side_story-34 (Shuhei.O) 

──── カチ,カチ,カチ。
「あー」

さっきから何度となく発せられる京子さんの言葉。
彼女は二つ向こうの席にノート PC を置いて,マウスと格闘していた。
相当行き詰まっているらしい。

今日は滝川も美也子さんもお休みの日だ。
そして珍しく,まだ19時前だというのに,社内の人影はまばらだった。

──── カチ,カチ。
「だめだ」

こきっと京子さんが首を傾ける。

「雨崎さん」
「何?」
「俺,今日の仕事終わりましたから」
「だから何よ」
「手伝いますよ」
「え?」
「いや,なんだかさっきから行き詰まってるじゃないですか」
「ああ,これ?」

ノートパソコンのディスプレイを指差す彼女。
僕の位置からじゃ液晶は見えない角度だ。
でも,たぶん彼女のやっているのは,宇佐見さんのところから廻ってきた仕事だろう。

「分担したら早く出来るかもしれませんし」
「無理無理」

京子さんは笑った。

「あ,俺のことバカにしてますねー」
「そうじゃないって」
「宇佐見さんのところから来るのってレイアウト難しいんですよね。
 ちょっとは考えてラフ描いてこいって感じで」
「宇佐見さん?
 あ,確かにね。どー頑張っても指定枚数に これ入らないっての あるわよね」
「んで,どれです?今行き詰まってるの」
「ああ,これ?」

僕は席を立って,彼女の横に並び,ノートパソコンをのぞき込んだ。

「…」
「さて,小川くんに助け船出せるでしょうか?」

彼女は,くすくす笑ってそう言った。

「マインスイーパーやってたんですかっ」
「そだよ〜ん」

悪びれる様子もなく京子さんは笑った。

「俺,てっきり仕事やってるんだと」
「そんなの勝手に誤解したの小川くんでしょ?」
「そりゃそうですけど,仕事終わってるんなら,ゲームなんてせずに
 帰った方がいいじゃないですか」
「んー,まぁ,そなんだけど‥」

彼女は「×」ボタンを押して,マインスイーパーを閉じた。

「ま,女もさ,この年になってくると帰りたくないとか思うこともあるわけよ」
「何なんですかそれは」
「おこちゃまの小川くんには判ん無いだろうけどね〜」

からかうように,ウインクする。
そういう様が京子さんには実に板に付いている。

「3つ違いでお子さま扱いしないでくださいよ」
「ふふ,ごめんごめん。
 あ,ちょっと一服しない?」
「いいですけど」

彼女はパソコンの電源を落とし,ぱたんと蓋を閉めた。
綺麗に伸ばされた爪に淡紫のマニキュア。
京子さんを動物に例えると,獲物を狙う雌豹だなぁ,と ふと思う。

「何よ?人の手見て」
「あーいや,その爪」
「爪?これがどうかした?」

京子さんは,自分の右手を眺め,僕の方へくるりと手の甲を返した。

「その色じゃ,血色悪そーです」
「ばかっ,これはね,洋服に合わせたのっ
 んっとに,小川くんてば女心が判ってないわよねっ」

そう言われてみると,今日の彼女はマニキュアの色をもう少し濃くしたような
葡萄色のスーツだった。

「滝ぼんだったらすぐに気づくわよ」
「ああ,滝川ってそゆとこ,よく気づきますよね」
「見習いなさい,全くもう」

心底憤慨したように起ち上がると,ゆるくウェーブのかかった髪を
ぱらりと肩から払いのけた。
耳にきらりと光るピアスも,揃えられたように紫色だった。

「なるほど,雨崎さんっておしゃれだったんですね」
「ああ,力が抜けるわ」
「すみません」
「まぁ,いいけどね,あたしの彼氏だったら速攻で別れてるわね」
「ぅげ」
「だいたいね,そういうのに気づかないってことは,
 イコール相手に注意を払ってないってことなのよ。
 すなわち愛情の欠落ってやつ」

