side_story-27 (Miyako.S) 

雅也のお母さんは,過労だろうということであった。
ただ,念のために検査だけはしておこうということになったらしく,
当分は入院生活が続くらしい。

「ほんと,驚いたけど,過労ならゆっくり休めば大丈夫よ」
「なんせ親父とお袋だけで切り盛りしてきましたからね,
 親父もこれを機にバイトを雇うことにしたらしいです」
「女手が必要なら,言ってね,何か手伝えることがあれば手伝うから」
「はい。またお願いするかもしれませんが,よろしくです」

そんな会話をし,普段の日々が戻ってきた。

            * * *

日々の仕事は多く,相変わらず会社から帰るのは遅い。
その日も帰宅は夜中前だった。

そろそろ携帯電話を充電しなくては,と思ったので,
バッグから取り出し,充電器にセットする。
お風呂にお湯を張り,その間郵便受けに入っていた DM などに目を通す。
以前には「崎谷陽介様」で届いていた郵便物も,最近は来なくなった。
「世間」から,陽介さんが徐々に消えつつあるんだな,と思う。
彼を覚えている私や雅也や京子ちゃんをはじめとするみんなが,
もしも彼を忘れるようなことがあれば,彼が生きていた証さえ消えてしまうのだろうか。

忘れてはいけない。
ずっと。

ぴぴぴぴっと電子音が鳴り,お湯が張られたことが知らされた。
私はあわてて,お風呂場にゆき,栓を閉める。
立ちこめる湯気。

私は何度この場で声を押し殺し泣いただろう。
流れているのは涙ではなく,シャワーのお湯だといいきかせ,
嗚咽をその音でかき消し,感情を吐き出した。
誰にも知られず泣けるのは,ここしかなかったから。

悲しみでいっぱいになった浴槽に身を沈め,
最後に栓を抜いた瞬間,お湯といっしょに何もかもすべて,
流れてしまえばいいと,いつも願っていた。

「ばかだな…」
誰が聞くわけでもないのに,口に出してそうつぶやき,
私は,入浴の準備をする。

手足を伸ばしのんびりする。
1 時間ほど入り,程良くリラックス出来た。

髪をタオルドライしてから,ドライヤーをかける。
長く伸ばした髪は,冬場はなかなか乾かない。
何においても手間のかかる髪を,「もう少し切れば?」と言う人も居たが,
切ることなんて出来なかった。
髪に記憶力があるならば,私の髪の毛先に近い部分は,
陽介さんが優しくなでてくれた手の感触を覚えているはずだから。

ベッドの中で彼の細い指が私の髪を梳き,
親が子供を愛おしむように,そっと頭をなでてくれた,
そんな記憶を宿している髪を,どうして切ることができようか。

それでも永遠に伸ばすわけにはいかず,少しずつでもそろえなければいけない。
美容院で髪を切られるたび,想い出まで切り取られるようで,
心が悲鳴をあげる。

髪が半ば乾いたとき,ドライヤーの音に混じって,
電話のコール音が聞こえているのに気づく。
あわてて,ドライヤーを置き,電話に出た。

「もしもし?」
こんな時間に,誰だろう。

「もしもし,俺。滝川です」

電話の主は,雅也だった。
今日雅也は公休日だったから会社では顔を合わしていない。

「寝てました?」
「うーうん,今お風呂に入ってた」

こんな時間にどうしたの?--- そう訊きたかったけれど,
言葉に出せなかった。

「さっき,テレビでおもしろいことやってて」
「うん?」

雅也は延々しゃべり始める。
何となく引っかかる。
普段より饒舌な雅也。
今まで,こんな時間に電話をかけてきたことなんてなかった。
独り暮らしをしている女にとって,夜中のコール音ほど心臓に悪いものはない。
だから,私が夜中の電話が嫌いなのは,雅也も良く知っているはずだ。
なのに,どうして?

「---- なんですよ。おもしろいでしょ」

次から次へとしゃべり続ける。
いつもと違う,そう思った。
滑らかな口調は --- 酔ってるみたいであった。

「うん。ねぇ。もしかして呑んでる?」
「呑んでますよー。ボトル 2 本目ってとこかな」

やっぱりおかしい。
そう思う。
雅也は,お酒にとても強い。
実家が酒屋なので,小さい頃から親父にジュース代わりに
酒呑まされてたんですよ,と冗談交じりにいっていたけれど,
既に赤ん坊の時からミルクでなく酒で育ったんじゃないかと返されるくらい,
アルコールに対して強かったのだ。
だから,逆に彼はどこへ行ってもあまり呑まなかった。
「酔わない男が酒を呑んでも,酒に対して失礼でしょ」というのが
彼の持論だった。

