side_story-30 (Miyako.S) 

「滝川くん,京子ちゃん知らない?」
「ん,えっと,今日は帰ったんじゃないですか」
そう言われてボードを見てみると,確かに欄外にマグネットがくっついていた。
「ここんとこ,なんかさっさと帰っちゃうね」
「です,ね」

何となく歯切れが悪い雅也。
京子ちゃんがどうして先に帰ってしまうかの理由を彼が知っていると,その態度が物語ってしまう。
確かにここ最近の京子ちゃんと雅也の間に流れる空気は,いつものそれとは違っていた。
私と雅也の気まずさが少しずつ薄れてきて,ようやく日常が戻ってきたが,今度は雅也と京子ちゃんか。
なかなか上手くいかないものなのだな,と思う。

「何か京子さんに用事があったんですか?」
黙った私との会話をつなぎ合わせるように,雅也が話しかける。
「ん。用って程でもないんだけど,久々に早くあがれそうだったから
 食事でもどうかなって思ったんだけどね」
「僕じゃ役不足ですか」
雅也はそう言って笑った。
「仕方がないなぁ,滝川君で手を打つかぁ」
「ひどいなぁ」
「冗談だってばー。何時頃あがれそう?」
「あと 30 分あれば,きりがいいです」
「じゃ,あとでね。
 私これから山中さんの所に書類持っていって,直帰ってことにするね」
「判りました。いつものとこで待ってますよ」

「いつものとこ」とは,駅前の「グリーンハウス」だ。

私は書類を 20 部ずつコピーすると,それをステープラで留めて,まとめた。
書類ケースにそれを入れて,ボードのマグネットを移動させて会社を出る。
エレベータで階下に行き,エントランスを出たところで,私は懐かしい顔を見た。

「恵さん」
「あら」
「お久しぶり」
「笹野さん一人ですか?」
「そう,これから外に仕事なの。恵さんは,どうして?」
「2F の設計事務所に仕事です。
 ここに来たら誰かと顔合わせるかなとは思ってましたけど,
 笹野さんと会うなんて。
 …まぁ,雨崎さんじゃなくて良かったですけど」
「恵さん…」
「別に根にもってなんていませんから,ご心配なく。
 ただ,もう殴られるの,ごめんですから」
「…」
「たぶん,これからもちょくちょくここに来ますけど,
 顔合わせても,無視してくださいね。じゃぁ,急ぎますので」
「恵さん,また良かったら‥」
「いい加減にしてくれます?そういうの私にとっては迷惑ですから」

恵さんは そう言うと私の横をすり抜けて,小走りに階段を駆け上っていった。

私は,少しブルーになる。
恵さんは,やっぱり私が嫌いなのだなと思う。

            * * *

仕事を終え,グリーンハウスに向かった。
いつものように道路に面した窓側の席を確保している雅也が,
歩いている私をみつけ,軽く手をあげる。

「さっきね,会社出るときに,恵さんに会った」
「めぐみさん?」
「恵冴子さん,覚えてない?ほら…」
「ああ,京子さんが…」
「そう」
「なんで彼女が?」
「2F の設計事務所にお仕事だって」
「そうですか」
「これから会っても,無視して欲しいっていわれちゃった…」
「…やっぱり怒ってるんですか」
「根には持ってないっていってたし,そいうのじゃないと思う。
 でもやっぱり私のこと,嫌いなんじゃないかな」
「気にすることないですよ,美也子さんが悪いわけじゃないから」
「…」

私はあの日のことを思い出す。
目の前に突きつけられた「それ」は,未だに私の心に引っかかったままであった。

            * * *

「恵冴子です,短い期間ですが よろしくおねがいします」
彼女はぺこんと頭を下げる。
大きなプロジェクトが重なり,社内の人間だけでは回せなくなったので,
急遽,派遣事務所から人手を得ることになり,その日にやってきたのが恵さんだった。

