side_story-25 (Miyako.S) 

アスファルトが溶けるような日々が過ぎ去り,気が付けば周りの葉が色づき始めていた。
暑い暑いと言っていた日々が幻のように,今吹き付ける風は冷たい。
日々の変化は緩やかで,夏から秋,秋から冬へと明確な切れ目がないまま,こうして季節は巡りゆく。
心の中の欠けてしまった部分は二度と元に戻らなくても,それなりに安定し落ち着いた平凡な日々に慣れてゆく。
忘れまいとする,色褪せさせないようにする,立ち止まろうとする,
-- そういう抵抗を試みたとしても,人は流されていくものなのかもしれない。

毎月 17 日には陽介さんのお墓参りに行く。
年に一度,命日だけに参ればいいのじゃないか,という人も居るけれど,私は月に一度彼に逢いに行く。
辛さから無意識のうちに離れようとする自分の心を律するために。

その日,天気はあいにくの曇り空だった。
車を駐車場に置き,途中で花を買い求める。
歩きながら空を見上げると,雲の隙間から薄日が射していた。
光の筋がくっきりと浮かび上がり,昔どこかでみた絵画を思い出した。
天使が何人か戯れている,そんな絵だった。

天使 -- か。
私の記憶は,瞬く間に過去へと呼び戻される。

            * * *

その夜,陽介さんの横で私は うとうとと まどろんでいた。
煙草の香り。
煙を吐き出す陽介さんの息づかい。
温かな体温。

煙草を吸い終わったのか,陽介さんが態勢を変える。
「美也子ちゃん,寝たんか?」
「ん」

優しく髪を撫でる手。
その手が背中に降りる。
彼の指が,私の肩胛骨を,そっとなぞった。

「くすぐったいよ」
私は目を閉じたままそうつぶやいた。

「綺麗いな肩胛骨やなぁ」

けんこーこつ…単語が上手く頭の中で像を結ばない。

「今まで見た中で一番綺麗や」

私は,ぐるっと寝返りを打ち,陽介さんの方に振り向く。
今の言葉で,目が冴えた。

「なぁにー,それ。『今まで見た中で』って聞き捨てならないよぉ」
「やっと反応したな。寝たふりしてるからやー」
「あ」

やられた。
子供っぽい釣り餌に,まんまと引っかかってしまったらしい。

「卑怯だよ,そういう言い方ー」

少しむくれてみせる。

「怒るなって。一番綺麗ってゆってるんやから,ええやん」
「よーくーなーいーーーーーーっ」
「でも,女の人の背中くらい見たことあるで。
 プールだっていくんやからなぁ」
「ずるいずるい」
「まー,その話は置いといて,や」

陽介さんは笑って私を引き寄せる。

「なー,肩胛骨って,何か知ってるか?」

と話し始めた。

「んー,肩胛骨って,上腕骨とで肩の関節をつくってる骨だよね?」
「生物の授業やったら 100 点な答えやな」

彼は,そういうと,新しい煙草に火を点けた。
ベッドランプだけが灯った部屋に,ほんのり紫色の煙がたゆたう。

「あんな,肩胛骨はな,人間が昔天使やった印やねんで」
「え?」
「ここに,羽がはえとったん。だから,肩胛骨の綺麗いな人は,
 立派な翼を持ってた天使やったっちゅーことなんやで」

陽介さんは,本当にロマンチストな面がある。
くすっと笑みがこぼれる。

「笑うけど,ほんまやで。
 美也子ちゃんは,綺麗いな肩胛骨やなぁってゆーたんは,誉め言葉」
「そういって,今まで何人口説いてきたの?」

照れくさくて,つい憎まれ口を叩いてしまう。

「んー,ほんの 5 人くらい?」

ぼすっ。
思わず枕を投げつけた。

「ぃてっ。冗談やのになー。
 美也子ちゃんだけやってー,ほんまほんまー」
「許さないー,もぉ」

くるっと背を向けて私は拗ねたフリした。

「ほらほら,天使が怒ったらアカンねんでー」

子供をなだめるように彼は,また髪を撫で,
私の背中にそっと口づけた。

「俺にとっては,今でも天使やから。
 美也子ちゃんは」

そう,耳元でささやく。
…‥・バカ。
私は,寝たふりを決め込み,いつしか本当に夢の中へと誘われていた。

            * * *

普段は大人なのに,ある面 子供っぽくて,現実主義で,でもロマンチストで,
そんな陽介さんの方が,先に天使になっちゃったじゃない。
私は,天使になり損ね,地上に残された堕天使だ。

