side_story-31 (Shuhei.O) 

人もまばらになったオフィスで,僕はひとつ伸びをした。
キコッとイスの背もたれが鳴る。
Email を送信して,OS を終了させる。
どうして終了なのに Windows ではスタートボタンなのだろう,
とぼんやり考えながら,ふと世の中というものは,
始まりと終わりが背中合わせなのだということに気づく。
始まりが無ければ終わりはないし,終わりがなければ始まらないのだ。
だとすれば,終了もまた,何かの「スタート」なのかもしれない。
まぁ,Windows の開発者が,そこまで考えて作ったとは思えないけれど。

しばらくお待ちください,のメッセージが出て,
ほどなくしてから,ひゅぅん,っと電源が落ちる。

僕はもう一度伸びをして,立ち上がった。

「お先です」
回りにそう挨拶して,僕はオフィスをあとにする。
エレベータが上から降りてきたところだったので,僕はあわてて
▼マークを押した。
「1」を押して数字がダウンしていくのを見る。
すぐに「2」でエレベーターが止まった。
誰かが呼んでいたのだろう。

がぁっとドアが開き,乗り込んできた人を見て僕は驚いた。
「恵,さん?」
「小川君…」

数秒の間が空いた。
自動的にドアが閉まり,
かくん,っとエレベーターが降り始める。

彼女が抱えていた茶封筒が,カサリ,と音を立てる。
エレベーターのモーターの音が響く。
僕は言葉を探していた。

「元気,だった?」

なんて間抜けな挨拶だろう。
もっと何か気の利いた挨拶は出来ないのだろうか。

彼女は,少しだけ首を傾け笑った。
(ように僕には見えた)。

「元気よ。小川君は?」
「元気」
「そう」

階下についたことを告げる音が鳴り,ドアが開く。
僕は「開」のボタンを押しながら,彼女が降りるのを待った。
彼女は,すっと外に出て,そのまま歩き出す。
まるで僕という存在と出会いもしなかったかのように。

僕はあわててドアから出た。
「恵さん」

彼女は無言で振り返りこちらを見る。
声をかけてから,僕は自分で何故声をかけているのだろう,と頭の半分で思っていた。

「どうして,ここにいるんだい?」

また,間の抜けた質問だ。

「仕事」

そういうと,また彼女は歩き出す。
僕は彼女の横に並んで歩き始めた。

「びっくりしたよ」
「そうね」
「今日は たまたま出るのが遅かったんだけど」
「そう」
「滝川たちは,今日は先に帰っちゃってさ」
「…」
「まさか恵さんと会うなんて思わなかったよ」
「夕方に」
「え?」
「夕方に笹野さんと会ったわ」
「そうなのか」
「相変わらずね,あの人も」
「恵さん…」
「あなたもね,小川君」
「俺?」
「おめでたい人」
「…」

歩みを止めた僕を気にとめることもなく,彼女は交差点まで歩くと,
通りかかったタクシーを止め,乗り込んでいった。
一度も振り返ることもなく。

「相変わらず…か…」
僕は駅とは反対方向へ歩いていたことに気づき,くるりと向きを変えた。

相変わらずというなら,恵さん,君もだよ。
まだ,そんな風に心を閉ざしたままなのか。

             * * *

僕は恵さんに会ったことを誰にも言わなかった。
恵さんに会ったという美也子さんからも,彼女の名前を聞くことが無かったので,
自分の方から話題を振るのもためらわれたのだ。

2F にはいくつかの会社が事務所を構えていたのだけれど,
どこで恵さんが仕事をしているのか判らなかったので,もう一度出会える確率はかなり低かった。
考えてみれば,あの日だけ仕事に来ていたのかもしれない。
それでも,僕は,恵さんがエレベーターに乗り込んできた2F にちょくちょく行ってみた。
あの日と同じ時間帯に帰ってみたりもした。

今度会って,何を話そうと思っているのか,自分でも良く判らなかった。
「おめでたい人」だと僕を称した彼女と,会話が成立するのかどうかも疑問だった。

けれど,僕は彼女を捜していた。

一週間ほど経ったある日,エレベーターが点検中で使えなかったので
下りのエスカレーターに乗っていると,すれ違う登りのエスカレーターに
恵さんの姿があった。

「恵さん」
彼女はこちらに視線を移すと,また前を向く。
彼女は上に,僕は下に。
とっさに僕は回れ右をしてエスカレーターを駆け上った。
下りのエスカレーターを上るという,まるで子供じみた行為だったが,
彼女が上のフロアにつく前に,僕は下りのエスカレーターを制覇した。
恵さんは少し驚いたような顔をした。
そりゃそうだろう。
大の大人が昼間からするようなことではない。
(いや,夜であってもするようなことではないが)。
回りに人が居なかったのがせめてもの幸いだった。

