side_story-2 (Masaya.T) 

 すっかり日の暮れた街を、とりとめもない話をしながら並んで歩く。
僕は身長が180cmあるので、歩くのもかなり速いほうだけれど、
美也子さんは遅れることなく歩いている。
「美也子さんって、女性にしては歩くのが速い方じゃないですか?」
少し前に、僕が訊いたとき、美也子さんは、
「彼が速かったもの」と笑って、こともなげに答えた。

 少し前までは、"彼"と発音するたびに、美也子さんの顔には
哀しみの色が宿っていたけれど、最近では美也子さんの中で、
それも変わりつつある。
"彼"が、まるで今少しだけ席を外しているかのように、
だから自分のそばには居ないのだと、そんな風に美也子さんは
心の中に決着をつけたように思う。
そして過去形になりながらも、"彼"は今もそこに存在するのだ。
たぶん、これからもずっと。

 僕からは少し見下ろす形になる美也子さんの横顔を眺めながら、
ふとそんなことを考えた。

 騒がしい道路から少し奥に入り、住宅街の一角にその店はあった。
仕事で外を回っているときに偶然見つけたのだ。
「美也子さん、ここですよ。結構美也子さん好みでしょ?」
洋館風のしゃれた造りをした外観で、少し取っつきにくいようだが、
夫婦二人が趣味で開いている気さくなお店だった。
メニューにはたくさんの一品料理が並び、
和洋中とジャンルを問うていない。
「前に来たことがあるの?」
階段を昇り、ドアを開ける僕に美也子さんが問いかける。
「美也子さんを連れてくるのに、リサーチは欠かせません」
おどけて僕は続ける。
「だから、一度友達と来たんですよ。それも野郎二人で。笑えるでしょ」
小洒落たお店に、男二人が顔をつきあわせている光景を思い浮かべたのか、
くすくすっと美也子さんが笑った。
「二人でいろいろ見つけるというのも楽しいじゃない?
 "私たち"はいつもそうしてた。飛び込みでね、結構失敗も多かったけど、
 あんな店二度と行くもんかって、ぶつぶつ言いながら懲りずにまた
 新しいお店を探すのよ」
「崎谷先輩って開拓者根性が有りましたからね」
そういって僕も笑った。

 崎谷先輩 --崎谷陽介-- は僕らの会社の先輩で、
僕より一回りとさらに2つ、年上だった。
僕には兄弟が居ないので、兄的な存在ではあったが、
14という年の差だけで言えば、むしろ父子の年の差に近かったと思う。
そのことを、先輩に言うと
「父は無いだろうが。せめて年の離れた従兄弟くらいにしといてくれ」
と大笑いしていた。
 確かに、外見からも話し方からも、
とても30半ばを過ぎたようには思えないほど、
いつまで経っても少年のような不思議な魅力のある人だった。
そして、美也子さんもまた、実年齢よりは若く見える。
3つ年下の僕でさえ、守ってあげたいと思わせるのだから、
先輩がそう考えたとしてもおかしくはなかったろう。
実際"彼"は美也子さんを守ろうとしたし、けれども、
守りきることなく生涯を閉じた。

 席に案内され、ワインを頼み、
美也子さんは、「何にしようかな」とメニューを眺め、
「何が美味しかった?」と僕に問いかける。
「そうですね。これと、これと、あ、これも美味しかったし…」
次々に指さす僕に、
「ちょっと、そんなにたくさん食べられないじゃない」
と笑う。
「いっぱい頼んでくださいよ。割り勘なんだから」
「男の子二人の食欲には太刀打ちできないわ」
と言った。

 美也子さんは食が細い。残すのは嫌いな所為か、
頼んだものはきちんと食べるようだけれど、大勢で飲みに行った時などは、
まわりの世話ばかりで本人はほとんど食べていないように思う。
「美也子さんはね、もう少し食べて太らないと駄目ですよ」
「そうかなぁ?」
「そうそう。だって、今の美也子さんだと、僕が抱いたら、
 腕が3周ぐらい回りそうでしょ?」
「何を言ってるのよ」
と言って美也子さんはまたくすくす笑った。
笑うと本当に子供みたいだ。
「滝川君の腕が3周も回るぐらいの細さの人なんて、
 人間じゃ無いじゃない。私っていつからオバケなの?」
"抱いたら"というところは軽く流されたらしい。
「3周じゃ無かったら2周半ぐらい?なんなら、試してみます?」
「もう。そんなことばっかり言って、女の子口説いてるんじゃない?」
「心外だなあ。小心者の僕を捕まえてそんなこと言うんですか」
「小心者が聞いて怒るわよ」
そんな軽口をたたきながら、僕らは料理を決め、
運ばれてきたワインで乾杯した。
「今日も無事仕事が終わったことに乾杯」
「乾杯」

