side_story-37 (Saeko.M) 

「お先に失礼します」
私は,周りにそういうとタイムカードを押してから,
戸口の傘立てから傘を一本取り出した。

「お疲れ。お?恵さん,それ男物の傘?やるねぇ」

営業から帰ってきた社員がすれ違いざま そう言う。
私はその言葉を無視し,戸口から出た。

確かに私は男物の傘を手にしていた。
小川修平―― 彼に無理矢理手渡されたものだ。
あの雨の日。

            * * *

「恵さーん,今帰り?」
ビルのエントランスのところで,私が空を眺めている時に声をかけきたのは小川くんだった。
同じビルの フロア違いで仕事をする私たちは,幾度かここで出くわしていたが,
私が無視しても,彼は取り立てて気分を害するでもなく,話しかけてくれる。


さっきから急に降りだした雨に,私はどうしようかと考えていた。

「降ってきたね,雨」
「そうね,天気予報では降らないっていってたのに。
 それじゃぁ」

傘は無かったけれど,駅まで走る事にして,私はそう言って外へ駆けだした。

「恵さん !? ちょっと傘はっ」

ぱしゃぱしゃと,水を跳ねながら走る。
大降りでなくて良かった。
洋服は,クリーニングに出さないといけないかな。

「恵さんっ」

小川くんが私のところに追いついてくる

「なぁに?」
「傘,持ってないんでしょう?これ使ってよ」

そういうと,小川くんは自分の傘を差しだした。

「要らない」

私は,つぃと傘を押し返す。
彼は また傘を差し出す。

「俺,会社に傘,もう一本あるから」
「…」

小川くんは,私の左手を掴むと,傘を持たせた。

「じゃ」
「この傘は…」
「またいつか,返してもらう」

そういうと,ぱしゃぱしゃと水を跳ね上げ,元来たエントランスへと走っていった。

「要らないっていってるのに…」

私は,少しため息をつく。
こんな風な親切の押し売りは ごめんだと思った。
男性が優しいときは,たいてい下心か やましいことがあるかなのだ。
小川くんが,私に やましいことなど無いだろう。
だとしたら,下心?―― ばかな。

私は傘をさして歩き出す。
あの人は,ただ単に誰にでも優しいだけなのだろう。
無類のお節介で,お人好しで。
私みたいにひねくれた人間を放っておけない,それだけのことなのだろう。

誰かに期待することなんて,とうの昔に諦めたじゃないか。
誰かを信じて裏切られることも。

            * * *

私はちらりと時計を見遣る。
この時間ならまだ彼は仕事をしているだろう。
傘だけ手渡したら帰ればいい。

吹き抜けになっているエスカレーター前まで行くと,
突然頭上から「えええええええええっっ」っという声が聞こえてきた。
あの声は,小川くんだ。
それきり声は聞こえなくなったけれど,どうやら すぐ上で誰かと話をしているらしい。
ちょうど良かった,呼び出す手間が省けた。
けれど,エスカレーターを上がっていけば,話を中断させることになるかもしれない。
階段はちょうど反対側にあるので,話が終わりそうな頃合いを見計らって出ていけばいいだろう。
―― そう思って私は階段を使って上がる。

小川くんの後ろ姿が見えた。
その向こうにいるのは,雨崎さんだ。
ちょうど太い柱があり,階段から上がってきた私は,二人の死角になったようだ。

「それは,俺の勝手っていうか,何かあっても自業自得だから」

小川くんがそう言っている。

「うん。それはね。そうだけど。だけど…」

雨崎さんが,そう答える。

「…」

小川くんが沈黙で返す。

声の調子から察するに,あまり良い内容ではないようだ。
そこで,私は帰れば良かったのだ。
なのに,私は何故かその場を立ち去ることが出来なかった。
二人の会話は尚も続く。

「…ごめん。余計なことだったね。忘れて忘れて。
 さ,もどろっか」
「別に‥」
「え?」
「別に,俺,恵さんのこと何とも思ってませんから大丈夫です」

―― 恵さん?
―― って私?
―― どうして私の名前が出るの?

何とも思ってません。
何とも思ってません。
何とも思ってません。

オレ,メグミサンノコト ナントモ オモッテマセンカラ?

