side_story-11 (Miyako.S) 

熱が下がっても検査やらなにやらで、病院は簡単に帰してはくれない。
仕事のことが気になりながら、病院内の売店で買った文庫本を読み、
時間とヒマをつぶしていた。
開けた窓から時々心地よい風が入り、ここが病室でなければと思う。

入院するのは今回が初めてではない。
よくドラマで、病院で気が付いた主人公が「ここはどこ?」という
シーンがあるが、私にはそれは当てはまらない。
病院特有の匂いや、雰囲気で、ここがどこかがすぐに判る。
あまり自慢になることじゃないな、と、ため息がでた。

            * * *

病院の想い出、といえばおかしな言い方になるけれど、
真っ先に思い出すのは、会社で怪我をしたときのことだ。
我が社には資料室という、その実、物置場と化している部屋がある。
その部屋に面した通路が狭く、あいにく外開き式のドアだったので、
資料室のドアを開けると、壁とドアの間を人が一人通れるのがやっとだった。
社内の人間はその事を知っていたから、資料室から出てくるときは、
自分だけがすり抜けられるように、ドアを細く開け、
通路の人の邪魔にならないようにしていたのだ。
しかし、社外の人間がそれを知るはずもなく、
たまたま私が資料室の前を歩いていたときに、中から社外の人が、
勢いよくドアを開けたのが事の発端だった。

まさか、そんな風に全開でドアが開けられることを想定していないので、
通路の中央を歩いていた私に、否応なくドアがぶつかってくることになる。
ガン、だか、ゴンだか、何か音がしたのだが、音より衝撃と痛みで
一瞬うずくまってしまう。
中から出てきた人も、まさか人にドアがあたってしまうとは思わなかったらしく、
「だ、だいじょうぶですか?」とあわてていた。
痛かったことは痛かったのだけど、とりあえず「大丈夫です」と言って
笑って起ち上がったが、押さえたこめかみに違和感を感じる。
つるりと何かが頬を伝う感覚がして、足下をみると、ぽたり、と血が落ちた。
こめかみにやった手を見ると赤く濡れている。
「病院!」とその人が叫んだ。
自分で顔の傷口が見えないだけに、どういう状態なのかが判らない。
ぽたぽたと落ちる血を見て貧血を起こしそうになるが、どうにかハンカチで押さえ
社の人に連れられ救急病院に行くことになった。
血の量から見て縫わなければならないような怪我か、と心配したのだが、
幸いにも、縫うまではいかず、今でも傷跡は残っていない。
医学が発達している今は、縫わずともテープのようなもの(に私には見えた)で、
傷口を合わせることが出来るようだ。
医師によると、こめかみは、皮膚が薄いので少しの怪我でも出血量が多いらしい。

応急処置を受けて、少し休んでいるときに、
陽介さんがやってきた。
私が怪我をしたとき陽介さんは仕事で外に出ていたので、
まさか、こんなところに来るとは思わず、少なからず驚いた。
「美也子ちゃん、どないや、怪我は」
「あ、だいじょうぶです。縫わなくて済んだので。
 ちょっと顔が腫れるかもしれないみたいですけど」
「帰ってきたら、美也子ちゃんが怪我したっていうから、
 来てみたんやけど、そうか、大した怪我やなくて良かったな」
「ええ、顔だから、ちょっと怖かったんだけど。
 傷も残らないだろうって、お医者さんゆってました」
「そかそか。ならええわ。ほんまおっちょこちょいやからな。
 まぁ、ほしたらタクシーでも拾って帰りや。タイムカードは
 こっちで処理しといたるから」
「はーい」

そんな会話を淡々として、陽介さんは職場に戻っていった。

私の目には、とても冷静だった陽介さんだったが、
次の日に京子ちゃんの話を聞いてびっくりした。

「崎谷さんがね、外回りから帰ってきたから、美也子が怪我して病院に、
 って言ったのよ。そしたら、血相変えて『どこの病院や!』って。
 怪我の状況も聞かずに、病院名だけ聞いて飛び出してっちゃったのよ。
 あんなにあわてた彼見るのって初めてだった。それもね、
 崎谷さんたら、次のアポほったらかして、行っちゃったのよ」
くすくすと、思い出し笑いをして、京子ちゃんは続けた。
「あの時間だったから、社内にあたししか、残ってなかったんだけど、
 電話がかかってきてね、
 『崎谷様お戻りでしょうか、まだこちらにお見えでないんですけど』
 ってさ。予定表みたら、まだ一件仕事残ってるじゃない。
 ま、病院からすぐに戻ってくると思ったから、
 『すみません、打ち合わせが長引いておりまして…』って言っといたけど」
病院に来たときの陽介さんに、あわてているそぶりなんて何も見えなかった。
「ほんと、あの人普段クールなのに、美也子のことになると、あれだけ
 取り乱しちゃうのよねー。いいもの見せてもらったわー」
そういうと、京子ちゃんは、きゃはははっと、笑った。

それを聞いてかなりしてから、その話を陽介さんにしてみた。
「ねーねー、あの時私が怪我したって聞いてびっくりした?」
「ま、少しな」
これくらい、と自分の親指と人差し指で、3センチほどの隙間をつくって見せる。
「ふーん、少し、かぁ」
笑いそうになるけど、尚も質問してみる。
「顔に怪我したら心配でしょ?」
「別に顔に傷が残ったって美也子ちゃんは美也子ちゃんやし、
 売れ残ったら、俺がもらったるやん」
そういってあの人は笑った。
全く陽介さんらしい答えだと思った。

