side_story-19 (Kyoko.A) 

美也子が家を出たがっている,いや,正確には「出る決心をしている」と
雅也から聞いてから数週間経っても,話はなかなか前に進まなかった。
当然美也子のご両親は猛反対し,お兄さんは烈火の如く怒り,説得は難航しているようだった。
それでも彼女は引っ越しを決行すると言っている。
美也子は,崎谷さんのことになると,絶対意見を曲げない。
どこにそんな意志の強さがあったんだろうと思うくらいに。

反対した ご家族の気持ちは,よく判る。
結婚生活を送り,長年連れ添った夫婦なら,余生に相手を想い続けて過ごすのも悪くない。
けれども,美也子は,崎谷さんと結婚をしていたわけでもなく,
また一人の人を追い続けるには若すぎた。
やり直しがきく,といえば,崎谷さんに失礼だろうけれど,他の人と幸せになることが
可能であるのに,何を好きこのんで亡き人のマンションに移り住むのか。
あたしが親であっても,反対していただろう。
自らの人生の幸せをなげうつなんて馬鹿げている。
それは美談でも何でもない。
愚かなだけだ,と思う。
あたしなら,亡き人を追い続けたりしない。
想い出に心の片隅に残しておきはするけれども,愛する人は現実に存在する人間だ。

この世の中に,代替のきく人間なんて居はしない。
けれど,それは詭弁だ。
確かに,その人一個人は,唯一無二の存在であり,全く同じ人間などどこを探しても見つからない。
それでも,欠けた人間を,他の人で埋めることは難しいことではない。
少し,そう,ほんの少し,自分の心の微調整を行えばいいだけなのだ。
死んだ人は戻らない。だから,繰り上げ当選で二番目の人と幸せになる。
それは,ずるいことなのだろうか。

自分の未来を捨ててまで愛する人を想い続けられる美也子が羨ましく思える反面,
自分で苦労を背負い込むことも無いのに,と可哀想にも思えるのだった。

磁石のN極は,正反対のS極を引きつける。
しかし,人間の「不幸」という極は,決して「幸福」という極を引きつけたりしない。
「不幸」や「哀しみ」は,さらなるそれらを引きつけ増殖させるだけなのだ。
どこかで断ち切らないと,永遠に終わりの無いメビウスの輪のように。
だけど,それを断ち切るハサミを持つのは,本人だけなのだから。

            * * *

「…で,納得してもらえたんですか?」

突き出しに出された「イカの数の子和え」をつつきながら,雅也が美也子に問う。
あたしは,初っぱなから日本酒で突き進む。
酔わないと,やってられないよね,なんて自分に言い訳しながら。
仕事が早く終わったので,3人で居酒屋に来ている。
会社近くのこの店を,あたしたちはよく利用していた。
昔はここにもう一人居たのに,などと,ふと思う。

「んー,駄目」

胃痛に悩む美也子は,昔のように呑まなくなった。
今も,烏龍茶にストローを差しながら,意味もなく くるくると回している。

「そりゃ駄目に決まってんでしょがー。
 あたしが,親なら,そういうこという娘は はり倒すけどね」
「もう,過激ですねー。京子さんの,娘じゃなくて良かったですね」

雅也がチャチャを入れる。

「おにいちゃんなんて,ものすごく怒っちゃって,未だに口聞いてくれないの」
「ご両親より,一夫さんの方を説得するのが大変そうですね」
「何にしろ,条件悪すぎるわ。ただ単に独り暮らししたいってのと,
 訳が違うでしょーが」
「おかしいかなぁ。やっぱり…」
「おかしいっていうか…」
「お・か・し・い・!」

雅也がまた美也子の擁護に回りそうな気がしたので,はっきりと言ってやった。

「京子さん…」

雅也の咎めるような視線なんて,構うものか。

「おかしいよ。よく考えてご覧よ。美也子のやろうとしてることって,
 周りが心配してる その火に油を注いで,
 おまけにうちわで空気を送り込んでいるようなものでしょーが」
「相変わらず,京子さんの比喩はものすごいなぁ」
「うるさいよっ,外野っ」

