side_story-8 (Miyako.S) 

夜中に、痛みで目が覚めた。
身体を丸くして痛みが治まるのを待つ。

陽介さんを亡くしたときの哀しみを、私はすべて内に抱え込んでしまった。
本当は解放してやるべきだったのだ、自分自身を。
しかし、その時 私はどうしても表に出すことが出来なかった。
その結果、内にこもる哀しみのエネルギーは、
私の内蔵を じわりじわりと痛めつけ、
傷ついた臓器は、私の代わりに時折 悲鳴を上げる。
けれど、この痛みは、陽介さんを愛していた証なのだと思う。

ベッドから降りると、私はキッチンへと向かった。
引き出しからいつもの薬を取り出し、服もうとした。
しかし、突き上げてくる痛みが、それを拒む。
洗面所に走り、身体を折り曲げる。
吐き出されるものは何もなく、ただ淡緑色の液体だけ。
激痛がまた走る。
この痛みとともに、哀しみもすべて吐き出せればどんなに楽になれるだろう。
空っぽになればいい。何もかも。

どれほどそこにいただろうか。少し治まったようなので、
起ち上がり、キッチンに出しっぱなしの薬を服み、寝室へ戻った。

ひとりで住むには広すぎる家。
シングルとセミダブルのベッドがおかれた
ひとりで眠るには広すぎるほどの寝室。
時計を見るとまだ夜明けまで間がある。
ベッドに滑り込み、そっと目を閉じた私は、
痛みから少しでも意識を遠ざけるため、昔のことを想ってみる。

            * * *

ベッドランプが一つ灯る中、いつも陽介さんは
左手でたばこをくゆらせ、右腕で腕枕をしてくれた。
薄暗闇に見えるたばこの火は、まるで螢火のようで、
そのことを陽介さんに告げると、たばこを持つ手をゆっくりと上下させてくれる。
ゆらゆら立ち上る紫煙に舞う螢。
交わされる言葉はなく、けれども心が通じ合っているような、
幸せな一刻だった。

「美也子ちゃんの頭の重さくらい何ともないよ」と陽介さんは言ってくれていたが、
私は、陽介さんの腕がしびれないように、陽介さんの方に身体を傾け、
自分の肩と頭が作り出す首の下の空間に、彼の腕が入るようにし、
陽介さんが すやすやと寝息をたてるまで、そうしていた。
彼は驚くほど寝付きがよく、程なく規則正しい呼吸音が聞こえる。
私は彼が寝入るのを見ると、そっと腕を外し、元の位置に戻してから、
彼の寝息を子守歌に眠りについた。

だから、私はひとりになった今でも、ベッドでは自分の左側を開けて、
右側に寄って寝てしまう。
自分の心臓を下にして、誰もいない空間を見つめながら眠るのが
いつの間にか習慣になっていた。

            * * *

時に襲う痛みにおびやかされ、
うとうとと、まどろむことしか出来ず朝を迎える。
会社に行く用意をするために起きあがると、頭と身体の節々が痛い。
体温を計ってみると、無機質なデジタルの数字は38.0を表示していた。

ベッドサイドの受話器を取り上げ、会社に電話をし、
主任に体調が悪いということを告げると、
「ゆっくり休んで治しなさい」と言ってくれた。
仕事の段取りを告げるため、「滝川君に代わってもらえますか」
というと、すぐに呼んでくれる。
開口一番「大丈夫ですか?」という雅也に、
「大丈夫」といい、手早く仕事の事について話した。
「帰りにお見舞いに行きましょうか?」
最後に雅也がいう。
「大丈夫よ。ちょっと風邪みたい。寝ていたら治ると思うから」
そう言うと
「美也子さんの"大丈夫"は全然大丈夫じゃないから…」と
声を落として雅也はつぶやく。
「じゃ、仕事お願いね」
無理矢理 会話を終わらせると、私はそっと受話器を置いた。

