side_story-3 (Miyako.S) 

 家まで送るという雅也の申し出を断り、一人で駅まで歩く。
「今のままの美也子さんじゃ、駄目ですよ」
そういった雅也の言葉が頭から離れなかった。
それは、判っているのだ。
頭では判っているけれど、心が判ってくれない。

 電車に乗るために切符を買おうとしたが、
こんな気持ちで、このまま家に帰っても、すぐに眠れはしないだろう。
誰か話し相手が欲しい。
そう考えたときに、ふと一人の人が思い浮かんだ。

 電車で行っても良かったのだが、
最寄りの駅からは少し歩かなければならないので、
駅でタクシーを拾い、場所を告げる。

 駅から少し離れた住宅街へとタクシーは向かい、
目指す家の前でタクシーは止まった。
お金を払って降りたつ私は、
夜遊びをして、帰ってきた女にでも見えるかも知れない。

 しかし私は、誰かの家を訪問しようとしたのではなかった。
装飾もなければ看板もなく、お店の存在を知らなければ
通りすぎてしまうような、この普通の一軒家であるが、
ここはれっきとしたバーなのだ。
マスターから聞く所によると、結婚生活に2年でピリオドを打った後、
サラリーマンを辞めて、家の一階部分をバーに改装したらしい。
妻のために買った家を自分一人で住むことになるとは、と
苦笑いしていた顔を思い出す。

 ドアには「G」で始まる、頭と翼が鷲で胴体がライオンという、
想像上の動物の名前(それが店名であるらしい)と、
そのイラストが描かれたプレートがかかっているが、
それさえも、家のたたずまいにとけ込んで、沈黙を守っている。

 少し深呼吸をし、ドアを静かに開けた。
店内にかすかにジャズの音楽が流れている。
カウンター席しかなく、テーブル席が無い代わりに、
マスターが趣味でするというビリヤード台がおかれているだけの
簡素なバーだ。
けれど、あの頃と何も変わっていない懐かしさが身を包む。
変わったのは私と、私を取り巻く環境だけなのだ。

「いらっしゃい」
店内には二人連れのお客しか居らず、
その二人と話していたマスターが、顔をあげざま声をかける。

「美也子ちゃんやないか…」
長い間会っていないのに、私が誰だか判ったらしい。
「こんばんは」
頭を下げ、二人連れのお客から少し離れた席に座る。

「久しぶりやないか。元気やったか?」
柔らかい大阪弁を操るマスターは、
野上和彦。
"彼"--崎谷陽介--から、高校時代の同級生で、
親友であり悪友だと紹介されていた。

「ええ。元気です。マスターはお変わりありませんか?」
「おう、相変わらずや」
そういって笑った。
「何呑むんや、いつものでええんか?」
「はい」
陽介さんとここへくるときは、いつも二人でジントニックを呑んでいた。
それを覚えていてくれたのだろう。
マスターはゴードンでジントニックを作ってくれ、
私の前に置いてくれた。
グラスにしかれたコースターにも、
ドアのプレートに描かれている、
想像上の動物をモチーフにしたイラストがかかれている。

「マスターの知り合い?」
サラリーマン風の二人連れのうち、一人が声をかけてくる。
「一人なら、こっちで俺らと一緒に呑まへん?」
「あほゆえ。俺の大事な客やからな、
 おまえらと呑ますわけにはいかへんわ」
そういって笑うと、
「ちょっとまっててな、こいつら帰したら、ゆっくり相手するさかい」
そう私に言葉を向けた。
「なんやぁ、ひょっとしてマスターの女かいなぁ?」
そういう客に
「そやそや。俺の女」
そう返すと何事もなかったように、
また二人と話をし始めた。

 気を利かせてくれたのか、
それからすぐ二人は席を立ち「お勘定」と言った。
「ほいな。三千万円な」
ベタベタの大阪のギャグをマスターが言うと、
「五千万円札で釣りくれや」
と客の一人も負けずに返す。
「なんや、"釣りは採っといてくれ"くらい、よぉゆわんのかいなぁ」
とマスターが言えば、
「"今日は俺のおごりや"くらい、言うてくれへんもんかね」
今度は、もう一人が軽く返した。

三人のやりとりがおかしくて、ついつい笑ってしまう。

 たぶん二人は常連であろう。
"ほんまにくつろげるヤツにだけ来て欲しいんや"と、
最初から看板を出すことも広告を出すことも拒み、
近しい友達からの口コミだけで広がったこの店であるが、
充分軌道に乗っているらしい。

