side_story-15 (Masaya.T) 

崎谷先輩が亡くなってからというもの,
彼が担当していた仕事の割り振りや,
いろいろなことであわただしい日々だったが,
気が付けば数ヶ月が経っていた。

美也子さんは,先輩との結婚とともに仕事を辞める予定だったので,
一月の時点では,後輩に引き継ぎなどを行っていたものの,
結局は仕事を続け,彼の穴を埋めるかのように働いていた。
彼が働いていた面影が残る職場では辛いだろうと思われたのだが,
そんなことはおくびにも出さず,周囲が驚くほど仕事に没頭している。

美也子さんはよく笑う。
もう,吹っ切れたかのように,本当に よく笑っていた。
彼が死んだなんて,実は夢で,転勤になってここに居ないのか,という
錯覚を起こさせるほど,彼女は「普通の姿」だった。
あまりにも,彼女が普段通りの姿だったので,
なぐさめの言葉をかけようとするものは拍子抜けしてしまったようだ。

けれど,彼女が哀しみに暮れ,崩れてゆく様を,誰も見たくは無かったし,
だから,意外なほどに彼女がしっかりとしていたのに,ほっとしていたと思う。
彼女が明るく笑うことが,僕たちの救いになっていたのだ。
完璧に立ち直った彼女の姿を,僕たちは望んでいた,
そして,その通りの彼女が目の前にいる。
それ故に,僕たちは気付かなかったのだ。
彼女の中の微妙な変化に‥。

-- それに,気が付いたのは,たぶん僕が最初だっただろう。

            * * *

別々の仕事に出向き,喫茶店で待ち合わせをしたことがある。
僕の方は大幅に打ち合わせが伸びてしまい,途中で電話をかけることもできず,
美也子さんを喫茶店で一時間ほど待たせてしまった。
ガラスの大きなウインドウのあるその喫茶店の窓ぎわに,
美也子さんの姿を見つけたときに,声をかけようとした僕は,
歩みを止めてしまった。

どこかを見ながら,ぼんやりとしている彼女の表情が,ウインドウに映り込み,
そのぼんやりとした表情がなんとも悲しげで,別人かと思ってしまった。
日々,彼女が僕たちに見せる表情とは,全く違っているその表情に,
胸を突かれた気持ちになる。
彼女は,吹っ切れてなんかいない。
ふと,そう思った。

「美也子さん,お待たせしました」
僕は少し離れたところから声をかけながら近づいた。

彼女がこちらを振り向く。
-- ぺったりと「笑顔の仮面」を貼り付けて‥

「遅かったね。長引いてたんだ?暇だったからずっと本読んでたのよー」
にこにこと笑いながら,傍らに置いてあった文庫をポンポンと叩いた。

-- 最初のページの方にしおりが挟まれたままの本を,ですか?
形だけそこに置かれていたであろう文庫を,カバンにしまっている彼女に,
そう訊きたい衝動に駆られる。
だけど,口をついて出たのは,こんな言葉だった。
「そうですか,おもしろかったら今度貸して下さい」

今まで見てきた彼女の姿は,何だったんだろうと,思う。
判った気持ちになっていた。 彼女の事を。
でも,結局は表面しか見れてなかったんだろうか。

きゃらきゃらと笑いながら,いろいろと話をしてくれる彼女の顔を見ながら,
その「仮面」の下の悲しい表情を今まで見ようともしなかった自分に,嫌気がさす。

崎谷先輩の代わりに,僕が美也子さんを守ります。
そう,僕は彼の墓前で誓った。
それなのに,彼女の演技にも気付かず,吹っ切れたなんて思っていた僕は馬鹿だ。
根底がぐらぐら揺れるような気がした。

「どしたの? 私の顔なんかついてる?」

僕がぼんやりと美也子さんの顔を見ているのに気付いて,彼女が訊く。

「いえ,すみません」
「そっか,ならいいんだけどね。んじゃ,社に戻ろうか」
「はい」

言葉少なな僕を,たぶん,仕事のことで考え事だろうと思ったのか,
それ以上の追求もなく,その時は社に戻った。

その事があってから,注意して彼女を見ていると,
時折ぼーっと,PCのディスプレイを眺めていることにも気付いた。
あの日と同じ表情だ。
哀しみだけを身体に残して,魂が抜け出てしまったような,ぼんやりした顔。
仕事中に誰かの観察をするほど,暇な人間が居るわけではなく,
その事に気付く人は,僕以外には居なかったようだ。
だから,彼女はそうやって,時々 自分を解放していたのかもしれない。
そして,誰かに呼ばれると,また「笑顔の仮面」を貼り付けて,
何事も無かったように応対するのだ。
その切り替えがあまりにも鮮やかだったので,
僕たちは見過ごしていたのだ。
たぶん,彼女の無意識がそうさせている。

-- 本当の「美也子」さんは,どちらなんですか?
そうやって,無意識に押さえ込めるほどの強さが
どこから生まれてくるのですか。
頼ってもいいのに,しんどいといってくれていいのに。
僕たちじゃ,頼りにはなりませんか。
崎谷先輩でないと,駄目ですか‥。
            * * *

