side_story-32 (Saeko.M) 

「コーヒーでいい?インスタントだけど」
私は向こうで借りてきた猫のように部屋の隅に座っている小川くんに声をかけた。
「あ。はい,コーヒーでいいです」
勧めた座布団に正座をし,両手を膝の上に置いている小川くんは,
なんだか悪いことをして廊下で座らされている小学生を思わせた。

「おまちどうさま」
「すみません」
「足,崩していいよ?そんなにかしこまってたら疲れるのに」
「俺,女の人の部屋って上がったことなくて…」
「えー,ほんとに?」
「彼女も居ませんから」
「別にそんなこと聞いてないよ。面白い人だよね,小川くんは」
「そうですか?あまり面白くないヤツだと思うけどなぁ。自分では。
 あ,コーヒーいただきます」
「お砂糖とミルク,必要だった?」

私は自分が入れないので,用意するのを忘れてた。

「あ,ああ,いいですいいです。これくらいの方が目が覚める」

二人のコーヒーを飲む音だけが聞こえる。
カップを置いた小川くんは,じっと自分の手を見ていた。

「なんだかまるで別れ話をしている二人みたいね」
「えええっ」
「なんとなく,そう思っただけ。
 私の話だったよね」
「そうですけど。無理して話さなくてもいいです。
 すみません。さっきはあんなこと言ってしまったけど,
 考えてみたら,俺が恵さんのこと とやかく言う権利もないわけで…」
「じゃ,私が聞いて欲しいって言えば OK なんだ」
「え?」

何故だろう,小川くんと こうして向き合っていると,
少しだけ話してもいいかなという気持ちになっていた。
人付き合いが下手だと,そういった小川くんに,少し自分が重なったからかもしれない。

「あ,そういえば小川くん,煙草平気だった?」
「はい。俺は喫わないですけど,滝川がヘビースモーカーですから。
 慣らされますよね」
「ああ,そうよね。滝川君かなり喫うものね。
 ガンガン喫われるとたまらなくなるもの」
「恵さんも煙苦手なんですか?」
「そじゃなくて」

私は,起ち上がり,キッチンの換気扇を回した。
棚の中から灰皿と煙草とライターを取り出す。

「…!」

お化けでも見るような顔で小川くんは固まっていた。

「意外?私が煙草喫うの」
「い,意外というかなんていうか,だって,全然社内では…」
「うん,喫わないわよ。他ではね。でも結構好きなの。
 だからね,滝川君に傍で喫われると『一本ください』って言いたくなっちゃう」
「はぁ…」
「うちの本社では,女性が煙草ってのが嫌がられるの。
 査定にも響いてるんじゃないかって言われてるくらいよ。
 だから,みんな上司の前では喫わないわね」
「たいへんなんですね」
「まーね。女は言われた仕事をして,女らしくしておけ,って風潮がありありで」
「うちなんて,京子さん,思っきり羽目外してますけど」
「ああ,そよね。彼女みたいに堂々と振る舞っても生きていける職場よね。
 小川くんのところは」
「京子さん,たぶん,煙草の喫えない職場には就職できないと思います…」
「ふふっ,確かにそんな感じ。
 あー,まだ頬がひりひりする。おもっきりやってくれたわね」
「すみません…」
「小川くんが謝ることじゃないでしょ?」
「一応,京子さんの代わりに謝っておきます」
「変な小川くん。
 それに,彼女はきっと謝る気なんて無いと思うよ」
「やりすぎた,とは思ってると思います」

私は,ふっと煙を吐き出す。

「ああやって,本気で怒ってくれる友達が居るっていうのはいいね」
「そうですね。京子さんって,美也子さんの保護者みたいなところあるから」
「美しい友情だなぁと思う」

小川くんは,顔を上げて私の方をじっと見る。

「それって,さっきも言ってましたけど,嫌味ですか?」
「9割が嫌味,残りが本音」

温くなったコーヒーに口を付ける。
小川くんは,次の言葉を探しているようだった。

「人のために本気で怒れる雨崎さんも,
 それから そんな風に赤の他人から守られている笹野さんも
 二人ともが,たぶん,お互い信じ合ってるであろうことも,
 私にとっては,目障りなだけ」
「…」
「だけど,そんな環境で生きていける彼女たちが,
 ほんの少しだけ羨ましいわ」
「恵さんだって,恵さんのことで本気で怒ってくれる友達居るでしょう?」
「さぁ,どうだろう。居ないんじゃない?
 私が必要ともしてないし」
「でも,さっき羨ましいって」
「羨ましいとは思うけど,必要だとは思ってない」
「矛盾してますよ,それ」

