side_story-20 (Masaya.T) 

暑い夏の午後。
午前中の仕事に珍しく早くケリがついた僕は,PCの画面を見ながら,ぼんやりしていた。
斜向かいの美也子さんは,カタカタと小気味よい音をさせながらキーボードを叩いている。
隣に座る小川が,大きく伸びをして,イスの背もたれを,キコキュッっといわせる。
その間も,電話が鳴り響き,人が行き交い,どこにでもあるようなオフィスの一場面だった。

美也子さんが起ち上がり,ヒマワリ色のスーツの鮮やかな色彩が,僕の目の端をよぎる。
彼女の一挙手一投足を意識して見ているわけではない。
けれど何故か,目も耳も,ふと彼女を捜していることに気付かされる。


誰かを好きになったとき,「この瞬間から」と明確に答えられる人は居ないと思う。
「なんとなく」「いつのまにか」「気が付いたら」--使い古されたセリフだけれど,
たぶんそれが本音だろう。

僕が,美也子さんを好きになったのは…と考えてみると,
やっぱり,それらの言葉しか思い浮かばない。
けれど,遡れば,たぶん,最初に出会った瞬間から,
もしかしたら好きになってたかもしれないと思うのだ。

             * * *

その日僕が目を覚ましたのは,お昼近くだった。
時計を見てそれこそ飛び起きた僕は,あわてて机の上に置いていたメモの切れ端を見た。

12:30 サキヤ りれき 写

昨日,バイトを募集していた会社に電話をかけたときのメモ書き。
確かに12:30と僕の字で書かれている。

「りれき」は履歴書,「写」は写真。
電話中にメモを取るとき,なかなか漢字がすぐに出てこないものだ。
担当者はサキヤさんという方らしいのだが,これまた漢字が判らない。
それにしても人の名前が判らないときに,どうしてカタカナで書くのか,
ふと不思議に思うことがある。
フリガナをカタカナで振る習慣があるからなのか…。

…と,そんなことを考えている場合じゃない,
12:30の面接に行かなければならないのに,
今はもう,お昼前だ。
どう考えても,遅刻である。

あわてて,バイト募集時の書類を見つけて電話をかける。

数回のコールの後,「はい,オフィス・プロエディットです」という声が聞こえた。
「もしもし,今日12時半から面接をお願いしている滝川ですけど」
「滝川さんですか。…はい,バイトの面接の方ですね」
「そうです。申し訳ありません,約束の時間に遅れるかもしれないんですが,
 サキヤ様いらっしゃいますでしょうか」
「サキヤはただ今席を外しておりますので,私の方から,サキヤが戻り次第
 お伝えいたしますがよろしいですか」
「あ,お願いいたします」
「私,ササノと申します」
「ササノさんですね,では,よろしくお伝えください。
 15分ほどの遅れになると思いますので」
「判りました。こちらへは何でお越しでしょうか」
「車で伺うつもりですが」
「駐車場が会社の裏手にあります。
 1〜6までが,我が社の来客用のスペースになってますので,
 そこに駐車してくださって結構です」
「そうですか,ありがとうございます」
「気を付けていらっしゃってください」
「はい」

…そんな会話をした後,僕は急いで用意を始めた。

よりにもよって面接の時に寝過ごすなんて,なんたることだ。
心象は良くないな,と思いながら,身支度もそこそこに会社に向かった。

さっきのササノさんが教えてくれたとおり,目指す会社の裏手に
駐車場があった。
僕はあわてていたので,電話でそんなことを確かめることまで
頭が回らなかったけれど,彼女が教えてくれたおかげで,
駐車場を探して走り回らずに済んだ。
社員の教育が良くできている会社だなぁ,なんて妙なところで感心しながら,
エレベーターを待つのももどかしく,階段を3階まで駆け上がった。

両開きの扉の片方だけが空いていて,
オフィス・プロエディット,とプレートが付いていた。
ぱっと見た瞬間,誰もいないように見えて,場所を間違えたかと思い
「すみません」と中に声をかけてみる。
「はい」
…と声がして,カウンターの下から急に人が現れてびっくりした。
「あ,先ほどお電話をくださった,滝川さんですね」
女性は,コピー用紙の束をカウンターの横に置き,僕にイスを勧めた。
どうやらこの女性がさっき電話に出てきたササノさんのようだ。
歳はたぶん僕と同じくらいだろう。
「滝川です,遅れまして申し訳ありません」
僕は少し息を切らしながら,そう挨拶した。