その雅也が,ボトル 2 本目を開けた?
それも,その状態で酔いが回ってる?
どちらに対しても疑問を感じた。

「何かあった?」
やっぱり訊いてしまう。

「…別に」

雅也の声のトーンが少し落ちるのを,私は聞き逃さなかった。

「別に,って。何もなかったらこんな時間に」
「電話かけてきたら,迷惑?」
「そうじゃなくて,だって」
「ごめんなさい。じゃ,おやすみなさい」
「待ってよ,迷惑だなんて言ってないじゃない」
「…」
「おかしいよ?なんか,へんだよ?」
「いつもと同じですよ。別に」
「あのね,何年いっしょに仕事してきたと思ってるの?
 おかしいのが判らないほど,鈍感じゃないつもりよ」
「…仕事,ですか。いっしょに仕事,か。
 鈍感ですよ,美也子さんは。何も判ってない」

思わぬ反撃に出られて,少したじろぐ。
どうしたのだいったい。
電話で話してても,埒があかない --- そう思った。

「ねぇ,まだ起きてるんでしょう?」
「起きてますよ」
「今から,そっちいくから」
「…美也子さん」
「え?」
「自分が何言ってるか判ってます?」
「だから,そっちに行くって…」
「俺,酔ってますよ」
「うん,だから心配なんじゃない」
「今何時だか判ってます?」
「えっと,1 時半すぎ,かな。
 あ,大丈夫だよ。私まだこんな時間にはいつも寝てないから」
「そういう問題じゃないでしょう?
 こんな時間に,酔っぱらった男の部屋に来てどうするつもりなんですか」
「どうするって,だって,電話で話してても」
「あのね,全然判ってませんね,頭に来るぐらい鈍感だ」
「何よ,その言い方…」
「言ってあげますよ。じゃぁ。こんな時間に酔った男の部屋に来たら,
 何があっても責任持ちませんよってことです」
「何がって」
「美也子さんにとって,俺なんて男の対象に入って無いんでしょうけど,
 俺だって男ですから」
「…」
「というわけで,寝ます」
「待って,行くってば」
「…人の話ちゃんと聞いてます?」

いらだったような雅也の口調。
不安がどんどん募る。
彼をこんな風にさせているのは何なのだ。

「聞いてるよ。へんな脅しは通じないんだから」
「脅し,じゃないですよ。本気。
 俺が美也子さんのこと好きなの,知ってるでしょう?
 知っててそんなこと言うんですか」
「それとこれとは」
「違いませんよ。わざわざ言ってるんですよ。
 何するか保証しませんって,俺本人が言ってるんです」
「とにかく,そっちついたら…」
「来るなら覚悟してきてくださいね」

がちゃん,と電話が切れた。

泣きそうになる。
いつもの雅也じゃない。
何か,あったに違いない。
だけど,私に心配をかけないようにわざと強がってる。
強がっているけれど,心が叫んでいる。

私は,自分が何度かそういう状態に陥っているので,
良く判った。
助けてほしい,叫びたくても,心配をかけるのが判っていて,
叫ぶことが出来ず,あがいている。

髪がまだ半分くらいしか乾いていないのが気になったが,
もう一度服を着替えて,口紅を引き,私はコートを羽織った。
様子を見て,大丈夫そうなら帰ってくればいい。
そう,思って車のキーとバッグをつかむ。

雅也の家まで車ですぐだ。
ヒールの音が響かないように廊下をそっと歩き,
チャイムを一度だけ鳴らす。
もしかしたら,寝てるかもしれない。
カタン。
そう,聞こえたような気がしたが,ドアが開く気配はない。

電話,少しだけ鳴らして出なかったら帰ろう。
そう思い,携帯電話を出そうとして,さっき家に着いてから充電器にセットしたのを思い出した。
仕方ない,下に公衆電話があったはずだからと,もう一度階下にいく。

コール。
1 回,2 回,3 回…やっぱり寝てるのかも,と思い,
受話器を戻そうとした瞬間,かちゃりとつながる音がした。

「…」
「もしもし,私」
「…」
「ごめん,寝てた?ならいいんだけど…」
「…寝てませんよ」
「さっきチャイム鳴らしたんだけど,気づかなかったみたいだから」
「気づいてました」
「…ね,少しだけ話しようよ」
「帰ってください」

にべもない。
卑怯かと思ったけれど,私はこう言った。

「あのね,出てきてくれるまで,ここにずっと居るから」
「どこですか?」
「下の公衆電話のところ」
「さっさと帰ってください。俺は大丈夫ですから。
 風邪引きますよ」
「帰らない」
「何度も言わさないでください。
 今来るって事はどういうことだか考えてくださいって」
「待ってる」
「…頑固だなぁ…」
「頑固だもん」
「判りました,上がってきてください。ドア開けますから」
「ん」

