side_story-29 (Kyoko.A) 

雅也のお母さんが倒れてから数週間経つ。
検査と療養を兼ねて,未だ入院していると聞いた。
雅也は,たまに会社を休むことがあったが,
いつにも増して仕事に没頭しているようだった。

            * * *

どこの会社もそうだと思うのだが,この時季は忙しく,
バタバタと書類が行き交い,電話のベルは鳴り続け,
資料を持ってあちこちに駆け回ることを繰り返す。

そんな忙しさが,かえって救いになることもあるのかもしれない。
昔,美也子が,がむしゃらに仕事をしていたときのように,
何かをしていれば,余計なことは考えなくて済むのだろう。

「美也子,これ,回覧ね」
「ん」

言葉少なに黙々と作業を続ける美也子。
その斜向かいで,同じく黙って仕事をしている雅也。
何となく,空気の流れが違うような一角。

何だろう,今日の,この違和感は。

「ねぇ,美也子,あんた昨日寝てないんじゃない?」
「え?」

そう言って顔を上げた美也子と同時に,雅也がこっちを見た。
---- なるほど。

「何となく,しんどそうだよ。ぼーっとしてるっていうか」

あたしと目があった雅也は,あわてて目を逸らす。
ばーか。

「なんでもないよ。うん。ぼーとしてないってば。
 あ,これ目を通したから,特に問題なしだった」
「ふぅん」

美也子はまた CRT に目を移し,カタカタと仕事を始めた。
あたしは,引き出しから memo を取り出し,
さらさらとペンを走らせる。

美也子から渡された書類をクリップで留め,
向こう側の席にくるりと周り,

「滝川君,これ,目を通しておいてね
 しっ・か・り・と」

あたしは,極上のスマイルで雅也に手渡す。
ぎょっとしたような,雅也の顔。

「『K.S.コーポレーション』に行ってから,
 直帰しますので,よろしく」

あたしは,カバンと資料を持って
ボードのマグネットを移し,行き先を書き,
横にピースサインを描いておいた。
「チョキ」と「直帰」を引っかけた他愛もない符丁だ。

ドアの所で,ちらりと雅也の方を振り返ると,
雅也とまたしても目が合う。
ばーか。
全く,どうしてこうも判りやすい人なんだろう。

            * * *

出先での仕事は,順調に進んだ。
誰もが早く仕事をまとめ上げたいと考えるので,
この時季の仕事はサクサクと進んでやりやすい。
緊張した雰囲気が,あたしは好きだ。

あたしは,時計をちらりと見て少し急ぐ。

闘いというものは,遅れて現れるものの方が有利なのだろうか。
待たされることにより,イライラが募り,精神状態が不安定になる。
結果として状況判断が鈍り,冷静な判断が出来なくなる。
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘で小次郎が負けた理由を
そんな風に書いたものを見たことがある。
武蔵が遅れてきたのは,相手を精神的に不安定にさせるための作戦だったと。

あたしは…と考える。
相手を追いつめるために,余裕を持って待つのが,あたしの闘い方だ。

相手は,もう来ているだろうか。

            * * *

待ち合わせの時間よりも,その喫茶店に 10 分ほど先についた。
まだ,相手は来ていない。
窓ぎわの席に座り,コーヒーを頼む。
考えてみると,今日は会社を出てから,一本も煙草を喫っていない。
忙しくて,それどころじゃなかった。
あたしはカバンから煙草を取り出すと,傍にあった店名のロゴが入った紙マッチを手に取り擦った。

ライターは持っている。
だけど,あたしは,マッチで付ける火が好きだった。
煙草の味も何となくその方が美味しいような気がする。
「紙マッチを擦る姿が似合う女性なんて,京子さんくらいですよ」と,
誉めているんだかなんだか判らないようなことを,雅也に言われたことがある。
あたしは,あたしだ。
女らしくないと言われようと構わない。
ふっと煙を吐き出し,時計を見る。
5 分前。

