微笑みを・・・(前編)
2月1日(月曜日)
約束された別れの日、
「さようなら、祐一さん」
そして、唇に触れる、温かな感触を残して…
その日の早朝…夢から覚めたとき、
体を包み込むようにかけられたストール、降り積もった雪の上の一冊のスケッチブック。
そこに描かれた、
たったひとつの似顔絵…
祐一は、
その場に崩れ落ちることしかできなかった……
何があろうと時は流れる、
たとえ最愛の人を失っても、生きている限り歩まなければならない。祐一も例外ではない、生きようとする限り動き出さなければならないから…
祐一「栞…俺はずっと覚えているからな…栞がいたことを」
崩れ落ちたままつぶやく。
祐一「幸せだった…短い時間を精一杯生きていこうとした栞のそばにいられたことが…」
スケッチブックを手に取る。
祐一「ひょっとしたら、栞がいないことで泣くかも知れない…」
ストールをもう片方の手で持つ。
祐一「でも…栞が教えてくれたのは泣くことじゃない…みんなに覚えていて貰うために一生懸命生きること…微笑むこと……」
立ち上がる。
祐一「悲しいけど後悔はしてない」
その顔は下を向いたまま…
祐一「お別れだけど、俺はさよならは言わない。またどこかで会えるかも知れないから…だから……」
そして…顔を上げて…
祐一「ありがとう、栞。またな…」
公園を見渡しながらそう言うと、きびすをかえし歩いてゆく……
彼は…栞から”強さ”を貰った…
水瀬家に祐一が着いたのはちょうど朝食の時間だった。
名雪「う〜…祐一〜どこいってたの〜」
祐一「ん…ちょっとな…」
秋子「名雪…ずっと起きてたんですよ?」
祐一「そうか…悪かったな、名雪」
そう言われたとたん、はっとして言う。
名雪「祐一、なんか変」
祐一「そうか?」
秋子「祐一さん、学校へは行きますか?」
祐一の様子を見ての配慮だろう、秋子さんが尋ねる。
祐一「たぶん大丈夫です、一応寝てますから」
名雪「だいじょうぶ?」
秋子「本当に大丈夫なんですね?」
祐一「はい、大丈夫です」
秋子「朝食はどうします?」
祐一「頂きます…っと、その前に着替えてきますね?」
そう言って、二階へ上がっていく祐一。
そして…
名雪「祐一……やっぱり変!」
名雪が確信を持って言う。
秋子「…何があったのかは知りませんが…ひとまわり成長したみたいね」
名雪「……?そうなの?」
秋子「……そうね…何と言えば良いかしら、そう”強く”なったのね」
名雪「別に…力が強くなったふうには見えなかったんだけど」
秋子「そう言う意味じゃないわよ、心よ…」
名雪「心?」
秋子「そう、心。それもきのうまでとは比較にならないくらい」
名雪「う〜わかんない…」
秋子「そのうちわかるわよ」
名雪「……うん」
二階から降りてくる祐一。さっそく自分の席に座り。
祐一「頂きます」
と、朝食を食べ始める。その横で、名雪が祐一を見つめる。
名雪「……」
祐一「ん?どうした?名雪?」
名雪「なんでもない…」
祐一「そうか…」
名雪が秋子の方を見る。”強くなってるようには見えない”という表情で。
秋子「大丈夫よ、もう行く準備をした方が良いんじゃない?」
名雪「………うん」
リビングから出ていく名雪。
祐一「なんか、名雪変じゃないですか?」
秋子「祐一さんがちょっと変わったのがわからなくてわかろうとしているんですよ」
食事を摂る祐一の手が止まる。
祐一「俺、変わりましたか?」
秋子の方を見て聞く。
秋子「ええ…」
祐一「そうですか…」
再び食べ始める。
秋子「成長したということです…精神的に」
祐一「……はい」
秋子「その”強さ”大事にしてくださいね?」