「ほしたら笹野さん,彼女にいろいろ教えたってな。
 恵さん,笹野さんは,ここの大御所やからね,何でも聞いたらええよ」
部長がそう言ったので,
「あー,大御所って何ですかー。誤解されるじゃないですかっ。
 えっと,笹野美也子です,よろしくおねがいしますね。
 学生時代からバイトに来てるので,長いことは長いですからー。
 恵さんは…」
と話を続けようとした私に,彼女は
「早速ですが,私の仕事は?」
と言った。
最初は少し雑談をしてからと思っていた私は,少しびっくりしたけれど,
真面目な人なのだなと思い,仕事の概要を伝える。

その夕方,恵さんの歓迎会をしようと,あらかじめみんなで決めていたので,
一身にキーボードを叩いている,彼女に話しかけた。

「恵さん,何かこれから予定ある?」
「残業ですか?何も予定はありませんが」
「あ,仕事じゃないのよ,これからみんなで呑みに…」
「そういう話ならお断りします」
「え,でも…」
「仕事の契約に呑み会に参加することまでは書かれてませんでしたけど」
「あ,うん,もちろん強制なんかじゃなくて…」
「ですから,お断りします。残業が無いようでしたら,
 今日は就業時間で帰らせていただきますので」

そういうと彼女はまたモニタに目を向けた。
私は「恵さんの歓迎会なんだけど」という言葉を,出しそびれてしまった。
そこへ,雅也が助け船を出してくれて,
「恵さん,単なる呑み会じゃなくて,恵さんの歓迎会なんだ。
 主役が居ないと…」
と言ったのだが,
「結構です。私が居るのは一ヶ月ほどですし,歓迎されることでもないですから」
と,にべもなく言い放った。

これには雅也も返す言葉が無く,結局主役抜きの歓迎会という,
なんとも間抜けな事になったのだが,その後も彼女は仕事の後のつきあいを全て断ってきた。

仕事は大層真面目にテキパキとこなすので,もちろん何も言うことはないのだけれど,
たまには仕事以外の話も楽しいのにな,とも思っていた。


「恵さんって,つきあい悪くないですか?」
夕方からだけのバイトに来てくれる子が,ある日の呑み会で,そう言った。
「ん,そっかな,でもほら,呑み会とか嫌いな人もいるし」
私はそう言ったのだが,
「呑み会っていうだけじゃなくてぇ,なんか必要最低限のことしか話さない,って感じ。
 ワタシとはしゃべりたくないのかな,この人,とかって,思っちゃう」
とその子は言い,それに加えて,
「そーそ,そだよねー。つんけんしちゃって,あたしも気になってたのー」
と,もう一人別の子が言い出した。

本人の居ないところで誉めるならまだしも,マイナス面を上げるというのは
どうも好きになれないので,
「きっとまだ慣れてないから,遠慮してるんじゃないかな。
 そだよきっと」
と,私は話をまとめあげた。

しかし,実際その後も恵さんの態度は最初と変わらず,
いつも彼女に断られるので,誰も呑み会にも誘わなくなってしまった。

それでも,私は懲りずに彼女に水を向け,
むげに断られ,がっかりする,ということを繰り返していたのだった。


一ヶ月後,彼女の働きぶりのおかげもあって,納期の前日に仕上がるという快挙を成し遂げ,
打ち上げを行うことになった。
例の如く,私は彼女を誘い,断られたのだが,今回はやっぱりどうしても来て欲しかったのでかなり食い下がった。
すると,彼女が「最初で最後ですから,行かせていただきます」と言ったので,本当に嬉しかった。
やっと慣れてくれたのかなと,そんなことを思っていた。
それが甘い考えだったことを,後で嫌と言うほど知ることになる。


打ち上げの最中も彼女は相変わらずのマイペースで,
必要なことしかしゃべらず,黙々と食べて,少し呑むというスタンスだった。
それでも,私は嬉しくて,いろいろ話しかけたりもした。