私は起ち上がり,中身の無くなったコーヒーカップをキッチンに運んだ。
二つのコーヒーカップが,こうしてシンクに並ぶのは何年ぶりなんだろう。

「小川くん,車乗ってる?」
「え?俺ですか。乗ってますよ。中古のシビックです」
「じゃぁ,F1に出るようなレーシングカーに乗ってみたいと思う?」
「そりゃ,思いますよー。憧れますよね。男なら」
「でも,日常生活にレーシングカーなんて必要無いでしょ?
 公道走っても,スピードの限界が出せるわけで無し」
「確かに,街乗りに適した車じゃないですね」
「そういうことよ」
「何が,ですか?」
「私がさっき言ったこと。
 羨ましいと思うけど必要じゃないっていうのは。
 そういう『美しい友情』って羨ましい。
 見ていて憧れるところは,ある。
 けれど,じゃぁ自分の実生活に必要かって言うと,
 そんなもの無くても生きていけるし,ない方が逆に身軽」
「恵さん,人は一人で生きていけるものじゃないですよ」
「それを否定するつもりはないわ。
 だけど,最小限の関わりで人は生きていけるものよ。
 仕事をきちんとこなしていれば,そのあとの呑み会に付き合わなくったって
 社会人としては問題ないでしょう?」
「問題という意味では問題は無いと思うんですけど,
 でも,呑み会だって,人と人との潤滑油だ」
「必要最低限動いていれば,潤滑油なんて要らない」
「寂しいですよ,それ」
「寂しいっていうのは,本人がどう思うかよね?
 小川くんが『恵さんって寂しい人だ』と思おうが,
 私自身がそう思ってなければいいんじゃないの?」
「思ってないんですか?本当に」
「寂しいって?私が?
 思うわけないでしょう?」
「思ってるのを,自分で認めたくないだけなんじゃないですか?」

挑むように私を見つめる小川くん。

ふと,思う。
この人は「いい人」なんだな,と。

「幻想は,とっくの昔に捨てたの」
「幻想?」
「そ。友情も愛情も『幻想』。
 成り立ってるって思ってるのは,二人がお互いに錯覚してるだけ。
 お互いが錯覚しているうちは成り立つけれど,
 どちらかがそれが『幻想』だと気づいたら,成り立たないのよ」
「京子さんと美也子さんも,ですか?」
「そうよ。もっというなら,滝川君の笹野さんに対する愛情も,かしら。
 もっとも,笹野さんの方にその気は全然無いようだけど」
「気づいてたんですか」
「気づかない方がおかしいでしょう?
 もう一つ言えば,雨崎さんは滝川君が好きなのよね?
 だけど,彼が笹野さんを好きなのを知っているから押さえてる。
 そんなところかしら?
 美しすぎて泣けるわね。そんなの全く無意味なのに」
「恵さん,さっき言いましたよね。
 『本人がどう思うかであって,本人がそう思ってなければいいって』」
「そうね」
「だったらいいじゃないですか。滝川が美也子さんをどう思っても,
 京子さんが,滝川のことをどう思っても」
「そうよ,構わないわ。
 だから,私は何も関与する気はない。
 ただ,無駄なことをしてるなって思うだけ」
「恵さんだって,人を好きになったことあるでしょう?」
「そうね。あったわね」
「じゃぁ,判るはずだ。
 意味があっても無くても,人は人を好きになることは止められない」
「確かにそうよね。
 だけど,私は『誰かを好きだ。相手も自分のことを好きでいてくれる』という
 『幻想』なんて,とっくの昔に捨てたの」
「恵さんにとって,周りの人間は何なんですか」
「『自分では無い,赤の他人』それ以上でも以下でもないわ」
「どうしてそこまで人間不信に陥ったんですか」
「人間不信?」
「違うんですか?自分以外の者を全く信用してない」
「信用できるのは自分だけでしょう?
 他人は他人よ?自分の意図通りに動く訳じゃない」
「だけど自分が意図しなかったことにも動いてくれるかもしれない」
「げ・ん・そ・う」