祐一は、再び顔を上げ。
祐一「はい、大事な人から貰った大事なモノです絶対に…」
秋子の目を見て…言う。
祐一「絶対に失くしたりはしません」
視線を受け止め、
秋子「良い返事です、さて、そろそろ時間ですし名雪も待ってます」
祐一「はい、ではいってきます」
秋子「行ってらっしゃい」
そのまま祐一はリビングを出、学校へ行った。
秋子「その強さ…私はあの人を失くした時にあの人から貰いました。祐一さんも…」
ひょっとしたら、この”強さ”は手に入れた者にしかわからないものなのかもしれない。
名雪「ふうっ、なんとか遅刻しなかったね〜」
予鈴が鳴る前に教室に入れたようだ。相変わらず遅刻ぎりぎりの登校。
祐一「ふう…疲れた」
北川「よう、今日も危ないところだったな」
祐一「まあな…」
名雪「おはよ〜北川くん、香里」
祐一「よう、香里」
香里「……おはよう」
挨拶を返し、じっと祐一を見る香里。
祐一「なんだ?どうした?」
香里「………なんでもないわ」
そう言って、自分の席へ座る香里。
祐一「……」
名雪「香里も…変」
北川「そうなんだ…美坂今朝から変なんだ」
名雪「どうしたんだろう?」
北川「それが全然わからないんだ」
名雪「う〜…わからない…」
北川「おい、相沢。なにをぼーっとしてるんだ?」
香里の方をじっと見ていた祐一に北川が声をかける。
祐一「いや…なんかへんだなあと…」
香里の様子がおかしい理由を知っている祐一だが、話すべきものではないと考えているので、2人に合わせた返事をする。
北川「変だろ?」
名雪「朝は…祐一変だったし、学校来たら香里が変だし…」
ぽつりとつぶやく名雪。
北川「相沢が変だった?ほう…」
耳ざとく聞きつけ、祐一の方を見る。
祐一「なに、寝不足なだけだ」
名雪「…………寝不足だったんだ……」
もっといろいろ聞きたそうだが、聞いてはいけないことだと思っているようでそれ以上突っ込んで聞いてこなかった。
北川「そうか…いつも変だから気づかなかった」
祐一「ほう…その辺な奴につきあってるお前も変な奴になるぞ?」
北川「……それは嫌だな……前言を撤回する」
祐一「それがいいな」
名雪「そろそろ時間だし…座ろうよ」
と、本鈴が鳴り出した。
その時が来た…
その瞬間にそれを知ったのは祐一だけだった。午前最後の授業が後20分と言うところでトイレに行きたいと言って教室を出てゆき、昼休みになって戻ってきた。
教室を出たのは…耐えれなかったから。やはり、覚悟していてもその時が来たときにはどうしようもないのだ…祐一は、誰も人が来ない場所で泣き、涙を拭いて、教室に戻った。その時にはもう普段の彼に戻っていた。
教室に入ったとき、北川と名雪が心配そうに様子を尋ねてきたが、
祐一「いや…突然腹が痛くなって…」
とありきたりの方法でごまかしておいた。しかし、その嘘もすぐにばれることとなる。
その後、祐一、名雪、北川、香里の四人で食堂へ行こうと言っているときに、女性が駆け込んできて、香里を呼んだ。
香里「すこし待ってて」
と言うと、その女性と一緒に教室を出ていき、10分ほどして帰ってきた。
香里「ごめんなさい、今から帰らないといけなくなったの」
そう言って、帰宅の準備を始めてしまった。
名雪「香里…帰るって?」
やはりこれを聞くのは親友の名雪がするべきだろうと北川は聞かなかった。祐一は…じっとしていた。
香里「ええ…不幸があってね…」
名雪「そう…おじいちゃんかおばあちゃん?」
香里「……母方の祖母」
名雪の方を見て答える。
名雪「………そう」
香里「だから…お昼は3人で食べて…」
北川を見て言う。
