side_story-35 (Miyako.S) 

「さて,これで OK かな」
私は数ヶ所の校正をもう一度確認したのち,トントンと原稿をまとめた。
FAX 機が誰にも使われていないのを確かめ,用紙の束を持って移動する。
原稿をセットし,電話番号をプッシュした。
程なく吸い込まれていく用紙の音を聞きながら,壁に掲げられた "みんなの予定表" を見る。
"みんなの予定表" は,その名の通り,みんなの予定が書かれたボードで,
本人が居ないときにも,この予定表を見れば全員の大きな予定が判るようになっている。
その日の細かい行動に関しては,出入り口にある「予定表」ボードを見れば良い。
私たちは,全員が あちこち動く様な仕事であったので,
かかってきた電話の応対などがスムーズにいくようにという配慮からうまれたものだった。

この "みんなの予定表" は 本来なら,仕事の予定だけを書くものだけれども,
何故か「デート♪」などという個人的な予定まで書いてあって可笑しい。
どうして こんなの書いてるんですかという問いに対して,
「デートと書いてない日は,デートに誘ってくれてOKってことで」と
冗談だか本気だか判らないリアクションが返ってくる人が居たりして,
とにかく公私ともに (?) 役立つ "みんなの予定表" だった。

年末までびっしり埋まった仕事の予定。
数日おきにマークされている丸で囲まれた「B」の文字。
なんのことはない,この丸で囲まれた「B」は「忘年会」のことなのだ。
対外的な仕事が多い私たちは,何かと他社の忘年会に呼ばれることが多い。
つきあいによっては,一日に2ヶ所の忘年会に顔を出したりと年末は なかなかハードだ。
とにかく,我が社の社員は「日本全国酒飲み音頭」のごとく,
何かと理由を付けては呑み会を開くのが好きな面々であり,
また,本気でアルコールに強い人間ばかりだったので,忘年会のお声がかかれば,
即「B」マークが付けられていた。
社内に酒癖の悪い人が一人も居なかったことは,幸いだったと思う。

「また『B』増えてますね」

ぼんやりと予定表を見ていたので,雅也が傍に来たことに気づかなかった。

「あ,うん。そうだね。ここの週すごいよ。月曜以外,全部『B』入ってる」
「ったく,これ増やしてるの長沢じゃないんですかー。
 営業で仕事取ってくるついでに,忘年会の予定まで取ってきてるような感じですよ」
「あはは,ほんとだね。長沢くん,好きだからなぁ,呑み会」
「また,長沢,酒強ぇーんで まいりますよ」
「何言ってるのよ,うちで一番強いの滝川くんでしょう?」
「僕も呑めと言われたら呑みますけど,長沢は言われなくても呑みますから」
「ふふっ」
「あ,FAX 送信終わってますよ。次,いいですか」
「ごめんごめん,いいよ」

私は落ちた原稿を 慌てて拾い集める。
FAX 機を台の上に置いてあるのだが,設置スペースの関係上 手前ギリギリに置かれているため
送信済みの用紙が排紙された後 床に落ちてしまうのが難点だった。

雅也は手にしていた自分の原稿をセットし,短縮を押して送信ボタンを押す。

「これ置き場所,なんとかならないんですかねー」
「ほんとだよね。あ,ほら,昔この下に箱を置いて 落ちてくる用紙を受けようってしたことあったじゃない」
「でも,百発百中じゃなかったから,結局誰も使わなくなって…」
「高さ的に,どこに落ちるかわかんないよね。相手は紙だし」
「前に,僕 掃除の人が入る前に朝一でここに来たことあるんですよ」
「うん」
「そんとき前日に,野田さんが大量に FAX 送信セットしてそのまま帰ったみたいで。
 床に用紙がだーっとちらばってて驚きましたよ。
 一瞬,泥棒でも入ったんじゃないかって思うような光景でした」
「ゎは。なんか目に浮かぶー」
「たまに落ちてる用紙,踏んでしまったりするし」
「そーなのっ。足跡ついてたりしてー」

二人で,吹き出してしまう。

その間も,ぺらん,ぺらんっと,送信済みの原稿が床に落ちていった。
雅也が一枚一枚拾いながら,話を続ける。

「美也子さん,明日午前中 半休取らせてください」

"みんなの予定表" に目を走らせると,今日大きな一段落が着いたので,
雅也も私も,明日は仕事の予定が特にない一日だった。

「半休と言わず,休みにしてもいいわよ。
 ここんところ,休み ずっと つぶしてたから」
「美也子さんは,どうするんですか?」
「んー,どうしようかな。私も予定は特にないから,休みにしてもいいんだけど」
「じゃ,僕 午前中 お袋の見舞い行って来るんで,午後からどっか行きませんか?」
「お見舞いなら,私も行くわ」
「あ,いいですよ,わざわざ」
「んーん。一度行こうと思ってたの。だから,一緒に連れてって」
「ありがとうございます。お袋喜ぶと思いますよ」
「それじゃ,出るときに,うちに電話してくれる?」
「判りました,たぶん,10時半くらいだと思います」
「うん。用意して待っとく」