自分の胸の中に,コトリと言葉が落ちてくるまで時間がかかった。

「小川くん…」

そう言った雨崎さんが私に気づく。
死角になっているはずの柱から,私は足を踏み出していたのだった。
彼女の目は私を捉えているが,私に背を向ける形で立っている小川くんには
私の姿は見えないだろう。

「それに,彼女だって俺のことなんて何とも思って…」

そこまで言ったとき,雨崎さんの様子に気づき,
彼女の視線上にあるものを確かめるべく,小川くんが振り向いた。

「恵さ‥」

ドラマの途中で,予想だにしていなかった犯人が現れたような,
そんな風な驚きようだった。

「ちょうど良かったわ,この間借りた傘返したくて」
「いつからそこに」
「小川くんが私のこと何とも思ってませんっていう少し前あたりかな」
「恵さん」
「聞き耳立ててた訳じゃないわ,たまたま小川くんの声がしたから,
 階段を普通に上がってきたの。
 あなた達が それに気づかなかったのは,あたしの所為じゃないでしょう?」

私は,借りた傘を小川くんに差し出し,二人を見据えた。
そして,深く息を吸い込み,ゆっくり こういった。

「はっきり言っておくけれど,あたしも小川くんには全く興味がないの。
 つきまとわれて迷惑だから。もう,話しかけないで」

そう。
そうなのだ。
迷惑なのだ。
親切も,何もかも。

優しくされたら,期待してしまうじゃないか。
期待しても,必ず裏切られるのであれば優しくなんてされたくない。

そう,だから。
興味の無い人間にも傘を貸すことが出来る,―― 小川くんは それほどのお人好しである,
ただ,それだけのことなのだ。

私は,その場から逃げ出したくなった。
その場に居れば何かそれ以上のことを言ってしまいそうだったのだ。
だけど,逃げ出すことはイコール負けを認めることだ。
―― ナニニ マケルノ?
―― ダレニ マケルノ?

私は努めて冷静に階段へと向かう。

「待ちなさいよ!」

そう声を発したのは雨崎さんだった。
待てと言われて待つ泥棒は居ない。
私は泥棒ではないけれども,待てと言われてそれに従う義務もなかった。

「待ちなさいって」

雨崎さんが,私の右腕を掴む。
相変わらず,口も手も出る人間だ。

「離して下さい」
「話を聞きなさいよ」
「どうして私が聞く必要があるんですか?」
「人の話を盗み聞きして勝手に誤解して帰られると厄介だから」
「盗み聞き?誤解?」

私は可笑しくなった。
何を言い出すんだろう,この人は。

「盗み聞きという言い方が悪ければ,隠れて人の話を聞いていた,でもいいけれど?」

あくまで挑戦的にものを言う。

「バカバカしい話に付き合ってられませんので さようなら」

私はくるりと背を向け,階段に一歩を踏み出す。

「怖いんでしょう?」

背中から雨崎さんの声が追う。

「怖い?」

私は,立ち止まり,振り返る。
階段を数段降りた私からは,雨崎さんは見上げなければならない位置になり,
心理的に圧迫を感じるような気がした。

「怖いんでしょう?」

雨崎さんは,私を見下ろし ゆっくりともう一度そう言った。

「えぇ,怖いですよ。雨崎さん,あなたがね,あたしは怖いですよ。
 またいつぞやのように殴られるかもしれないと思うと,
 怖くて怖くて逃げ出したくなります」

わたしは,にこりと笑みを返し,そう言う。

「殴られても,身体の傷なんてすぐに治るわよね?
 心の傷はそうじゃないから厄介でしょう」

挑発的に,雨崎さんはものを言う。
挑発に乗ってはいけない。
そう思いながらも,私は押さえることが出来なかった。

「誰が言ったんです?小川くんですか」

私はそう返す。

「あら,ものの例えなのだけど。
 それとも,何か思い当たることがあって?」

にこり と雨崎さんは微笑む。

それをみて,綺麗だ,と 唐突に思う。
少し切れ長の,一重の目。すらりと整った鼻すじ。毒を吐く蠱惑的な唇。
欲しいものは必ず手に入れてきた,そんな人間なのだろう。
自信のある素振りが,表情を豊かにさせる。

射るような視線に思わず目を背けてしまう。
その先に,傘を持ち,ぼんやりと立っている小川くんの姿を見止める。
二人の会話は聞こえているに違いない。
けれどまるで電池の切れたロボットのようだった。

「小川くんは,何も言ってないわよ」

雨崎さんがそう付け足す。

「別に彼があなたたちに何を言おうと構いませんから」
「恵さんの態度を見ていれば,小川くんから何も聞かなくとも判るわよ」
「だから,何をですか?」
「傷つけられて人間不信に陥ってるんだろうなってことくらいね」

さすがだ。
彼女は直球ド真ん中だ。
私は頭に血が上るのを感じる。

「判ったような,こと,言わないで下さい」
「『私は傷ついてるんです。だから他人を信用なんて出来ないんです』って
 顔に書いて有るものね」
「…」
「さそがし辛い目にあってきたんでしょうね?」
「…」