北川「……」
そのまま香里は教室のと出口へ歩き出そうとした。
祐一「死んだのは本当に香里のおばあさんか?」
その一言に香里の足が止まる。
名雪「祐一!?何言ってるの!?」
北川「おまえ!!何考えてんだ!!」
驚いたような名雪、いきなりの言葉に今にも殴りかかりそうな北川。
香里「……何が言いたいの?」
名雪「祐一…自分で何を言ったのかわかってるの?」
北川「相沢…貴様」
香里は冷静に言葉を返す。2人は本気で怒っている。北川に至っては、次に何か言おうものなら本当に殴りかかりそうだった。
祐一「……それで良いのか?」
北川「相沢…何が言いたいんだ!」
名雪「祐一、おかしくなったんじゃない?」
2人に何も言い返さない祐一だが、北川もさすがに手を上げるわけにも行かず、2人で非難しだす。
香里「……じゃあ誰だって言うの?」
突然聞き返す香里。
名雪「……香里、相手にしなくて良いよ!」
北川「そうだぞ、早く帰るのが先だ」
祐一「俺に聞くのか?」
香里「誰だかわからないんだから聞くしかないでしょう?」
名雪「………」
北川「………」
祐一の答えを待つ3人
祐一「妹だろ…」
北川「なんだと!?」
名雪「えっ…でも香里…」
とまどう名雪。
香里「私に妹はいないわ」
きっぱり告げる香里。そして、
名雪「ほら!!香里には妹はいないの!!」
北川「おまえ…何考えてるんだ?ほんとにおかしくなったのか?」
祐一「………」
名雪「祐一、今から病院行こう…付き添ってあげるから」
北川「そうだ、俺もついていってやるから…な?」
祐一「…おり……だ」
名雪「なに?どうしたの祐一?とりあえず病院行こうよ」
北川「相沢は何とかするから、美坂は帰れよ」
香里「……」
祐一「栞だ!美坂栞!!北川、お前見ただろ?しばらく前に外で1人でずっとたたずんでた女の子を!!名雪!お前と俺と香里とその子で一緒に百花屋へ入っただろう!!でっかいパフェ食っただろ!!知らないとは言うなよ!!その子の名前は美坂栞!!美坂香里の妹だ!!!」
耐えきれずに、大きい声で叫ぶ祐一。
北川「なっ!?まさか…そんな」
名雪「栞ちゃん?……でも香里は妹じゃないって言ってたし……」
香里「人違いよ…相沢くん」
驚く北川、親友を信じている名雪、以前通りの答えをする香里。
祐一「………わかった、もういい……でも少し待ってくれ」
そう言って、自分の机に戻る。そして、一枚の布を持ってきた。
名雪「ストール?」
北川「なんでこんなものを持ってきてるんだ?」
香里「………」
祐一「美坂、これ俺の彼女のストールなんだが、昨日借りたままで返してないんだ。これから会えそうにないから渡しておいてくれ」
香里「相沢くんの彼女と私がどう関係あるの?」
祐一「俺の彼女の住んでるところは美坂と同じ所なんだ。なんでも”大好きな優しいお姉ちゃん”が去年の誕生日にくれたものらしいんでな…返さないといけないだろ?」
香里の肩がぴくりとふるえる。
香里「……私の家には両親以外には女の子はいないわよ?」
祐一「…そうか…仕方ないな…自分で返しに行くか…」
香里「それがいいわ」
そう言って、改めて教室から出ていこうとする香里。すでに昼休みにはいって10分がたっている。
祐一「栞が…かわいそうだ…精一杯生きたのに…一生懸命輝いたのに…一緒にいて欲しくて微笑んでたのに…」
名雪「…………」
北川「相沢……」
香里「………………」
祐一「それなのに、栞が大好きだった”お姉ちゃん”は……」
名雪「………」
北川「どっちが正しいんだ?」
香里「………じゃあ帰るわ…」
