side_story-7 (Masaya.T) 

今日は珍しく、残業もなく定時すぎに帰れることになった。
美也子さんを誘って、食事でもしたいところだが、
今日は美也子さんは休みを取っていた。
また少し体調が思わしくないらしい。
帰りにお見舞いにでも行こうか、そんなことを考えていると、
「たーきーぼーんっ」
ドアの方から、フロア中に聞こえるような声がした。
振り返ると、京子さんが手を振っている。
小走りに京子さんは僕に近づいてきた。

「滝ぼん、仕事終わりそ?」
「雨崎さん、僕は…」
「キョーコでいいわよ。他人行儀ね」
「じゃぁ、京子さん」
「はい、なんでしょう?滝ぼん君」
京子さんはわざと真面目な顔で疑問符を投げかけるが、目は笑っている。
少し切れ長の、一重の目。ふんわりウェーブのかかった、髪。
ピアスが二つ付けられている耳。
どれを取っても美也子さんとは対照的で、性格も対照的な二人だったけれど、
彼女たちは、仲が良かった。

「何度も言うようですけど、"滝ぼん"っての
 やめてくださいよー。それも大声で」
「どーしてー?可愛いじゃない。"滝ぼん"って」
「いや、可愛いとか可愛くないじゃなくて」
「もー、滝ぼんってば、何固いことゆってんのよ。
 滝川君なんて、今更呼べませんって」
「呼んでくださいって」
京子さんの口調が移ってしまう。

「だって、滝ぼんって、たきぼんーって感じなんだもの」
訳の分からない説明を付け、「んーって」のところに、
力を込め発音すると、京子さんは、ふふふっと笑った。

京子さんにかかると、年上の男たちでさえ
たじたじになってしまうのだから、
僕のような年下のものが太刀打ちできるわけはない。
ふと視線をあげると、「おまえも、災難だな」という顔つきの小川修平と目があった。
京子さんの脇に立って、僕たちのやりとりを聞いていた小川は、
僕と同い年で、同期生だ。

その時、まるで僕の目線を追ったように、
「ねぇ?小川君も、滝川君って、"滝ぼん"って感じだと思うでしょ?」
と京子さんは、小川に顔を向けた。
急に話を振られて、小川もびっくりしたらしく
「そ、そうですね」とあわてて相づちを打つ。
気分は「小川よ、おまえもか」という感じである。

仕方がない、ここは全面降伏だ。
「はいはい。判りました、諦めます。滝ぼんで構いませんけど」
「けど?」
「せめて小声にしてくださいね」
「はぁいっ」
と、右手で敬礼よろしく、ポーズをつける京子さん。
本当に、彼女にはかなわない。

「ねぇねぇ、で、今帰るとこ?」
僕のデスクが片づいているのを見やると、そう質問を変えた。
「そうです。今日は珍しく早く終わったんで」
「美也子、今日は休みなんだよね」
脈絡もなく、美也子さんの名前を出す。
いや、京子さんの中では脈絡があるのかもしれないのだが、
凡人の僕にはとうてい判らない。

「またちょっと体調崩したみたいですよ」
もしかしたら、自分の所為かもしれない、ということは、伏せておいた。
美也子さんは"彼"が亡くなってから、ストレスにより内蔵を
少し痛めていたのだ。
僕があの日、彼女に投げつけた言葉が、彼女の傷を広げたのではないかと
思わないでもなかった。

「じゃ、ヒマだよね、滝ぼん」
じゃ、というのは、どこからかかってくるのか判らないが、
ヒマだよね、と先に言われてしまって、
お見舞いに行こうかと思っているという言葉を出し損ねる。

「ねねねね、呑みにいかない?いいでしょ?」
こうなると、もう京子さんを止めることは誰にも出来ない。
「ご愁傷様」とでも言いたげな小川の視線を横目に、
「はいはい、お供させていただきましょう」
と僕は言った。
「可愛げないわね、その言い方」
京子さんはちょっとむくれると、ぱすんっとジャブを繰り出す。
結構本気で痛い。
人は京子さんのことを、斜に構えているとか、
強いとかいうけれど、僕にはそうは思えない。
こんな時の反応は、実に子供っぽいところがある。

「小川君も来ない?」
また急に話を振られて小川は
「いえ、とんでもない、デートの邪魔なんて…」
とあたふたしながら辞退した。
何がデートなんだ、と、少しにらみつけてやったが、
「あー、そうよね。滝ぼんと久々のデートだわ」
と、京子さんは大きな声でいうと、
「じゃ、10分程したら用意できるから、滝ぼん、駐車場で待ってて」
と、言い終わるか言い終わらないかのうちに、
くるっと、きびすを返すと、ひらひらと手を振って、ドアを出ていった。
なんだか彼女が来ると、台風が来たような感じだ。
キョーコ・タイフーン。
最初に吹き荒れたのは、いつの日だっただろう。

