side_story-21 ( Miyako.S) 

一般に言われる 'お昼休み' の時間を三分の一程過ぎようという頃,
私は,カタカタとキーボードを叩き,まだ仕事をしていた。
我が社では,お昼休みというものを一斉には とらない。
各自,仕事のキリのいいところから一時間程,昼食兼休憩時間としてとるということになっている。
だから12時から きっちり昼食ということは滅多になかった。

10分ごとに設定しているEmailの巡回で '新着Emailが6件あります' とダイアログがポップアップする。
世間では昼食を終えた頃だろうか。
昼休みを利用して,皆がEmailのリプライを書き始める時間帯だ。
仕事の手を休め,スペースキーを押しながら次々とEmailを読んでいく。
一通り読み終わったところで,返事を必要とするものに対しては,その場で返事を書く。
すぐには送信せずに,いったん送信箱に収め,また仕事のウインドウをアクティブにする。
また,カタカタとキーを叩き,そういえば送られてきた資料が,たしか向こうに積まれてた,と思い 席を立った。

ひんやりと空調の効いたオフィスの中で,いつもと同じ一日が半分過ぎようとしている。
陽介さんの居ない,3度目の夏。

'彼が居なくなってから' を起点にし,私は一体いくつの季節を数えるのだろう。
例えば一年経てば哀しみが二分の一になるとして(実際なりはしないが),
二年経てば四分の一,三年経てば八分の一,四年経てば十六分の一。
けれども,どこまでいっても少しずつ少しずつ痛みは残り,
その痛みを感じることで「彼がこの世に生きていた」ことを実感するのだ。
彼を失い 心に出来た隙間を,哀しさが少しずつ埋めることによって,
皮肉なことに私は これからも生きていけるのかもしれない。

             * * *

資料室という名ばかりの,実は物置と化している部屋のドアを開ける。
あぁ,そういえば,ここのドアで,怪我をしたときもあった。
病室に来たときには,いつもの陽介さんだったけど,本当は,血相変えて病院に駆けていったと,京子ちゃんが言ってた。

山と積まれた書類から,必要なものだけピックアップする。
「利用されない資料は,単なる紙屑だ」というのが陽介さんの口癖だったっけ。
最大限活かしてこそ,資料は資料となりうる,と,そう教えてくれた。
今の私の仕事のやり方の基盤を作ってくれたのは,彼だったなと改めて思う。
「人のいいところは,どんどん参考にして自分のものにしろ」
いつも,そういってたよね。
とにかく彼の足手まといにならないように,また せめて少しでも力になれるようにと,私は必死に彼に追いつこうとした。
そして,人を育てることに時間も労力も惜しまない人だったから,今現在の私がここに居るのだと思う。

資料を抱えながら,少し涙が出そうになった。
自分という人間に,こんなにも陽介さんが影響していたことを,いろんな場面で知ってしまう。
私という人間が,陽介さんと知りあうまでに生きてきた時間の方が長いのに,
それよりも彼と知りあってからの方が時間の密度が濃いような,そんな気がする。

             * * *

気持ちを切り換え,資料室から戻ってきて席につこうとしたとき,雅也がぼんやりしているのに気付いた。
「どうしたの?ぼっーとして」
と声をかけると
「え?いや,ちょっと考え事」
と言い,笑う。
彼のディスプレイではスクリーンセーバーが走っていたので,かなり ぼんやりしていたのが判る。

「今日の昼食はどこにいこうかなぁ,とか?」
私は,茶化してそう言った。
「そーそ。そろそろ外に出ません?僕,お腹空きましたよ」
ちらりと壁の時計を見やって,雅也が大袈裟に首をすくめる。

「判った,じゃ,これだけ仕上げて行くから,待ってて」
そう言って私は席に戻った。
'新着Emailが11件あります' というダイアログをクローズし,資料は後で目を通そうとキャビネットの中に入れておく。
キリのいいところまで打ち込んだ後,起ち上がっているウインドウを全て終了させた。
放っておけば,数分後にスクリーンセーバーが起ち上がるだろう。

「お昼行って来ます」
周りに声をかけた後,雅也がボードに書いていてくれたのを確かめる。
「滝川」「笹野」のマグネットが「外出」の方に移動してあり,横に「昼食」と書かれてあった。
几帳面な雅也の字。
彼の書く字は読みやすく,電話のメモでさえ きっちりと書かれている。
「男の子にしては字が綺麗よね」と京子ちゃんに からかわれていたけれど,彼の実家は酒屋さんで,「店の手伝いをするときに,伝票に書くのが汚い字だと親父に怒られたんです」と言ってたっけ。
私はペンをとると,「昼食」と書かれた横におにぎりのイラストを添えておいた。