 次々運ばれてくる料理を平らげながら、
その日あったことや、今ハマっているゲームのこと、
読んだ本のことなどを、楽しげに話している僕らは、
きっと傍目に見れば仲の良い"彼と彼女"に映っただろう。
けれど実際の関係で言えば、僕と美也子さんは、
あくまでも会社の仕事仲間、それ以上でも以下でもなかった。
例え僕がその関係を超えたいと思ったとしても、
美也子さんがそれを認めないはずだった。

 ライバルが現実の男なら、戦いようもある。
けれど僕が戦いを挑もうとするのは、
もはや美也子さんの心の中にしか生を持たない人なのだ。
最初から勝ち目は無いだろう。
不戦敗、それが判っていても、戦いを挑んでしまう。
男とは哀しい生き物だと思う。

 食事も終わり、
勘定を済ませ、僕たちは外に出た。
月の美しい夜だった。
「ごちそうさま」
美也子さんは、僕にぺこんと頭を下げ、階段を軽やかに降りていく。
「美也子さん、アルコールが無くなるまで、少し散歩しませんか?」
後ろから声をかけると
「そうね、このくらいの季節の夜って、散歩にぴったりね」
住宅街にならんだ桜を見上げながら、美也子さんはそう言った。

 近くに公園があったので、そこのベンチに腰を下ろし、
僕はたばこに火をつけた。
美也子さんは、ベンチの向こうにある鉄棒の方へ行き
「ねぇねぇ、鉄棒ってこんなに低かったのね」
と言った。
「昔はすごく高く感じたのに、いつの間にか追い越してしまったのね」
美也子さんはそうひとりごちると、ぼんやりと鉄棒を見ていた。
たばこを始末し、僕はゆっくりと美也子さんの傍に行った。

 どうして、そんなことをしたのか、
自分でもよく判らない。酔っていたのか、それとも、
桜に幻惑されたのか。

 鉄棒に寄り添う美也子さんを僕は後ろからそっと、抱いた。
「滝川君?」
「美也子さん、鉄棒の話今したでしょう?」
「離して…」
構わず僕は続ける。
「鉄棒の背丈を美也子さんが超えたように、美也子さんは、
 いずれ"彼"の年齢を超えますよ。美也子さんは年を重ねても、
 "彼"はずっとあの日のままだ。」
「やめて…その話」
「あの年に生まれた子供は、今年で3つを迎える。親に抱かれることしか
 出来なかった赤ん坊も、自分の足で歩き、自分の意志で動く様になる。
 判りますか?美也子さんがいつまでも、じっとしていてどうするんです。
 動き出してもいい頃じゃないんですか?」
「滝川君…」
「言い過ぎだとは思うんです。僕は当事者じゃない。無責任なことが言える。
 けれど、やはり今のままの美也子さんじゃ、駄目ですよ」

 僕はそういって、美也子さんから離れた。
「判ってはいるの。でも…」
そう言って振り向いた美也子さんは少し涙ぐんでいた。
月明かりに照らされ、色の白さが際だつ美也子さんの顔を見ていると
いたたまれなくなった。
「いいですよ。僕も無神経でした」
やはり、どうかしていたのかも知れない。こんな事を言うつもりは、
無かったのに。ずっと心にしまって置くはずだったのに。

「美也子さん」
「何?」
うつむいた美也子さんが、ぴくんと肩を震わせる。
「一つだけ判ったことがあるんです」
「…」
「僕の腕、3周は回らないですね」
僕は、深刻な空気をうち破ろうと、ジャブを繰り出した。
「でしょ?滝川君オーバーなのよ」
僕の気持ちを察してか、美也子さんも精一杯の笑顔を
返してくれた。
「でも、やっぱりもう少し太った方がいいですよ。
 桜の枝と同じで、折れてしまいそうだ」
「莫迦ね、さっきはオバケで、今度は桜の枝なの?」
「また、飯喰いに行きましょう。たくさん食べて、
 メタセコイヤくらいになってもらわないと」
「やだなぁ」
いつもの二人の雰囲気がやっと戻った。
 けれど、今日の僕の言動が、美也子さんの心に一石を投じたのは、
間違いのない事実だろう。

to be continued ...