私がドアの前に付くと,ドアスコープから見ていたのだろう,
チャイムを鳴らさなくても,中から鍵の開く音がした。

「どうぞ」

雅也は怖い顔をしていた。

「俺,大丈夫ですから。判ったでしょう?」
「どこが?大丈夫には見えない」
「美也子さん」
「何?」
「どうしてきたんですか?」
「どうしてって…」
「来るなら覚悟してきてくださいって,俺,言いましたよね」
「…」
「覚悟してきたって,とらえていいんですか?」
「…話,逸らさないでよ。おかしいよ,滝川君」
「どうなんですか?」
「ねぇ,話してよ,何があったのよ」
「何も無いって言ってるでしょう?
 放っておいて下さい。さっさと帰って下さい!」

壁に,どんっと手を付く。
びくん。

「怖いんでしょう?俺のこと,だったらさっさと引き返して下さい。
 最後の通告ですよ。でないと,俺…」
「…帰ら,ない。理由聞くまで,帰らない。放っておけない」
「美也子さん」

雅也の表情が,一瞬緩む。
泣き笑いの顔になる。

「バカだな…美也子さん…」

次の瞬間,私は雅也の腕の中にあった。
「ま…」
頭が真っ白になる。
身動き出来ない。
彼の身体が小刻みに震えている。

----- 雅也は ------ 泣いていた。

「‥…くろ…」
「え?」
「おふくろ…」

背中に回された手に,ますます力が込められる。

「おふくろ,癌…だって。あと,1 年保てばいい方だって…」
「…!」
「俺,言えなかった,おふくろに,何も」
「…」
「なんでだよ,あんなに元気だったのに,なんでなんだよ!」

力強く抱かれた背中が,折れそうに痛かった。
この痛みは,雅也の心の痛みだ。

「なん…で,なんだ…」

あとは涙声になってかき消えた。

いつも通り,仕事をこなしていた雅也。
何も表情に出さず,私の方を気遣っていてくれた雅也。
私は,何を見ていたんだろう。
何を判ったような気になっていたんだろう。

今日雅也が,私をわざと遠ざけるようなことを言ったのは,
見られたくなかったからなのかもしれない。
弱っているボロボロの自分を,見られたくなくて,
だから,突き放すような言い方をしていたのかもしれない。

なのに。
バカな私は踏み込んでしまった。

雅也の力が少し緩む。
私は,自由になった手を彼の背中にそっと回す。
今の私にできることは,泣き続ける雅也の背をそっとさすることだけだった。

「すみ…ません…。みっともな…くて」
「…しゃべらないでいいよ」
「もう少しだけ…こうさせていて…ください…」
「…」

玄関に置かれた時計がコチコチと秒進を動かす音だけが静かに聞こえる。
雅也の嗚咽がそれに交じる。

私は泣きそうになるのをぐっとこらえた。
私まで泣いてしまったら,二人とも崩れてしまう。

雅也は,私が辛いとき,いつでも支えてくれた。
だから,今は,私が支えないといけない。
そう思った。

            * * *

どれくらい,そうしていたのか。

ふっと雅也が身体を離した。

後ろ姿が向こうに隠れる。
ざーっと水を流し,ばしゃばしゃという音が聞こえた。

私は,玄関に座り込む。
頭の中を雅也のさっきの言葉が巡る。
-----1 年保てばいい方。
どうして。
どうして,私たちが大切にしている人たちばかり,
神に召されてしまうのか。
陽介さんだけでなく,何故,雅也のお母さんまで。

神様,あなたは寂しいのですか。
どうして次々と,私たちの大切な人を欲していくのですか?

いつの間にか戻ってきた雅也が,
座った私の後ろから腕を回してくる。
私はされるがままに,なっていた。

「美也子さん,髪濡れてませんか」
「ん。ドライヤーの途中で,まだ全部乾かしてなかったから」
「ごめん…」
「んーん。謝らなくて,いい,よ」
「美也子さん…」

雅也が私の肩を掴み,振り向かせる。
もう一度,ぎゅっと抱きしめられる。

「バカな人だ…」
「何回も,バカバカ言わないでよ…」
「…でも,愛してる。美也子さんのこと」
「…」
「俺には,必要なんだ」
「…」

雅也の冷たい手が,私の頬を包む。

それが何を意味するか,判らないほどの子供じゃなかった。

そっと目を閉じる。

雅也には,ずっと助けられてきた。
でも,私は,何一つ,雅也の役に立つようなことはしていない。

…だとしたら。
雅也が望むなら。
構わないのではないか。

それが,今の私に出来る事なら…‥。

to be continued ...