side_story-18 (Masaya.T) 

時計を見ると,もう22時を回っていた。
「美也子さん,そろそろ帰りませんか」

さっきからうつむいて何も話さない彼女に,声をかける。
「そうね…」
つ,と起ち上がると彼女は洗面所へと消えた。

テーブルの上の花。
グラスなどが綺麗に整頓された食器棚。
可愛らしいマグネットが貼ってある冷蔵庫。
この場に崎谷先輩が帰ってきたとしても,何の違和感もない部屋。
二人の名前が書かれたドアプレート。

--あまりにも痛ましすぎる。

「ごめんね」
美也子さんが戻ってきた。
ベランダの鍵や,ガスのチェックをしている。

--ガス? 電気?
突然,感じた違和感。
主の居ない家にどうしてガスや電気が来てる?
水道も。 いや,それだけじゃない,電話も?

「美也子さん?」
「なに?」
「ここ,どうしてガスや水道が使えるんですか?」
「…」
「まさか」
「ここの名義,全て私のものに変えてある」
「な…」
「ここに越してくるために,全部手続きしたのよ」
「どうして」
「私,家を出るつもり。ここで暮らすわ」
「何の意味があるんです!?」

思わず語気を荒げてしまう。
どこまで愚行を重ねるのだ?

「家に居ても,会社にいても,どこにいても,居場所がないの。
 ぅうん。物理的な居場所っていうんじゃなくて,心の居場所がないの。
 私の心が安まるのは,今,ここだけなのよ…」
「そんなこと,ご家族の方も反対するに決まってるじゃないですか!」
「判ってる…,だから言えなかった。
 言い出すタイミングをずっと失ってたの。
 でも,ここへ来ていること,お兄ちゃんが知ったのなら,今度折を見て話すわ」
「認めてくれませんよ,絶対」
「心配かけたくなくて,ずっと元気なフリをしていたら,いつの間にか,
 自分が二人出来てたの。
 ほんとは,すごく辛いのに,だけど無意識に元気な自分が表に出てた。
 陽介さんを想ってる自分が,どんどん押しつぶされていきそうな気がして…
 もう,駄目なの」

ちゃりんっと美也子さんの手の中で,キーが鳴る。
何度も見てた。彼女のキーホルダー。
どうして,そこに「ここの」キーが付けられていることに今まで気が付かなかったのか。
目の前にヒントはたくさんあった。
彼女の気持ち。 彼女の心の悲鳴。
--気が付かなかったのは,気付きたくなかったから?

電気を消して,玄関に鍵をかけている時に,ちょうど隣のご主人が帰ってきた。
自分の家のドアチャイムを鳴らしながら彼は,
鍵をかけている美也子さんと,後ろに立っている僕を交互に見ながら,
「こんばんは」
と,声をかけてきた。

「こんばんは」
「こんばんは」

この隣人は,美也子さんのことをどれほど知っているのだろう。
ガチャリと,彼の家のドアが開き,「おかえりなさい」と,
彼の奥さんであろう人が顔を出す。
彼の視線がこちらに向いているのに気付いたのだろう。
奥さんもまた,こちらを見,「あら,こんばんは」と声を出した。

「こんばんは」
「こんばんは」

居心地が悪かった。
崎谷先輩が亡くなったことを知っているのだろうか。
生前,顔を合わしていたに違いない隣人は,
今の美也子さんをどう思っているのだろう。

ドアプレートに書かれた二人の名前は,当然結婚した二人を意味するだろうし,
主が姿を見せず,妻であるはずの女性が通っているという現象は,
どう受け止められているのか。

彼らがドアの中に消えていくのを確かめ,僕は美也子さんに聞いてみた。
「隣の人と親しいんですか?」
「ん?んー,何度か挨拶しただけ,ね。
 陽介さんと結婚して一緒に住み始めたら,ちゃんと挨拶に行くつもりだったんだけど,
 行きそびれちゃったから…」
エレベーターの▼のボタンを押すと,すぐにドアが開く。
「ドアプレート,ちゃんと変えた方が良くないですか」
「…」
「もし本当にここに住むなら,何かあったときのためにも,
 隣の人とは仲良くしておいた方がいいと思うし,興味本位で訊かれる前に,
 ある程度話しておいた方が…」
「どこへ行っても,陽介さんの死は,表に出ちゃうんだね…」

消え入りそうな声で,美也子さんはつぶやいた。

「仕方ないですよ。崎谷先輩が生きていたことを知っている人が居るなら,
 姿が見えなくなったらおかしいと思うだろうし,理由を知りたいのは当然だから」
「話せばまた,私は『可哀想な人』って見られるのね」
「普通の人が事情を訊いたらそうなりますよ。
 可哀想だと思うなっていう方が無理です。
 だから,独り暮らししたいなら,他のマンションを探した方が」
「ううん。独り暮らしが出来ればどこでもいいってわけじゃないの」
「あくまで『ここ』でないと駄目なんですか」
「お城,だから」
「お城…」

車を置いてあるところまで戻ってくる。
そうだ,彼女も車で来てたんだ。
まさか,また寄り道…

「まっすぐ帰るから,もう心配しないで」

僕の心を見透かしてか,美也子さんはそう言った。

「気を付けて帰って下さいね」
「また,明日ね」
「はい」
「あ,それと…」
「何ですか?」
「私のこと,『可哀想な人』って思ってる?」
「僕は,思ってませんよ」

   -- ボク ハ スコシダケ ウソ ヲ ツイタ

「そ,っか。ありがと」

にこり,と美也子さんは笑った。
仮面を外した,彼女の本当の笑顔を見たような気がした。
胸がちくりと痛い。

            * * *

その時間帯,会社近くの喫茶店は,ランチの客でごった返していた。

「-----それで?」
ふぅっと煙草の煙を吐き出しながら,京子さんは僕を ねめつけた。
「それで,ってそれだけです」

美也子さんは,京子さんに言わないでとも,口止めをしなかった。
--と,僕は自分で自分に言い訳をして,翌日のお昼休みに京子さんに話を持ちかけた。
正直,自分だけの胸にしまっておくのが辛かったからだ。
美也子さんは仕事で外に出たままだった。