まだ,怒り冷めやらぬ彼女のセリフを聞きながら,
この間,恵さんと最後に話をしたとき,彼女はどんな服装をしていただろうか,と考えてみた。

あれからちょくちょく彼女とは話をするようになっていた。
ただ,いつも,僕が一方的に話しかけ,適当なところで退散するという繰り返しではあったが。

最後に話したのは,雨の日だ。
彼女は傘を持っていなかったので,無理矢理彼女の手に傘を握らせ,僕は走った。

千鳥格子のワンピース。
黒い少し大きめのカバン。
マニキュアは,してなかったかな。
指輪も。
時計は,小さめで,ムーンフェイズのだった。
シンプルな人だ。恵さんは。

僕は自分で思い出しながら意外なことに気づいた。
見るともなしに,見てた。
やっぱり,気になってるんだろうか。僕は恵さんのことが。

「小川くんっ」
「は,はい」
「今,別の女のこと考えてなかった !?」

さすがに,京子さんは鋭い。
やっぱり,雌豹だ。

「そ,それより,一服しましょう」
「誤魔化した」
「違いますよぉ,いや,ほら,そのピアスも綺麗だなぁ,おそろいだなぁと」
「ピアスが綺麗いなわけね?」
「ああ,いや,雨崎さんが綺麗です,はい」
「心にもないことゆってんぢゃないっ」

そばにあったバインダーで,ぽかんと殴られる。

「誉めてるんじゃないですか〜」
「とってつけたような誉め方しないの。
 そゆの,女は一番傷つくんだからね」
「難しいですね,女の人って」
「そーよ,難しいの,だから大切に扱ってくれなきゃね」
「俺京子さんの彼氏になる自信は無いですね」
「それ以前にあたしが小川くんは選ばないって」
「ぅわ,そっちの方が傷つきますよ」
「自分が好きでもない人間にそう言われたって,別に平気でしょうが」
「うーん,そりゃそうなんですけど,やっぱり嫌われたくないですし」
「んなの,全員から好かれるなんて土台無理な話なんだから。
 自分が好きでいる人から好きでいてもらえればそれでいいじゃない」
「そう簡単に割り切れないですよ」

僕たちは話しながらフロアに出てきた。
二台並んだエスカレーターのところに,吸い殻入れが立ててある。
下側がごみ箱で上が灰皿になっている,良くあるタイプのものだ。

京子さんは落下防止の手すりにもたれ,優雅に煙草を取り出すと火を点ける。

「あ,雨崎さん」
「ん?」

横を向いて,ふゎっと煙を吐き出しながら,視線だけこっちへ投げかける。

「何でそんなの喫ってるんですか」
「これ?」

彼女は,ポケットから箱を取り出した。
SEVENSTARS 。
おおよそ,女の人には似つかわしくないものではないか。

「SALEM じゃなかったですか」
「あら,光栄だわ,煙草の銘柄くらいは覚えていてくれたのね?」

さっきの一件のことで,ちくりと皮肉を交えながら彼女は笑う。

「雨崎さんのピッチで喫ってるとメンソールでも身体に悪いだろうなぁって
 思ってましたから」
「どんなもんでも煙草は身体に悪いのよ。
 SEVENSTARS はね,たまに無性に喫いたくなるの。
 すごく煙草らしい味がするから」
「そんなの判るんですか?」
「やぁね,あたしのことバカにしてる?
 煙草歴長いんだから」
「そんなこと自慢にも何もなりませんってー」
「味は違うわよ,一つずつね。
 小川くんは喫わないから判ん無いでしょうけど。
 どぉ?一本吸ってみる?」
「中学生が誘うみたいなことしないでくださいよ」
「ハタチ過ぎてるんだから構わないでしょうが」
「いいです,いいです」
「優等生ちゃん」

ふふっと,笑って,彼女は煙草を口にやり,ふぅっと煙を吐き出し,
くるりと背を向け,落下防止の手すりから下を見下ろしていた。

「なんていうかさ」
「はい?」
「下を見てると,吸い込まれそうになるわよね,ここって」
「ぶ,物騒なこと言わないで下さいよ」
「ばかね,別にあたしが飛び込むとはいってないじゃないの」
「判ってますよ,雨崎さんは,そゆの無縁でしょうから」
「無縁,か。そう見える?」
「見えますよ,自殺する人間からは対極に位置する人じゃないですか。
 雨崎さん,強いから」
「ふぅん」

