side_story-12 (Kyoko.A) 

「京ちゃん!京ちゃん!おい、こら、待てって」
美也子の病室を飛び出したあたしを、野上さんは追いかけてきた。
あたしは、ぴたっと立ち止まり、くるりと振り返りにらみつける。
「病院で大声出さないでくださいよ。それに、あたし、九官鳥じゃ無いですから」
「それは、九ちゃんやっ」
野上さんは、相変わらずボケてくれる。

「あぁ、もう、そうやなくてやな。なんでこんな時にボケやなあかんねん。俺は」
「知らないですよ。あたしがボケてくれって、頼んだわけじゃないし」
「いちいちカンに障る言い方する女やなー」
「嫌だったら追いかけてこなかったらいいでしょうに」
「んなこと言うたかて、あんな事言うて出ていったら気になるやろが」
「関係無いじゃないですか。野上さんには」
「あのなー、関係無くても関係あってもやな。気になるもんは気になるんや」

病院の廊下を言い合いしながら歩く男女も珍しいだろう。
「なぁ、京ちゃん」
その言葉を無視して、あたしはまたくるりと野上さんに背を向ける。
「じゃ、さようなら」
後ろに向かって、手をひらひらと振った。
「京ちゃん」
野上さんがあたしの腕を掴む。
「何ですか」
「関係無いっていうんなら、なんで俺の前であんな話したんや。
 なんで、あの場におっとけへん?逃げることないやろ。
 追いかけて欲しかったんちゃうんか。話聞いて欲しかったんちゃうんか」
「人は、追いかけて欲しいから逃げる、って理論ですか」
「そう、つんけんした言い方せんでも」
「あいにくですけど、追いかけて欲しくもないし、話を聞いて欲しいとも思ってませんから。
 ただ、あの場に居たくなかっただけです」
「あんな言い方されたら、美也子ちゃん困るやろうが」
「そう思ったら、野上さん、あたしを追いかけてこず、美也子のところに
 居ればいいじゃないですか」

話ながらいつの間にか外に出た。
駅の方に向かおうとするあたしを、野上さんが引き留める。
「俺、車やから送ったるわ」
「結構です」
「京ちゃん‥」
「あたし、一人で帰れますから。美也子のところにいてあげてください」
「京ちゃん、あんた、今どんな顔しとるか自分で判っとるか?」
「顔?」
「泣きそうな顔しとるよ。それで、一人で帰れるんか?
 俺、美也子ちゃんよりも、今の京ちゃんの方が心配や。
 でなかったら、追いかけてきたりせーへんわ」

-- あたしの負けだ。

            * * *

「ちょー、ドライブでもするか」
「‥・」
「店、開けるまでには帰らなあかんから、そんなに時間はないけど」
「‥・」
「怒っとんのか?」
「‥別に」

あたしの態度は、本当なら愛想を尽かされてもおかしくないようなものだ。
なのに、無言を通し車に乗り込んだあたしに、野上さんは相変わらず優しい。

「別に、か。まぁ、ええけどな」
「‥」
言葉の無い空間に音楽だけが流れる。
「これ‥」
「あ?何?」
「YOU CAN HAVE ME ANYTIME」
「ああ、よぅ知っとるな。そや」
ボズ・スキャッグスは、あの人も好きだったから。
-- そんな言葉は飲み込んだ。

野上さんは、曲に併せて歌い出す。
話しているときの声とはまた少し違う、深みを持つバリトン。
「野上さん英語の歌詞、歌えるんだ」
「失礼なやっちゃなー。俺に英語の歌、歌わしたら右に出るもんおらんで」
「左に出る者がいっぱいなんでしょ?」
「やっぱり判ったか!」
「ベタなギャグだもの」
そういって思わず笑ってしまった。

「おっしゃおっしゃ、よーやく笑ったな。やっぱ、京ちゃん笑ろてた方が可愛いで」
「歯の浮くようなセリフをよく、しゃぁしゃぁと言いますね」
「天上に歯が浮かんどーかもな」
運転しながら天上を指差し、あたしはつられて見上げ、また笑う。

「なぁ、京ちゃん、このまま楽しくドライブ、ってなことなら、俺も歓迎やけど」
「さっきの話の続きでしょ」
「まー、そやな」
「判ってますよ。デートするために誘ってくれたわけじゃないでしょうから」
「いや、デートの誘いなら、なんぼでもするけど」
「さっきの話、さっさとしましょう」