「下りのエスカレーターを駆け上らない,って学校で習わなかった?」
と,彼女は少し笑って言った。
「言われたかも,しれない,けど,」
僕は情けないことに,少し息が上がっていて,言葉がとぎれとぎれだった。
「何か用事?」
「用事,と,いうか,」
「というか?」
「ただ,話が,したかった」

「ばかみたい」

彼女はそう言った。

「そう,だね」

「おめでたい人」

「かな,」

「今日は仕事が19時上がりなの。すぐにここを出るわ。じゃぁね」
「それって…」

彼女はそれだけいうと,すたすたと歩いていった。
彼女が消えた先は,設計事務所だった。
そっか,あそこで働いているんだな。

それが判っただけでも,無謀な行為をした甲斐があったというものだ。
それに彼女は今日19時に上がると予定を教えてくれた。
だからどうだとは,何も言わなかったが,それは僕が待っていてもいいということだろう,
--- そう考えよう。
だって,僕は「おめでたい人」だから。

             * * *

その後,僕はとにかく仕事を早く終わらせるように努力した。
絶対に19時前に,ここを出るつもりだった。
18時半を過ぎた頃から後かたづけをし始めて,頃合いを見計らっていたときに,
「小川君,内線3番,原田さんからお電話ですー」と声がかかった。

間の悪いことに,それはデータの至急訂正の電話だった。
19時まで あと15分。
お得意先なので「明日にしてもらえないか」とは言い出せなかった。
あわてて資料を呼び出し,データを打ち直す。
焦る気持ちがタイプミスを引き起こす。

19時まで あと5分。

印刷をして,急いで FAX を送信する。
相手先につながらない。
リトライか。

19時まで あと1分。

がーっと,音がし始め,FAX に用紙が吸い込まれていった。
確認の電話を相手に入れる。
こういうときには悪いことが重なるものである。
「すみません,原田は ただ今電話中ですので,後ほどこちらからおかけいたしますが」
と,事務的に電話口の女性は,そういった。

時計をちらりと見る,19時を過ぎている。
恵さんは,時間にきっちりした人だった。
うちで働いていたときも,就業時間には仕事を終わらせ帰っていった。
彼女が19時に上がる,というのなら,その通りなのだろう。
ここは3階なので,2階の恵さんよりもタイムラグが出る。

電話はまだかかってこない。
たまらなくなって,もう一度自分からかけてみる。
数回のコールの後,さっきと同じ女性が電話口に出る。
「まだ電話中なのですが」
さっきよりは,少し申し訳なさそうな口調だった。

2F まで行ってみようか。
もし恵さんに会えたら,少しだけ待っててほしいと言えばいい。

そう思った瞬間,電話が鳴り響く。
反射的に,僕は受話器を上げた。

「はい。オフィス・プロエディット,小川…」
「おぉ,小川君かぁ,済まなかったね,2回も電話くれたそうで」
のんびりと原田さんはそういった。
「データ,どうだったでしょうか」
「今から見るところなんだが」

それじゃ困るんです,と言いたかったけれど,そんなことが言えるはずが無かった。

「そうですか…」
「ただ,ちょっとこれから急に出ないといけなくなってね。
 急いで直してもらって悪かったんだが,返事は明日でもいいかね?」
「構いません!ではまた明日」

そう僕はいうと,相手の返事を待たずに切ってしまった。
失礼なことをしたけれど,仕方がない。

時計を見ると19時8分。

「お先です」
そう言い捨てて,僕は走った。
エスカレーターを早足で下る。
一階のエントランスには誰もいなかった。
歩道に出てみたが,彼女の姿は見えない。
もう一度,僕は二階に駆け上がり,設計事務所の扉の前に行ってみる。
そこには「本日の営業は終了いたしました」というプレートがかけられていた。
時計の針は,もう15分前を指している。
やっぱり遅かったようだ。

僕は とぼとぼと階段を使って一階に下りた。

明日,早く来て,彼女を待って謝ろう。
けれど,考えてみれば,彼女と約束をしたわけでもないのに,謝るのもおかしいかと思った。
一人で勝手に決めて,一人で勝手に落胆して。
本当に,間抜けな人間だ。

「小川君」

その時,僕の心臓は本当に飛び出しそうになった。
肝試しの場でも,こんなにも驚きはしないだろう。

「恵,さん,どして」

この間と同じように,彼女は茶封筒を抱えて,そこに立っていた。
『安本設計事務所』 -- そうそこには書かれてあった。
ああ,そうか,この間エレベーターの中で,それに気づいていれば,
彼女がどこで働いているのかも知ることが出来たのだった。
あの時は,本当に余裕がなかったのだな,と今更ながらに思った。