私は一つ一つ言葉を句切って言った。

小川くんに私の気持ちが判ってもらえるはずはない。
だって,小川くんは「赤の他人」だから。
私自身では無いのだから…。

「恵さん…」
「さっき,歩いているときに,小川くん言ってたよね。
 『昔から人の輪にはいるのが苦手』だったって」
「言いました」
「私もね,そうだったの。
 学生の頃,ずっと私はひとりぼっちだった。
 言いたいこと上手く言えなくて。
 女の子ってグループで行動するから,そこから孤立してしまうことは死活問題なのよね。
 勉強することよりも,努力したような気がする。
 誰かに嫌われずに生きていくこと」
「判る,ような気がする」
「高校3年の時,そんな私に親切にしてくれた友達が居たの。
 クラスのリーダー的な存在の女の子だったんだけど,
 私がひとり浮いてると,助け船を出してくれて,グループに引き入れてくれて。
 『サエちゃんと,私は親友だから』ってそう言ってくれた。
 私もそう思ってた」
「…」
「だけど,そんな友情は,いとも簡単に壊れたの。
 どうしてか判る?」
「判らない」
「その子はね,ずっと小さい頃からアトリエに通ってて,絵を習ってたのよ。
 確かに群を抜いて上手かった。
 美術の時間には,いつも先生に誉められてたし。
 ところが,どうしたわけか,その年の市内絵画展への出展に,私の絵が選ばれたのよ。
 私は別に絵を習いに行ってたわけでもないし,選ばれるとしたら,
 その子の絵の方だったはずなのね。
 私は慌てて先生に訊きに言ったの。どうして彼女の絵は絵画展へ出されないのかって。
 そしたら,こういう事だったの,彼女が絵を習いに行ってるのは先生も知っていて,
 その事がかえってマイナスになってたのね。
 つまり,どんなに絵が上手くても,それは習いにいっているからだ,っていう
 目で見られちゃうのよ」
「なるほど。先生としては,習いに行ってるんだから,これくらいは描けても当然,
 っていう風にみてしまうわけか」
「その通り。だから,上手くても出せないっていうのね。
 でも,どうみたって,彼女の方が上手いのに,それじゃ周りは納得いかないでしょ」
「かもしれない」
「そんなときに まことしやかに噂が流れたのよ,
 『恵さんが,先生に取り入って絵を出してもらうようにした』って。
 そのうち『恵さんが色仕掛けで先生に頼み込んだ』なんて,バカな噂も流れて」
「高校生でしょ?その時」
「まぁね。普通考えられないことなんだけど,
 たまたま体育の非常勤講師と生徒の恋愛が表沙汰になって,
 PTA と教師の間で もめるっていう事件が起こったときだったのよ。
 だから,そういう噂が信憑性を持っちゃったのね」
「それで,その友達から軽蔑されてしまったわけか」
「そうじゃないの」
「え?」
「その噂を流したのが,その子だったのよ」
「…」
「ねぇ,笑えるでしょう?
 その子は私のこと親友だって言ってくれた,私もそうだと思ってた。
 だけど,簡単にそんなの壊れちゃったの。
 それも,親友だって言ってくれた本人が壊しにかかったのよ。
 それからの学校生活は,本当に地獄だったわね。
 『あれが,教師と " 寝た " 恵さん』って,違うクラスの人からも言われるの。
 ただ別に表立っていじめられている訳じゃないから,担任の先生も何も気づかなかった。
 だから,その頃の私は,希望の大学に合格することだけを支えに頑張ってたの。
 私は工学部を狙ったのよ」
「工学部だったんですか?恵さんは」
「そうよ。昔からそういう方面が好きだったこともあるんだけど,
 決定的な理由は,女の子が圧倒的に少ないであろうことだったの。
 大学に行ってまで,女の子のグループ意識に悩まされるのはごめんだと思ったから。
 親は反対したわ。短大で充分じゃないかって。
 だから,いくつか短大も受けたの。落ちるような答案を書いたんだけどね。
 これで第一志望の工学部に落ちてたらとんでもなかったんだけど,
 努力の甲斐あってか合格を手にしたの。
 その時はホント涙が出た。大学に受かって好きな勉強が出来るなんて理由よりも,
 あの煩わしい女の子のグループ意識に関わらないで良いんだって思って泣けたのよ」
「聞いてて痛々しいですね,それは」
「ところがね,とんだ誤算があったのね」
「誤算?」
「工学部っていっても,女性が私一人って訳じゃないのね」
「ああ,そうですね」
「そうすると,ほんの数人の女子だけってことになって,
 結果として,その数人はいつも一緒になっちゃうわけ」
「つまりそれが1つのグループだと?」
「そういうこと。結局それだけ少人数にも関わらず,
 女ってのは,つるんじゃう性質を持ってるのね。
 私は,もう一人でも平気だったから,極力関わりを避けた。
 高校と違って大学って,休み時間は移動で潰れることが多いし,
 履修している科目によって,まちまちなわけだから,随分気が楽だったな。
 院まで行きたかったんだけど,さすがにそこまで親は許してくれなかった。
 だから,就職したんだけど,これがまた女の園に近いものがあってね」
「今の会社?」
「違うよ。今の会社にはこの間転職したの。
 その最初に就職した会社で,私は,私なりに努力したんだ。
 やっぱり逃げてるだけじゃ駄目だろうなって。
 周りに積極的に話しかけたり,呑み会にも付き合ったり,
 休みの日にも みんなと遊びに出掛けたり。
 高校の頃よりは,要領を掴むのも上手くなってたのね。
 経験は人を賢くさせるわけで,どの程度まで演じたらいいかって,判ってた。
 みんな腰掛け希望で仕事は9時5時って割り切ってたけど,
 私は早く実力を認めてもらって上に引き上げて欲しかったから残業もしたし,
 社内で昇進試験が受けれるから,それに合格するために,かなり勉強もしたのよ。
 同じ目的意識で仲良くなった子が居て,その子とはいろんな話が出来た。
 その子,美也子さんに似てたかな。
 いや,美也子さんがその子に似てるのかも。
 人当たりが良くて,ずっと日なたを歩いてきたような子だったわ。
 誰からも好かれてて,努力以上の成果を挙げてたと思う。
 神様って不公平よね。
 でも,神様に当たり散らしても現状は変わらないわけだし,
 私は私で努力するしかなかった。
 …で,その頃,社内恋愛をして,私には彼氏も出来たの。
 私にもやっと幸せが巡ってきたかなって感じだった」

