side_story-16 (Miyako.S) 

今日も雅也達の誘いを断って,私はここに足を運んでいた。
二人で暮らすはずだったマンション。
ちゃりちゃりんというキーの音が,冷たい廊下に響き渡る。
鍵を開ける瞬間,ドアプレートが目に入る。

SAKIYA YOUSUKE / MIYAKO

そう,私は「崎谷美也子」になるはずだったのだ。
なのに‥。

重いドアを開け中に入ると,誰もいない家の中は,
廊下よりもさらに温度が低いように感じられる。
ぱちんと明かりをつけ,下の郵便受けから取ってきたダイレクトメールと
カバンを床に置いた。

「ただいま」。

「おかえり」という言葉が返ってくるはずもない,写真立てに向かって,
そうつぶやいてみる。
写真立ての中の陽介さん。
私は横でピースをしながら笑っている。
「おまえって,いつも写真撮るときピースしてるんよなぁ」
陽介さんは二人で撮った写真を見るたびにそう言って笑ってた。
この写真を見ていたら,また彼はそう言っただろうか。
けれど,この写真を目にすることもなく,彼は逝ってしまった。
二人で写っている,最後の写真。
日付は,95/01/15。
今度二人で取りに来ようといって,現像に出した写真。
彼の死で,そんなこともすっかり忘れていた。
あの頃の私は,彼の死をどうしても受け入れられなかった。
ただ,今 居ないだけなんだと,心が現実から逃げていたのだ。

私を現実に引き戻したのは,一ヶ月ほど経った頃かかってきた一本の電話だった。
「さくらフォトスタジオですが」
何故そんなところから電話がかかってくるのか,私は判らなかった。
次の言葉を聞くまでは。

「お写真を一ヶ月ほどお預かりしているのですが,
 まだ取りに来られていないようなので‥」

「取りに伺います」
そう,答えるのがやっとだった。
そうだ,陽介さんと撮った写真を出したままだった。

写真の入った袋を助手席に置き,急いで車を運転し家に帰る。
部屋に戻って,写真を取りだし,床に並べてみた。

二人で見るはずだった。
「なんだ,これー,おまえもう少しええタイミングで撮れよー」
「ぅわ,余計な人が写りこんでるなぁ」
「オートフォーカスやのに,なんで ピンぼけの写真になるねんー」
彼が言っていたであろう言葉の数々が頭に浮かぶ。
「照れくさいから,もう少し離れやー」
そう言ったから,わざと彼の腕にしがみついて撮ってもらった写真。

「ほらほら,陽介さん そっぽ向いて写真うつってるぅー」

たぶん,私はそう言っていただろう。

海をバックに陽介さんが写してくれた写真。
幸せそうに,私が笑っている。
「綺麗に撮れてるやろ?カメラマンが被写体を愛してるからなっ」
人前では照れるくせに,私にはそういうことを言ってくれる人だった。

-- でも,私は今これらをひとりで見ている。
-- 一緒に見るはずの,あなたは,居ない。

ぽとり。
写真の上に涙が落ちる。

ぽとり。
どうして?一緒に見ようっていったのに。

ぽとり。
どうして?居ないの?どうしてここに居てくれないの?
「俺写りが悪いわぁ,これ。今度はハンサムに撮ってやぁ」
って,そう言ってよ。
何枚でも撮ってあげるよ。
笑った顔も,滅多に見ない怒った顔も,どんな顔だって。

もう。この世に,居ないんだ。
あなたは,居ないんだ。
二度とあなたの写真を撮ることも,一緒に写真を撮ってもらうことも無いんだ。

そう思った瞬間,堰を切ったように涙があふれ出した。
ベッドに潜り込み,声を殺して泣いた。
涙と一緒に,私自身も流れてしまえばいい。
無くなってしまえばいい。
あなたが居ないのに,私だけが居たって,どうしようもないもの。

肺が苦しくなり,頭が割れるように痛む。
それでも涙は止まらなかった。

            * * *

-- ちゃりん
床に落としたキーの音で我に返る。
私は軽く頭を振った。
駄目だな,まだ写真を見るとあの日のことが思い出される。
落としたキーを拾い,カバンとダイレクトメールを持ち,
ダイニングへと向かう。

