競馬社会には、新馬戦という小学校から、500万・1000万(900万)条件戦といった中学・高校、1600万条件戦という予備校、オープン戦という大学、グレード戦といった一流企業まで設けられている。
今の学歴社会には、予備校や塾は無くてはならないものである。しかし、この予備校に通うという事は...。
そして、この学歴社会で優秀な成績を修めると「繁殖」という職に就く事になる...そう、より優秀な血を残す為に、そして更に進化させる為に。これが競馬の仕組みである。
そして、エリートや落ちこぼれが居るのも、私達人間社会と同様である。
殆どの重賞(グレードレース)戦の連対馬は、エリートとそうでない馬との組み合わせから成り立っている。エリート同士で組み合わす事は極めて希である。この事は一見、平等の様に思えるが、レーシングプログラムの進行は全てエリート中心に進められている。
最近の番組改編を見ても、益々その傾向は強くなっている。
JRAがこの学歴というものにこだわる理由は、選別又は選抜する側にとって、かなり便利なシステムだからであろう。
このシステムが良い悪いは別として、私達もレーシングプログラムを解析する際、選別する側になりきる必要がある。JRAに登録されている馬は何千頭も居るのだから、わざわざパドック等で面接する必要はない。書類審査により、学歴だけで選別又は選抜を繰り返していけば良いのである。
私達がこの理論を公にしたからといって、JRAは今更この便利なシステムを変える事は無い筈であるし、それは私達社会でも同じだろう。