時計を見ると10分ほどの遅れだった。
サキヤという担当の人は,どこかの部屋でもう待っているのだろうか…。

「申し訳ありません,サキヤから先ほど連絡がありまして,
 帰社が13時頃になりそうなので,待っていてもらいたいと」
「あ,そうですか」
僕は心底 ほっとした。
遅れたことは事実だけれど,少なくとも担当者の人を待たせるという事態だけは免れたようだ。

「少々お待ちくださいね」
彼女はそういって,向こうにいく。

こじんまりしたオフィスだった。
きょろきょろと見回していると,
彼女が戻ってきて,
「どうぞ」
とお茶を出してくれる。
よく冷えた麦茶だった。
走ってここまで上がって来た僕にはとても有り難かった。

歳が近そうだし事務の人だろうという気安さから,僕は話しかけてみた。
「皆さん今居ないんですか?」
「今ちょうど,会議中のチームがあって,
 その他の人たちは,外回りだったり,食事で外に出ていたりで,
 たまたま誰もいないんですよ」
「そうですかー。誰も見えなかったので驚きました。
 えーと,ササノさん,でしたよね,お名前」
「はい」
「駐車場のこと有り難うございました。おかげで時間のロスもなかったし。
 ササノさんが教えてくれなかったらもっと遅れてたかもしれません。
 助かりました」
「とてもあわててらしたから」
「あ,わかりました?焦ったんですよ,本当に。
 面接の時間に遅れるなんて,前代未聞ですから」
「あ,そうそう…」
彼女は唇に人差し指を当てて,くすっと笑い,こう付け加えた。
「サキヤから電話があったとき,13時までは戻れないので,
 伝えておいてほしいと言われたあと,すぐに電話が切れたので,
 滝川さんが少し遅れるっていうことは伝えられませんでした」

「あ」
僕も思わず笑った。
彼女の言っている意味が判ったからだ。

伝えようと思えば伝えられたはずだ。
でも,たぶん,僕の心象が悪くなるのを考慮して,
担当者の方が遅れてくるわけだから,言わないでいてくれたのだ。

「ありがとう」
「あら,伝え忘れたのにありがとうですか?」
くすくすと彼女が笑うのにつられて,僕も笑ってしまう。

その時,「待たせて申し訳ない」と後ろで声がした。
「あ,お疲れさま。こちらバイトの面接に来られた滝川さんです」
「初めまして。滝川です」
僕は起ち上がって挨拶した。

察するところ,その男性が面接担当の「サキヤ」さん,なのだろう。
二十歳後半くらいの若い人だった。
もっとおじさんが面接官かと思ったのでなんだか驚く。

「担当のサキヤです,待たせて申し訳なかった。えーと面接は」
と,サキヤさんがササノさんの方に顔をやると,
「今,第一会議室で,ワタナベさん達が会議してますから,
 第二が空いてますよ」
とササノさんが答えた。
「サンキュ。ナベさん話し始めたら長いからな,
 そしたら第二使わせてもらおうか」
「ボード書き換えておきますね」
「すまん,頼むわ。イチハラさん,外?」
「食事に出られてます」
「帰ってきはったら,郵送のチェックお願いしますって,
 そこの箱,見てもらっておいて」
「はい」

テキパキと指示を出し,サキヤさんは僕を
第二会議室というところに案内してくれた。

「申し訳なかったなぁ,ほんと,待たせて」
サキヤさんが,本当に申し訳なさそうに頭を下げるので
僕はついつい,正直に
「いぇ,あの,実は僕も少し遅れまして…」
と言ってしまった。

僕が遅れると電話をかけたことを言わなければ,
それを黙っていたササノさんにも迷惑はかからないだろう。

すると,サキヤさんは,あはははっと笑って
「そうか,じゃ,あいこでええか」と言った。

僕はこの時,本当にこの会社にバイトに来たい,と思った。
この人と一緒に働いてみたい,そう思わせる何かがあった。

「じゃあらためて,サキヤです」
といって,名刺を差し出される。
「あ,滝川です,よろしくお願いします」

サキヤさんからもらった名刺には
「オフィス・プロエディット 総合第一 主任 崎谷陽介」と書かれていた。
サキヤ,は「崎谷」と書くことが初めて判った。

「履歴書持ってきてくれたかな」
「はい」
僕は手渡した。
その時,ノックの音がした。

「失礼します」
入って来たのはさっきのササノさんだった。
麦茶の入ったコップが二つ載ったお盆を持っている。

「ありがとさん」
と,崎谷さんは受け取った。

崎谷さんの発した言葉に,僕は少なからず驚いた。
僕は大学の研究室に入っているけれど,
そこの教授達は,助手の人がお茶を入れてくれても,
それが当たり前というような顔をして飲んでいる。
他の会社にもバイトに行ったことも有るけれど,
どこの会社の中でも,事務の人が入れてくれるお茶に
ありがとうなんて,言葉を返す人なんていなかった。