「小川君こそどうしたの?
 一階に下りてきたかと思ったら,外に行って,また上に上がって」
「見てたの?」
「声かけようかと思ったら走っていくんだもの。
 ここに立ってたの気づかなかった?」
「全く」
「忘れ物?」
「そんなところ,かな」
「ふうん」

そういうと,彼女は歩き始めた。
あわてて僕も並んで歩く。

「恵さんこそ,どうしてここにいたんだい?
 19時にあがるっていってたじゃないか」
「そう,19時に出てきたのよ」
「もう15分過ぎてる」

彼女は,前を見ながらこう言った。

「私もね,忘れ物ってとこ」

このときの気持ちは,なんと表現していいのだろう。
彼女は本当に忘れ物をしたのかもしれない。
偶然,今の時間になったのかもしれない。

けれど,少しだけ,彼女が僕を待っていてくれたような,そんな気がした。

振り返れば,僕はいつも彼女のことが気にかかっていた。
初めてうちの社に派遣で来たときから,まったく周囲にとけ込もうとしなかった彼女。
あまつさえ,美也子さんに喧嘩を売り,
京子さんに平手打ちされるという事件まで引き起こした彼女。
あの日,彼女を追いかけ,話を聞かなければ,
恵さんを見る目も違っていたのかもしれない。

             * * *

「私が冗談で言ってるとか,酔ってるとか,都合のいいように解釈してるんですか?
 おめでたいですよね。
 というか,笹野さんって,『偽善者』ですよね。
 自分で気づいてないとしたら,それって『真の偽善者』ですよね。
 単なる『偽善者』の方が救いがありますよ。
 自分で判ってやってるんですから。
 すごいですよね,自分さえも欺く『真の偽善者』…」

あの時,恵さんは,臆すことなく堂々と言い放った。
滝川が「言っていいことと悪いことと…」と言いかけたのと,
京子さんが恵さんを平手打ちするのとほぼ同時だった。

僕はまるでドラマのロケを見ているような,そんな気持ちになっていた。
情けないことに,言葉を発することも,二人を制止することも,
何一つ行動が起こせなかった。

恵さんが京子さんに平手打ちを返し,
美也子さんに更に言葉を投げつけた後,飲み代を置いてドアに向かった瞬間,
初めて僕は行動が起こせた。

「俺,追いかけますよ。すみません,俺の飲み代,誰か立て替えといてください」

そう言って僕は彼女を追いかけたのだ。
追いかけてどうするつもりだったのか。
「美也子さんに謝りなよ」 --- そんなことを言う気持ちは,たぶん無かった。
ただ,追いかけないといけないと思った。
彼女がどうして,そこまで美也子さんを毛嫌いするのか,
何故他人と接触を持たないのか,自分の中にずっと引っかかっていたことが,
僕を追いかけるという行動に駆り立てたのだ。


「恵さん,恵さん」
僕は彼女の後を追った。
走るわけでもなく,彼女はただ歩いていた。
背筋をしっかりと伸ばして,毅然として歩いていた。
彼女に追いついた僕は,並んで歩く。

しかし,元から何か言葉をかけようと思って追いかけてきたわけではないので,
言うべき言葉が見つからなかった。

どうしてあんな話を切りだしたのか判らなかったけれど,僕は話し始めた。

「俺さ,昔から人の輪にはいるのが苦手でさ」
彼女は聞いているのか聞いていないのか判らなかったが,
何も言わなかったので続けることにした。

「初対面の人とはどうしても気後れして上手く話せないんだ。
 滝川とかさ,何であんなに上手く話せるのかなって思って,正直言って羨ましい。
 美也子さんも,すぐに人にとけ込める人だし,いいよね」

恵さんの方を見てみたが,彼女の表情には何も浮かんでいなかった。

「でもさ,自分からは無理だけどさ,自分に話しかけてきてくれる人には,
 ちゃんと接したいって思う」

「お説教?」

抑揚無く,彼女が言う。
僕に対してではなく,まるで何かのセリフの練習をしているかのように。

「ち,違うよ,説教じゃなくて。
 俺,自分がそんな風に人付き合い下手だから,恵さんのこと,放っとけないんだ。
 恵さん,仕事も出来るし,きっと頭もいいと思うから,
 もっとみんなと一緒に接するようにしたらきっと楽しいと思う。
 恵さんが悪い人じゃないのは,みんな判ってると思うんだ。
 でも,いつもみたいに,みんなの誘いを断ったり,
 今日みたいに,立てないでもいい波風を立てたりしたら,
 自分で自分を居心地の悪いところに追いつめてるみたいで,…だから…」
「別に居心地が悪いだなんて思ってない」
「だけど,みんなと…」
「みんな,みんな,って言うけれど,みんなと合わせることがそんなに重要?
 どうして私が合わせないといけないの?」
「何も意志を曲げてまで合わせろというんじゃなくて,
 意見が対立することもあると思うけど,
 コミュニケーションをとろうとする気持ちだけは必要だと思うんだ。
 それに,思ったことを伝えるにも,言葉の選びようがあると思うし」
「疲れる」
「え?」
「他人のことを考えるのは疲れるの。
 私は一人でいいの。放って置いてくれる?」
「どうしてそんなに他人と関わるのを避けようとするんだよ」
「小川君に言う必要なんてないでしょう?」
「そりゃそうだけど」