            * * *

「京子がね、滝川君のこと、好きなんだって」
美也子さんから、話があると言われたとき、
まさかこんなセリフが彼女の口から出てくるとは思わず、
まさに青天の霹靂という感じで、すぐには返答できなかった。

美也子さんにしてみれば、親友の京子さんの想いを
伝えることだけだったに違いない。
僕の気持ちは、知らなかったのだろう。
そう、いつだって、美也子さんの目は、崎谷先輩だけを見ていた。

「急に言われても」
と、かろうじて僕は返事をした。
「そうよね…」
視線を落とし、次にどう言葉を切り出していいか、
悩んでいる美也子さんを見て、
馬鹿な僕は、助け船を出さないとという気持ちに駆られたのだ。

「でも、いい人だと思うし。京子さんのこと。僕で良かったら、
 いいですよ」
自分でも思わぬ言葉を吐いていることに気付いたのは、
次の瞬間、心底ほっとしたような、明るい笑顔の彼女を見た時だった。

「わぁ、よかった。滝川君はやっぱり見る目があるわよね。
 京子ってほら、誤解されやすいんだけど、ほんとは
 とてもいい子なのよ。ちょっと、思ったことそのまま言っちゃうのが、
 欠点なんだけど、でも、その分本音を話してくれるし」

彼女は、自分の大切な宝物を認めてもらった子供のような反応で、
いかに京子さんがいい人なのかを、いろいろ出来事を交えて話してくれた。
美也子さんとて、悪い人をいい人と言うようなことはしないので、
彼女が本当に京子さんを信頼していて、
大事な親友として見ているのはよく判った。

僕は相づちを打って聞きながら、美也子さんが、
こんなに嬉しそうならばそれでいいじゃないかと、
思ってみたりもした。
彼女が僕の気持ちに少しでも気付いていたなら、
たぶんこんなことは引き受けなかったに違いない。
僕を諦めさせるために、わざと自分の親友を紹介するような真似は、
美也子さんにはたぶん思いつかないだろう。

「僕は、京子さんより、美也子さんが好きなんだけれど」
そう、言葉にしてみたら、どうだろう。
でもそう思った瞬間、彼女の困った顔が思い浮かんだから、
その言葉は永遠に封印した。

どのみち美也子さんには、崎谷先輩がいて、僕には割り込める余地もない。
だとすれば、美也子さんが望むようにして上げるのが、
一番いいような気がした。

初デートには、美也子さんと崎谷先輩も来て、4人でドライブに出掛けた。
京子さんと二人でデートの方が、まだ良かったかもしれない。
でも、僕は京子さんとつきあうことにし、
だとすれば、きっちりと、心に決着を付けなくてはならないだろう。
美也子さんと、先輩をみても、心が痛まないように。

その後何度か、僕たちはデートを繰り返した。
京子さんは、傍目にどう映るのかは知らないけれど、
僕にとっては、とても可愛らしい女性だった。
今でも、その気持ちは変わらない。

つきあってから、一ヶ月ほどした頃だろうか、
車で京子さんのマンションまで送った時のことだ。
「今日はありがとう」
そう言ってドアを開けた京子さんが、ふと動作を止め、またドアを閉めた。

「ねぇ、雅也」
僕の方を振り返らず、ウインドウの外に目をやりながら、
京子さんは言葉を切り出した。
「何?」
今度のデートはいつにするのか、そんな話が出てくると思った僕は、
こっちを見ない彼女の次の言葉を待った。

「別れよっか」
ぽつん、と、独り言のように京子さんは、そう言った。
「え?」
聞こえた言葉が一瞬理解できず、聞き返してしまったが、
もしかしたら、彼女が言わなければ、
いつかは、僕の方から言っていたかもしれない一言だった。

相変わらず僕の方を見ようともしないで、
まるでウインドウ向こうの誰かに話しかけるように、
京子さんは話を続ける。

「雅也、美也子のこと、好きでしょう」
いきなり切り込まれて、僕はどうしていいか判らず、
無言を通すことで、肯定を示してしまう。
「知ってたの。本当は。知ってて、頼んだから」
その時の京子さんは、いつもの京子さんではないような気がした。
自信に満ちあふれ、仕事をばりばりこなす京子さんの姿は、
そこにはなかった。