そのまま、香里は帰り、残った3人は何も話さずそのまま各自で行動した。周りのクラスメイトは興味津々だったが、とても話しかけれる雰囲気ではなかったので、誰も聞いてこなかった。
そして…
祐一「………悪い、俺も帰る」
名雪「祐一…」
北川「…相沢」
2人を残し、祐一も帰る準備をして教室を出ていった。
この日、祐一は部屋に閉じこもりきりだった。
2月2日(火曜日)
名雪「おはようございまふ……」
秋子「おはよう」
名雪「ごはん〜」
水瀬家の食卓、いつものように名雪が降りてきて朝食を食べている。しかし、名雪が食べ終わって、学校へ行こうとする直前になっても祐一は起きてこなかった。
名雪「お母さん、祐一は?」
秋子「えっええ…なんだか気分が良くないから休むって」
名雪「……そう…それじゃ仕方ないね、じゃあ行ってきます」
秋子「いってらっしゃい」
名雪を送り出してリビングに戻った秋子はふと天井を見上げ、
秋子「祐一さん…頑張りどころです…」
そう言って、家事を片付け出した。
実のところ、祐一は気分が悪かったわけではない。なんとなく学校に行きづらかったからだ。だから、布団の中でまどろんでいた。
祐一「ふう……」
ため息をつき、ふと机の上を見る。そこには…
祐一「栞…」
一冊のスケッチブック。そこに描かれた栞。
祐一「栞…香里はどうして妹なんか居ないって思おうとしたんだろうな…」
時計が時を刻む。
祐一「居ないと思っておけばその人が本当に居なくなっても泣かなくてすむ…そう思ったって言ってたな…」
寝返りをうつ。
祐一「でも、その考えは卑怯だ…自分の事しか考えてない。栞の思いを…無視するのは栞がかわいそうだ……なぜそこまで考えてくれない…」
沈黙。
祐一「一番辛いのは本人なんだから……。出来れば早くに気づいて欲しかった。」
また沈黙。
祐一「独り言…言ってるな、俺…」
時間は…9時過ぎ。秋子はもう仕事に出ている。
ピンポーン……
祐一「は?誰だこんな時間に?」
ベッドから起きあがる祐一。
ピンポーン…
祐一「………わからん…誰だ?」
部屋を出、階段を降りる祐一。
ピンポーン……
祐一「はぁい」
階段を降りながら返事をし、玄関に向かう。
…………
返事をしたからだろう、ベルは鳴らなくなった。
玄関についた祐一、ドアを開け外を見る。
祐一「…………なんだ…悪戯か?」
目の前には…
祐一「まったく…どこのどいつだ」
と、ドアを閉めようとする祐一。
香里「…………相変わらずね」
目の前には香里が居た。
祐一「……お褒めの言葉と受け取っておこう」
香里「好きに受け取って」
祐一「………」
香里「……」
祐一「え〜っと…」
香里「………」
祐一「…」
香里「あのね」
祐一「ん?」
香里「とりあえず上がらせてくれない?」
祐一「ああっ…悪かった、上がってくれ」
とドアを開く。
香里「……そういうことは早く気づいてよね」
祐一「はいはい…」
玄関に上がった二人。そのまま立ち止まる。
祐一「……」
香里「……」
祐一「………」
香里「相沢くん…」
祐一「ん?」
香里「とりあえず案内してくれない?」
祐一「……リビングか俺の部屋……」
香里「…………相沢くんの部屋で良いわ」
祐一「ん、じゃあ階段上がって名雪の部屋の右隣」
香里「わかったわ」
祐一「飲み物出すな…何がいい?」
香里「別に何でも…」
祐一「先に部屋、行っててくれ。用意していく」
香里「ええ」
結局何を出せばいいかわからなかったので、コーヒーを入れて部屋に向かう祐一。
祐一「おまたせ」
香里「……」
祐一「秋子さんお手製のコーヒー豆で炒れたコーヒーだ」
香里「そう…頂くわ」