私は,"みんなの予定表" の「滝川」「笹野」のところに「休み」と書いた。

            * * *

翌日,雅也は時間通りに電話をくれた。
途中で お花屋さんに寄ってから,私たちは病院へ向かう。
着いた先は大学病院で,まるで巨大な迷宮のように広く,いろいろな科があった。
新館に病室があるらしく,通い慣れた雰囲気で 雅也は「こっちです」と私を案内する。
軽い怪我から重い病気まで,ありとあらゆる人がひしめき合う病院。
何度か入院をしている私は,やっぱり病院という場所は好きになれない。

「ここです」
そう言ってコンコンとノックし 扉を開ける雅也のあとについて私も入る。

雅也のお母さんは,読んでいた本から顔を上げ,
「あらあら まぁ,まぁ」」と言った。

「よ,母さん,調子はどぉ?」
「良いわよ」
「あ,俺の上司,笹野美也子さん,一緒に来てくれたんだ」
「こんにちは,笹野です。これ,ささやかですけど」

私は手にしていたアレンジメントを窓ぎわにそっと置いた。

「まぁ,わざわざ足を運んでいただいて有り難うございます。
 いつも息子がお世話になっておりまして」

ぺこっと笑って頭を下げる雅也のお母さん。
笑顔が,雅也に似ているような気がした。

「そんなことないです。私の方が助けられてますから」

そう。
仕事だけでなく,私事も。
私はいつも雅也に助けられている。

「たまにうちに帰ってくるとね,息子の口から美也子さんの話が良く出るんですよ」
「母さん!」

雅也が慌てて静止しようとする。

「あら,いやね,この子ったら照れて」
「母さん,やめてくれよー。あ,美也子さん,気にしないで下さいね」
「ほらほら,雅也,美也子さんに飲み物でも買ってきたら?
 気が利かない子ねぇ」
「あ,お気遣い無く」
「いーえぇ,ゆっくり,とは言えませんけど,話し相手になってくださいましな。
 主人と息子が 代わり交代に お見舞いに来てくれるんですけれど,
 やはり男性はねぇ,話し相手ってのには向いてないんですよぅ」

お母さんは,コロコロと笑った。

「そんなこと言ってたら,見舞いに来てやんないぞー」

雅也が,ぷっと むくれる。
やっぱり,こういう顔は,親にしか見せない顔なのだろうなと思う。
いつもの雅也より,少し子供っぽい雅也が,新鮮に見えた。

「出て突き当たりに自動販売機があるから,何か買ってらっしゃい。
 頂き物のカステラもあるし」
「はいはい,じゃ,美也子さん,ちょっと行って来ますね」
「ごめんね」
「母さんは?何か要る?ってまだ止められてるんだっけ?」
「えぇ,私はいいから,美也子さんと自分の分をね」
「りょーかい」

そういうと,雅也は出ていった。

「美也子さん,とお呼びしてもいいわよね。
 なんだか,あの子の口からしょっちゅう美也子さんの名前が出て来るんで,
 他人のような気がしないんですよ」
「そうなんですか。やだなぁ,出来の悪い上司なんだとかって,
 言ってません?」

私は笑って言った。

「いえいえ,良く出来た人だと,いつも誉めてますよ。
 美也子さんの部下で良かったと。
 あの子,憧れてるんでしょうね,美也子さんに」

ストレートに言われて,私は一瞬返す言葉を失う。

「そ,う,ですか?部下に好かれて良かったです」
「美也子さん…」
「はい?」
「母親の私がいうのもなんですけれど,昔から あの子は,
 誰かに対しての好き嫌いっていうのが,はっきり表に出る子だったんです。
 だから,あの子の口振りから,あなたに上司以上の感情を持っているのがよく判ります」
「…」
「ごめんなさいね,こんなこと,いきなり言われて困られるとは思うんですけど。
 あの子,人に気持ちを伝えるのが下手だから…」

話が終わらないうちに,ノックが聞こえ雅也が戻って来た。

「温かい紅茶売り切れだった。ココアで良かった?」
「あ,うん。ありがとね」
「雅也,そこにカステラあるから,切って差し上げて」
「ああ,私がやります」
「それくら俺 出来るって」
「いいよいいよ,私がするから」
「じゃぁ,お願いします」

「あなたたち お似合いよね」

ごほっごほっと雅也がむせる。

「母さんっ」
「女の子っていいわよね。母さん,娘が欲しかったわぁ」
「悪かったなぁ,俺が男でー」
「美也子さん,うちの子のお嫁さんになってくれないかしら」
「母さんっっっ」