野上さんが気を遣ってくれるのが判るから、なおさら素直になれない。

「さっきの発言は」
「雅也と寝ちゃ駄目なんですか」
挑発的な態度をとることで、あたしは、なんとか優位を保とうとしていた。

「いや、駄目とか駄目でないとかじゃなくてな」
「あたしが抱いてっていったからであって、雅也が悪いんじゃないですから」
「悪いとかっていうんでもないんや。俺が言いたいのは」
「それに、崎谷さんとキスしたこと、野上さん聞いてません?
 親友だったら、聞いてるんじゃないんですか」
「‥聞いてへんよ。そんなこと」
「言えませんよね。野上さん、崎谷さんが美也子とつき合ってるのも知ってるんだし」
「なー、京ちゃん。俺が言いたいのはな、別に、まー坊と寝ようが、陽介と何しようが、
 構わんのよ。それについて京ちゃんを咎めてるんちゃうって」

雅也のことを、野上さんは相変わらず、まー坊と呼ぶ。
なんだか子供みたいで、雅也も形無しだと、この場に全然関係無いことを思う。

「構わないならどうして」
「男と女やんか、そんなん、魔が差すことだってあるやろし、何が起こってもおかしない。
 ええことではないんかも知らんけど、だからといって責める気はあらへん。
 まー坊かて、陽介かて、自分の意志でしたことやろうからな」
「じゃ、構わないじゃないですか」
「ただな、まー坊と陽介じゃ意味合いが違うんよ」
「雅也は美也子の彼じゃないけれど、崎谷さんは美也子の彼だったからですか」
「ちゃうちゃう。今、まー坊は生きとるけど、陽介は死んどるってことや」
「‥・」
「あんな、京ちゃんの発言に対して、まー坊は弁解でもなんでも出来る立場にあるよな。
 美也子ちゃんが責めるなんて事考えられへんけど、自分が何を考えてそうしたか、って
 まー坊は美也子ちゃんに話せるやんか。せやけど、陽介は言える立場にないんやで。
 あいつは、美也子ちゃんに、何も言われへんやんか。この世におらんのやから」
「‥・」
「だとしたらな、それは卑怯やろ?美也子ちゃんは、京ちゃんの言い分しか聞かれへん。
 陽介が何を考えてそうしたか、とか、今となっては何も判らんのやで?
 そんなん、つらすぎるやろ」

野上さんはやっぱり大人だ。
まー坊と呼ばれている雅也も大人で、美也子も大人で…。
結局あたし一人が、子供なのだ。

「陽介がこの世におらへん以上、陽介とあったことは、京ちゃんの心に、
 しまっておくべきやったんちゃうかな。内緒にしとけとかって意味やなくてな。
 フェアやないって思うからな。俺、間違うた事言うてるかな」
「‥・」

言葉が返せない。

「京ちゃんは、怒って欲しかったんちゃうんか?
 美也子ちゃんに、怒って欲しかったんやろ?
 そしたら、美也子ちゃんの まー坊に対する気持ちがはっきりするんちゃうかって、
 そう思たんちゃうか」

悔しいけど当たってた。
美也子が、怒れば、ショックを受ければ、ちゃんと雅也のこと考えてくれると思ったのだ。

「でも、知っとーやろ?美也子ちゃんの性格。
 絶対に、まー坊に何か聞いたり、問いつめたりするわけあらへん。
 あの子の事やから、雅也にも京ちゃんにも、普通に接しようとするやろな」
「‥・」
「京ちゃんが、何を考えてそんなことをしたのかさえ、あの子はきっと判っとるよ。
 まー坊だって、弁解も何もせーへんやろしな」
「‥あたし、馬鹿ですね」
やっと、それだけが言葉になった。

「いや、馬鹿とはゆわんけどや」
「‥雅也と寝たっていうのは、嘘です」
「嘘?」

あたしは、窓の外を見遣る。
窓ガラスに自分の顔が映りこむ。
話してしまおう。そう思った。
昨日のこと、野上さんに話してしまおう…‥・

            * * *

静寂の中、サイドボードに置いた置き時計から、コチコチと時を刻む音がする。
雅也は、あたしの背中をそっと撫でてくれていた。

少ししてから、
「京子さん飲みすぎだから‥少し休んだ方が‥」
そういって、肩に手を置き引き離そうとする。
「やだ‥」
あたしは、背中に回す手に力を込め、全身を預ける。
「京子さん‥」
「酔ってなんかない」
「困らせないでくださいよ」
「困ってもいい。美也子の代わりでもいい。だから‥」