横の吸い殻入れに,トントンと灰を落とし,こちらを見た。

「ねぇ,じゃぁさ,あたしが昔 自殺未遂した,なんてゆっちゃったら,
 青天の霹靂?」

にこりと笑いながら言うので,てっきり僕は,また彼女特有のブラックジョークだと思った。

「晴天の霹靂どころか,晴天の地球滅亡ってやつです」
「訳の分からない例えだなぁ,それ。
 んでは,京子さんが,地球滅亡級のお話をしてしんぜよう」
「え?」
「あたしね,学生の頃,一時期不倫ってやつをしてたのよ」
「不倫,って,あの,その,いわゆる不倫ですか?」
「小川くんさぁ,しっかりしなよぉ?不倫は不倫。
 それ以外に何もないでしょうが」
「そうなんですけど」
「若気の至りってやつよね。どっぷりはまり込んじゃって,でも程なく破局を迎えちゃったの。
 男ってのはさ,結局家庭が大事なんだよね」
「はぁ」
「つまりは,家庭っていう平穏な日常を壊してまで,
 愛人に入れ込む人間もそうそういないってこと。
 でも刺激的な火遊びはしたいってね。
 ったく。困ったものよ,男って」
「はぁ」

その「困った存在」だという男である僕は,ただ「はぁ」と答えるしか無かった。

「なんだったんだろうね,あれは。
 自分でもよく判らないんだけど,本当に世界中の不幸を背負ったような気持ちになったのよ。
 苦しくて悲しくて,眠れなくて,食欲もなくなっちゃって。
 こんなに辛いなら,もう死のうって思ったの」
「雨崎さんが,ですか?」
「だから,あたしの話をしてるんでしょ?あたしの話をしてるのに他の誰が死のうと思うわけ?」
「ですよね…」

いつも元気で,殴られたら100倍にして返しそうな雨崎さんが,
失恋ぐらいで,死のうと思うなんてことは,にわかに信じられなかった。

彼女の口から「なぁんてね」という言葉がいつ飛び出すかと思っていたが,
一向に飛び出す気配はなく,淡々と物語は進んでいくようだった。

「それで,その頃あまりにも不眠が続いたから,医者で睡眠薬をもらってたのね」
「はぁ」
「よし,これで死のうって思って,でも,ほら,よく小説やドラマで,
 睡眠薬を飲んで死ぬシーンって一瓶飲み干してって感じでしょ」
「ですよね。手元に瓶が転がってるっていう映像が思い浮かびます」
「そそ。だけど,だいたい自分がもらってる睡眠薬の致死量なんかも判らないわけで,
 お医者さんに訊くわけにもいかないじゃない?
 この薬の致死量どれくらいですか,なんてね」
「確かに」
「だから,とりあえず,一瓶くらいは溜めたらいけるかなって思ったわけ」
「冷静じゃないですか,それ」
「うーん,冷静とはまた違うんだな。あれは,一種の狂気だった気がする。
 どうやったら,死ねるかってすごく冷静に判断している狂気ね」
「それで?」
「お医者さんからもらった睡眠薬を,まったく飲まずに一瓶分溜めることにしたんだ。
 市販の風邪薬の錠剤を取り出してさ,その瓶にもらった薬を入れていったの。
 医者に行く度もらってくるじゃない?
 それを瓶に一粒ずつ入れていくのって,なんていったらいいのかなぁ,
 そう,子供がさ,自分の貯金箱に,お金を貯めていくのと似てるわよね。
 この貯金箱がいっぱいになったら,好きなものを買うんだって,
 そゆワクワク感あるでしょう? あれと,同じなの。
 ここに一瓶薬が溜まったら,あたしは死ねるんだって。
 そんな風に毎日毎日,早く溜まりますように,って願いながら生きてた。
 今思うと,とんでもない精神状態だったのよね。
 そうやってね,ある日ようやく,瓶の口の所まで溜まったのよ」

僕は相づちを打つのも忘れて,やっぱりどこかで「なぁんてね,嘘,驚いた?」
という言葉が出て来るのを待っていた。

「それで,いよいよ決行ってことなんだけど,いつにしようかなって思ったのね。
 どう考えてもさ,娘が死んだら親に迷惑かかるじゃない。
 最低限,迷惑がかからないように,日付は選ぶべきかなぁとかね。思った。
 ちょうど薬が溜まったのが11月頃だったかな。
 でもさ,年内に身内から死者が出たっていうと,お正月困るわよね?」
「あ,まぁ,そうですよね,年賀状のこととかあるし」