2人でコーヒーを飲む。コーヒーを飲んでいる間どちらも話さない。
やがて、飲み終わって…
祐一「……ところで……もう授業始まってる時間だぞ?」
香里「そう…ね」
祐一「何で私服なんだ?」
香里は私服だった。祐一にとっては初めて見る姿である。
香里「変…かしら?」
祐一「いや…そうじゃないんだが…初めて見るからな」
香里「そうね…」
少し苦しげな香里。
祐一「ところで…」
と、話題を変えようとしたところで香里が突然立ち上がり、部屋を出ていく。
祐一「おい!どうした!」
唐突な行動に驚きつつも香里を追いかける祐一。
階下に降りた祐一は香里を探す。と、洗面所の方から苦しげな息と水の流れる音がしてきた。あわてて洗面所に向かう祐一。
香里は……洗面台に手をつき一生懸命何かに耐えていた。
しばらくして、落ち着いたのか洗面台から手を離す。
祐一「香里…どうしたんだ?」
香里「…なんでもないわ」
祐一「……いきなり部屋から飛び出して、洗面所で苦しげに呻いておいて”なんでもない”と言われても名雪でも納得しないぞ?」
香里「………部屋に戻って話すわ…」
――祐一の部屋――
祐一「さあ、さっさと話せ」
香里「簡単な事よ…食べれないだけ」
祐一「は?」
香里「ここ一週間ぐらい何も食べてないわ…」
さらりと他人事のように言う。
祐一「おい…どうして食べれないんだ?」
香里「さあ…食べても飲んでも吐いてしまうのよ…」
祐一「………」
香里「ついでに言うとね…同じくらいだけ寝てないわ」
祐一「……死ぬぞ?」
香里「そうね…このままだと近いうちに死ぬわね…」
表情を変えずに語る。
祐一「理由は……」
香里「……」
祐一「栞…」
その瞬間、香里の表情が変わる…痛そうで、寒そうな…その2つを足したような表情に……大切なものを失くしてしまった子供のような……
祐一「正解か…」
つぶやく…
香里「そうよ!!」
大声で…
香里「栞…私の妹、大事な…たった1人の…」
こぼれ出す涙
そして、独白……いや…罪の告白、遅い懺悔の時
「去年の今頃までは…大事な…大好きな妹だった」
「倒れたって知ったときは心が…つぶれそうだった…」
「すぐに治るって聞いたときは…安心した…」
「でも……嘘だと…知った」
「知ったとき…なぜか泣かなかった…そして、」
”妹なんていない”
「そう思うことにした…それからは話さないようにした…」
「別れが来たとき耐えれないと思ったから」
「ずっと他人の振りをしようとした…」
「そうすれば悲しまなくてすむと思ったから」
「相沢くんが来たとき…相沢くんが栞の恋人になったとき…一週間だけ学校に通ったときも」
「同じようにした…」
「でも……栞の笑顔を見るたびに…」
”私は…弱くて…卑怯”
「そう思うようになってきた…自分が傷つくのが嫌で…栞の事を考えてあげなかった」
「最後までの時を一緒に過ごすことを避けた…」
「自分の運命を受け止めて一生懸命生きた栞」
「苦しさや悲しさを顔に出さずに微笑んでいた栞」
「最後の最後まであきらめなかった私の妹…」
「私はそんな妹の為に…何も出来なかった……最低な…私」
そして、部屋には涙する者の声
じっと聞いていた祐一、
祐一「………もう、大丈夫か?」
香里「……いいえ……」
祐一「まだ…何かあるのか?」
香里「今気づいたわ……まだやらなければいけないことが…」
祐一「なんだ?」
香里「私は…死ななければいけない」
無表情で言う香里。涙は…もう流れていない。
祐一「おい!どうして!!」
いきなりのセリフにあせる。
香里「ここしばらく食事も睡眠もとれなかったのは…とれなかったんじゃなくて……とらなかったってこと……」