「ごめんね。知ってて美也子に頼んで。意地悪して。
 でも、雅也が、少しでも、つき合ってくれて、嬉しかった。
 もしかしたら、このまま、あたしのこと、好きになってくれるかもって、
 思ったけど。駄目みたいね。あたしを通して、美也子を見てるのが、
 判るから」

返す言葉の一つも見つからなかった。
図星だったのだ。京子さんが話してくれる、美也子さんと先輩の話や、
僕が知らない美也子さん自身の話などを、僕は楽しく聞いていた。
京子さんが、僕の気持ちを知っててつき合ってほしいと言ったというのも
意外だったけれど、京子さんとつきあい始めて、
自分が押し殺しているつもりだった美也子さんへの想いが
結果として京子さんに伝わっていたことに一番驚いた。

愚かな僕は、京子さんを傷つけた。

「あのね。あたしから別れを切り出したんだから、
 雅也は悪くないの」
「それは」
違う、というより早く京子さんの言葉が重なる。
「雅也。あたしが、あなたに愛想を尽かしたの。
 あたしが、あなたを振ったのよ」

違う、そうじゃない。京子さんは、僕の気持ちを知って、
僕を解放してくれようとしているのだ。

「だから、美也子には、何も言わないで。最後のお願い。
 明日からは、また、あたしと雅也は友達ね」
矢継ぎ早に、そういうと、最後まで振り返らず、ドアを勢いよく開け、
こつこつとヒールの音を響かせながら、走っていった。
追いかけて、何かを言うべきだったと思う。
でも、何が言えるのだ。言ったところで何が変わるのだ。
もう彼女の姿の見えないマンションの入り口を、
僕はぼんやり見続けていた。

翌日、美也子さんが、
「滝川君、ちょっと時間があったら話したいんだけど」
と、僕のデスクのところに来たとき、
僕にはぴんときたけれど、
「じゃ、仕事終わったら」
と短く返すだけで精一杯だった。

「ごめんなさい」
彼女は頭を下げた。
「どうして?」
僕は言った。

「京子から、昨日電話がかかってきたの。
 滝川君と別れたって。自分が振ったって。やっぱり私には年下はだめだって」
そこで美也子さんは言葉をつまらせた。

そんな風に京子さんは言ったのか。
京子さんは、美也子さんの前でも悪者を演じ、
美也子さんは紹介した自分の所為でも有るように感じ、謝りに来たのに違いない。

「それは…」
本当は僕の所為だ、と、言いたかった。
けれど、京子さんの最後の優しさを、最後の虚勢を、
その言葉で崩すことはためらわれた。

だから、その言葉の続きを僕はこういった。
「それは、美也子さんの所為じゃないから。
 謝る必要はないから。僕たちはちゃんと友達に戻れるから。
 心配しなくていいよ」
最低の人間だ、僕は。
最後の最後に、また美也子さんの笑顔の方をとろうとするなんて。

どこから聞きつけたか
“僕と京子さんがつきあい、一ヶ月もしないうちに京子さんが僕を振った”
という話が噂として流れ、僕は大いに同情をかい、彼女は反感をかった。
「あたしが振ったの」自分で京子さんはそう言っていたようだ。

京子さんは、気丈だった。どんな噂が流れようとも、
自分の気まぐれで振ったのだといい、
僕に対しては、「友達ね」という言葉の通り接してくれた。
僕に出来ることは、それに応じることだけだった。

            * * *

「たーきーぼんっ」
助手席のドアを開けた京子さんの声で、僕は回想から現実に引き戻された。
「おまたせ、おまたせ」
そう笑うと僕の顔をのぞき込む。
「どしたの?遅いから怒った?」
確かに10分という時間はとうに過ぎていたが、そんなことで怒るはずもない。

「それとも、何か考え事?」
京子さんの顔が曇る。

どうも僕は彼女の前では嘘がつけないらしい。
そして、本当に京子さんが心配してくれているのが判る。
彼女は、表現が下手だったけれど、本当に人のことを心配する人だった。
どうして、京子さんじゃ駄目だったんだろう。
僕のことをあんなに想ってくれた京子さんでなく、
どうして、彼氏のいる美也子さんでなければならなかったのだろう。

「ねえ、どうしたの?」
なおも不安そうに問いかける京子さんに、
「いや、何でもない」
と僕は無理して笑って車にエンジンをかける。

「またまた、美也子のことでも考えていたんじゃないのぉ?」
京子さんは、ばんばんっと僕の肩をたたき、
「しっかりしなさいよ」と笑い声を上げた。
そして、「滝ぼんは、ほんと美也子が好きなんだね」と付け足した。

確かに、その声は明るかった。
けれど、そのあと、京子さんの視線は、あの日と同じように
ウインドウの外へ向けられたままだった。

to be continued ...