小さい頃から,母親に
「『ありがとう』と『ごめんなさい』がきちんと言える子に」と,
そこだけは厳しく言われてきたので,
そういうことがきちんと出来る人を見ると嬉しくなる。

彼女は一礼して出ていった。

「いつから出社出来そうかな?」
「明日からでもすぐに」
「それは,頼もしい。それじゃ,あとで事務の方で書類もらってくれるか」
「あの…」
「ん?」
「いや,何か質問とか,無いんでしょうか」
あまりにも事が簡単に運んでしまうので,ふと不安になった。
「いや,なんで?」
と,逆に質問を受けてしまう。
「面接というと,志望動機とか,いろいろ訊かれるものだから…」
「あー,そういうことか」
笑いながら,崎谷さんは,僕から手渡された履歴書を脇に置くと,
今度は,少し真面目な顔をしてこう話し始めた。

「うちの会社で働きたいと思ったから来てくれたんだと思う。
 それなら,実際働いてもらって,うちと合うかどうかは
 その時に,お互いが判断すべきじゃないかな。
 いくら,ここで,意気込みとか動機とか聞かされても,
 実際に動いてみないと判らないものもあるから」
「はぁ」
「うちはバイトの手を借りたいときは,そこの部署の責任者が
 面接する方式とっている。
 現場を知らないお偉いさんが,通り一遍のことを聞いて面接しても,
 何の意味もないと思うから。
 今回募集したのは,うちの部署で人手が足りないからで,
 だから,僕がこうして面接しているわけだ。
 僕は,滝川君と今少し会話をして,少なくとも,自分が遅れたことを
 正直に言える人間であることに,好感を持った。
 だから,後は働いている姿を見て判断させて欲しい」
「判りました」
「何かあったら,いつでもゆってくれたらええよ」
にこやかな顔で崎谷さんはそう付け加えた。

「はい,じゃよろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃ,明日から頼むわな」

そう言って,崎谷さんは,起ち上がり,
空になったコップ二つを片手に持って,
履歴書などを小脇に抱え扉を開けてくれる。

カウンターの所で,他の人と話しているササノさんに,
「ごちそーさん」
と声をかけていた。

「あ,コップそこにおいておいてください」と,
さっきは居なかった女性が答える。
「いや,ついでやから向こうに持って行っとく。
 イチハラさん,交通費とかの書類,滝川君に渡してくれるかな。
 それと郵送の件至急頼むわ」
「ササノさんから,伺いました。すぐとりかかりますね。
 滝川さん,必要書類,この封筒の中に入ってますので,お持ち帰りください」

イチハラさんと呼ばれる女性から,僕は書類を受け取り,
「失礼します」
と崎谷さんに頭を下げた。
その声で,コピーを取っていたササノさんがこちらを振り向いたので,
会釈すると,彼女も ぺこんと頭を下げた。

エレベーターに乗り込み一人になると,ひとりでに笑みがこぼれてしまう。
いい人に巡り会えた,そんな気がした。


翌日,天気は また快晴で日差しがきつかった。
大学で講義を受けてから会社に向かう。

時間に余裕を持っていったので,今日はエレベーターで3階まで上がり,
「こんにちは」
といって中に入った。
昨日のお昼とはうってかわって人も多かった。

「こんにちは」
昨日のイチハラさんが,にこやかに挨拶してくれた。
僕の姿を見止めると,崎谷さんがこちらに歩いてきた。
「メンバー全員いるわけじゃないけど,紹介しとくわ」
「はい」

これから仕事を一緒にするであろう人たちに一通り挨拶を済ませ,
仕事の内容や決まり事などを聞いているときに,
「ただいまー」
と知った声が聞こえた。
「おぅ,おかえり」
「おかえりー」
と,あちこちから声がかかる。
角封筒の束を抱えたササノさんだった。

ササノさんは扉の近くの壁に掛かったボードの
赤いマグネットをぺたっと貼り替えている。

あのボードは行き先などを他の人たちが把握できるように
用意されているらしい。
さっき説明してもらった。

僕のマグネットも「滝川」と書かれたものが用意されていて,
「社内」というところに貼られていた。
(これは,社内にいる,という意味らしい)