この頃,もう一つ彼女の中に変化が起こっていた。

美也子さんは,仕事をしたあと,僕たちが食事に誘っても来なくなった。
崎谷先輩が生きていた頃は,仕事が終わると どこかへみんなで繰り出す,
という日々だったので,彼女が断った時は驚いたけれど,
「家族が心配するから,なるべく家に居る方がいいかなって思って」
と言っていたので,確かにそういわれてみれば,そうだと思った。

そして,
「電話は,携帯にかけてね。親がでちゃうと,会社でちゃんとやってますかー
 とかって,いいそうだから」
と言って笑ってた。

その笑顔があまりにも自然だったし,僕たちは,それがもっともだと思ったから,
無理に食事に誘ったりもしなかったし,電話も携帯にかけるようにしていたのだ。

ところがある日,美也子さんの携帯がどうしてもつながらなくて,
僕は彼女の家にかけることになった。
彼女のご両親とも面識があったし,美也子さんの様子を訊かれても,
ちゃんと答えられると思っていたから,かけることに関しては,
さほど気を遣うわけでもなかった。

ところが意外にも電話に出てきたのは,お兄さんの一夫さんだった。
一夫さんは,結婚されてから,ご両親とは離れて暮らしているはずなので,驚いた。

僕が,名前を告げると,
「おぅ,雅也か,久々やな。今ちょうどこっちにスズと帰ってきてるんや」
と言った。
スズ,というのは,一夫さんの奥さんで,鈴香さんのことだ。
美也子さんと同い年だという。

何にしろ ご両親が出てくるより,良かったと思った。

一夫さんが,
「美也子が迷惑かけてへんか。ちゃんと会社でやっとるか?」
と訊いてきたので,
「ええ,もう,僕の方がお世話になりっぱなしで。てきぱき仕事されてます」
と言った。

崎谷先輩の話が出ないうちに,早く美也子さんに代わってもらおうと思った瞬間に,
「今日は,一緒やなかったんか?」と言われ,僕は面食らった。
「なんや,最近みんなが気を使ってくれて,食事とかつき合ってくれてるんやってな」
と,一夫さんは言葉を続ける。

-- どういうことだ?!

「崎谷さん亡くなられはったときは,アイツも落ち込んでて心配やったけど,
 みんなのおかげですっかり元気になって‥」

-- みんなが食事をつき合ってくれる?
  美也子さんは,家に居る方がいいと言って断っていたはず。

頭がめまぐるしくまわり,答えを導き出そうとしたが,
言葉のでない空白の時間の不自然さに,一夫さんが先に気付いた。

「おい?美也子は,会社の子らと一緒なんちゃうんか?」
「美也子さん,ここのところ,何時頃に帰ってきてます?」
僕が逆に質問で答える形になった。

「そやなー,たいてい夜中前って話やけどな。 親父とお袋も心配してるし,
 俺は女がそんな時間までおったらあかん,っていうんやけど,
 美也子がみんながせっかく誘ってくれるのにって,いうからな,
 そりゃ,無理にも断れんってことで‥,まさか,嘘か?」
「僕もよく判らないんですけど,美也子さんは家に帰った方が家族に心配かけないから,
 ってことで,僕たちの誘いは ずっと断ってるんです。だから‥」
「何時頃そっち出てるんや?」
「遅くとも21時には出てますけど‥,でも,もしかしたら,社外の友達が‥」
「‥…」

気まずい沈黙が流れる。
社外の友達なら,たぶん彼女はそういっていただろう。
それは,一夫さんも判っているはずだ。
僕たちには家に帰るといい,家族には僕たちと一緒にいるといい,
では,その間の時間は,どこで何をしている?

「あいつ,毎日どこをほっつき歩い‥」

「あっ」
僕にひらめくものがあった。
美也子さんが毎日どこかに寄っているとしたら‥。

「あ,あ。まさか‥」
一夫さんにも思い当たる場所があったらしい。
たぶん,僕と同じ事を考えていただろう。

「だけど,崎谷さんが亡くなってから何ヶ月経ってると思うんや?」
「でも,崎谷先輩の,荷物とか,美也子さんがどうしたかご存じですか?」
「確かに,こっちには,ないが‥」
「彼女がそれらを処分するとは思えない。だとしたら‥。
 僕,今から行って来ます」
「すまんな。俺が行ってもいいんやけど,行って,もし あいつがいたら,
 怒鳴ってしまいそうやしな」
「また連絡いれますから,ご両親には何も伝えないで下さい」
「ああ,よろしく頼むわ」

電話を切って,僕は車を走らせた。
美也子さんが,僕たちに嘘をついてまで寄りたい場所。

たぶん,彼女は,そこでは元の自分に戻れるのであろう。
美也子さんのことだ,あの分では家に帰っても
ご両親や,たまに帰ってくる一夫さんにも元気に振る舞っていたに違いない。
会社でも,そして家でも,そんな風にしている彼女が,
唯一自分を出せる場所があるとしたら,そこは一つしかない。

            * * *

目的の建物に着くと,道路の脇に見慣れた彼女の車が置かれているのが見てとれた。
僕は,自分の考えが正したかったことを確信した。

エレベーターにのって,目的の階を押す。
彼女がここに居るのは,もう間違いがない。
扉の開いたエレベーターから出た僕は,
何度か来たことのあるドアの前へと進む。

インターホンを押す指が少し震える。
不覚にも涙が出そうになる。

ドアプレートには,こう書かれていた。

SAKIYA YOUSUKE / MIYAKO

to be continued ...