祐一「変だろ!?普通なら…」
香里「普通なら…手っ取り早く手首を切ったり、薬を飲んだりするわね…」
祐一「だろ?」
香里「私が気づいていなかっただけ…”私”はそうしようとしてたの」
祐一「私?」
香里「無意識にってこと…」
祐一「無意識なんて関係ない…どうしてお前が死ななきゃならない?変だろうが!」
あせっていた祐一だが、次第に口調に怒りが混じってくる。
香里「私は最低の人間…どうなってもいい存在…だから」
祐一「栞に…姉らしいことが出来なかっただけでか?」
香里「自分にとって命の次に大切なモノがあって、それがある日に失うことを知って、知った瞬間にそれを捨てることができるのよ?ひょっとしたら自分の子供も捨れるかも知れないのよ?」
祐一「それで…自分は最低だから死んでも良いと?」
冷静な口調で聞き返す。
香里「そう」
祐一「ひょっとしたら、香里と同じ立場に置かれたら同じようなことをしてたかも知れない……でも」
香里「何を言っても聞かないわよ?私は…」
祐一「香里…」
香里「じゃあ帰るわ…」
会話を切り上げ帰ろうと立ち上がる香里。
祐一「お前はその程度なのか?栞がかわいそうだ…」
つぶやくように言う。
香里「なんですって?どうしてそこで栞が出てくるのよ?」
祐一を睨みながら…
祐一「栞はお前のことを、優しくて良いお姉ちゃんだと言って自慢していた」
香里を睨み返す。
香里「それで?」
祐一「俺だって、栞が自慢するぐらいだからと思ってた…」
香里「ふうん…それでがっかりしたと?」
祐一「悲しいだけだ…栞が信じていた姉はこんなに情けなかったのかって…」
香里「……」
祐一「なあ…香里は栞の想いに応えられないのか?」
香里「………」
祐一「栞の想いに応えようとはしないのか?」
香里「応えられないから……最低なのよ……」
捨てゼリフ…を残して出ていこうとする。
祐一「誰が最低だと言ったんだ?どこの誰が美坂香里は最低の人間だと言ったんだ?」
立ち上がって言う祐一。
香里「………」
祐一の言葉に再び立ち止まる。
祐一「お前が今日ここに来て、栞のことを話したのは栞の想いに応えようとしたからじゃないのか!?」
香里の体が少し震える。
祐一「今までのまま生きていくのが嫌で、死にたくなくて、自分を変える手がかりが欲しくて来たんじゃないのか?」
香里「……………」
祐一「おい、なんか言えよ?」
香里「そ……も…ない」
祐一「なんだ?聞こえねぇよ」
香里「そうかも…知れない」
祐一「………」
沈黙…そして、香里が祐一に近づき…襟元を掴んで…
香里「どうして?」
掴んだ襟をさらに強く…
祐一「………」
香里「どうしてあなたは平気なの?なぜ?」
床にこぼれる雫。
香里「大切な人が逝ってしまったというのに笑っていられるのはどうして?」
その場で再び泣く…迷子の子供のように…
祐一「泣き続けるだけなら…誰にでも出来る。栞は…それをしなかった。限られた時間を生きながら…周りの人に自分を覚えてもらおうとしてた…自分の望みをかなえようとした…」
抱きつかれながら…自分の想いを告げる。
香里「………」
祐一「”他の人の心に自分は生き続ける””せめて自分という人間がいたことを覚えておいて欲しい”そんなふうに考えてたんじゃないかと思う。」
祐一「最後の最後まで他の人たちと同じように生きたかった…だから苦しいときもそれを耐えて微笑んでた…」
香里「答えに……なって…ない…わ」
祐一「それがたぶん、栞の生き方だったと思う……俺は…同じ生き方をしたいと思う…」