しゃべり続けて喉が渇いたので,私はまたキッチンへ行った。

「何がいい?アルコールもあるけど」
「いや,御茶でいいです。俺は元からそんなに呑まない方なんで」
「そ。じゃ,私だけ失礼してビール頂くわね」
「どうぞ」

私はビールの缶と,烏龍茶のペットボトルを手に戻る。

「コップ,忘れてた」

コップを1つ手渡す。

「すみません。なんだか,俺ひとりじっと座ってて」
「小川くんはお客さんだからいいよ」

私は烏龍茶をコップに注ぎ,小川くんに差し出した。
それから,ビールのプルトップを引き上げ,そのまま口にする。

「ごめんね。行儀悪くて」
「え?」
「ビールは缶のままが一番美味しいの」
「ああ,前に京子さんもそういってましたよ。
 唇が凍るほどキンキンに冷えたビールを缶から呑むのが最高だって」
「そう。同じだね。私もそう思う」
「結構気質が似てるんじゃないですか,京子さんと恵さん」
「私が雨崎さんと?似てないわよ。
 あの人キツそうに見えるけど本当は優しい人だもの。
 私はあんな風にはなれない」
「そうかなぁ。あ,話途中でしたね」
「どこまで話したっけ。ああ,彼氏が出来たってところか」
「はい」
「そう,いろいろと気を遣わないといけないことは多かったけれど,
 一応会社での自分は順風満帆だったのね。
 人間関係って,上手くいくと上手い方へ流れていくものだなって,思った。
 ところが,そういうのも結局は長く続かなかったのよ。
 昇進試験で私と,さっき言ってた友達とは受かったんだけど,
 私の彼は落ちてしまった」
「…辛いシチュエーションですね」
「素直に喜べないわよね,そうなると。
 彼,試験に関しては自信があったみたいでかなりショックを受けてたの。
 そんな頃『彼氏を蹴落として昇進試験に受かった女』って一部で言われはじめて,
 しまいには,また『上司に媚びをうって合格を得た』とか,
 悪い噂は枚挙にいとまがないくらいになっていったのよ」
「まさか,それ,試験に落ちた彼氏が流したってわけじゃ…」
「そうではなかったんだけど,どうも,彼のことが元から好きで,
 私のことを良く思ってなかった人間が居たらしいわ。
 彼が試験に落ちたのをきっかけに,私は彼と気まずくなってしまって,
 その間に,別の女の子に彼を獲られることになってしまった」
「…」
「腰掛け組グループの人間にとっては,昇進試験を受けた私みたいな人間は,
 異端児扱いってわけで,私はだんだん課内で孤立し始めたの。
 また,同じね,高校の時と。
 その時ね,相変わらず今まで通り接してくれたのが,さっき言ってた
 美也子さんに似てた彼女なの。
 だいたい,彼女だって昇進試験に受かったのに,その事に関して,
 誰も彼女が誰かに取り入った結果,合格を手にしたなんて言わなかった。
 彼女の合格は,彼女の実力で勝ち取ったもので,
 なのに,私の合格は汚い手を使ったように言われて…。
 彼女は,試験に受かっても現状維持で,友達とも仲良くしているのに,
 私だけが ほんの少しだけ,他人より出るたびに叩かれてへこまされる。
 同じ事を同じようにしているだけなのに,どうして?
 どうして私だけ,上手くいかないの?」
「判らないです…,俺には,何とも言えない」
「課内の呑み会なんかにも,彼女から誘われたわ。
 他の女の子達は,きっと私を誘うことなんて考えてもなかったでしょうけど。
 でも,行っても輪に入れなくて惨めなだけよね?
 彼女の誘いを断ると,周りの人間はこう言うのね,『恵さんはひねくれてる』って。
 じゃぁ,どうすれば良かったの?
 一人浮くことが判っている呑み会に,ニコニコして参加すれば良かった?
 彼女が私に対して普通に接してくれることが,どんどん私を追いつめるの。
 いっそのこと,みんなみたいに,私を無視してくれた方がどんなに楽かしら。
 そう思ったわ。
 お門違いだとは判ってる。