雅也のそれは叫びに近かった。

「ゃぁね,この子ったら,何 本気にしてるのかしら。
 ねぇ?美也子さん」

ニコニコと笑いかけられて,私も「はぁ」と答えるしか無かった。

「ったくぅ,母さん それだけ無駄口叩けるんなら,
 早く退院してこいよなぁ。父さん,仕事困ってるぞー」

雅也の実家は酒屋で,夫婦二人で切り盛りしていたのだ。

「仕事というより,あの人,家のこと出来てるのかしらね。
 お米のある場所も知らなかったような人だから」
「こないだ,俺が帰ったとき,醤油を切らしててさ,
 買い置きの場所が判らないからってんで,店の売り物の醤油とってきてた」
「いやぁねぇ,買い置きは,ガスコンロの下の左側の奥にあるって,
 この間ゆったばかりなのに」
「紙に書いて渡してやらなきゃ駄目だろうなぁ」
「こんど帰ったら言っておいてちょうだいね」
「はいはい」
「母さん,心配で,ゆっくり休養もできやしないわ」
「父さんはさぁ,母さんが居ないと駄目なんだよ」
「そうねぇ,ほんと」

二人のやりとりを聞きながら,あの日雅也に聞かされた「事実」が頭をよぎる。

「おふくろ,癌…だって。あと,1 年保てばいい方だって…」
こんなに,明るく,主人と息子を想う人の余命が,あと幾ばくもないなどと,
誰がにわかに信じることが出来ようか。
医者も間違うことがある。
そうだ。
たぶん,間違いなのだ。

「あら,ごめんなさいね,私たちばかり話こんじゃって」
「いいぇ,滝川君のいつもと違ったところが見れて楽しいですから」
「美也子さん,それ,どういうことだよー」
「言葉通りだよぉ」
「仕事ちゃんとしてますか,この子。
 〆切間際に慌ててませんか?」
「してるってー」
「いつも夏休みの宿題,31日に泣きながらやってたの誰でしたっけ」
「母さん,それ,いつの頃のことだよー」
「ふふっ,大丈夫ですよ,お母さん。
 〆切はちゃんと守られてます」
「ほらみろよー」
「たまに,締め切り日間違ったりしますけど」
「ぅわー,美也子さん〜」
「ほらごらんなさい,あなたは昔っから,そういうところあったんだから」
「勘弁してくれよー。母さんと美也子さん,二人して…」

ふふふっと,顔を見合わせて笑う。

「っと,じゃ,そろそろ,俺ら帰るわ」
「何よ,もう少しゆっくりしていってもいいのに」
「母さんも もうすぐ昼飯なんじゃないの?
 また来るよ。あ,父さんに何か伝えることある?」
「仕事,無理しないように言っといてちょうだいね」
「ん,判った。じゃ,美也子さん,行こうか」
「じゃ,お大事になさってくださいね」
「有り難うございます。よろしかったら また来てくださいね」
「二人して俺のこといじめるから,もう美也子さん連れてこないぞー」
「あ,じゃぁ,私ひとりで来ちゃおうかな」
「美也子さん〜」
「冗談よ。じゃ,おいとましますね」
「じゃぁな,母さん,また」

雅也が扉を開ける,そのあとから私もついて出ようとした。

「美也子さん…」

呼び止められて,私は振り向く。
視線が合う。
その瞬間の真剣な表情を私は確かに受け止めた。

「息子を…お願いしますね」

しかし雅也が振り返った瞬間,
その目は緩み,にこりと笑って

「この子,おっちょこちょいですから」

とつけたされた。

「判りました,任せて下さい」

胸をどんと叩くフリをして,私も笑って言った。

「母さんも,美也子さんも,俺のこと子供扱いしてー」

雅也はまた,ぷっとむくれる。
本当に,いつもと違う一面が見れて楽しかった。


車に乗り込んだ私たちは,とりあえず昼食時なのでどこかに入ろうということになった。

「お元気そうで良かったね」
「うん」
「退院の目処は?」
「たぶん,出来ないですよ」
「え?」
「言ったじゃないですか。一年保てばいい方だって」
「…」
「信じたくないですけど,あんなに元気なお袋なのに,
 体の中は確実に蝕まれていってるんですよ。
 そればかりは,動かしようのない事実なんです」
「ご存じ,ない,んだよね?」
「本人には,告知してませんから。
 言えません。
 僕の口からも,親父の口からも,どうしても言えなかった」


ふと帰り際の,彼女の表情と言葉がフラッシュバックする。
「息子を…お願いしますね」
もしかして,気づいているのではないか?
そんな風に思えてならなかった。
to be continued ...