からんっと,店のドアベルがなる。
反射的にそっちを見てしまう。
入って来たのは,大学生らしきカップルだった。

ふと周りを見渡すと,一人で座っているのは,あたしだけだった。
みんな仲良く談笑している。

あたしの居る空間だけ,何となく冷たさを感じてしまう。
取り残されたような,そんな気持ちだ。

2 本目の煙草に火を点けるため,しゅっと紙マッチをする。
火を消さずに,灰皿の中に落とし込む。
マッチが静かに燃えている。

女を待たせるんじゃ無いわよ,全く。
---- そんなことを思っている自分に気づいて笑ってしまう。
あたしは,やっぱり小次郎なのかもしれない。
いや,火の灯る間だけ夢を見ることが出来るマッチ売りの少女か。

からんっ。
またドアベルがなる。
見るもんか。
と思いながらもやっぱり見てしまう。
今度は,女性の二人連れ。

時計に目をやると,5 分過ぎている。
携帯の電話を取り出す。
電波の入りは良好。
仕事が長引いているのか?
だったら,電話くらいしてくればいいのに。

こんなとき,美也子なら,文庫本でも読んでいるのだろうか。
あたしは,本など読まないし,持ち歩かない主義なので,
時間をもてあましてしまう。

3 本目の煙草。
冷めたコーヒー。
意味もなく,マッチを擦って,また灰皿に落とす。

「すみませんっ」

突然頭の上から声が降ってきて驚く。

「なっ」
「仕事ちょっと長引いちゃって」

雅也はコートを脱ぎ,すとんと前に座った。
彼の顔を見て,ほっと安堵している自分が居ることに気づく。

「ったく,遅刻よ遅刻」
「これでも早く切り上げてきたんですよー」
「遅くなりそうなら電話してきてくれたら良かったじゃない」
「すみません,会社出てから気づいたんですけど,
 携帯,会社の机に置いたままです」
「ばか」
「怒らないでくださいってば」
「コーヒー冷めちゃったしー」
「すみませんってば」
「どうしてもらおうかなぁ,この借りは」
「えー,『20 時にカフェ "MARRY" で待つ』なんて,
 勝手に物騒なこと書いて手渡したの京子さんでしょうがー。
 僕の予定何も聞かないで」
「何か予定あったの?」
「無いですけど」
「ならいいじゃないの」
「それは結果論で…」
「雅也の様子だと,どうせ今日は美也子と別々の行動するだろうと思ったから,メモ渡したの」
「…」
「ばーか」
「ばーかって」
「何があったの?」
「…」
「何かあったでしょ?」
「…京子さんって」
「何よ」
「バカみたいに鋭いですよね」
「『バカみたいに』だけ,余計」
「かなわないなぁ」
「あたしに勝とうなんて 100 年早い」
「それって,永遠に勝てないってことですかー」
「そゆこと」
「まいったなぁ」

雅也は,運ばれてきたコーヒーに口を付け
あちっ,とあわててカップを置いた。

「猫舌なんだから,雅也は。ゆっくり飲みなさいってば」
「おねーさんみたいですね」
「あほ」

さっきまでのイライラが,少しずつ収まっていた。
雅也と話していると,優しい気分になれる。

「あー,今日はホント仕事大変だったんですよ」
「そこ,話誤魔化さない」
「…」
「で?さっさと白状しなさい。
 昨日,何かあったでしょ?無いとは言わせない。
 美也子の態度,雅也の態度,そんなの見てたらすぐに判るよ」
「そうですか?」
「二人とも,判りやすいからね」
「しょうがないな。話しますよ。
 飯喰いに行きません?」
「お腹空いてたんだ,待たされた分,奢ってもらうからね」
「はいはい,何でもどうぞー,おねーさまっ」
「ばか」