 だけど,いつも笑顔で,能天気に生きている彼女の存在に腹が立ってきた。
 そして,そんな風に思ってしまう自分がもっと惨めで情けなくて,
 そう考えると,そんな風に私を追いつめていく彼女がやっぱり許せなくて。
 結局行き着くところは,彼女に対して怒りを爆発させることだったの」
「何かあったんですか?」
「ある時,また呑み会に誘われたわ。
 もう,我慢ならなくなって,こう言ったの。
 『惨めになっている私を見て楽しんでるの !?優越感に浸ってるの !?』って。
 一度そう言いだしたら止まらなくなっちゃって,周りに人が居るのに,
 どんどん思ってること口に出しちゃった。
 たぶん,かなり口汚く彼女を罵ったと思う。
 バカよね,ますます自分の立場を悪くするようなこと,自分でしてるんだから。
 その時,彼女,何て言ったと思う?」
「『そんな風に言われるのは心外だ』とか?」
「んーん。違う。
 『もし,私のしてることが恵さんの気に障るなら謝る。
  ごめんね。でも,私,恵さんのこと好きだから誘ったの』って。
 そういったのよ。
 頭を殴られたようだったわ。
 思わず叫んだ。
 『偽善者!』って」
「それは違うよ。きっと,彼女,本当に恵さんのこと,好きで,
 放っとけなかったんじゃないかな」
「みんなを敵に回してた私を好きって?
 そんなこと信じられる?
 信じたら,また裏切られるのよね,きっと。
 もう,私はバカなことは繰り返さないと思った。
 気持ちを吐き出すだけ吐き出したら,もう,どうでもよくなっちゃって。
 次の日辞表を出したのよ。
 引き留められもしなかった。
 ああ,私っていう存在は,この会社にとって引き留める価値もないのかって,
 そう思ったら悔しくて涙も出なかった。
 今の会社は派遣登録で気が楽なの。
 期間が来れば,はい お終い,で。
 行く先々でも派遣社員なんて使い捨ての駒みたいなものだから
 そんなに深く立ち入ろうとする人も居ないし。
 美也子さんくらいね。あんなに煩わしいくらい人を誘ってきたのは」
「そんな風に言わないであげてください」
「ほらね,彼女みたいな人間は,必ず周りの人間から庇護されるのね。
 悪いのは,私。相場が決まってるんだから,別に構わないけれど」
「恵さん…」
「判ってくれるだとか,信じられるとか,そんなの全部幻想。
 期待なんてしちゃ駄目。
 他人は,どこまでいっても他人に過ぎない」
「そう,ほんとは思えないから,そうやって口にするんでしょう?」
「小川くん,あなたも一緒よね。
 私を見てるんじゃなくて,あなたがこうであって欲しいという『私』を
 作り出しているだけよ。
 言ったでしょう?
 裏切られた人間の気持ちはね,裏切られたことのある人間にしか判らないって」
「滝川たちは,本当に信頼するに値するヤツですよ」
「小川くんがそう思うのなら,そう思っておけばいい。
 だけど,私にそれを押しつけないで」
「俺に話してくれたのは,俺を信用してくれたからじゃないんですか?」
「あなたがこの話を黙っていてくれるだろうから,話したと?
 そう思ってる?
 違うわよ。あなたが誰かにこんな話をしても構わない,
 そう思ってるから話したの。
 信用した訳じゃない」
「そう,なんですか…,残念だな」
「残念?」
「もしかしたら,俺は少しだけ恵さんに近い人間として扱ってもらったのかな
 って思ってたから」
「…」
「これも恵さん曰くの『幻想』なんですかね。
 それでも,いいですよ。
 10個の幻想のうち,もしかしたら1つは,本物かもしれないんだから」
「おめでたい人」
「…ですね。
 あ。そろそろ,俺帰りますね」
「怒ったんだ?」
「違いますよ,滝川たちんとこに戻らなきゃなんないから」
「…」
「あいつら,きっと恵さんのこと心配して,
 追いかけた俺から連絡入るの待ってると思うんです。
 きっと美也子さん家かな,居るとしたら」
「ばかな」
「賭けてもいいですよ」