             * * *

雅也と連れだってオフィスを出て,ビルのエントランスまで下りると,
空気の温度が数度上がったような気がした。

一歩外に出ると,シャワシャワシャワという蝉時雨に圧倒される。
こんなビル街なのに,セミは生息し,自己主張しているんだなぁと自然の偉大さに感動する。
道路には ゆらゆらと陽炎が立ち,逃げ水が見えた。
近くに行けば触れそうなのに,永遠に触ることの出来ない幻。
私が陽介さんのことを想い続けるのは,これに似たことなのかもしれない。

「あっついですねー」
「ほんとー。一雨来て涼しくならないかなぁ」
「で,どこ行きます?美也子さんに合わせますよ」
「うーんとねー,なんだか食欲もないし,どうしよう…」
「麺類ならいけそうですか?'いづみ' 行きます?」
「そだね。そうしよう」

'いづみ' というのは会社から少し離れた蕎麦屋さんだった。
駐車場が無いため,歩いていかなければならないのが難と言えば難だったのだが,
私たちの会社の間では密かな人気を誇るお店で,みんな常連だった。

暑い日射しを避けるようにうつむいて歩く。
ちりちりと照りつけられ肌が痛い。

そういえば,と,ふと学生の頃に行ったハワイの日射しを思いだした。

             * * *

学生の頃から,私は今の会社にバイトとして仕事をしに来てたのだけれど,
ある夏に友達とハワイに行くためバイトを休ませてもらった。
ちょうど仕事も忙しくないときだったので,二週間近く休みをもらえた。

ハワイは暑いことは暑かったけれど,湿気が少ない分日本よりは過ごしやすく,何度行っても景色の美しさを堪能できた。

ある夕方,滞在していたホテルを出て,友達と散歩しているとき,本当に綺麗な夕焼け空を見た。
日本では決してみることの出来ないような,美しくグラデーションがかった空。
その瞬間,何故かこの感動をどうしても陽介さんに伝えたくなったのだ。
もちろん,その頃,まだ陽介さんとつき合っていたわけでもなく,仕事先の上司,としてしか意識してなかった。
にもかかわらず,その時の私は,真っ先にこの景色を陽介さんに見せたいと思った。
思えばその頃から既に,私の心の中には,陽介さんが入り込んでいたのかもしれない。
だけど,自分の気持ちにさえ鈍感だった私は,その事を通して初めて彼を意識するまで,自分の彼に対する気持ちなど全く気付かなかったのだ。

「ごめん,部屋に戻っていい?」
その時一緒にいた友達に私は訊いた。
「うん?いいよ,忘れ物?」
「ちょっとねっ」
そう言って私は,ダッシュでホテルに引き返し,フロントでつたない英語を伝え,キーをもらった。
公衆電話で電話をかけられる程,慣れていたわけではなかったが,部屋からの電話なら国際電話をかけることが可能だったから。

彼のデスクに直通で電話をかける。
数回のコール後,彼の声が聞こえる。
ここが外国であることなんて気付かないほど明瞭な,電話から聞こえる彼の声。

「オフィス・プロエディット,崎谷です」
「もしもしっ」
「ん?ああ,美也子ちゃんか?」

私の第一声で,電話の主が私だと判ったらしい。

「どやー?元気にしてるかぁ?」
のんびりした声で陽介さんが言う。
「はい,元気です。えっとね,今外に出たらすごく夕焼け空が綺麗かったの」
「そかー,天気良くて良かったな」
「それでね,そのこと,伝えたくて」

冷静に考えてみれば,全く理由にならない理由ではあったと思う。
だけど,その時の私には,それが '電話をかける理由になる' と確信していたのだから,おかしな話だ。

「そっかぁ,わざわざありがとな」
「すごく綺麗なの。空の青から太陽の赤までがグラデーションになってて。写真集に載ってるのより,ずっとずっと綺麗。見せたいよー,崎谷さんに」
「しっかり目に焼き付けてこいよ」
「うんうん。あ,そだ。お土産何がいいですか?みんなにはマカダミアンナッツかなー。
崎谷さんは,何がいいですか?」
「俺かぁ?俺は,そやなー,じゃ,その美也子ちゃんが見て一番綺麗かった景色の写真,一枚撮ってきてや」
「写真?」
「とびきり,綺麗なヤツ。美也子カメラマン殿,よろしゅー頼むわ」
「はいっっ」
「ほな,よぅ楽しんで,あと気ぃ付けて帰ってこいよ。仕事が山ほど待ってるでー」
「わー,それ,イヤです〜」
「わはは」
「ふふふっ,じゃ,電話切りますー,またー」
「おぅ」