ぱこんっと,雅也の頭を はたいた。
仲の良い姉弟なんて,あたしが望んでいる関係じゃない。
そんなことを思いながら。

            * * *

運ばれてきた日本酒を呑み,お刺身をつつきながら,
あたしは雅也の話を聞いていた。
どこか,ちりちりと胸が痛かったけれど。

「んで?ヤったわけ?」

ごほっと雅也が咳き込む。

「あーもう,やだなぁ,子どもじゃないんだから,吹かないでしょ」
「きょ,きょーこさんっ」
「何よ?」
「お願いですから,そういう言い方しないでくださいよー」
「何,おたおたしてるのよ。あんた,いくつよ,まったく。
 じゃ,言い方換えるわよ。『寝たわけ?』って,これでいい?」
「きょーこさんっっ」
「うるさいなぁ。どーでもいいじゃない,言い方なんて」
「良くないですよー」
「じゃ,英語三文字で…」
「ああああああああ,もういいですいいですって」

あたしは雅也の,その慌てぶりが可笑しくて,くすくす笑う。

「んで?」
「だから,何もしてませんって」
「Kiss も?」
「してません」
「あんた,何やってるの?」
「だから,何もしてませんってば」
「いや,そうじゃなくて,『何もしない』なんて,何やってるのよ」
「何っていわれても,何も出来なかったんですから」
「雅也君」
「はい?」
「意気地なし」
「は?」
「何やってんだかなー,全く。そこまでシチュエーション揃ってて
 なんで,何もしないかな?」
「きょ,きょ,きょーこさん」
「美也子のこと,好きなんでしょう?」
「好きですよ…」

ずきん。

「だったら,ヤっちゃえば良かったのに」
「だーかーらー」
「あー,すみませんね,言葉遣い悪くて」

あたしは,日本酒をガンガンあおる。

「出来ませんでした。何も。
 だって,僕は,そんなこと無理矢理したくないし」
「別に無理矢理ってわけでもないでしょ」
「無理矢理に近いですよ」
「拒まなかったんでしょ?」
「上手く言えないですけど,拒まないっていうことが,
 イコール肯定じゃないんです」
「そぉ?」
「京子さんには,そういうの判らないかもしれないですけど」

ずきん。

「判らないよ。あたしには。
 誰かと寝ることくらい,簡単だもん」
「もう…」

雅也が少し困ったような顔をする。

「雅也,あんたね,かっこつけすぎ」
「そうですか?」
「美也子も,なんていうかなぁ,煮え切らないっていうか」
「そんなに簡単に割り切れませんよ,いろんなこと」
「二人ともさ,なんかこう,遠慮の塊なのね」
「そんなことないですよ」
「お互い,相手のことが先に見えてしまって,自分の行動が後回しっていうかさ。
 見てて,歯がゆい」

そう,いっそのこと,二人がくっついてくれれば,
あたしの,この宙ぶらりんな気持ちにきっと決着が付くのだ。

「美也子さんはね,たぶん,僕のことは好きでいてくれてるのかもしれないけど,
 その『好き』って,とどのつまりは『仕事仲間として』なんだと思うんです」

---- あなたが,あたしをそういう対象でしか見てないのと同じように?
口まで出そうになる気持ちを,あたしはかろうじて飲み込んだ。

「それが,判ってしまうんですよ」
「でもさ,きっかけがあれば,そういうのって,変わるかもしれないでしょ。
 勢いでいっちゃえば良かったのに」
「そういう問題じゃないんですって」
「案外上手くいってたかもしれないのになぁ。
 多少強引な方が,女って魅かれるんじゃないのかな」
「京子さんといっしょにしちゃ駄目ですって」
「失礼ねー」
「ま,そんなわけで,別に,美也子さんと何かがあったわけじゃないんです」
「ふぅん」
「ただ,僕もちょっと取り乱したところ見せてしまったし,
 彼女もそれを見てしまったから,今日はちょっとお互い気まずかったっていうか」
「なるほどね」
「納得いってもらえました?」
「その件に関しては」
「その件に関してはって…」
「あたしねー,ほんと,あんたたち見てると疲れる」
「…」
「ねぇ,雅也」
「はい?」
「もう少しさ,自分の気持押し通すのも大事なんじゃないのかな」
「んー」
「判るよ,雅也が美也子のこと大事にしててさ,美也子の気持ちを優先させるの。
 でもね,それじゃきっと,いつまで経ってもこのままだよ?きっと。
 行動起こさないと,何も変わらないと思うんだ」
「…」
「ま,あとは自分で考えてくれたらいいけど」
「はい」
「あーあ,なんだかなぁ」
「なんだか?」
「ばかばかしい。あたし,何やってんだろなー」
「すみません」
「謝られても仕方ないんだけどねー」
「ですね」
「ま,いいか。ささ,食べよ食べよ。冷めるよ料理」