祐一「俺だって悲しいさ。でも泣き続けるより…”栞は俺の心にいる”そう思って生きていきたい。俺の隣にいつも栞がいる、だから泣かなくていい。」
香里「……逃げてるだけじゃない…」
非難するようにつぶやく。
祐一「泣いていても何も出来ない。傷も癒されない。だから…泣くのはその時だけでいい。あとは……心に焼き付けて…生きていく。それに…」
香里「それに……何よ?」
掴んでいた襟を離し、正面に立つ。
祐一「栞は、俺達に悲しんで生きていって欲しくなかったはずだ。そう信じてる。それと、栞は今でも俺の恋人だ。」
香里「もう死んでるのよ?」
祐一「死人が恋人じゃあいけない理由はない」
香里「気が狂った人と勘違いされるわよ?」
祐一「死んだ人間を想い続ける人はいないことはないだろ?」
香里「………わからないわ…」
その返事を聞いて、ため息をもらす祐一。
祐一「香里は永くて寂しい道を宝石のかけらを持って歩いてるんだ。その宝石は自分を暖めてくれて、寂しくなくしてくれるんだ。そのかけら達の中には”栞”のものもある。今までの香里はその宝石のかけらを捨てようとしてたんだ。そして、今は歩くのをやめようとしてるんだ。なんとなくわかるか?」
必死にたとえを探して教えようとする祐一。
香里「ええ…たぶん」
祐一「栞はどんなに寒くても、寂しくてもそのたくさんの宝石を持って歩いていくべきだと言ったんだ。俺もそう思ってる。そう教えてもらったからな。」
香里「別に…歩かなくてもいいじゃない…捨ててもいいじゃない」
反論をする。
祐一「栞は自分がもう歩けないと知ったときから自分が持ってた宝石のかけらを俺や香里や周りの人に預けたんだ。”大事にしてくれ”と言って。」
香里「そうなるわね…」
祐一「香里は……全てを託した栞の想いまでもを捨てるのか?」
香里「…………」
祐一「”妹はいない”といっても、心の中に妹と過ごした17年間分の思い出があるだろう?」
香里「………」
祐一「捨てれないんだろ?忘れられないんだろ?だったら…生きろよ……これからやらなきゃならないのはそういうことだろ?」
香里「………………」
祐一「栞に冷たく当たったこと…栞は恨んでなかった」
それから、沈黙が長く続き…
香里「わかった…けど……無理……」
祐一「そうか……」
小さくうなずく祐一。
香里「どうすればいいのか…」
祐一「………どうしたいか……」
香里「ええ…相沢くんなら知ってる?」
祐一「”生きよう”と思えないんだろう?」
香里「そう」
再び沈黙が下りる。
祐一「自信はないが…試してみるか?」
香里「試す?」
祐一「覚悟がいるけどな…これぐらいしか思いつかなかった」
香里「おもしろそうね……やってもらおうかしら」
祐一「いいのか?」
香里「ええ……」
祐一「じゃあ……やる」
祐一の両腕が上がり……
香里「え…んっぐ!?」
香里の首を絞める…
当然、締めてくる腕を外そうと暴れる香里。必死にそれに耐え、首を絞め続ける祐一。
やがて…香里のひざが折れ座り込み、目から涙があふれ出してきた頃…祐一は締めていた両腕を外した。
必死に息をする香里。
立ったまま見下ろす祐一。
しばしの時がたち、普通に息が出来るようになった香里が祐一に…
香里「いきなり首を絞めるなんて…そんなに私を殺したいの?」
明らかに怒っている香里。祐一は、
祐一「なあ…これでも死にたいか?」
と、質問する。
香里「なにを…私が…!?」
反論しかけて何かに気づいたような表情になる。
祐一「なあ……もう悩むのはやめにして、生きていけよ…暴れたのは生きたいからだろ?涙を流したのは死にたくないからだろ?」
香里「………」
祐一「…………」
沈黙。