なんだか,ボケた返答になってしまったが,京子さんは笑って頷いた。

「そうなの,年賀状が破棄になるのは悪いなとか思うと,年内は辞めた方がいいなと。
 でも,お正月早々ってのも,縁起悪いわよね」

いつ死なれても,縁起は良くないような気はしたが,ツッコむのはやめにした。

「じゃぁ,いつがいいかなと思って,結局4/1にすることにした」
「なんでです?」
「春の方がお葬式もいいかなぁとか,あと,自分が死んだ日って,
 自分自身の命日になるわけでしょ。覚えてもらいやすい日付がいいかなって。
 4/1って覚えやすいじゃない。なんたってエイプリルフールよ。
 " 京子さんが自殺したらしい " って4/1に聞いても,エイプリルフールなんじゃないの?
 ってみんな思うでしょ。でもホントだった,っていうのはインパクトあるかなって。
 なんだかバカなこと考えてたんだけどさ」
「はぁ,判りましたよ,結局そうやって考えているうちに,
 ばかばかしくなっちゃって,決行するの,やめた,ってそういうオチですか」
「んーん」
「え?」
「あたしは,ちゃんと4/1に決行した」
「まさか」
「ふふっ,あたしはね,やると決めたらやる人間なの。
 だから,ちゃんと決行しました」

ぞくり,とした。
フロアには僕たちの姿しか無く,どこのテナントも扉を閉じていた。
消し損ねたのか,灰皿から微かに煙が立ち上っている。
まさか,目の前の京子さんが,幽霊,なんてことは…。

「何考えてんのよ,あたしのこと,幽霊だとか思ってない?
 非現実的ねぇ,小川くんは。ほら,ちゃんと足あるでしょうに」

僕の考えている事が判ったのか,京子さんは笑いながら,
短いスカートを少したぐって,すいっと足を差し出した。

「見,見えますっっ」

僕は慌ててそっぽを向いた。

「あーら,小川くん,純情〜」

くすくすと笑い,彼女は新しい煙草を取り出し,火を点けた。

「驚かさないでくださいよぅ」
「別に驚かしてなんてないわよ,あたしは,確かに決行した,とは言ったけど,
 死にましたって言った訳じゃないんだから,あたしが幽霊なわけないでしょうが」
「そ,そですよね」
「人間の身体ってね,不思議なものよ。
 心が死を欲していてもね,身体は生きようってするの。
 一瓶の半分ぐらい錠剤飲んで,でも途中で薬,吐いちゃった。もの凄い苦しさだったよ。
 死にたくないって,身体の叫びだったんだね,きっとさ。
 涙と嘔吐でボロボロになってさ。ああ,バカなコトしたって思った。
 まぁ,正直言って,あん時の自分は どん底。誰にも見せたくない姿だった。
 苦しんで苦しんで,気がついたらさ,もう彼のことも吹っ切れてたの。
 あたし,今だから言えるけど,自分自身に負けなくて良かったと思ってる。
 自分の手で死を選んでしまったら,たぶん,自分に負けたってことなんだよね。
 あれから,思ってるんだ。あたしは,どんなことがあっても,
 自分自身にだけは負けないでおこうってね。
 一度死にかけて,でも死の淵から這い上がった人間は強いよ。どん底を知ってるからね。
 だから,あたしは…」

そこで京子さんの言葉は途切れ,彼女は黙って また吹き抜けの所から階下を見下ろした。

ここから以前,美也子さんが飛び降りようとしたことがあると,耳にしていた僕は,
京子さんが今何を思っているのかが判るような気がした。

「…美也子さんも,きっと大丈夫だって,── そう思うんですね?」

それには,京子さんは答えなかった。
だけど,きっとそうなのだろうと,僕は思った。

恵さんが言っていた,
「裏切られた人間の気持ちは裏切られたことのある人間にしか判らない」
という言葉がふと頭をよぎる。
京子さんの苦しみは,京子さんにしかきっと判らないのだろう。
美也子さんの苦しみも。
そうやって人は自分の苦しみを人知れず抱き続けるのかもしれない。