一呼吸置いて、雅也は
「京子さん、馬鹿なこと言わないでくださいね」
と言う。
引き離すのが無理だと思ったのか、再びあたしの背中に手を回す。
あたしは、まるであやされている子供のようだ。

「京子さん、僕は京子さんのこと、好きですよ。それに僕だって男だから‥」
「じゃ、いいでしょう?あたしが代わりでもいいって言ってるの」
「でもね、京子さん、こんな状況で抱き合っても、哀しいだけじゃないですか。
 残るのはたぶん、後悔と罪悪感だけですよ」
「後悔しないもの」
「京子さん。美也子さんを好きな僕を好きだと言ってくれましたよね。
 そういってくれる京子さんを抱くことなんて、やっぱりしちゃ駄目だと思います。
 僕が京子さんと気まずくなる以前に、京子さんと美也子さんが気まずくなるのが、
 目に見えてますから‥」
「‥・」
「ね、京子さん。
 僕は、美也子さんの代わりとしてでなく、京子さんだけを好きだという気持ちで
 抱きたい。でも、今は残念ながらそれが出来ない。判ってくれませんか」
「それでも‥いいって言ったら?美也子を敵に回しても、あなたを敵に回しても、
 今、抱いて欲しいっていったら?それがあたしの願いだと言ったら?」

背中に回された、雅也の手に、力が込められる。

「なら‥構いませんよ。そこまで望んでくれるなら」

目と目が合う。
今、雅也の目に映っているのは、美也子でなく確かにあたしだ。

雅也、あなたって、馬鹿ね。
こんな女のこと、放っておけばいいのに。

「雅也‥」
「はい」
「あのね、もう少しだけ、こうしてて。今だけ、少しだけ。
 美也子の代わりじゃなく、あたしを想って傍にいて…」
「何を言ってるんですか、代わりになんて思ったことないです。
 それに、僕がこうしてるのは、京子さんじゃないですか」

雅也が少し、笑った。

あたしは少し目をつむる。
馬鹿な女が放っておけない雅也が、やっぱり好きだ。
あたしは、そう思った。

やっぱり酔っていたのか、そのまま少し眠ったらしい。
不自然に座ったままだったのに、人間というものは寝てしまえるものだ。
雅也は、そんなあたしをずっと抱き留めてくれていた。

            * * *

「まー坊らしい、な」
話し終えると、野上さんは、困ったような顔をして笑った。
「野上さんだったら、どうしてました?」
「んー、俺?迷わず抱いてる」
そういうと、わはははっと豪快に笑う。
「雅也が、野上さんみたいだと良かったのに」
「そっか?そうじゃないから、京ちゃんは、まー坊のこと好きなんじゃないのかな」
「そうかもしれませんね」
「お、珍しく素直じゃん」
わはははっとまた笑って、あたしの頭をぽんぽんと叩く。
「女の子は素直なんが一番やで」
「…だから、今日雅也があたしと一緒に来なかったのは、
 雅也が気まずく思ったんじゃなく、あたしが気まずかったから」
「そーか。ま、また少ししたらいつものように戻れるわな」
どう答えていいか判らなかったので、話を変えてみる

「雅也が『僕が京子さんと気まずくなる以前に、
 京子さんと美也子さんが気まずくなるのが、目に見えている』っていったセリフね」
「うん?」
「同じ事を、崎谷さんも言ってました」
「ふぅん?」
「崎谷さんとキスしたっていうのは、あれは、本当なんです」
「そっか」

あの時もあたしから、仕掛けた。

「二人で飲みに行って、家まで送ってもらったときに、中に入ってもらったんです。
 珈琲でもどうぞって。あの時は卑怯な手を使ってでも、崎谷さんを手に入れたかった」

そう、何故なら"先に好きになったのはあたしの方だった"からだ。

「あたしと何かあれば、崎谷さんが美也子に対する罪悪感から、
 二人の仲が壊れるんじゃないかって、本気で思ってた。 あたし最低の人間です」

野上さんは相づちも打たない。
呆れてしまったのかもしれない。
「WE'RE ALL ALONE」が静かに流れていた。

「あたしの方からキスしたの。拒まれなかった。
 でも、ただ唇が合わさっただけの、そんなキスだった。
 『抱いてください。それとも美也子に知られるのが怖いですか?』って、
 訊いたら、あの人は、『怖くない』って答えたの」