それからどれくらいたったか……日は真ん中を過ぎていた。
香里「今はまだ死にたくないのはよくわかったわ…」
座り込んだままうつむいて言う。
祐一「……」
香里「とりあえず…やってみるわ」
そういってため息をつく。
祐一「おう」
いつも通りの返事をする祐一。
香里「……ところで……」
祐一「どうした?」
香里「おなか……何も食べて無くて…」
祐一「おう」
香里「出来れば胃に負担にならないもので…」
祐一「う〜ん……おかゆ?」
香里「…お願い……」
祐一「わかった……」
40分後…
祐一「……俺が作ったものだから味は保証しない」
香里「食べれれば味はどうでもいいわ」
祐一「あっさり言われると情けないんだが……」
土鍋に結構な量のおかゆ。
香里「量…多いわ…」
祐一「俺も食う」
香里「そう…」
土鍋のおかゆを茶碗によそい、食べ始める2人。
香里「……なんかおいしいわね」
ぽつりと言う。
祐一「…おいしくないといけないような言い方だな」
むっとして言い返す。
香里「きっとおなかが空きすぎてるからよね……」
本人は独り言のつもりのようである。
祐一「…………う〜」
悲しそうな祐一。
それから…おかゆがなくなるまで食べ続けた…
食べ終えて…祐一が食器を片付けて部屋に帰ってくると…
香里「相沢くん……」
何かに耐えながら声をかけてくる。
祐一「ふぁっ……ん?どうしたんだ?」
あくびをしかけたが、中断して返事をする。少し香里を観察して、
祐一「なんか変だぞ?どうした?」
と聞き返す。
香里「………」
ぼーっとした表情になっている香里。
祐一「眠いのか?」
香里「…………」
返事無し。祐一は香里に近づいていって…
祐一「お〜い、か〜お〜り〜」
と肩をゆする。
香里「……あ?ごめんなさい…」
祐一「眠いのか?」
香里「まっ…まあそんなところよ」
祐一「家まで送っていってやろうか?」
香里「…………………私を背負って町中を歩ける?」
祐一「やれんことはないが…恥ずかしいな」
香里「それに私の家は…親戚がたくさん集まってるわ…」
祐一「……それはいろいろ良くないな……」
香里「……………正直すごく眠たいのよ」
祐一「俺は今から寝るつもりなんだが……」
香里「………」
祐一「名雪のベッド借りるか?」
香里「……動けない…このベッドで寝る…相沢くんは……名雪のベッドで…」
祐一「バカ言うな!寝れるわけがないだろう!!」
香里「悪いけど…寝かせてもらうわ……」
祐一「おい!!」
祐一のベッドに入り布団をかぶる香里。
祐一「………俺もここしばらく眠れてないんだ」
自分のベッドの前でつぶやく。
香里「どこか……適当なと…ころで…寝てくれない?」
半分寝かかっている香里。
祐一「……仕方ない…相布団だ…」
そういって、布団に入る祐一。
香里「ちょっと!」
少し赤くなって、祐一を追い出そうとする。
祐一「布団ないし……仕方ないだろ」
香里「でっでも!」
祐一「お互い眠いんだし…もう布団にはいっちまったし」
香里「あのね!!」
怒りかける香里。
祐一「おやすみ〜……」
香里「あ…相沢くん!起きて!!」
祐一「……………………………」
すぐに眠ってしまった祐一。それを見て、
香里「………今は寝るのが先ね…」
祐一に背中を向けて眠りかける香里。
香里「おやすみ……相沢くん」
その日の夕方…帰宅した秋子がこれ見て、微笑んでいたのは本人のみが知ることである。また、祐一を心配した名雪が部屋へ様子を見に行こうとしたのを止めたのも秋子である。ついでに、玄関の香里の靴を隠したのも秋子である。
……この一連行動がどういう意味を持つのかも本人のみが知っている。