2 次会にも彼女は参加し,ほんの仲の良い者だけの 3 次会までも,彼女は来てくれた。
雅也,小川くん,京子ちゃん,恵さん,そして私,の 5 人でテーブルにつき,
程良くアルコールも回り始めた頃,初めて恵さんから話題を持ち出した。
それがパンドラの箱を開けた瞬間だった。

「笹野さんって,嫌な事って無いんですか?」
「え?そだなぁ,あんまり,無い,かな。
 でも,どして?」
「いつもニコニコしてて,何を考えてるか判らないから」
恵さんは真っ直ぐこう言い放った。

これが笑いながらでもあれば,ジョークかなとも思えたのだが,
彼女の表情は笑ってはいなかった。
雅也も小川くんも京子ちゃんも,場にそぐわない会話が始まったことに一瞬思考がついていかなかったようで何も言わずにただ聞いていた。
私はといえば,どう返したものだろう,と躊躇したが,
呑み会の席だし,彼女も酔ってるのかもしれないと思い,
軽く受け流すことにした。

「えー,結構表情に出るって言われるんだけどなー。
 判りやすいって。ねぇ,滝川君」
いきなり会話を振られた雅也は,慌てたようだったが,
「そうそう,美也子さんって,ババ抜きとか弱いタイプですよねー,
 表情ですぐに判っちゃうし」
と上手く話を逸らせてくれた。
これで,また元の和やかな雰囲気に戻るだろうと思ったときに,
「本気でそう言ってるんですか?」
恵さんが,今度は雅也に返す。

さすがに,これには,雅也も むっとしたらしく,
「本気,って,見てたら判るでしょ?
 美也子さん,考えてること隠しておけるタイプじゃないし」
と,言った。
雅也も顔に出るタイプなので,気分を害しているのがすぐに判る。

「ふぅん。何も,見えてないんですね」
彼女は,カラカラとマドラーを回し,カクテルに口を付けた。

京子ちゃんはそっぽを向いて煙草を くゆらし,
小川くんは,所在なげにしている。
二人とも,どうしていいか判らないのだろう。

「笹野さんだって嫌なことくらいあるでしょう?
 なのに笑顔を絶やさずっていうのは,どこかで無理してるんですよね。
 心にそういう感情押し込めてるんじゃないんですか?」

開け放ったパンドラの箱から,次々と飛び出す言葉。

「そんな,無理はしてない,よ。
 それほど人間出来てないから」

私は,どうにか打開できないものかと,笑ってみせる。

「今,怒ってません?
 私がこんなこと言ってるのに,何とも思いません?
 腹立たないんですか?
 どうしてそうやって,笑えるんです?」
彼女は挑むように,次々と言葉を投げつける。

「だって,でも」
「私が冗談で言ってるとか,酔ってるとか,都合のいいように解釈してるんですか?
 おめでたいですよね。
 というか,笹野さんって,『偽善者』ですよね」

ササノサンッテ,ギゼンシャデスヨネ

直球だ。

「自分で気づいてないとしたら,それって『真の偽善者』ですよね。
 単なる『偽善者』の方が救いがありますよ。
 自分で判ってやってるんですから。
 すごいですよね,自分さえも欺く『真の偽善者』…」
彼女の最後の言葉を待たず,京子ちゃんが立ち上がるのと,
「言っていいことと悪いことと…」と雅也の声がするのと,
ほぼ同時だったように思う。

次の瞬間,ぱしっと音がした。
その場の雰囲気が凍り付く。

「痛…」
恵さんが,左頬を押さえている。
京子ちゃんが平手を喰らわしたのだった。

「きょ,京子,ちゃ…」
私は,事の展開にうろたえる。

「さっきから黙って聞いてたら言いたいこと言ってくれてるじゃないの」
京子ちゃんがすごむ。

「口より手が先に出るわけですか」
平手打ちされても,冷静に恵さんはそう返した。

「あんたがどうしてそんなに美也子に悪意を持つのか判らないし判りたくもないけどね,
 せっかくの酒の席,つまらなくされるの嫌なのよ。
 確かに美也子は,いつも楽しそうにしてて,こいつ悩みなんてないのかって思うこともあるけど,だからといっていつ美也子があんたに迷惑かけたのよ?
 だったら,しょうもない議論ふっかけるのやめなよね。
 美也子は美也子なりに生きてるんだから,他人からどーこー言われる筋合いは全くないでしょ」