「それだけって,ね?他に言うこと無いの?」
「他にって…」

ぎゅっと灰皿に煙草を押しつけ,京子さんは怒ったように伝票を掴んだ。
「外,出よ」
煙草とライターをカバンに放り込むと,さっさと席を起ち上がる。
いつもながら彼女の行動は,素早く唐突だ。

店を出てから,会社と反対の方にすたすたと歩いてゆく。
「京子さん」
「喫茶店の中だとね」
真っ直ぐ前をにらみつけたまま彼女は言葉を続ける。
「灰皿投げつけそうになるから」
「は?」

京子さんは ちらりと時計を見て,始業まで まだもう少し時間が在ることを確かめ,
近くの公園のベンチに腰を下ろした。
仕方なく僕も隣に座る。

「聞いててバカらしくなったんだけどね」
「バカらしくって,そんな言い方無いと…」
「あのね?それをバカって言わなかったら,どういう行為をバカと称するのか,
 教えて欲しいんだけど」
眉根を寄せ,彼女はこっちに顔を向ける。
京子さんは本当に感情が表に出易い人だ。

「辛いなら辛い,しんどいならしんどいって,はっきり言えばいいでしょ?
 言わなくても,判るじゃない,そんなこと。
 隠そうとするから,かえって周りに気を使わせてるってこと,
 いつになったら気付くの?
 『可哀想な人』だって思われたくなくても,実際可哀想でしょ?
 だけど,別に特別視はしてないわ。少なくともあたしはね。
 可哀想という感情と,だからといって特別扱いするかどうかは別なの。
 そんなの同レベルにしか考えられない方がアホ」

一気に まくし立てる彼女の言葉は,本当にストレートで,気圧される。

「アホ…って」
「バカっていうなっていうから,『アホ』」
「京子さんにかかったらどんな問題でも単純化しそうですね…」
「あ・の・ね?」

ぱっと起ち上がると,座っている僕に挑むように顔を近づけて,言葉を発する。

「単純な問題を複雑にしてるのは,美也子の方なの。 判る?
 失ったものは戻ってこない。 当たり前でしょ?
 It is no use crying over spilt milk.
 ちょっと例えが悪いかもしれないけど,覆水盆に返らずよ。
 なのに彼女はこぼれた水を懸命にかき集めようとしてる。
 無い水をね。 水蒸気を追ってるようなものでしょ。
 彼女の行為は。 それが何のためになるの? 崎谷さんが喜ぶの?」
「美也子さんだって,無意味な行為だって判ってるんじゃないですか」
「いつまで続ける気? 死ぬまで?
 死ぬまでひとりの人を想い続けましたって? 泣かせるじゃないの。
 あたしには,とても真似できないわ。
 好きなように,気が済むまで放っとけばいいんじゃないの?
 本人が,無駄だって気付くまで周りがとやかくゆっても意味がないと思うし」
「放っておけるなら放っておきますよ。放っておけないからこうして相談…」
「相談? あたしの耳には,雅也がどうしていいか判らない気持ちの重さを,
 持ちあぐねて,ぶちまけただけのようにしか聞こえないけど」

図星,だったかもしれない。

ふと,京子さんの表情が緩み,優しく哀しげな顔になった。

「ねぇ,雅也。あなたが美也子のこと心配する気持ちも,判らないではないの。
 でもね,やっぱり周りが心配することが,彼女を追いつめてると思うんだ。
 確かに彼女の身に起こった現象をとってみたら,可哀想だと思う。
 だけど,さっきも言ったけれど,同情しても逆効果なのよね。
 だったら,少し,離れて様子をみてるのが,今の美也子のためなんじゃないかな。
 さっきはキツいこと言っちゃったけど,あの美也子が,両親の反対に遭うのが判ってて,
 そこまで準備したのなら,たぶん,止めても無駄だと思うし,かえって
 かたくなになるだけだよ」
「京子さん…」
「美也子はさ,確かに大きなものを失ったと思うけど,でも,ね」

また,僕の隣にすとん,っと腰を下ろすと,空を見上げながら言葉を紡ぐ。

「失わなかったものが,ちゃんと近くに残ってるんだよね」
「失わなかったもの,ですか」
「うん。 美也子はそれに気付いてるかどうか判らないけど。
 失ったもの追いかけるより,今ある大切なもの,大事にする方がいいと思うんだけどね」
「ご両親とか?」

京子さんは,こっちを向くと,ぷっと吹き出した。

「本気で言ってる?」
「本気ですけど」
「ふーん」

京子さんは,腕時計を またちらっと見て,
「そろそろ,戻らなきゃ…」と ひとりごちると,ぱっと起ち上がり のびをした。

「滝川君」
「はい?」

さっきまで,「雅也」と呼び捨てにしていたのが,急に「滝川君」になった。

「滝川君,だよ」

歩き出しながら京子さんは笑って言った。

「僕が,何ですか?」
京子さんは僕に構わずさっさと歩みを進める。
そして,僕の方を振り返りながら,こう続けた。

「今ある,大切なもの。 美也子が失わなかったもの。
 これから大事にしなきゃいけないものって,滝川君の気持ちだよ」
「…」

風に髪をなびかせながら,颯爽と歩いていく京子さんの後ろ姿を見送りながら,
僕はその場に立ちつくす。

to be continued ...