いつの間にか窓の外に雨粒が付いている。
ワイパーの動く音がする。
野上さんの方を見ると、何か思っているのか無表情のまま、前方を見つめたままだった。
ひとりぼっちになるな…きっと、あたしは。
でも、それでいいのかもしれない。

「『じゃ、構いませんね』って言ったら、『俺は構わないけど、京子ちゃんが困るやろ』
 って言われました。『俺が美也子ちゃんと気まずくなるよりも、京子ちゃんが、
 彼女に罪悪感抱いてしまうやろ。そんなことで仲違いするのは馬鹿らしいで』って、
 少し笑って、そう言ったわ。雅也と一緒。自分のことより、あたしのこと、
 気遣ってくれるの。そういうとこ、二人ともよく似てた」

「だから、まー坊なんか?」
相変わらず、前を見たまま、抑揚無く野上さんが言う。
「だから、って?」
「陽介と似とるから、まー坊なんか?
 京ちゃんは、陽介の代わりを、まー坊に求めとるんか?」

違う、そうじゃない。
陽介さんは、陽介さんだ。雅也は、雅也だ。

「なんで、黙っとるん?図星か?」

気が付けば車は、あたしのマンションの前に横付けされていた。
野上さんはワイパーを止め、ヘッドライトを消す。
雨足は徐々に強まり窓ガラスを流れ落ちている。
時折通る車のライトが、一瞬だけ二人の顔を浮かび上がらせる。

「なぁ、京ちゃん、あんたなんでそんなに哀しい恋愛ばっかりしとるんよ」
「哀しい、ですか」
「ああ、見てたら、痛ましいわ」
「ほっといてください」
「ほっとけたら、ほっといてるねんけどな」
「あたしは、同情とか大嫌いなんです」
「同情て…」
「陽介さんは陽介さんだし、雅也は雅也です。
 ただ、ただ‥」
「二人とも、美也子ちゃんのこと、好きになってもーたって、か」
「‥…」
「『何であたしやなくて、美也子なん』って、
 でも、そう思う自分が嫌やったんちゃうんか」
「そんなことはどうだっていいんです。あたしみたいな女より、
 美也子みたいな子の方が、男の人は好きなんだって思うし」
「京ちゃん」
「野上さんもそうでしょう?美也子が崎谷さんの彼女じゃなかったら、
 今頃好きになってませんか?」
「京ちゃん、世間の男がみんな美也子ちゃんみたいなタイプが好きとは
 限らんやん」
「あたしが美也子の友達だから、あたしのこと気遣ってくれるんだろうけど」
「‥…ほんまにそんな風に思とるんか」

怒らせた、そう思った。
でも、次の瞬間、ライトに浮かび上がった野上さんの表情は、寂しそうな顔だった。

「別に俺は、美也子ちゃんの友達やから、京ちゃんのこと気になるんとちゃうで。
 そんな風に言われたら、俺も心外やし。ほっとかれへんって、さっきゆぅたやろ。
 でも、同情やないんやで」
「同情ですよ、そういうのって。好きになったのはあたしの方が先なのに、
 崎谷さんも雅也も、美也子の方を好きになった。想いの実らない、
 可哀想な女だって思ってませんか。哀しい恋愛してるって言ったでしょう?
 あたし、哀しいとは思いませんから」
「なんで、そんなに意地張るんや。同情やないんやで、ほんまに。
 同情っていうのはな、その気持ちが表れた時点で、相手より優位に立ってるって事やろ。
 自分は相手より少し幸せだから、相手を見下しているような気持ちよな。
 憐れみの気持ちってな。俺だって同情は、すかん」
「そうですね」
「そーいう意味では同情して欲しいのは俺の方やねんで」
「どうしてですか」
「俺、京ちゃんより優位になんて立ててないから」
「茶化さないでください」
「茶化してへんって。えーか、あんまりこんな時にこんな事言いたくないけどな」
「なんですか」
「俺も、同じ立場やからさ。京ちゃんと。だから、京ちゃんに同情なんて、
 する余裕を持ち合わせとりません」
「同じ立場って‥」
「あー、だから、やな」
「はっきり、言ってくれないと判りませんから」
「ホンマ、キツいなぁ」
「そうです」
「だからな、よーするに、や。俺、京ちゃんのこと気になるわけよ」
「だから、同情‥」
「じゃなくて、愛情」
「あい、じょ、う?」
「なんかな、こんな時いうのってさ、弱みにつけ込んでるみたいで、俺嫌なんよ。
 せやけど、同情とか、気を遣ってるとか、そんな風に京ちゃんに思われてるのも、
 嫌やしさ。いちおー言うとくだけ言うといてもええかな、って思て言うてるんやけど」
「冗談を言ってる場合じゃないでしょう?!」