じりじりと追いつめられる気がした。
この女,雌豹だ。

「小川くんみたいにバカ正直でお人好しな人間まで信じられないくらい,
 恵さんの心って病んでるのよね?」
「アンタなんかに何が判るもんですかっ」

私は叫んだ。

「あたしの気持ちが,あなた達みたいに日だまりを歩いてきた人間に
 判るはずがないでしょう !?」
「日だまり?誰が日だまりを歩いてきたですって?」

押し殺したような声で,雨崎さんは睨み付ける。
負けるもんか。

「あなたの言うとおり,あたしは信じてた人にことごとく裏切られた。
 他人なんて所詮他人よ。信じられるのは自分だけよ。
 あたしは一人で生きていける。生半可な同情も友情も愛情もまっぴらよ!」
「そうやって被害者面してて楽しい?」
「被害者面ですって !?」
「そうでしょ?恵さん,自分が全人類の不幸を背負い込んだと思ってるんでしょ?
 私以外に不幸な人間なんて居ないと思ってるんでしょ?
 これだけ傷つけられたんだから,人間不信に陥る権利があるとでもおもってるのよね?」
「…」

心に彼女の言葉がギリギリと喰いこんでゆく。

「バカバカしい」
「バカバカしい…?」
「えぇ,ほんと,まぁせいぜいそうやって生きていけば?
 一人で生きていけるのよね?だったら構わない。
 だから小川くんを巻き込まないでよ」
「何を言ってるのよ。私は小川くんを巻き込んだりしてないわ。
 向こうが勝手にあたしのテリトリーに入って来てるだけでしょ」
「不幸よね…」
「そうよ,あなた達みたいに,人に恵まれた幸せな人生は歩めなかったのよ!」
「違うわよ。あたしが恵さんを不幸だと思うのは,人から裏切られたからじゃない。
 自分で自分の心に壁を作ってることに気づいてないことが不幸だって思うの」
「壁?」
「恵さん自身が,自分以外を壁の外に放りだしてるのに気づいてないから。
 だから不幸だって言ったの。
 そういう不幸な人間に,小川くんを引きずり込まないで欲しいのよ」
「ふっ」

私は笑った。

「何が可笑しいの?」

雨崎さんが問いかける。

「美しい友情だなぁって,思ったのよ。
 笹野さんも,滝川君も,雨崎さんも,小川くんも,幸せよね。
 そうやって,友情ごっこをいつまでも続けてられるなら幸せよね」
「なんですって !?」

今まで冷静に見えた彼女が少し取り乱す。

「裏切られたことがない素晴らしい人生,そして美しい友情。
 生きる世界が違うから,お互い関わるのは止しておきましょうよ」

私たちは,無言で睨み合う。

「恵さんは,美也子のこと,どう思ってるの?」

唐突に,話題が変わって驚く。

「どうって?」
「他人に裏切られたことのない幸せな人生を送ってるんだろうって思う?」
「そうね。彼女はいい人ばかりに囲まれて,裏切られたこともなくて。
 人を疑うことなんてしたこともないでしょうね」
「そんな風に見えるの?」
「見えるもなにもそうでしょう?日の当たる場所を歩き続けてきた,
 甘チャンにしか見えないけれど」
「そう」
「辛いことなんて何も無かったんでしょうね。順風満帆な人生。
 あたしもそうでありたかったわ」
「…恵さん,あなたは悲しい人間よ」
「悲しい?」
「人のことなんて,何も見えてない。自分だけしか見えてない。
 幸せに見える人は,幸せな人生を送ってきたとしか思えない,
 そんな風にしか考えられない,あなたは つまらない悲しい人間よ!」

―― 泣いていた。
雨崎さんは泣いていた。

何故だ?

散々私の傷口に塩を塗り込むような発言をしていたのは彼女では無かったか?
何故彼女の方が泣かなければならない?

