いているというより、涙だけが流れているというような、
そんな感じだった。
感情というものがどこかに消えてしまい、ただ、涙だけが頬を伝っているような、
そんな風に見えた。
美也子さんは、僕を見ている。
だけども、僕を見ていない。
気力と体力が尽きた瞬間、彼女の感情が過去を呼び戻してしまったのか。
僕と美也子さんは、長い時間視線を交わしたまま無言だった。

「楽に…」
「え?」
涙を拭おうともせず、美也子さんは、独り言のようにつぶやいた。
「楽に、なれるかな…」
美也子さんの考えていたことが一瞬にして判った。
アクリル板を乗り越える気だったのだろう。
「美也子さん…」
「ねぇ、楽になれるかな」
首を少し傾げ、泣き笑いのような表情になる彼女。
今日に至るまで、ずっと押し殺していたであろう、その感情を、
ついに吐き出してしまったのだ。

彼女が僕の手を振りきって、次の行動に移らないように、
しっかり腕を掴んで、僕は言った。
「美也子さん、美也子さんはそれで楽になれるかもしれませんよ」
「だったら…」
「でも、聞いてください。美也子さんがもし崎谷先輩の後を追うようなことがあったら」
「お願い…」
「残された僕らはどうするんですか?
 美也子さんが崎谷先輩を失った哀しみに苦しんでいるのと同じように、
 今度僕たちは美也子さんを失った哀しみを背負うことになるんだ」
「もう、いやなの…」
「美也子さんは、そんなに無責任な人ですか?
 自分さえ楽になったら、僕たちが苦しんでもいいんですか?」

一か八かの賭だった。
美也子さんは人に迷惑をかけるのが人一倍嫌いな人だ。
彼女の理性が残っていれば、そこに問いかければ、思い直してくれるに違いない。
逆効果になれば、彼女を止めることは出来ない。

「滝川君…」
「そうでしょう?美也子さんが後を追って崎谷先輩喜びますか?
 きっと、怒りますよ。生きたくても生きれなかったのにって怒りますよ」
「…」
「馬鹿なこと、考えないでください。辛いのは判ります。
 いや、僕の想像の範疇なんて越える辛さを抱えているんだと思います。
 だけど、美也子さんは、ちゃんと崎谷先輩の想い出を大切にして欲しいんです」
「私は…生きなければならないのね」
「そうですよ。ちゃんと生きてください。馬鹿なこと二度と考えないでください。
 崎谷先輩が生きていた証は、美也子さんが生きることで残るんですから」
「滝川君…」
「上手く言えないけど、僕は生きてて欲しいんです。美也子さんに。
 辛かったら、話してください。力にはなれないかもしれないけど、
 独りで何でも抱え込まないでください」
「腕…離して」
「美也子さん…」
やはり、僕の説得じゃ駄目なのか?彼女が選んだのは…
僕は思わず目をつぶる。

「腕、痛いよ、そんなに強く持たれたら」
目を開けて、僕は美也子さんを見た。
「腕、離して」
そういって少し笑った美也子さんの目には、ちゃんと光が戻っていた。
「す、すみません」
あわてて僕は美也子さんの腕を放した。
僕は力説するあまり、彼女の腕を思い切り掴んでいたのだ。

「ありがとう、滝川君」
「お礼なんて」
「送ってくれる?家まで」
「家…」
「もう、馬鹿なこと考えたりしないから安心して。少し眠りたいの」
「そうですね。お疲れさま。後は僕たちで仕上げますから、家まで送ります」

もう、大丈夫だ。僕はそう確信した。

            * * *

僕が話し終えると、京子さんは相変わらず空のグラスを持っていた。
氷はすっかり溶けている。
「そう、そんなことがあったの」
「でも、彼女、その時のこと良く覚えてなかったんですよ」
「じゃ、」
「いえ、僕に説得されたのは覚えてたんです。翌日ちゃんと僕に対して、
 どんなことがあっても、後を追ったりしないって言ってましたから。
 ただ、極限に追いつめられたときの記憶が無いといってました」
「きっと、そういう状態の時って、向こうの世界に心が行ってしまってるのよね。
 この世に未練なんて何もなくて、見えるのは、楽になっている自分だけで」
「そうですね…」
「滝ぼんが気付かなかったら…」
「気付いたから、いいんですよ。
 もしかしたら崎谷先輩が、アイツを助けてやってくれって
 そんな信号を送ってきてたのかもしれない。
 先輩、ああ見えても、とても心配性で、美也子さんのことずっと気遣ってたから」
「滝ぼん…」
「今でも、美也子さんの傍に、崎谷先輩がいるんですよ。
 今日僕が美也子さんのところに電話したのも、先輩の…」
「違うよ」
「え?」
「美也子を止められたのも、電話したのも、滝ぼん自身の力だよ。
 滝ぼんが、ちゃんと美也子のこと気遣ってるから、気付くことができたんだよ」
「京子さん」
「確かに崎谷さんは美也子のこと愛してた。美也子も彼のこと、すごく愛してた。
 だけどね、彼はこの世にはもう居ない人なの。物理的には絶対に支えられないの。
 今の美也子をちゃんと支えられるのは、滝ぼんなんだよ。崎谷さんじゃない…」
「京子さん、いいですよ、そんな」
「なぐさめじゃないの。雅也、あたしは、雅也が美也子のこと想ってるから、
 本気で想ってるから、、、」
「京子さん、やめましょう」
「あたしは、美也子を好きな雅也が好きなの。あたしに気持ちが向いてくれなくても、
 それでも構わないと思ったの。
 だから、雅也が崎谷さんに気持ち的に負けて欲しくないの。
 でないと、惨めでしょ?あたし、惨めでしょ?」
「もう、その話は…」
「美也子と、ちゃんと幸せになって。
 崎谷さんの代わりじゃなく、雅也は、雅也として、幸せになって」
「京子さん無理なこと」
「無理だって言うのなら、無理だって言うのなら…」
「京子さん、酔ってますよ」
「無理だって言うのなら、どうしてあたしじゃ駄目なの?
 あたしは、幸せに出来るわ。雅也のこと、幸せにするわ。
 雅也だけを見る。あなたを通して誰かを想ったりしない!」

京子さんが持っていたグラスから手を離した。
絨毯の上に転がるグラス。
そこから流れる水がみるみる染み込み、そこだけ濃い色を浮き上がらせる。

京子さんが僕の背中に腕を回す。
僕は倒れたグラスに目を向けながら、京子さんの言葉を反芻する。

--- アナタ ヲ トオシテ ダレカ ヲ オモッタリシナイ

そう、美也子さんはいつだって、僕ではなく、
崎谷先輩を見ている…‥・

to be continued ...