どういうことなのだ、一体。

「だからなー、信じてもらえんやろうから、別にいう気もなかってんけど。
 美也子ちゃんの友達やから、とかってんじゃなく、ずっと気になってたんよ。
 そんなんは、全然気付かんかったやろうけど」

気付くわけがない!そんなこと。

「まー、でも、京ちゃん、まー坊のこと好きなんも知ってたし、
 俺がどーのこーのゆーたかて困るやろし。なんせ、バツイチやし」

ははっと笑ってみせるけれど、あたしには、全然笑えない。

「京ちゃんがさ、哀しいのって、見てて嫌やからな。ほんまそれだけ。
 まー坊とくっついてくれたら、そんで万々歳やと思たけど、
 もし、陽介の代わりに まー坊っていうなら、俺はゆるさん」
「ゆるさん、って‥」
「俺の方振り向いてもらう」
そういうと、わはははっとまた笑った。
でも、あたしには、やっぱり笑えない。

「ま、振り向いてくれるかどうかは知らんけどや。
 もし、俺のこと好きになってくれたら、少なくとも、哀しい恋愛はさせへん。
 絶対にな」
「どうしてそんなこと言えるんですか」
「うん?俺、自信家やから」

今度は少し笑える。

「笑うてた方が、ほんま可愛いから」
「口説いてます?」
「ずーと、口説いとるんやけどな、実をいうと」

冗談なのか本気なのか、野上さんの言い方では判らない。
いや、あたしがどちらにでもとれるようにという
彼なりの配慮なのかもしれない。

「ま、そーいうことやから。俺は気長やし、保険みたいに思っとって。
 まー坊があかなんだら、俺んとこ来なさい。
 いつでも"彼女"の特等席、空けといたるさかい」
「それで、飛び込んでいったら、"彼女"の特等席って10ぐらいあるんじゃないですか?」
「ぅわー、バレてもーたか」
「野上さんの言いそうなこと判りますよ」
「けどなぁー」
「はい?」
「一番日当たりのええ特等席、京子様の予約席って書いて置いといたるから。
 疲れたら来いや」
「野上さん‥…」
「シリアスなんは俺の柄やないから、もうこの辺でお終いや」
「‥・」
「店、開けなアカンから、残念ながら、京ちゃんとこ上がらしてもらわれへんけどや」
「もぅ」
「今度是非とも、誘ってください。できれば"夜明けの珈琲"と洒落込みたいとこやね」
「死語ですね、それは」
「おやぢか、俺はーっ」
お互い大笑いしてしまう。

お礼を言って、車から降りたあたしに、
野上さんは「じゃぁ」といって走り去った。
車の後ろ姿を見ていると、スピードを落とし、角を曲がるときに、
ブレーキランプを5回点滅させる。
「あ・い・し・て・る」のサインのつもりだろうか。

野上さん、それやっぱり、相当古いと思うよ?
あたしが、ドリカムの歌知らなかったら、全然判らないじゃない。
そう思うと可笑しくて、道路脇で笑ってしまう。

いや、判らなくても、きっといいのだ。
気付かないサインでも。
野上さんらしい。本当に、そう思う。

今は亡き崎谷さんを想い続ける美也子、
美也子をそっと見守る雅也、
雅也をやっぱり好きな あたし、
あたしを想ってくれている野上さん。

誰かが少し振り向けば気付くはずの、哀しい一方通行。

野上さんの気持ちに気付かなかったあたしに、
雅也の気持ちに気付かなかった美也子を責めることは出来ないのかもしれない。

to be continued ...