そんな風にして,電話を切った後,ドアの所で待っていた友達が私にこういった。
「どこにかけてたの?」
「バイト先の上司に」
「今頃かけて仕事の真っ最中なんじゃないの?」
「え?」
「時差あるでしょが」
「あー」

私は,すっかり失念していた。
時差なんて考えもしなかったのだ。
夕方だから仕事も一段落しているだろうと勝手に思っていた。
日本は今,夕方なんかじゃない。

でも,その瞬間,私は心から嬉しくなった。
陽介さんは,「こんな時間にどうした?」なんて一言も言わなかった。
もしも真夜中に私が電話をかけたとしても,きっと同じ調子で受け答えしてくれるような気がする。
そして,私が綺麗だと思った景色の写真が欲しいと言ってくれた。
その事が本当に嬉しかったのだ。

自分が感動したことを相手の人と共有したいという気持ち,
自分が見て美しかったものを,一番最初に伝えたいという気持ち,
そういうものは無意識ながら相手に対する愛情の表れなのではないかと思う。
だから,あぁ私は陽介さんのことが好きだったんだと,その時はっきり自分自身で認識した。

私はハワイで写真をたくさん撮った。
そしてとびきり綺麗に撮れた写真を陽介さんにお土産としてプレゼントしたのだ。

陽介さんとつきあい始めて,初めて彼の部屋に遊びに行ったとき,私が撮った写真が壁のコルクボードに絵ハガキなどとともに留められていた。
「ずっと飾っててくれたんだ?」
と訊くと,陽介さんは照れたように笑い
「美也子ちゃんが,俺に見せたいって言ってくれて嬉しかったからな。いつか,この景色一緒に観に行けたらええなと思ってた」と言ってくれた。

私たちは,どちらがお互いを先に好きになったか,判らない。
けれど,もしかしたら二人とも,同じような時期からお互い相手を想っていたのかもしれない。

             * * *

「ねぇ,美也子さん」
雅也に声をかけられ,顔を上げる。
とたんに耳に蝉時雨が飛び込んでくる。

「何?」
「美也子さんと初めて会ったのって,このくらいの時期でしたよね」
「あ,そだねー。面接に遅刻してきたんだっけ」
「そそー。あの時は美也子さんに助けられましたよ」
「大袈裟ねー,結局遅刻してきたことは,言っちゃったんでしょ?」
「そうなんですけどね。でも,何となく美也子さんが居なかったら,今の僕もここに居ないような気がするんですよ」
「…」
「人と人の出逢うシチュエーションで,結構印象深いことあるでしょう」
「そうね」
「だから,夏っていうと僕は美也子さん達と出逢ったあの頃を思い出すんですよ。随分長いことここで働いているなぁ,とか」
「まだあの頃滝川君は学生だったもんね」
「今は美也子さんが27歳で,僕が24歳で…」

 --生きていたら陽介さんが38歳で…。

「あの頃は美也子さんも学生みたいに見えましたけどね」
「あー,失礼だなぁぁ。キャリアウーマンぽく無かった?」
「ぜーんぜんっ,僕と同い年くらいかなぁ,って思えましたよ」
「言ったわねー」

私はふざけて,雅也の背中を ぽかすか叩いた。
「痛い痛い,降参ー」
「もぅっ」

「でも,美也子さん 今でも,僕より年下かな,って思わせるとこもありますよ」
「うー,そんなことを言うのは,この口かぁああ」
「ふひゃ,ひっはらないれくらさいよ」

きゃらきゃらと,ふざけあいながら夏の歩道を歩いてゆく。
さっき見えていた車道の逃げ水は,もう見えない。
セミの鳴き声はいっそう増し,夏の暑さを演出する。

美しい空に一番近いところで,今を過ごす陽介さん。
いつか同じ場所で,あなたと空を見ることが出来るのだろうか。
私と,同じ景色を見たいと,あなたは今でも想ってくれているのだろうか。

めまいがするほどの暑さの中,現実と幻想の境目を歩いているような気分になりながら,私は雅也と 'いづみ' に向かった。

to be continued ...