熱を下げなければと思うが、昨晩の胃の痛みを考えると、
解熱剤などを服める状態では無いだろうし、
仕方なくそのまま眠ることにした。

食欲がわかないので、目が覚めるたび水分補給だけする事にし、
お茶を飲んではまた眠るということを繰り返す。
お昼を過ぎた頃には、体温は39度近くまで上がっていた。

「ひとり」ということは こういうとき つらいなと思う。
陽介さんが側にいてくれたなら、我慢できそうな苦しさも、
こうしてひとりでいると根を上げそうになる。
誰かが手を握ってくれていたなら、明日には良くなりそうな気がするのに、
ひとりでいると永遠に病に魅入られたままのような錯覚を起こす。

「お見舞いに行きましょうか」という雅也の言葉が、脳裏をよぎる。
どうして、「うん」と言えなかったのだろう。
いつもそうだ。

あの時だって、実家に帰っていた陽介さんは、
「美也子ちゃんに会いたいから、今日帰るよ」と電話をくれたのに、
「いいよ、せっかくだからゆっくりしてきてよ。
 私たちはいつでも会えるんだから」
馬鹿な私は、そう言ってしまったのだ。
「私も会いたい」と、どうしてその一言が言えなかったのか。
「帰ってきて」と、何故言えなかったのか。

自分の一言で、陽介さんは助かったかもしれない。
なのに。

「いつでも会えるんだから」そう言った言葉は永遠に幻だ。
私たちは、もう二度と会えない。
あなたに似た人はいくらでもいるのに、あなただけがこの世に居ない。

熱と痛みで、時間の感覚も、眠った感覚も失いつつあるようだ。
さっきまでお昼だったと思っていたのに、
次に目が覚めたとき時計を見ると、もう夕刻だった。
熱はいっこうに下がらず、息苦しかった。

ふと気が付くと、私は広い草原の真ん中に居た。
さわやかな風が吹く広い草原に、なぜだかフローリングの床があり
そこに座って、私は旅行カバンを一つ開けている。
さっきまで、ベッドの上で寝ていたはずなのに?と
頭の片隅に、もう一人の自分が疑問をはさむが、それを考えるまもなく、
まるで、それが今しなければならない最優先の事のように、
私は、旅行カバンに一生懸命荷物を詰め始めた。
どうやら旅行の準備をしているようだった。
しかし詰めても、詰めても、カバンはいっぱいにならず、
それでも片端から洋服やなにやらを入れている。

「美也子ちゃん、用意は出来たか?」
ふいに陽介さんの声がした。
ふりむくと、陽介さんが、少し離れたところに立っていた。
「陽介さん!」
「用意、出来たか?」
もう一度笑いながら陽介さんは私に問うた。
「まだなの、全然カバンがいっぱいにならないの」
「そうか。無理か…」
「まって、すぐに詰めるから」
あわてて私は、またカバンに荷物を詰める。

その時遠くで、なにか音がした。
まるで発車のベルのような音が断続的に聞こえる。

「美也子ちゃん。準備が出来ないようだから、俺は先に行ってる」
「まって、すぐに…」
「俺、先に行って待ってるよ。だから、後からゆっくり来ればいい」
「待って、一緒に行く。置いていかないで」

だけど陽介さんの姿はどんどん遠くなっていく。
笑顔がどんどん見えなくなる。

「美也子ちゃん、俺は向こうでずっと待ってるから。急いでくる必要なんかない」
「嫌ぁぁ」

バックで鳴り響く音がだんだん鮮明になる。
陽介さんが消えてしまう!
会えたのに、やっと会えたのに、置いていかないで。
向こう、ってどこ? 私も連れてって。 私も、一緒に行くから・・・

意識が、音に注がれる。
頭の上から音が聞こえる。

-- 夢だったの? 今のは。

--- 発車のベル?

---- この音は、電話?

----- 陽介さん、いっちゃった? 私を置いて…いっちゃったの?

------ 現実はどっち?

眠っているのか、目覚めているのか、それさえ自分でも判らない。
伸ばした手に、受話器が触れる。

「美也子さん?もしもし?」

------- 雅也…?

「美也子さん?聞こえてます?」

-------- ……

かたん・・・ 手から受話器が離れる。
遠くで声が聞こえる。
陽介さんの声なのか、雅也の声なのか、私には判らない。

to be continued ...