お湯を沸かしている間,各部屋の窓を少し開け,床に軽くモップをかける。
不思議なものだ,人が誰ひとり居ない家の中にも,埃は積もってゆく。
まるで,時間は流れているんだと,私に現実を突きつけるように。

手を洗い,珈琲を入れてからダイレクトメールに目をやる。
崎谷陽介様
   奥 様
家具を買ったお店からのダイレクトメールだった。

奥様,か。
まだ籍も入れていなかったのに,陽介さんはメンバーズカード申し込みの家族欄に,
私の名前を書き込んだんだっけ。
「まだ早いよー」と言ったら,
「ええのええの。結婚しないことなんてありえへんのやから。
 今でも先でも一緒やんか」と言っていた。

結婚しないことなんてあり得ない。
そう思ってた。
心変わりなんてするわけがないから。
こんな形であなたを失うなんて,誰が想像しただろう。

ほぅ,っと溜息をつき,カバンの中にしまう。
涙が出そうになるが,こらえた。
強くならなければいけないのだ。
陽介さん無しでも,ひとりで生きていけるように。

            * * *

家族には雅也達と夕食をとっていると,言っているので,
家に私の食事は用意されていない。
ここのところずっと食欲がなく,時折胃が痛む。
サラダを買ってきたので,開けてはみたものの,
プチトマトを一つ口に放り込んだだけで,お腹がいっぱいになってしまった。

ベランダ際に立ちカーテンを開けてみる。
街明かりが見える。
「百万ドルの夜景とは言えんけど,一万ドルの夜景くらいにはなるかな。
 いや,それも高すぎるかー」
そんな風に言ってたっけね。

その時チャイムが聞こえた。
空耳かと思う。
こんな時間に,ここを尋ねてくる人が居るとも思えない。

ぴんぽん

やっぱり,うちだ。
私は,カーテンを閉めインターホンに向かう。

「はい」
「‥美也子さん。僕です」

インターホンから聞こえてきたのは,雅也の声だった。
私がここに来ていることがどうして判ったのか。

「僕です。滝川です」

私が黙っているので,聞こえなかったと思ったのか,
雅也はもう一度名前を告げる。

「ちょっとまって」

私はあわててドアを開ける。
少し笑って雅也は「こんばんは」と言った。

「どうして‥」
「美也子さんこそ,どうしてですか」

真っ直ぐに,射るような目をして雅也が問いかける。
判ってる。誉められたことではないことくらい。
どれだけ,馬鹿なことをしているかも。

「良かったら,入って」
「お邪魔します」
「珈琲でいい?ゴミが出せないからインスタントなんだけど」
「あ,おかまいなく」
「どうして判ったの?」
「すみません,どうしても伝えたいことがあって美也子さんに電話したんですけど,
 携帯が繋がらなくて」
「あ,ごめんなさい。マナーモードでかばんに入れたままで,気付かなかった」
「それで,ご自宅にかけたんですけど‥」
「あ‥」
気まずそうに雅也が目をそらす。
「お兄さんが出てこられました」
「‥,そう」
その先は聞かなくても判った。
たぶん,私がどちらにも嘘をついていることが判ってしまったのだろう。
そして,雅也の勘で,私がここにきていることを見抜いたに違いない。

