side_story-9 (Kyoko.A) 

-- 美也子さん?もしもし?美也子さん?聞こえてます?
呑みにいく前に、美也子さんの様子を訊くといって、
車を停め、電話をかけた雅也が、ただならぬ様子で叫ぶ。
「どうしたの?」
「つながっているのに、美也子さんが出ない」
「寝ぼけてるんじゃない?」
そうであればいいと、希望を込めてあたしは、言ってみる。
そうだなと、雅也が相づちを打ってくれるのを期待して。
嫌な予感は往々にして当たる。
笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。

「いざとなったら、鍵持ってるから。行ってみようか?」
とあたしは、雅也に問う。
無言で頷く雅也。

美也子が一人暮らしを始めようとしたとき、
家族の猛反対にあった彼女だったが、
いつになく自分の意見を押し通し、ついには家を出たのだ。
その時に美也子のお母さんから、マンションの鍵を預かった。
何かあったらお願いしますと、託されたその鍵は、
あたしの手と心にずっしりと重かった。

使う日が来ないのが一番いい。

けど、いつそんな日が来てもいいくらい、
彼女の心は哀しみに満ちていたし、
何かのきっかけさえあれば、彼女はたやすく
向こうの世界の人となっていたであろう。

彼女を今引き留めているものは、なんなのだろう。
彼の分まで生きようとする使命感だろうか?

無言で車を走らせる雅也。
あたしは、誰の心も引き留められなかった…。
ふと、場違いな気持ちが心をよぎる。

             * * *

チャイムをならすが、応答がない。
こんな形で使うことになるとは。
そう思いながら鍵を取り出す。

カチャリ…

驚くことに鍵を差し込む前にドアノブが回った。
薄く開かれたドアに美也子の姿が見えたとき、
なんだ、やっぱりさっきは寝ぼけていたんじゃないか、
まったく、雅也も勘違い甚だしいねと、
雅也に振り返り笑いかけようとした瞬間、
美也子が倒れかかってきた。

             * * *

殺風景な病院の一室で、
あたしと雅也は、会話をすることもなく
ぼんやりたたずんでいた。
看護婦が運んでくれた、無機質なパイプ椅子が置かれていたが、
どちらも座ろうとはしない。

美也子は、まるで蝋人形のような顔で眠っている。
点滴のひとしずくの落ちる音が聞こえるような錯覚を起こすほど、
静まり返った部屋で、美也子の呼吸音だけが規則正しく響く。

「あたし、煙草喫ってくる」
雅也の返事を待たず、部屋を出た。

息苦しかった。
二人と同じ部屋にいるのが。

喫煙できるところは無いかと探すが、さすがに病院内では
なかなか見つからない。
確かに、身体を治しに来るところで煙草を喫うことは、
罪悪かもしれない、とは思う。
やっと一ヶ所喫煙場所を見つけ、中に入った。
診療時間外なので、人が多いわけでもなく、先客は一人だった。
あたしは、煙草を取り出し火を点ける。
箱を見やると、Salemはあと1本だった。

ふっと煙を吐き出し、壁にもたれる。

             * * *

煙草を喫う女、どう思います?と、あの人に訊いたことがある。
嫌いだと言ったなら、やめてもいいかなと思っていた。
あたしにも女らしい一面が有ったらしい。
つき合っていたわけでもないのに、そんな殊勝なことを考えていた。

