白川亨著、新人物往来社刊の「石田三成とその一族」の紹介です。
この本を読んで、まず最初の感想は、三成とその子孫のことを、よくぞここまで調べ上げたものだ、という感嘆の思いです。
三成のことは、近年再評価が進んでいるとはいえ、まだまだ旧来のイメージが残っています。著者の白川さんは十余年の歳月をかけ、自らの足で三成の事跡を捜し集め、その真相を明らかにしているわけで、その姿勢には本当に頭が下がります。
では、独断で本書を読むポイントを以下に紹介します。
本書の第一章は、関ケ原の決起を巡る秀吉の正室・北政所と三成の関係を示したもので、いきなり通説を覆す内容です。
巷間伝えられるところでは、三成は秀頼の生母淀殿と親しいのに対し、北政所は武断派である加藤清正らと親しく、両者は対立関係にあったとされていました。しかし白川氏は当時の一次資料から、それは誤りであって、北政所と清正らが親しくなるのは関ケ原戦のずっと後のことであり、関ケ原戦当時は北政所は、三成・秀家ら西軍の決起を支持していたことを明らかにしています。(この論旨の一部は、本ホームページ「検証・石田三成」の項で、著者のご子息にあたる隼人さんが紹介されています。)
歴史解釈に対する新説というものには、得てして単なる思い付きで書かれているものが見受けられるのですが、白川さんの場合は、通説の論拠に検討を加えその誤りを明らかにしたうえで自説を展開されているので、たいへん説得力があります。
実は私も当初は、「三成が淀殿と親しい、というのは作られた話としても、北政所が三成と近い、というのは小早川秀秋の裏切りとの関係からみても難しいのではないか?」と本説に批判的な考えをもっていた時期もありましたが、本書を熟読した今では、白川説の方が通説より史実に近いであろうことに疑問を持ってはいません。
白川説は、歴史を結果から見ることの危うさを教えてくれます。
確かに最後には北政所は、武断派とも和解し、秀忠ら江戸政権の一部とも良好な関係を築きました。しかし、そこに至るまでの経緯・紆余曲折を全く無視し、
「最後に仲が良かったから、最初から仲が良かったのだろう。」
と短絡的に判断することは史実を見る目を誤ります。
(なお本論の要旨は学研「石田三成」にも掲載されてますので、白川説を気軽に見たい方はそちらもお勧めします。何といっても、この本は高いですし・・・)
この本のもう一つのポイントは、三成の子孫のその後に関する記述です。
関ケ原戦後、三成の子供たちはどうなったのでしょうか?
一族皆殺しの憂き目を見たのでしょうか? そういうことを書いている本もなくはないですが、史実は違うようです。
まず長男の重家ですが、これは徳川の手によって助命され出家し。京都妙心寺寿聖院宗亨禅師として天寿を全うしています。これは研究者間で異論は無いようです。宗亨禅師が記した石田家の系譜「霊牌日鑑」は、三成研究で欠かせない基本史料の一つになっています。
で、問題は次男以降です。
三成の子どもは、津軽にのがれたという記録があります。
ただ皆さんの中には、「三成の子どもは津軽に逃れたという説があるが、それは史実ではない。」という書き方をされた記事を読んだことがある方がいるのではないでしょうか?
これは、明治期に津軽を訪れた渡辺博士(この人は「稿本石田三成」を書き、三成復権の先駆けとなった人ですが)が、三成子孫の津軽落ちの記録を否定したことに始まります。学界の権威が一度明言したことなので、後の論文はこれを踏襲しているものが多いのです。
これに対し、白川さんは渡辺論は誤りであり、三成の次男隼人正源吾は津軽に落ち延び、その家系は藩家老を歴任した、と主張します。
白川さん自らが津軽に落ち延びた三成の子孫の末えいであり、この本は白川さんの、嘘吐き呼ばわりされた先祖の名誉回復のための訴えでもあるわけです。
白川さんは、津軽藩の家老をつとめた杉山家が三成の次男源吾の系譜であり、また三成の娘が北政所の養女として津軽二代藩主信牧に嫁ぎ、三代藩主の生母となったことを史料から明らかにしていきます。
これらを示す史料については、白川さんが同書の中で詳しく検討していることから、ここでは触れません。ただ私は、白川さんが同書で示しているように、複数の独立した史料が三成子孫の奥羽行きを示していること、(奥羽行きを否定した)渡辺博士の論拠に自己矛盾があることから、渡辺説より白川説が正しいと思っています。
ただ、単にこの話を聞いたとき、
「関ケ原の敗者となった三成の子孫を、どうして津軽家が匿ったのだろう?」
と疑問を呈される方があるのではないでしょうか?
これに対し、白川さんは生前の三成と津軽家の親密な関係に触れていますが、個人的には、私はそれだけでは不十分ではないか、と感じています。
以下、全くの思い付きですが・・・
津軽家の当初の意図は、三成の子孫を保護することにより、中央との繋がりを維持することにあったのではないか?、と思っています。
関ケ原で徳川が勝利をおさめたとはいえ、まだ大坂城には秀頼がおり、徳川・豊臣間がどうなるかは、まだ流動的でした。辺境にいる津軽家としては情報収集に遅れをとらないように、中央の北政所らとパイプを保つために三成の子どもを保護するのが適当と考えたのかもしれません。
もちろん、これには関ケ原戦当時は、まだ敗者の子供までは追及の手が厳しく及ばなかった、という背景もあったと思いますし、江戸初期には三成の姦臣像は成立せず、それなりに評価されていたという事実もあったと思います。
後に三成の評価が厳しくなったころは、津軽杉山家は藩内の重鎮となっており、祖先の隠蔽工作に走ったのではないでしょうか?
とりあえず独断でポイントだけを書きましたが、この本にはその他にも、家康の側室於亀の方を巡る謎、三成と真田親子の密接な関係などにも触れられています。
値段は高いですが、その分、内容の濃い本です。