「友達の悪口を言われるのに我慢ならない,と。
 美しい友情ですね」

それまで,ほとんど笑わなかった恵さんが,初めて笑った。
でも,その笑顔は,嘲りの笑いだった。

この反撃には,さすがの京子ちゃんもたじろいだらしく,
一瞬言葉を失う。
…と,その時,恵さんが立ち上がり,京子ちゃんに平手打ちをした。

とっくみあいのケンカになるんじゃないかと,あわてて静止しようとしたが,
恵さんと京子ちゃんは,すっとソファに座り直す。

「おあいこ,ってわけね,これで」
京子ちゃんは,新しい煙草を一本取り出し,火を点ける。

「雨崎さんに叩かれる筋合いはないですから。
 返しておきます」
あくまで冷静に,恵さんもそういう。

「もう,やめようよ,ね?
 せっかくこうして 3 次会なんだし」

「ほらね,そういう風に,事を丸く収めようとする。
 そういうの,鬱陶しいんですよ」
「…」

京子ちゃんが,ぎゅっと灰皿に煙草を押しつけるのを見て,
私は慌てて言葉を探す。

「もし,私のしてることとか恵さんの気に障るなら…」
「ということで,私はこれで失礼します。
 これ,私の飲み代」

「ねぇ,ちょっと待っ」

私は彼女を引き留めようとしたが,恵さんはカバンをもって すたすたと出ていってしまった。
「俺,追いかけますよ。すみません,俺の飲み代,誰か立て替えといてください」
そういって,小川くんが出ていく。

残された私たち 3 人は,ぼんやりとソファに沈んでいた。

「京子さん,何も殴らなくても」
最初に口火を切ったのは雅也だった。

「あら,殴るだなんて人聞きが悪いわね。
 ちょっと手が出ただけじゃない」
「まぁ,京子さんが出してなかったら,僕がやってたかもしれませんけどね」
「雅也が,ぶち切れそうな顔してたから,代わりにやってあげたのよ」
「あ,そうですか」
「男に殴られたんじゃ,彼女もショックだろうし」
「気が回りますね,京子さんは」
「今頃気づいてるわけ?あたしはね,細やかな心を持ってんのよ?」
「自分で言わないでくださいよ,そういうことは」

二人が会話をしているさなかも,私はぼんやりさっきの恵さんの言葉を反芻してた。

ササノサンッテ,ギゼンシャ デスヨネ
ジブンサエモ アザムク シンノ ギゼンシャ…

真の偽善者,か。
そうなんだろうか。
私は。
自分では気づかないだけで,自分さえも欺いているんだろうか。
今持っている感情は,私の本当の感情ではなく,押し殺し濾過された感情なのだろうか。

「‥子,美也子ったら」

「え‥」

「またあんたのことだから,気にしてるんだと思うけど,放っときなさいよ,あんなこと言われても」
「あ,うん…」
「別にあんたのこと,だれも『偽善者』だなんて思ってないからさ。
 それはあたしが保証したげるよ」
「京子さんの保証じゃ心許ないですからね,僕が保証しますって」
「何よ,あたしの保証のどこが心許ないのよ」
「ぅわあ,京子さん,僕を殴るのはやめてくださいよー」
「人を血の気の多い女みたいに言うなーっ」
そういって,京子ちゃんは,雅也をポカポカ叩いていた。
二人のそうした気遣いが嬉しかったけれど,やっぱり私には恵さんの言葉が心にひっかかっていた。

恵さんが開け放ったパンドラの箱の最後に残ったのは「希望」ではなく「疑惑」だった。
突きつけられた言葉に「違う」と返す自信がなかった。
心のどこかで,自分でもそう思っていたからかもしれない。

to be continued ...