「恵さん,あんた,最低の人間よ。
 最低ついでに教えてあげるわよ!
 美也子が裏切られたことが無いなんて思い違いも甚だしいわ。
 あたしが証明してあげるわよ。
 何故なら,あたしが裏切った張本人だからよ!」
「な…」
「あたしは自分の好きな人を手に入れるため,美也子を蹴落とそうとした人間よ。
 それでもあの子は あたしのこと責めたりしなかった。
 人間不信に陥ることも無かったわ」
「それは,どうせ その人が美也子さんのことが好きで ずっと支えてきたからでしょう?
 傷ついたのは,美也子さんでなく,雨崎さんじゃないの?」
「確かに彼は美也子の方が好きだったわ,そうよ,その時点で傷ついたのは あたしだった。
 だけどね,よく聞きなさいよ。
 美也子はね,彼にずっと支えてなんてもらえなかった!
 美也子は,彼を失ったのよ,永遠に失ったのよ。言ってること判る?
 あの子はね,一番大切な人を一番好きだったときに失ってしまったのよ。
 傷ついて傷ついてボロボロよ。
 判らなかったでしょう?日なたを生きてきたように思ってたんでしょう?
 順風満帆な人生を歩んでいる人間に見えてたのよね?
 天国から地獄に突き落とされた瞬間が,あなたには想像出来ないでしょう !?
 それでも,彼女は,あなたみたいに傷ついたことを理由に暗闇に閉じこもったりしなかったわ。
 バカみたいに,周りが心配するくらいに,あの子は明るく振る舞ってた。
 恵さん,あなたは甘えているだけよ!
 傷ついたから,人間不信に陥るパスポートを手に入れたような気になってるだけよ」

その時,小川くんが私たちの傍に来ていることに気づいた。

「京子さん,もう,やめようよ」
「小川くん。だって…」
「美也子さんの居ないところで,彼女の話をするのは いいもんじゃないし」
「そうだけど,あまりにも…」

私は頭から冷水をかけられたように,その場に固まっていた。
今聞いた話と,笹野さんのイメージが,どうしても私のなかで結びつかなかった。

「恵さん,ごめんね。その,今まで,俺は,そんなつもりじゃなかったけど,
 でも,つきまとうように思われてた,というか思わせるような行動とったこと,
 謝るよ」
「…」
「俺,さっきは,恵さんのこと何とも思ってないなんていったけど,
 ほんとは,気になってて…だから,その…」
「…」
「ごめん…」

小川くんはそういうと深々と頭を下げた。

「それと,恵さん,これだけは言っておきたい」
「な,なんですか」

私は少し怯んだ。

「俺,さ,恵さんのこと,可哀想だからって同情したから,声かけたとか,
 そんなんじゃないんだ。
 ただ,本当に,話をしたかったから,だから。
 それと,信じようが信じまいが構わないけれど,
 俺は恵さんと話したことに関しては誰にも言ってない。
 だから…なんだろう,上手く言えないけれど,
 その…,ああ,そう,俺言ったよね,覚えてないかもしれないけど,
 10枚引いたクジが立て続けにハズレってこともあると思うけど,
 11枚目を引く勇気を捨てないでくださいって。
 11枚目は,とびきりのアタリかもしれないからって,俺前に話した」

―― そう,そして電話のメモをくれたんだっけ。

「俺,恵さんの11枚目の当たりクジじゃなかったかもしれないけど…
 本当は,そうなりたいなって思ってたんだけど,いや,それは,まぁ,
 なんていうか,俺の勝手な思いこみってやつで…,でも,
 あの,さ,12枚目の当たりになる人が 現れたら,それ,引いてやってください
 恵さんに,きっと当たりが来ると思うから。俺,祈ってるから」

ぺこっと,また小川くんが頭を下げた。
私は何も言えなかった。

雨崎さんは,唇を噛みしめたまま,涙を拭っていた。
小川くんが,ごそごそとスーツのポケットからハンカチを差し出している。
その途端に,どこかのレシートやら,クリップやらがバラバラと散った。
不器用だな,この人は。
そう思った。
行動も,気持ちの伝え方も,不器用だ。
でも,精一杯,なのだな,と。

雨崎さんは,小川くんが差し出したハンカチで目を押さえ,
私は落ちたレシートとクリップを拾い,彼に無言で手渡す。

「傘,ありがとう」
「えっ」

小川くんが驚く。

「さっき,お礼を言い忘れたから」
「あ,あぁ,いや,いいんだ,俺が勝手に差し出したから‥」
「でも,助かったから。濡れなくて済んだから」
「…」
「ありがとう」
「う,うん」

私は二人をおいて階段を下りる。
一歩ずつ。
一歩ずつ。

12枚目のクジは,もう引かない。

そう,思った。


何故なら。
なぜなら。

私の手元に,11枚目のクジがあるからだ。
そのクジには,11桁の番号が書かれている。
家に帰ったら,電話をしてみよう。
11枚目のクジが,私には当たりだったと,そう言ってみよう。

驚く顔が目に浮かぶ。
そして彼は きっとこういうのだろう。

「おめでとう,賞品は『おめでたい人 一名』です」―― と。

to be continued ...