そのあとは,バカな話で盛り上がった。
お互い,その話題を避けるように,笑った。

            * * *

お店を出て,少し歩いた。

「うわー寒いー」

あたしは,くるんと雅也の腕に手を回す。

「わっ」
「何よぉ」
「ちょっとやめてくださいよー」
「あ,そんな言い方するんだー?傷つくなー」
「酔ってます?」
「酔ってませんですよー」
「酔ってますよ,それ。もう,日本酒何本空けたんですか」
「うーん,何本だろ」

あたしは,きゅっと雅也の腕にしがみつく。

「誰かに見られたらどうするんですかっ」
「いいもーん」
「僕が良くないですよっ」
「美也子が見たらどう思うかなー?」
「不吉なこと言わないでくださいよ」
「でも,案外妬きもち焼いちゃったりして,かえってうまくいくかもー」
「無責任な事言わないでくださいってば。
 彼女の行動パターンは読めてるでしょうが」
「『雅也は京子ちゃんと付き合ってるんだ,私は身を引こう』とかってぇ?」

あたしは,けたけたと笑った。

「違いますよ」

ぶすっとした表情で,雅也があたしの腕をほどいた。

「美也子さんはね,妬きもち焼いたりしませんよ。
 きっとね,安堵した表情で言うんです。『良かったね,幸せになってね』って」

あたしは,足下の石ころを蹴る。
静かな道に,ころんころんと石の跳ねる音がした。

「そういう,人なんです,彼女は…」

雅也の声が沈む。

「ふぅ…ん」

あたしは,また,こつん,っと石ころを蹴る。
石は車道に転がって行ってしまった。

あたしは,その場でしゃがみ込んだ。

「ちょっ,と,京子さん !?どうしたんです?
 気分悪いですか?」

雅也が慌てて,あたしの傍にかけより,しゃがむ。

「大丈夫ですか?」

雅也があたしの肩に手をかけ顔を上に上げようとした。

「雅也…」

あたしは,うつむいて名前を呼ぶ。

「なんですか?しっかりしてくださいよ」

あたしは,ぱっと顔を上げ,雅也の頬に手をやる。
不意を付かれた雅也に避けようはなかった。

唇が重なる。
一瞬だけ。

すたん,っとあたしは,起ち上がる。

「京子,さ,ん」

雅也は,立つのも忘れて,あたしを見上げる。

「ね,簡単でしょ」

あたしは,雅也から目を逸らす。

「…」
「Kiss くらい,簡単に出来るし,だからといって何も変わらない」

雅也が起ち上がる。
無言だ。

「本当に変わらないんですか?」

雅也が声を出す。

「変わらないよ」

「どうして」
「どうして?」
「どうして,そんな寂しいこと言うんですか?」
「寂し,くなんか,ない」
「どうして,嘘付くんですか」
「嘘じゃない」
「だったら…」

あたしは,走り出したいのをこらえる。
雅也が近寄ってくる。

「だったら,どうして,そんな哀しい顔するんですか」

雅也は,そういうと,あたしをそっと抱きしめた。

「京子さん,やめてください,そんなバカなこというの」
「離して」
「何も変わらないんでしょう?」
「…」
「僕が,こんなことをしても,京子さんにとっては変わらないことなんでしょう?」
「やめて」
「変わらないなら,平気でしょう?」

ぱしっ。

気が付けば,あたしは,雅也の頬を打っていた。
ばかだ。
あたしは。

「ごめん」

そういって,あたしは走り出した。
自分で仕掛けた罠に,自分ではまりこんだ。
バカな女だ。

to be continued ...