気が付けば雲が太陽を覆い隠し,光の帯は消えていた。
後少しで到着するという頃には,ぽつりぽつりと雨が降り出した。
空が泣いている。
私の心と一緒に。

            * * *

さらさらと霧のように降る雨の中,彼の墓前で手を合わせた。
心で会話する。
仕事頑張っていること,最近あったこと,みんなの近況,思い浮かぶことを次々と。
最後に,私は大丈夫だから,と付け加えたとき,
ふと,顔にかかる雨が無くなったことに気づいた。
目を開け振り向くと,そこには雅也が立っていて,傘を差し掛けてくれていた。

「…どうして」
ここにいるの ?という問いに答えるように,雅也は
「井川さんところで打ち合わせです,今から。
 通り道だから,この時間なら居るんじゃないかと思って,早く出てきたんです」
と言った。
そして,私に傘を手渡し,手にした花を供えてそっと手を合わせた。

雅也は,心の中で何を話しかけているんだろう。

起ち上がった雅也は,
「少しだけ,時間ありますから,お茶しませんか」
と言った。
私は,フレックスを使っているので,何時に出社してもいい。
「そうね,少し暖まりたいし」
と答え,その場を後にした。
また,来月来るね。
そう,陽介さんに心の中で伝えて。

            * * *

近くの喫茶店は,まだお昼前だったせいか空いていた。
窓ぎわの席に案内される。

「美也子さんは,何にします?」
「私は,ホットミルクティー」
「じゃ,ホットミルクティーとホットと」
雅也がウエイトレスに伝える。

窓は外との温度差で曇っていた。
「こういう窓みると,なんか絵を描きたくなりませんか?」
雅也が笑ってそういった。
「あ,うん,昔電車の窓に指で絵を描いたの思い出す」
「そーそー,席から席に移って,いろいろ描きましたよ」
雅也はそういうと,窓に指を触れる。
「さすがに,大の大人がここに何かを描くっていうのは,
 勇気が要りますね」
「へのへのもへじ,でも描いとく?」
可笑しくて笑った。

「おまたせしました」
先のウエイトレスが,トレイにホットとホットミルクティーを載せてやってくる。
雅也はブラック。
私はミルクと砂糖をたっぷり入れてかき混ぜた。

「はー,生き返りますね」
「気づかなかったけど今日はかなり冷えてるんだね」
「何となく,お湯を注がれて戻される " 干ししいたけ " の気分だなぁ」
「なによ,それぇ」
「そんな気がしません?」
「思わない思わないってー」

その後,乾燥ワカメの気分だとか,カップラーメンの気分だとか,
話はいろいろと飛び,バカみたいに笑った。
まるで二人でここで待ち合わせ,ただ話をしているように錯覚してしまう。
陽介さんの お墓参りの後だということが,何故か切り離された,そんな時間と空間だった。

支払いを済ませ,外に出ると,雨は上がっていたが,まだ降りそうでもあった。
「じゃ,行ってきます」
「気を付けて」
「美也子さんも。あ,浅田さんのところから FAX 入ってましたから,見ておいて下さい」
「OK」
「傘,持っていってください,僕はもう雨が降っても濡れるところがありませんから」
「ありがとう,じゃお言葉に甘えて借りていくわね」
「また後で」
そう言って雅也は傍に止めた車に乗って走り去る。

時折風が吹き,街路樹からパラパラと水滴がシャワーのように降りかかる。
陽介さんの居る雲の上は,雨など降らないのだろうなと,思いながら,
私は借りた傘を片手に駐車場に向かって歩き始めた。

            * * *

私が毎月この日に お墓参りに行くことは社内の全員が知っていたので,
戻ってきたときも,何も話題にはならない。
話題にしないことで,気を遣ってくれているのだろうと思う。

京子ちゃんだけが,私を見るなり
「行ってきたの?」と声をかけた。
これも,きっと彼女なりの気の配り方であろうと思う。

「うん」
マシンの電源を入れながら,そう答える。
「雅也と会えた?」
「あら,知ってたの?」
「あ,やっぱりか。何かそそくさと出ていったけど,
 井川さんとこ,今日はお昼からで良かったはずなのよね。
 だから,方向的にたぶん寄ってるんだろうなって思った」