雅也の肩をぺしんっと,はたいた。

「でも…」
「でも,も へったくれも無いの。美也子がやろうとしていることは,
 そういうことだって,まず自覚しなさい」

--「はぁい,揚げ出し豆腐と,肉じゃが,お刺身の盛り合わせ お待ち」

店員の威勢のいい声に,会話は中断された。

「あ,日本酒もう一本」
--「はいっ,日本酒一本追加ぁ」
「すみません,ビール一本もお願いします」
--「はいっ,ビール一本追加ぁ」

伝票を持って店員が立ち去る。

「…でね,話の続きだけども,それでも,美也子は家を出たいんだよね?」
「うん」
「けど,反対されたままじゃ,美也子さんも出にくいじゃないですか」
「うん…」
「美也子さぁ,頑なに『出たい』の一点張りじゃ,説得できないと思うよ」
「…」
「ちゃんと,どうして出たいのかとか,それから,心配かけないように
 定期的に連絡いれるからとか,そういうの言わなきゃ駄目だよ」
「ん…」
「親御さんにしたらさー,そりゃ心配なのに決まってるじゃんか。
 美也子は自分の精神状態のことは自分で判るだろうけど,親御さん達にしてみたら,
 何をどう考えてるかってきっと判んないんだよ。
 『あの子を一人にしたら,何か思い詰めて後追いでもするんじゃないか』って,
 きっと思ってるって」
「うん…」
「死にたいとか,思う?」

ざわつく居酒屋の雰囲気には全くそぐわない会話だなと,頭の片隅で思いながら,
あたしは,聞いてみる。
怖かったのかもしれない,あたし自身も。
美也子が本当に家を出たい真意が,どこにあるかが汲み取れなかったから。
あの時ひっぱたいてでも,引っ越しを止めとくんだった,などという結果になるのが,
あたしを いつになく弱気にさせている。
だから,少しでも「言葉の保証」が欲しかった。
それが何の訳に立たないとしても。

「死にたいから,マンションに引っ越したいんじゃない…」

ぽつん,っと,独り言のように美也子はつぶやいた。

--「はぁい,日本酒と,ビール,お待ち」
またも,能天気な店員の声に会話は中断する。
--「後のオーダーはもう少しお待ちください」
そういうと,店員は また厨房の方へと戻っていった。

氷が溶けた烏龍茶を,美也子は まだかき混ぜている。
あたしは日本酒を呑めば呑むほど,頭が冴えてくるような気がした。
雅也は,何を考えているのか,黙んまりを決め込んだまま,
ライターをかちかちと弄んでいた。

「私,いろいろ考えてみたいの。だから,ちゃんと一人の時間が欲しい。
 自分が自分で居られる,そういう時間を手に入れたいの」

あたしの目を真っ直ぐに見つめた美也子の瞳に偽りは無かったと思う。
だから,あたしはこう言ったのだ。

「じゃさ。あたしも説得に回ってあげるよ。どうせ美也子のことだから,
 今回のことじゃ,誰がどれだけ反対しようと,家を出る気なんでしょう?
 だったらさ,多少時間がかかっても,きっちり話そうよ」
「京子ちゃん…」
「美也子さん,そうしてもらったほうがいいですよ」
ぱちん,っとライターの蓋を閉じ,今まで無言だった雅也も口を開く。
「どーせ,雅也だって同じ様なこと考えてただろうしね」
「僕がですか?」
「そ。美也子のお兄さんに,直談判しようとかさっき考えてたでしょ」
「え」
「雅也ってねー,単純だから,考えてることすぐに判る。
 考え事をする時,ライターの蓋カチカチさせるのって,昔からの癖だよね」

ムカシカラ ノ クセ ダヨネ
あたしは,自分の言葉に少し驚く。
意識しなくても,雅也の一挙手一投足は,あたしの中に刷り込まれていたらしい。

「まいったな」
「まー,そーゆーことで,どーやら,あたしも雅也も同じ様な結論に至ったみたいだから,
 今度の休みにでも,いざ出陣と行きましょうか」
「ですね」
「ありがと…」