小川くんは,胸ポケットから携帯を取り出して笑った。
どうして,そんなに自信を持って笑えるんだろう。

「…あ,もしもし。…そう,悪ぃ,誰が立て替えてくれた?
 そか。さんきゅ,後で渡すわ。…うん,美也子さんとこ?
 やっぱり,…うん,あと,たぶん,40分くらい,…そう,
 じゃぁな」

ピッと携帯を切り,また胸ポケットにしまう。

「居たの?」
「居ましたよ,やっぱり美也子さん所に。
 だから賭けてもいいっていったでしょう」
「…最初から,笹野さんの所で集まる約束だったんでしょう?」
「違いますって。
 信用してないなぁ,って,ああ,元から信用されてなかったんですね」

そういって小川くんは笑った。
嫌味でもなんでもなく,ただそれが可笑しいという風に笑っていた。

「恵さんがどう思っても構わないです。
 でも,あいつらって,そういうやつなんですよ。
 それは,幻想でもなんでもなく『事実』なんです」
「…」
「恵さん,10枚引いたクジが立て続けにハズレってこともあると思います。
 だけど,11枚目を引く勇気を捨てないでください。
 11枚目は,とびきりのアタリかもしれないんだから。
 じゃぁ。あ。えっと,メモ,あります?」

私は黙って電話の横に置いてあったメモ用紙を手渡した。
さらさらと何かを書き留め,私に手渡す。

「それじゃ,御茶ご馳走様でした」

そういうと,小川くんは,出ていった。
後に残された私は,鍵を閉め,さっき手渡された紙を見る。

小川修平@おめでたい人
 090-****-****

そこには,彼の携帯電話の番号が書かれていた。

「ばかみたい…」

私は,つぶやき,紙を丸めてごみ箱に放り込む。
もう,幻想に振り回され,痛い目を見るのはごめんだ。
…。

to be continued ...