ボードには,マグネットの横にマンガの吹き出しのようなものが
ペンで描かれ「ヨルメシ」と書かれてあったり,
(これは「夕食」の事だろう。何故かおにぎりのイラストが添えられていた)
そうかと思えば,マグネットに向けて矢印を書き「糸の切れたタコ」と
冗談めかして書かれていて,そこに更に矢印が向けられ,
「せめてブーメラン」などと書かれてあって可笑しかった。
学生時代の,まるでクラブの部室のようなノリだ。

「ただ今戻りましたー」
僕たちの方にササノさんは近づいてくる。
「おつかれさん」
ササノさんは,崎谷さんに角封筒の束を手渡し,
僕に「こんにちは」と挨拶した。
「こんにちは」
「ほな,紹介しとくわ,こちらササノさん。
 うちの社内に『ササノ』さん,二人居るから,
 彼女は下の名前で『ミヤコ』さん,って呼ばれてるから」
「はい」
僕は『都』さんかぁ,古風な名前なんだな,と思った。

「こちら,滝川雅也君,今日からバイトに来てくれることになったから」
「ササノです,よろしくおねがいしますね」
「こちらこそ」
「仕事のこととかは,彼女に聞いたら教えてくれるから,
 俺が居らん時は,頼りにしていいで」
「え?仕事の事って…」
僕はずっとササノさんを事務員の人だと思っていたので面食らった。
「うん?彼女若いけど学生の頃から来てくれてるからキャリアは長いよ。
 まさか昨日カウンターの所に居たから事務の人なんて思ってたんか?」
笑いながら崎谷さんが言った。
「いや,その…」
「あ,そっかぁ,コピー用紙とか探してたからずっと事務の所にいましたものね。
 勘違いしました?」
怒るそぶりもなく,ササノさんも笑った。
「はい」
「おっと,時間だ。じゃ,俺外回ってくるから,あとはよろしく」
「はい,気を付けていってらっしゃい」
崎谷さんは,先ほどの角封筒をいくつか手にして,戸口の所へ行き,
ボードのマグネットを移動させ,ペンで何かを書き込んで出ていった。

僕はササノさんに向き直り,
「すみません,お茶とか入れてくれたし,てっきり事務員の方だと」
と謝った。
「イチハラさんが食事に出ている間,残ってたのが私だけだったから」
「そうですか」
「事務員だからとか,そういうのあまりないの。
 外線もかかってきたら,手の空いている人が取ることになっているから,
 滝川君もお願いしますね」
「はい」
「判らないことがあったら,何でも聞いてください。
 資料室とか案内してもらったかしら?」
「まだです」
「じゃ,案内しますね」


そんな風にして,僕のバイト生活は始まった。
ササノさんは「笹野」さんで,ミヤコは「都」じゃなく「美也子」だということも知った。
僕より3つ年上だということも。


最初に思ったとおり,ここの社の人は,みんないい人ばかりだった。
働かされている,ではなく,自分が働きたいから仕事をしている,
そんな感じでみんな活き活きしていた。
だから,大学卒業後の就職先を決めるとき,僕は迷わずこの会社で正社員として働くことにした。
それくらい,この会社,いや,ここで働く崎谷さんや美也子さんを初め,
働いている人たちを気に入ったのだった。

あれから,彼女とずっと仕事をしてきた。
彼女を取り巻く環境も,僕を取り巻く環境も変わった。
けれど,自分の彼女に対する気持ちだけは,ずっと変わりない,そんな風に思う。

             * * *

「どうしたの?ぼっーとして」
いつの間にか,席を外していた美也子さんが僕の傍に立っていた。
「え?いや,ちょっと考え事」
「今日の昼食はどこにいこうかなぁ,とか?」
彼女は笑ってそう言った。
「そーそ。そろそろ外に出ません?僕,お腹空きましたよ」
僕はそう返す。
時刻は12時40分を少し過ぎていた。
あの日,初めて彼女と出会ったのと,同じ時間。

「判った,じゃ,これだけ仕上げて行くから,待ってて」
出逢った頃より伸びた髪を,ふわりとゆらし,
彼女は立ち去る。

僕は戸口の所に移動して,ボードの前に立ち,
「滝川」「笹野」と,それぞれ書かれたマグネットを
「外出」の方へ移し,横にペンで「昼食」と書き加えた。

あの時崎谷さんが使っていたマグネットはどうしただろう。
彼が亡くなってから,一切の物は片づけてしまったので,
もしかしたら,どこかにしまわれているのかもしれない。
いや,それとも,彼女が形見として持っているのか。

もしも今,このボードに崎谷さんのマグネットがあれば,
僕は,「外出」の方に,彼のマグネットを貼り替え,横にこう書くだろう。

行き先:美也子さんの心の中
to be continued ...