「別に構わんのやないか?酒、煙草、嗜好品は個人の自由だ」
そうあの人は言った。
たまたま廊下で一緒になって食後の一服をしていたときのことだ。

「例えば俺が、煙草やめって言うたら、京子ちゃんはやめるんか?」
笑いながらそう付け加える。
「馬鹿なこと言わないでくださいよ。やめるわけ無いでしょう?」
言い当てられたのがくやしくて、否定した。
「せやろな。そうでなきゃあかんわ。人に言われてやめるくらいなら、
 最初からやめとけばええんやから」
「でも、こうこうしてほしいなっていう希望はあるでしょう。
 彼女に対してとか、でも」
「あれへんよ。俺の普段をみて、この人はこう思うだろうなって、思て
 何かしてくれたり自分を変えてくれるんは構わんけど、
 俺が言うたからって変えるようなんは困る」
横を向き煙を吐き出す。
「でも」
少し声を落として、あたしは反撃に出た。
「美也子が煙草喫うって言ったら、とめるんじゃないですか?」
あの人は、左手に持つ煙草をとんとんっと灰皿にたたく。
「止めはしない。けど、それ以前に彼女は喫わんよ」
「どうして」
「さっき、個人の自由やと言うたやろ?
 俺は、誰が煙草を喫おうと構わんと思とるよ。
 けれど、煙草は身体に悪いのは判ってる。
 なら、自分で喫わなければ喫わないのが一番やろ?
 美也子ちゃんは、そういう俺の考え判ってるから、喫わんよ」
そういうと、煙草を灰皿にきゅっと押しつけた。
「じゃぁ、逆に」
「うん?」
「美也子が、煙草やめてって言ったらどうします?」
「そやなぁ…やめないと思うけどな」
「どうしても、やめてほしいと言っても?」
「いや、それに関しても言わんから、想像つかんわ。
 美也子ちゃんは、俺に対して、こうして欲しいって言わん。
 彼女も俺と似てるんよな。
 相手から要求されんでも、相手が望むのが判ったら行動を起こす」
「…」
「俺は煙草が好きや。アイツはそれを知ってるから何も言わん。
 何も言わない気持ちを、俺は知っているから、
 俺もなるべく本数は減らそうと思てる。それだけのことや」
「よく言いますよ、セブンスター1日で2箱空ける人のどこが減らしてると?」
「きっついなー、相変わらず。これでも減らしとるんやで?
 前は、3箱くらいは平気で空けてたからな」
「そのうち倒れますから」
「人のことより、自分の事やで」
「あたしは、メンソールですし、1日1箱って決めてますから」
「んなもん、五十歩百歩やわ」
彼は笑うと、また次の1本に火を点ける。
「ほら、また」
「あ?癖やな、既に」
煙草の似合う彼の指先。煙草を持たない彼の姿は想像できない。

「…あたしは、好きな人がやめろといってくれたら、やめますよ」
「可愛いとこあるやないか。けど、そう望まれてるのが判ってるなら、
 言われる前にやめたらええことやろ?」
「そうですね、でも、どうやら望まれてもいないようですから」
あの人は、深く吸い込んだ煙をふっと吐き出し、笑ってこっちを見る。
「なら、問題無しや」
あたしの言った意味を判らなかったのか、判っていてはぐらかしたのか。
どちらにしろ、やっぱりこの人には、彼女しか見えていない。

「崎谷先輩と、雨崎さん、おそろいで」
ちょうどそこに雅也が来た。
「スモーカーが3人ですか」
「ねぇ、滝川君はさ、煙草喫う女の事どう思う?」
「いきなり質問ですか?
 自分が喫うのに勝手だと思われるかもしれないけれど、
 僕は、喫って欲しくないですね」
「ふーん」
「あ、雨崎さんは、煙草似合うからいいですけど」
くだらないフォローを入れる雅也。
今の一言で、雅也の気持ちもよく判る。
"喫って欲しくない女性"の範疇に、あたしは入っていないって事だ。

「滝川、古風だな」
「崎谷先輩は平気なんですか?彼女が喫ってても」
「俺は、オッケーよ」
「そうなんですか?」

「今そんな話をしていたとこなのよ」
あたしは2本目のSalemに火を点けながら会話に入る。
「はー、僕は駄目ですね、やめろとは言えないかもしれないけど、
 やめてくれないかな、って言うと思いますよ」
「なんか、気弱だね、滝川君は」
「ほんとだな」
「じゃーさ、滝川君は、彼女に"滝川君、煙草やめてほしいの"って言われたら
 どうするのよ?」
「質問責めですね。そうですね、やめてって言われたら、
 やっぱりやめようと思うかな」
「くぁー、滝川、おまえって彼氏にしたい男ナンバーワンになれるぞ」
「ほんと、いい子ねー、滝川君は」
「お二人して、なんですか。バカにしてるでしょ」
ちょっとむくれる雅也。
「いやー、おまえ可愛いとこあるよな、俺惚れそう」
「うわー、先輩冗談はよしてくださいよーっ」
「きゃははは、あたしも惚れるわ」
「お、京子ちゃん、俺のライバルかー」
「ライバル、ライバル」
顔を見合わせて3人で大笑いする。