僕は言葉を失った。
そうだ。
関係ない,といわれれば,その通りなのだ。
僕は恵さんにとって,ただの仕事仲間に過ぎないし,
今まで深く話したことがある訳じゃない。
5分以上の会話をしたのも,たぶん今日が初めてだろう。

そうだ。
彼女から聞いた言葉は「はい」「判りました」「できました」,ぐらいだった。
一ヶ月も同じ職場で過ごしてきたのに。

「小川君」
「ん?」
「あなたも おめでたい人よね」
「そうかな」
「私を好きな訳じゃないでしょう?」
「そうだね」

ぷっと恵さんが吹き出した。
彼女が初めて笑ったような気がした。

「ご,ごめん。俺失礼なこと言ったかな。
 その,好きな訳じゃないっていうのは,なんていうか,恋愛じゃないってことで,
 つまり…」
「いいわよ,別に。そりゃ,こんな女嫌いでしょうね」
「違うんだ。恵さん,これだけは判ってほしいんだけど,
 美也子さんも,京子さんも,滝川だって,俺だって,
 みんな,恵さんのこと,本当に嫌ってなんか無いんだ。
 なんとか,仲良くしたいって思ってるんだ」
「それってさっきも言ったけど『偽善』っていうの」
「違うよ。あいつら,本当にそう思ってるよ。
 人から良く思われようだとか,そんなこと関係無しに,
 一緒に楽しみたいって思ってるんだ」
「ばかみたい」
「恵さんは,何で あいつらのこと信用出来ないんだよ?」
「信用?じゃぁ聞くけど,何で信用出来るの?
 裏切らないなんて保証がどこにあるの?
 こうやって,私と一緒にいたら,小川君,今頃何か言われてるかもよ?
 そんなこと思わないの?」
「思わない」
「だから,おめでたいって言ってるの」
「…」
「他人なんてね,本人が居ないところで何を言ってるか判らないんだから」
「どうして」
「人を信用するとバカを見るのよ。
 人のことで一生懸命になると,損をするの」
「なんで,そんな風に思うんだよ」

恵さんは,少し歩みを遅くした。
そしてゆっくりと言葉を吐いた。

「小川君,あなた,誰かに裏切られたことってないでしょう?
 信じていた人に裏切られた経験なんてないんでしょう?
 昨日の友が今日の敵になったことってないんでしょう?
 裏切られた人間の気持ちはね,同じように裏切られたことのある人間にしか判らない。
 だから,判ったような口,きかないで」

そういうと彼女はまた,すたすたと歩き出した。

「なぁ,恵さん,俺のこと,やっぱり信用できないかな」
「出来ない」
「話してほしい,っていうのは,俺のわがままかな」
「わがまま」
「でも聞かせてほしいよ,俺」
「…」
「興味本位じゃないんだ。じゃあ何かって言われたら困るけど。
 話したら,楽にならないかな」
「ならない」
「つらくなるなら,無理に聞かないけど」

少し,間が空く。

「…いいわ。どうせ今日が最後だものね」
「最後っていうのは仕事が最後なだけで」
「もう会うこともないわよ。連絡とるつもりもないから」
「…」
「今から,うち,来る?信用出来る人なんでしょう?小川君は」

彼女は少し挑戦的に笑った。

「他人は信用出来ないって,言ったのは恵さんじゃないか」
「ふふっ,そうね。信用出来ないわね。
 でも構わないわ。言い訳が立つでしょう?
 私の方から誘ったんだから」
「恵さん」
「何?」
「そうやってさ,先に自分が傷つかないようにしてるの寂しいよ」
「…」
「言い過ぎだったら,ごめん」

彼女が急に駆けだした。
しまった,怒らせてしまったか !?
そう思ったときに,彼女がすっと手を挙げてタクシーを止めた。

「小川君,乗るわよ」

そう言って,彼女が振り返った。
僕は誘われるまま,タクシーに乗り込む。

行き先を告げ,タクシーが走り出してから,彼女はずっと窓の外を見て無言だった。

to be continued ...