「けどねー,最後は,美也子,あんたにかかってるんだから。
 あたしたち援護射撃はするけど,それ以上のことは出来ないんだからね」
「うん」
「さてー,話は決まったら,さっさと食べましょう。
 なんだか,湿っぽい話じゃ日本酒が全然美味しくないんだよね」
「京子さんにとっては,どっちにしろ水同然なんじゃないですか」
「何よ,人のことウワバミみたいに言わないでよね」
「それはウワバミに」
「失礼,だよね」

雅也と美也子が顔を見合わせて笑う。

「何よ,二人ともー」

あたしは,二人を交互にポカポカと叩いた。

他愛のないことで笑い合って過ごす私たち。
仲のいい会社の同僚同志--きっと周りには そんな風に見えるだろう。

美也子が婚約者を失い,雅也は そんな美也子を追い続け,
あたしは,宙ぶらりんのままの立場であるなんて,
たぶん誰も気づきはしない。

人間は,きっとそういうものなのだろうなと,思う。
目に見えている,理解していると思っていることなんて,
本当は何も見えていないし,何も判っていないのだ。

            * * *

それから,あたしたちは何回か美也子の家に足を運び,いろいろな話をした。
本当は,あたし達が表に出て説得に回ることは,反則行為に近いことだったが,
美也子のことと,それからあたし達のことも含めて,
信用して欲しいということで,ようやくご両親も納得してくれたようだった。

いや,本当は納得はしていたのではなかったかもしれないけれど,
親御さんにとっても,美也子の決心の固さは汲み取れたのだろう。
だから,喧嘩別れのような形で家を出られるよりも,
前向きに送りだしてやろうという優しさだったに違いない。
最後の最後まで,美也子のお兄さんは,しぶっていたが,
美也子に「友達に感謝しろ」と言い捨ててそれ以上は何も言わなくなったらしい。

引っ越しが正式に決まってからも,特に ばたばたすることは無かった。
崎谷さんのマンションには既に,人が住めるだけのものは揃っていたし,
後は美也子の日常品と洋服などを運ぶだけだった。
雅也が,商売の軽トラックを一日借りてきてくれたので(彼は酒屋の息子である),
それに載せて,美也子の家とマンションの往復を数回すればいいことであった。

何往復目かに,美也子と雅也がトラックに荷物を積んでいき,
あたしは一人で荷物の梱包をしていた。
「京子さん」
と美也子のおかあさんに声をかけられた。
「あ,あと,もう少しですから」
「すみません,お世話になって」
「いつも,あたしの方が美也子にお世話になりっぱなしですから」

あたしは,笑ってそういった。

「京子さん…あの子を,お願いしますね」
そう,深々と頭を下げられる。

「おばさん,心配しないであげてください。
 美也子,そんなに弱い子じゃないです。
 彼女は逃げたんじゃ無いと思うから。 これからのことを,ちゃんと考えたくて,
 それで,今回のこと決心したと思うんですよ」
「時間が必要なのかしらね…」
「そうですね。待っててあげてください。大丈夫です,きっと」

--大丈夫です,きっと-- たぶんそれは,あたし自身に言い聞かせた言葉だ。

「京子さん,これ持っていていただけますか」
「鍵?」

それがどこの鍵かはすぐに判った。

「こんな物渡されてご迷惑なのは,重々承知なんですけれど…」
「判りました,預かっておきますね。美也子,おっちょこちょいなところがあるから,
 鍵失くしたりすることもあるかもしれないし」

そんな理由で渡されているのじゃないことぐらい,百も承知だったが,
娘を心配する親の気持ちが痛いほど判ったので,預かることにした。
どこにでもある,普通のマンションの鍵だったけれど,
あたしの手と心にはずしりと重かった。

いつか,美也子が崎谷さんのことが吹っ切れて,あのマンションを出る日まで,
この鍵は,出番なく,あたしのキーケースの中に眠ることになるだろう。
そう,出番があっては困るのだ。

あたしは鍵をぎゅっと握り続けた。

to be continued ...