鋭い。

「ご名答」
「単純なの。雅也の思考って。だからすぐに読める」

京子ちゃんは笑いながら付け加える。

「雅也の考えていることが読めないのは,美也子くらいだよ」

と。

私は起ち上がった。
今日という日に,そういうことは考えたくない。

「ちょっと給湯室行って来る」
「うん」

私は,彼女を後に,給湯室に移動する。
お湯を出し,手を差し出す。
体の中で凍り付いた血液が溶け出すような,そんな錯覚にとらわれる。
きゅっと栓をひねってお湯を止め,手を軽く握ったり開いたりしてみた。
大丈夫だ。これでキーボードも打てるだろう。

ハンカチを出すときに,ことんっと床に煙草の箱が落ちた。
SevenStars 。
陽介さんの好きだった煙草。
だから,いつもお墓参りに行ったときは,お供えするのだけれど,
今日は雨だったので置けなかったのだ。

そっと拾ってポケットにしまう。
もしも,煙草が喫えたなら,陽介さんに少し近づけるのかもしれない。

デスクに戻り,雅也が言っていた FAX に目を通し,仕事を始める。
京子ちゃんは,外に仕事に出たらしい。
スクリーンセーバーがくるくると動いていた。

一通りの仕事を終えファイルを上書きし,アプリケーションを閉じたところで,
電話のベルがなった。
我が社では,手の空いているものが電話に出ることになっている。
私は手を伸ばし,受話器をとった。

「はい,オフィス・プロエディットです」
そう告げると相手が一呼吸おいて名乗った。
「いつもお世話になっております。滝川ですが」

滝川…。

社名を言ってもらえれば誰に回すかがすぐに判るのだが,名字だけでは判らない。
「失礼ですが,どちらの…」
と言いかけたところで,
「滝川雅也の父ですが」
と言われた。

あ,ああ。
相手がすっかり仕事先の人間だと思っていたので「滝川」と言われても,全然ピンとこなかった。

「私,笹野です。こちらこそ いつも彼にはお世話になってます」
とあわててそう言った。
彼の父親とは数回だが会ったことがある。
しかし,何故会社に電話を?

「すみませんが,息子に連絡を付けたいのですが電話が繋がらないもので」
「あ,今外に勤務に出ているんですが,ビルの中に入ってしまうと,
 携帯の電波が届かないこともあるかもしれません。
 お急ぎでしたらこちらから相手先に直接電話いたしますが」
「すぐに家にかけるようにお伝え願えますか」
「判りました,すぐお伝えいたします」
こちらが そういうと,かしゃりと電話は切られた。
どうしたのだろう。

とりあえず,私は電話番号簿から,雅也の出向いている会社の番号を探し出し,
プッシュした。

タッチの差で雅也は会社を出たところのようだった。
携帯が繋がらないということは,トンネルの中でも走っているのか。
数分おきにかけてようやく繋がる。

「ご自宅からお電話があって,かけ直すようにっておっしゃってたわ」
「親父からですか?なんだろ。車で " 入れキー " でもして往生してるのかな」

雅也はそういうと笑った。

「何もおっしゃって無かったけれど」
「判りました,かけてみます。すみません仕事中に」
「あ,いいわよ,それは,じゃ」

そう,別に何事もなければそれでよかったのだ。

ところが,数分後にまたデスクで電話が鳴り,
「はい,オフィス…」
と言いかけた私に,それを遮る雅也のせっぱ詰まった声が聞こえた。

「美也子さん」
「ああ,どうし‥」
「おふくろが倒れた」
「え」

オフクロ ガ タオレタ ?

「課長に代わってもらえますか,すみません」
「あ,あ,うん」

頭の中が真っ白になった。
あわてて課長に電話を切り換える。

倒れたって。
どういうことなのだ。

課長が雅也と話している内容は,こちらには聞こえてこない。
もう一度電話を代わって欲しい,と言おうとした瞬間,
課長が受話器を置くのが見えた。

いつもと変わらぬ風景。
人々のざわめき。

私と課長の表情だけが硬く,それに気づくものはまだ誰もいない。

神のきまぐれなのか?
また,神の手の上で,私たちは踊らされるのか?

to be continued ...