side_story-4 (Kazuhiko.N) |
美也子ちゃんの口から住所を聞いたとき、
軽いめまいがするほどだった。
何が彼女をそこまで追いつめたのか。
どうしてそこまでする必要があったのか。
訪れた沈黙の気まずさをカバーするように、
彼女はにこりと笑って
「珈琲飲んでいかれません?」と訊いてきた。
「そやな、そうさせてもらうわ。居眠り運転防止にええかもな。」
雰囲気が深刻なものに変わる前に、笑い飛ばしてしまおう。
そう思った。
エレベーターに乗った俺らは、
お互い何か会話の糸口を見つけようとしていたに違いない。
しかし、何も言い出せないまま、無言で降りた。
ここへは、"あいつ"--崎谷陽介--が生きていた頃、
何度か足を運んだ。
陽介はもとはK市の生まれだったが、仕事場が大阪にあり、
不規則な仕事が夜中になることも多かったので
こちらで一人暮らしをしていたのだ。
美也子ちゃんとの結婚が決まり、式の半年前ほどに
マンションを購入し、先に陽介だけが住んでいた。
「おまえ、新居やねんから、美也子ちゃんと結婚してから
二人で住めばええやんか」
「なんか照れくさいやないか」
「あほか。新婚に照れるもくそもあらへんがな」
「いや、美也子ちゃんも、真新しい所じゃ落ちつかへんから、
ある程度生活された空間の方がええんやってゆぅとるし。
俺らは気分的には結婚も今の延長なんや。
一から始めるなんて気持ちは持っとらへんよ」
そうなのだ。あの二人にとって、結婚とは
きっと何も特別なことではないのだろう。
別れ際にかわす「さようなら」が、
電気を消して「おやすみ」に変わるくらいの、
けれど最もそれが自然な形だと思ったからこそ
一緒になることを受け止めた、そんな感じだったに違いない。
振り返れば、俺が離婚したのは、
結婚に対し気負いが有りすぎたせいかもしれない。
二人で一から始めるんだと、
何もかも新しい状態で始めるんだと、思っていた。
一家の大黒柱として、しなければいけないことを考え、
妻にもそれを求めてしまった。
お互いがきっと疲れてしまったんだろうと思う。
陽介と美也子ちゃんみたいに、
自然に寄り添っていけば、たぶん俺も
離婚などはしなかっただろう。
今になって気付くとは我ながら愚かしいとは思うが、
陽介はきっと、美也子ちゃんと仲良くやっていくだろう。
その時、そう思ったのを覚えている。
「どうしたんですか?」
ドアの前でぼんやり過去を振り返っていた俺は、
彼女の声で現実に引き戻された。
「あ、すまん」
「どうぞ」
彼女がドアを開け、玄関の電気をつける。
4月だというのに人の居ない空間は
ひんやりしていた。
玄関に飾られた花。その横に二人の写真。
彼女はこの写真に向かって毎日
「いってきます」と「ただいま」を
繰り返していたのだろうか。
「あいつの部屋、見せてもろうてもええか」
「構いませんよ。珈琲でいいですか?」
「濃ゆめのやつ頼むわ」
部屋に入ると、自分の記憶と、ほとんど違わないことに驚いた。
陽介が生きていた頃のままであるということ、
それはすなわち、彼女が
"状態を保つための努力"をしていることを意味している。
今にも玄関が開いて、
あいつがひょっこり帰ってきそうな気がした。
「俺の部屋でなにしとんねん」
そういって笑う陽介の顔が浮かんだ。
主が永遠に帰らない部屋を、彼女は何を考え
何を思い、掃除し整頓するのだろう。
リビングに戻り椅子に座る。
陽介が一人で住んでいた頃、まだ空間の空いていた食器棚は
今やきっちりと埋められている。
舞台セットもすべて整っているのに、
主役だけが現れない芝居の様だった。
「不躾な質問やと思うけどなんでここにおるんや」
「陽介さんが死んだとき、一番悲しんだの誰だと思います?」
カップをソーサーに戻し、彼女は意外な話の切り出し方をした。
「そりゃ、美也子ちゃんやないのか?」
「たぶん、そうだと思うんです。
だけど、私は、その悲しみを上手く表に出せなかった。
私よりも、両親の落胆や、会社の人の落胆が大きすぎて、
悲しむ彼らを前にしたら、自分が悲しいんだと言えなかった。
『大丈夫』って、私は大丈夫だから、悲しまないでって
そう振る舞うしかなかったんです」
そういうと、彼女はまた目を伏せ、珈琲を飲んだ。
確かにあの頃の彼女は、意外なほど元気だったようだ。
仕事も休むかと思われたが、普段と変わりなく出勤し、
仕事の質を落とすこともなく、こなしていたという。
落胆しているだろうと、慰めの言葉を用意していったものは、
さぞや面食らったに違いない。
「私ね、陽介さんのことで、人前では泣かなかった。
親の前でさえ…。いつもね、お風呂場で泣いてたの。
湯船につかってね。
そこしか、自分を出せるところがなかったから」
俺は返す言葉が無かった。
泣きたいときに泣けないというのが
辛いことだというのは、男の俺にも判る。
「外で明るく振る舞って、家でも明るく振る舞ってたら、
だんだん自分が無くなっていくような気がしたの。
悲しいと思っている本当の自分が、
もう大丈夫って振る舞っている作られた自分に
取って代わられるような不安が押し寄せて、
心の乖離をくい止めないと生きていられないと思った」
両親の猛反対をうけたが、わがままを通して
ここに住むことにしたと、彼女は言った。
たぶん最大の親不孝ものですね、そういって
部屋に入ってきてから初めての笑顔を見せた。
あとは当たり障りのない会話だった。
「じゃ、そろそろ帰るわ。また気軽に店に来てくれや」
「ええ。そうします」
「くれぐれも、無理だけはすんなや」
「はい」
下まで見送るという彼女を制止し、エレベーターに乗る。
壁にもたれ、彼女が最後に言った言葉を考えていた。
「ここは、"お城"なんですよ。ここでは、
誰に構うことなく泣けますから」
お城に閉じこもってたらあかん、
かつて愛した王子様は、決して戻って来ることはないんやで…
喉まででかかった言葉であったが、
それを口にすることはどうしてもためらわれた。