「ほな、マスターだけには気を付けや」
そういって一人が私に手を振った。
「あほか。俺は人畜無害やっちゅぅねん。
 おまえらこそ、乗り過ごしたりせんよう、気ぃつけや。」
そういって、ドアの所まで二人を送っていく。
「また来るわ」
「おう」
そんな短いやりとりがなされ、
「今日は終いや」
そういうと、表のプレートを外す。
「まだ早いのでは?」
そういう私に、マスターは
「美也子ちゃん来てくれとんのに、
 他のヤツの相手なんてしとられへんがな」
笑いながら、そう言ってドアを閉めた。

「ほんま久しぶりやけど、どういう心境の変化や?」
この店に来ると、"彼"を思い出すのが辛くて、
足が遠ざかっていたのだ。
「いえ、近くに来たものですから」
「そうか。そりゃありがたいこっちゃ」
私の嘘を見抜いたかどうか、素知らぬふりで、
先ほどの客の残したグラスなどを片づけ始める。

「少し痩せたんちゃうか?」
「そうですか?」
「女の子は、太ってるくらいが愛嬌あってよろし」
何気なく体調を気遣ってくれるのが嬉しかった。
片づけ終わると、自分もグラスにウイスキーを注ぎ、
「とりあえず、再会に乾杯いうとこやな」
そういうと私のグラスに自分のグラスを重ねた。

「もう、来てくれへんかと思たわ」
本気とも冗談とも付かぬ言い方をすると、
「で、最近はどうやねん?」
と言葉をつなぐ。
「普通です。元気に過ごしてますよ」
「そなんか?そうは思えんけどな。何かあって
 ここに来たんちゃうんか?」
「隠し事できないですね。マスターには」
「マスターはやめてくれや。他人行儀やから」
「じゃ、野上さん」
「和彦でもええで」
そういうと自分で吹き出した。
「俺もバツイチやなかったら、ここらでいっぱつ
 美也子ちゃん口説くねんけどな」
深刻な雰囲気をなんとかほどこうと、努力してくれているのだろう。

「悩み事とかじゃないんです。
 ただいろいろ考えることがあって、
 でも考えたくないなと思って、逃避しに来ちゃった」
「そっか。構わへんのちゃうか。
 なんか話したくなったら、いつでも話しに来いや」
「おちつきます。ここは」
「そういうてくれたら、嬉しいわ。
 なぁ、お節介かもしれへんが、あいつのことは、
 もう落ち着いたんか?」
あいつというのはもちろん"彼"--崎谷陽介--のことである。
「陽介さんのことは、落ち着いたと思うんです」
「ほしたら、次の恋に踏み込めそうかいな?」
私は、力無く首を振る。
それが出来れば、たぶんもっと楽なのだろう。
「陽介さんは、心の中では生きてますから」
「あかんなぁ。全然落ちついとらへんがな。
 あいつも天国で苦笑いしとるで、きっと」

野上さんも、雅也と同じように、
"今のままでは駄目だ"というのだろうか。

「ま。しゃぁないわな。そんなこと、
 周りがどうのこうのゆぅたかて、どうしようも無いことやし」
そう言って私の肩をぽんぽんっとたたくと、
「力抜きや。考えすぎてもええことあらへん。
 時間が解決してくれることもあるわいや」
そう笑った。

 そういう言葉を私は待っていたのかもしれない。

 お互い近況報告をしたあと、野上さんは家まで送ると言った。
まだこの時間なら電車があると言う私に、
「あほなこといいなさんな。
 こんな時間に女の子ひとり帰してなんかあったら、
 あいつに言い訳でけへんがな」
そういうと、
「車だすから、表でまっててや」
こちらの返事を待たずに、表に連れ出されてしまった。

 車を走らせてから
「あ、そうゆえば俺、美也子ちゃんの家知らへんわ」
そういって大笑いした。
「まぁ、住所ゆぅてくれたら、判るさかい」
そういう野上さんに、私は少しためらった後、住所を告げた。
それを聞くなり野上さんの顔から笑顔が消えた。
「いやそうやのぉて、美也子ちゃんの…
 まさか?その住所…」
そういうと彼は黙り込んでしまった。
私が告げた住所に、彼は聞き覚えが合ったはずだ。
無言のまま車を走らせた彼は、
高層マンションの前で車を止め、ハザードをつけた。
「ここなんか?美也子ちゃんの住んどるとこ…」
私は無言で頷いた。

 野上さんが驚くのも無理はない。
彼は、このマンションに見覚えがあるだろう。
そう、ここは陽介さんが住んでいたマンションだ。

to be continued ...