私も見たかったよ。陽介さんがあわててるとこ。
仕事ほりだして駆けつけてきてくれてありがとう。
そんな風に本当は言いたかったけど、陽介さんが精一杯、
冷静に振る舞ってくれたことを無駄にしてはいけないよね。

「陽介さん、好きだよ」
「あほか、おまえ、何いうとんねん。怪我してから頭どうかしたか?」
照れて陽介さんが軽口をたたく。

そのあと、ふと真面目な顔になると、陽介さんは左手を私のこめかみにあて、
かかる髪をそっとはらって、のぞき込んだ。
「残ってへんな。傷。よかったな」
「うん」
「ほんまはな」
「うん?」
「だいぶ、心配した」
このくらい、と両腕をいっぱいいっぱいに左右に広げる。

「大好き」
「判っとる、そんなこと」
そういって、笑いながら頭を撫でてくれた。

            * * *

こんこん、っというノックの音で回想から現実に引き戻される
「どうぞ」
たぶん雅也だろうと、読みかけの文庫を窓ぎわの小さなデスクに置いた。
「よぉ」
そういって入って来たのは、野上さんだった。
「野上さん?どうして」
その時野上さんの後ろから
「やほー」っと京子ちゃんが現れた。

「昨日、京ちゃんがうちに寄ってきてな、美也子ちゃんの話きいたんや。
 ほやから、お見舞いをって思てや。そしたらそこで京ちゃんに会ったんや」
「そうですか、すみません、わざわざ」
「どうせ、店開けるん、夜やしな。ひまやから」
そういう野上さんに、
「野上さんデートする相手いないんだよねー」
と、横から京子ちゃんがちゃちゃを入れる。
「やかましわ。そーゆー京ちゃんだって、デートの相手おらへんのちゃうんかい」
「あら、いやねぇ、あたしは、断るのが大変で大変で」
「大風呂敷広げすぎやー」

「二人とも漫才しにきたみたい」
おかしくて笑ってしまう。

「あかんなぁ、俺クールで真面目やのに、なんで、ギャグせなあかんねん」
「野上さんをクールで真面目って形容するなら、
 全人類、不真面目な人なんて居ないことになるわよねー」
「いちいち、ぐさぐさ来る女やなぁ。
 京ちゃんも、ちぃとは、美也子ちゃん見習って、穏和になりやー」
「小さな親切大きなお世話っていうんですよ、それは」
どこまで、冗談だか本気か判らない二人のやりとりを聞きながら、
ふと、どうして、京子ちゃんと野上さんという組み合わせなのか
不思議に思う。

「あれ?京子ちゃん、滝川君は一緒じゃなかったの?」
「おう、そういえば、まー坊元気でやっとんのかい?」
野上さんは、雅也のことを"まー坊"と呼ぶ。
雅也は、天気予報みたいですねと笑っていたけれど、
野上さんにとっても、一回り以上離れて年下の雅也は、
子供扱いになってしまうのだろう。

「滝ぼんは…‥・」
京子ちゃんが少し言いよどむ。

「仕事の資料持ってきてくれるってゆってたんだけどな」
そういった私から視線を逸らし、
「あたしが、来てるから来ないんじゃないかな」
とつぶやいた。

「なんや、京ちゃん、まー坊と喧嘩でもしたんかいな?」
「昨日野上さんとこに行く直前まで、滝ぼんと一緒にいたの」
「なんや、ほな、まー坊と一緒になんで来ーへんかったや?」
「…」
「あ、判った、京ちゃん、また、まー坊にいらんことゆぅて
 怒らしたんちゃうんか?」
からかうような口調で野上さんが言う。

「京子ちゃん、そなの?だったら‥」
「美也子は、滝ぼんのこと、どう思ってるの?」

「おいおい、急になんやねん。俺おるのに、そんな話すんなや。
 席、外そか」
野上さんが気を利かせて言ってくれる。

「いいよ、別に席外さなくても。
 滝ぼんの気持ちのこと、野上さんも知ってるでしょう?」
「まぁ、そりゃ、見てたら判るけどな」
「崎谷さんも、知ってたわよ」
「そりゃ、自分が惚れとる女に、そいつが好意を持ってるかどうかて気付くわな」
「そう、野上さんも、崎谷さんも、みんな知ってたわ。
 気付いてないの美也子だけだったの。
 でも、美也子は気付こうともしなかったでしょ?」
「おいおい、京ちゃん、病室で持ち出す話ちゃうやろが。やめとけや」
「そうやって、美也子は守られてばかりで、どれだけ滝ぼんが苦しんでたか‥」
「京ちゃん!」
野上さんが制する。私は、何も言えないまま聞いていた。
「我慢できないの。みんな苦しんでいるのに、美也子だけ‥」
「美也子ちゃんだって苦しんどるやろ?」
「美也子、ちゃんと知っておいて。あたし…‥・」

「・‥…昨日、雅也と寝た」
空気がぴんと張りつめる。
「京ちゃん、何をいいだすんや」

「崎谷さんと‥」

陽介さんと…‥・?

「崎谷さんと、キスしたこともある」

そう、言い放ち、くるっときびすを返すと、病室から出ていく。
「ちょ、待てや!京ちゃん!」
「‥…」
「美也子ちゃん、俺、京ちゃん見てくるから」
そういうと、野上さんは、京子ちゃんの後を追って出ていった。

陽介さんと…‥・?
  陽介さんと…‥・京子ちゃんが?
    どうして?…‥・・

開け放った窓から風が吹いてきて、ぱらぱらと文庫のページをめくる。
けれど、その音さえも耳に入らなかった。

to be continued ...