「あー、京子ちゃん達、ここにいたんだー。
 私今から食事なのー」
美也子がやってくる。
「よっ」
あの人は煙草を持つ手を軽く挙げ、挨拶すると、そのまま
灰皿に煙草を押しつけた。
「美也子さん、お疲れさまです」
雅也もそういうと点けたばかりの煙草を惜しげもなく屑にする。
「京子ちゃん達はもう食べたよね?」
「うん、3人で食後の一服」
あたしは横を向いて煙を吐き出す。
「吸いすぎには注意ねっ」
美也子は、ぴっと人差し指を立てて口を尖らせたあと
くすっと笑った。
「それじゃぁね、またあとで」
「おう、ゆっくり食べて来いや」
「午後からの仕事、段取りつけときます」
「まだ今ならAランチ間に合うよ、急げ急げー」
美也子が現れたのを機に、その場は解散となった。

あの時も、ポケットのSalemは残り1本だった。

             * * *

きゅっと灰皿に押しつけ、ガラスのドアを開けて出た。
新鮮とは言い難い消毒液の匂いの混じった空気を吸い込み、
二人の居る病室へと向かう。

カチャ、っと驚くほど大きな音を立ててノブが回る。
雅也はパイプ椅子に座っていた。
「どう?」
「ああ、まだ眠ったまま」
「そう。ここの突き当たりに喫煙室あるわよ。雅也も一服してきたら?」
「いや、あとでいい」
言葉少なに答える雅也。

「京子さん…」
「何?」
「僕たちの存在理由って何なんでしょうね?」
「存在理由?」
「そう、美也子さんにとって、僕たちって何なんでしょう」
「…」
「崎谷先輩が亡くなってから、美也子さん、何でも一人で抱え込んで、
 僕たちに相談することなんてほとんどなくて」
「でも、もとからそういう性格だったから、この子は」
「頼りないんでしょうか、僕は。僕じゃ、代わりになれないのかな。
 力になることは無理ですか」
"僕たち"という人称がいつの間にか"僕"に変わっていることにも気付いていない。

「考えすぎだよ、雅也。頼りにならないからとか、そんな理由じゃないよ。
 美也子は、どちらかに寄っかかった恋愛とかしない子だったから。
 その辺、崎谷さんもよく判ってたよ。崎谷さんが生きてるときに、
 こんな風に美也子が倒れることがあっても、崎谷さんは、
 自分の存在理由をおびやかされたなんて思いはしなかったと思う。
 しゃーないな、おまえは心配かけて、ってきっと笑い飛ばしてたよ。
 心でめちゃくちゃ心配してたとしても、そんなの表に出さずにね」
「僕は、先輩みたいに人間が出来てないんですね」
「そうじゃなくて、雅也は雅也だし、崎谷さんは崎谷さんだってこと。
 どっちがいい、悪いじゃなくてね。雅也の存在理由はちゃんとあるよ。
 美也子のことちゃんと気にかけてるの、あたしが一番よく知ってるよ」
「ありがとう、京子さん」
「バカね、あんたが落ち込んでどうするのよ。
 しゃきっとしなさいよ、男の子なんだから」
「男の子は、無いでしょう?25の男つかまえて」
やっと雅也が少し笑った。
「ガキよ、ガキ。あたしから言わせれば、
 こんなことで、おたおたしているのはガキよ」
「ぐさぐさ刺さりますね」
「だったら、しっかりなさいって」
「そうですね。その通りだ」

その時、「京子ちゃん?…」と後ろから、か細い声がした。
「美也子、気付いたの?」
「美也子さん、大丈夫ですか?」
枕元で話をしていたからだろうか、美也子が目を覚ましたようだ。
「あんたねー、びっくりさせないでよ」
あたしは腰に手を当て、ちょっと怒ってみせる。
「こいつが"美也子さんが電話に出ない"っておろおろするから、
 マンションに行ってみたら、あんた倒れかかってくるし」
「ごめん。電話やっぱり滝川君だったんだね」
「肺炎おこしかけだったってお医者さんいってたわよ。
 まったく、自分の身体なんだからちゃんと面倒みなさいよねー」
「うん」
「京子さん、お説教はそのくらいで。美也子さん病人なんだから」
「はいはい、このくらいにしておきます。
 あたし看護婦さん呼んでくるわ」
「あ、そうだった」
雅也があわてて立ち上がる。
「あー、滝ぼんは座ってなよ、あたし行って来るから。
 ほんと、美也子も、滝ぼんもしっかりしないと駄目よー」
そういって、あたしは部屋をあとにした。

ナースステーションに向かいながら、さっき雅也が言った言葉を反芻してみる。
"存在理由"…か。
あの人にとって、あたしの"存在理由"は、何だったのだ?
雅也にとって、美也子にとって、あたしの"存在理由"は、何だというのだ?
薄暗い廊下に、あたしの疑問だけがこだまする。

to be continued ...