「美也子さん。ちゃんと食べてますか?」
テーブルに置かれた ほとんど手のついていないサラダを見遣り,雅也が言う。
「ん。あまり食欲がなくて」
「ご自分で気付いてると思いますけど,美也子さん,痩せてきたってみんな言ってます」
「‥」
「でも,家で食事をちゃんととってるって僕たちは思ってましたから,
 何も言わなかったんですよ」
「ごめんなさい」
「崎谷先輩のこと引きずる気持ちも判らなくもないんです。
 でも,自虐的なことは,やめてください。おねがいですから」
「ごめんなさい」
「どれだけご家族にも心配かけてるか,判ってますよね」
「‥」
「僕たちには,『私の気持ちは判らない』って,そう思ってるんですか」
「違うよ,それは」
「じゃ,どうして言ってくれないんですか」
「‥」
「しんどいなら,しんどいって,そう言って下さいよ。
 判りませんよ,美也子さんの気持ちが。
 僕も気付かなかった。傍にいて一緒に仕事をしているのに,
 美也子さんは吹っ切れたんだと誤解してました」
「心配かけたくなかったから」
「心配なんですよ。かけたくなくても,どんな状態でも心配なんです。
 どこかに無理がどんどん溜まってるのに,自分で気付いてませんか?
 それが判ったときに,もっと心配をかけるのが判ってないんですか?」
「‥」
「美也子さんが,大丈夫なふりをするから,みんなどうしていいか判らないんですよ。
 放っておいてください,って美也子さんの心がみんなを拒否してる」
「拒否なんて‥」
「してないつもりかもしれませんが,してます」
そういうと,雅也は胸ポケットから無意識に煙草を出して,「あ」と小さく叫んだ。
「煙草,喫ってもいいよ。灰皿持ってくるから」
私は陽介さんの部屋に戻り,彼が生前使っていた灰皿をダイニングに持っていった。
「どうぞ」
「美也子さん‥」
「何?」
「ここは,崎谷先輩が生きていた頃そのままの状態なんですか」
「そう」
「どういうつもりで‥」
「じゃぁ,どうすればいいと思うの?
 彼の生きていた証を全て捨てた方がいいって思う?」
「辛いだけじゃないですか!」
「辛いからって捨てちゃったら,忘れてしまったら,
 彼が生きていたことさえ,記憶に埋もれてしまう‥」
「だからって,いつまでも思い出の品を抱えて生きてなんていけないでしょう」
「雅也は,大切な人失ってないから言えるんだよ,そんなこと!」
「あぁ,判りませんね。全然判りません。
 そんなことして,覚えていてもらっても,崎谷先輩が喜ぶとでも思いますか」
「喜ぶ,喜ばないの問題じゃないの。そうでもしないと‥」

泣いちゃいけない,そう思ったけれど,駄目だった。
うつむいた瞬間にテーブルに涙が落ちた。

「逃げてしまいそうなの。自分自身が‥」
「美也子さん」
「こうやって,痛みを感じていないと,いつか辛いことから逃げようとしてしまいそうで。
 想い出にしてしまえば,どんなに楽かもしれないけれど,そうしたら,きっと私は‥」
「美也子さん,美也子さんはもう充分苦しんだじゃないですか。
 これ以上苦しむ必要ってないですよ」
「私の所為だから。私が素直に帰って来てって言わなかったから。
 だから,死んじゃったんだもん‥」
「それは,何度も言っているでしょう!美也子さんの所為じゃないって。
 運命だとか,そういうことは言いたくないんですけど,あの時向こうに残ったのは,
 崎谷先輩の意志だし,美也子さんの所為じゃないんですから。
 自分を責めるの いい加減にやめて下さい!」
「ううん。私だけ生き残っちゃったんだから。死ぬことの痛みに比べたら,
 こんな状態で苦しいなんて言っちゃ駄目なんだ‥」
「美也子さん!」

ぎゅぅっと目をつぶった。
涙がこれ以上落ちないように。
泣いて雅也を困らせないように。

「美也子さん‥泣いても,いいんですよ」

-- 私は泣かない。
-- だって,泣いたら自分に負けてしまうから。

「泣きたいときに泣けない方が辛いじゃないですか‥」

-- 強くならないといけないんだから。

「美也子さん‥」
テーブルに置かれた拳を握った私の手に,雅也の手が重なる。

陽介さんも,よく手を握ってくれた。
「美也子ちゃんの手は冷たいなー。
 でも手が冷たい人って心は温かいゆーし」
そう言ってくれた陽介さんの手はとても温かで,
その温かさは,彼の心の温かさと同じだったと思う。
大きな手のひら,長い指。

雅也の手のぬくもりが,陽介さんの想い出を呼び起こす。
泣き続ける私に,雅也は何も言わなかった。
to be continued ...