「あとでね,ちょっとだけ お医者さんに聞いてみたんだけど,
 あたしがもらってた睡眠薬,一瓶あっても致死量には足りなかったみたい。
 お笑いよね。それに,やっぱり途中で吐いてしまう事例が多いらしい。
 そういう死に方をしようとしても 身体が拒否しちゃうんだね。
 人間は強いよ。うん」

彼女はそんな風に話をまとめ,にこりと笑った。
京子さんのこの笑顔。
普段の,自信のあるそぶり。
何もかもが,過去にそんなことがあったことを微塵も感じさせなかった。
僕がこうしてみている京子さんは,僕が心の中でこうあって欲しいと願う
「幻想」なのだろうか。

そして,恵さんにもそれを押しつけようとしているのだろうか。

僕が言葉を発しなくなったからか,京子さんが慌てて明るい声を出す。

「ちょっとちょっと,やだ,暗くならないでよ。
 バカなことした過去があるっていう,そういう話だけなんだからさ。
 深刻になられちゃ困るってば」
「あ,はい。そですね」
「それより,話したいことがあったのはさ,別のことで」
「話したいこと?俺に,ですか?」
「小川くん以外に誰が居るのよ」
「居ませんね,はい。で,なんですか?」
「噂になってるの,知ってる?」
「誰が,ですか?」
「小川くん,が」
「何の噂ですか?」

全然思い当たる節が無かったので,そう返すしか無かった。

「小川くんが恵さんに入れ込んでる,って」
「えええええええええっっ」
「ちょっと,大声出さないでよ」
「す,すみません,唐突に何ですか,それは」
「いや,言葉通り『小川くんが恵さんに入れ込んでる』って噂が流れてるってこと」
「どっから」
「さぁ。で,まぁ,そこには,『でも全く相手にされてないらしい』ってのが
 続くんだけどね」
「…」
「あたしはさ,別に干渉するつもりは毛頭無いわけで」
「当たり前ですよ,誰にも干渉なんてされたくないです」
「小川くん…」
「みんな恵さんを誤解してるんだ。だから,そんな風に言うんだろうけど」
「小川くん,好きなんだ?恵さんのこと」
「…」
「あ,ごめんね,あたしがそんなこと訊く権利ないね。
 好きでも何でもいいんだけど,ただ…」
「ただ?」
「小川くんが,傷つかなければいいなって思っただけ。
 恵さんには,たぶん,恵さんなりの事情があって,
 あんな風な態度になってるんだろうと それは,判るつもり。
 判るっていうのは,だからそういう生き方を認めてるとは,同義じゃないけれどね。
 何かが彼女をそうさせてはいるんだろうけれど,
 小川くんが,それに傷つくことがなければいいなって,そう思う」
「それは,俺の勝手っていうか,何かあっても自業自得だから」
「うん。それはね。そうだけど。だけど…」
「…」
「…ごめん。余計なことだったね。忘れて忘れて。
 さ,もどろっか」
「別に‥」
「え?」
「別に,俺,恵さんのこと何とも思ってませんから大丈夫です」

精一杯,虚勢を張って,僕はそう言った。

「小川くん…」

「それに,彼女だって俺のことなんて何とも思って…」

言葉の途中で,京子さんの視線が僕の後の空間をとらえていることに気づいた。
彼女の視線にそって後を向いた瞬間,僕は世界がぐらりと傾いたような気がした。
そこには恵さんが居たのだ。

「恵さ‥」
「ちょうど良かったわ,この間借りた傘返したくて」
「いつからそこに」
「小川くんが私のこと何とも思ってませんっていう少し前あたりかな」
「恵さん」
「聞き耳立ててた訳じゃないわ,たまたま小川くんの声がしたから,
 階段を普通に上がってきたの。
 あなた達が それに気づかなかったのは,あたしの所為じゃないでしょう?」

恵さんは,つっと傘を差し出すと,京子さんと僕を見据えこういった

「はっきり言っておくけれど,あたしも小川くんには全く興味がないの。
 つきまとわれて迷惑だから。もう,話しかけないで」

そう言い放つと階段へと向かっていった。

「待ちなさいよ!」

そう声を発したのは京子さんで,僕はただ,恵さんが放った言葉に心を射抜かれて身動きが取れなかった。

ツキマトワレテ メイワクダカラ モウ ハナシカケナイデ ──

メイワクダカラ ──

メイワクダカラ ────

to be continued ...