石田三成の忠臣−島左近の謎(左近は信長の従兄弟だった!?)

目次
(1)島左近の略歴
(2)島左近の出自の謎−左近は信長の従兄弟だった!?
(3)関ヶ原戦後の謎−左近は死なず!
(4)島左近と柳生一族の関係

「三成にすぎたるもの二つあり
嶋の左近と佐和山の城」

・・・と言われたという、島左近勝猛は、個性派揃いの三成家臣団の中でも特に精彩をはなってますね。特に最近は、原哲夫氏の漫画「影武者徳川家康」「SAKON」で二枚目の役どころをやって、また有名になりましたね。

(ちなみに上記の「三成にすぎたるもの・・・」の落首は、享保年間に成立した「聞書集」に、「関ヶ原の戦いの2・3年前から言われ出したものである」といって紹介されてるのですが、オリジナルは「嶋の左近と百間の橋」となっていたそうです。百間(180m)の橋は琵琶湖の内海に三成が作ったもので、今は埋め立て地になってもう跡形もありませんが、当時としては画期的なものだったようですね。)

・・・少し話が逸れましたが。
その三成の忠臣として名高い島左近ですが、その出自・行く末には結構謎めいた部分が多く残されています。
ここでは、その島左近について考えてみたいと思います。

(1)島左近の略歴

良く言われる島左近の略歴・挿話を書くと、概ね以下のようになります。

島左近勝猛

武将。対馬の出身。清興、友之、清胤ともいう。
最初は筒井順慶に仕え、重臣松倉右近とともに筒井の「右近左近」と並び称され、伊賀上野城を預かっていた。順慶の死後、その子定次と意見が合わず浪人し、近江江南の高宮に隠棲した。
当時(天正11年=1583年頃)甲賀水口4万石の城主になったばかりの三成がこれを知り、高禄で招いた。これに関しては、「関ヶ原軍記大成」や「常山紀談」に有名な逸話が記されている。それによれば、ある日、秀吉が三成を招き、尋ねて言うには、
秀吉「このたび加増してやったが、何人ほど士を召し抱えたか。」
三成「一人だけでございます。」
秀吉「一人だけだと。一体、誰を召し抱えたのか。」
三成「島左近というものにございます。」
秀吉「島左近といえば、高名な男。そなたごときには仕えまい。いかほどの知行を与えたのか。」
三成「されば拙者の知行四万石のうち、二万石を与えました。」
これを聞き、秀吉は「君臣の同じ知行を貰うというのは聞いたことがない。」と笑って三成を誉め、さらに島左近に対しても手ずから羽織りを与え、「三成と心を併せ、天下の仕置きにも心を配って欲しい。」と述べ、左近も大いに面目を施したとのことである。
ただし、これには勿論異説があり、そもそも三成が水口城主になったことを否定する説もあれば、江戸期の山鹿素行の表した「武家事紀」にあるように左近が三成に仕えたのは、筒井家を去ってから羽柴秀長・秀保親子に仕えたあとのことだ、という説もある。
いずれにせよ天正20年(1592年)三成が佐和山城にあった頃には、左近がその高禄の重臣として侍していた事は「多聞院日記」等、他の同時代史料でも裏付けられるので疑いはない。

左近が三成に仕えた後の話としては、例えば三成に徳川家康暗殺を頻りに勧めた、などの挿話も残っているが、何といっても活躍の記録が多いのは関ヶ原の戦いである。
関ヶ原の前哨戦である杭瀬川の戦いでは、東軍の中村隊を翻弄し、大いに西軍の士気を高めた。また関ヶ原の戦いでは、三成隊の先鋒として最前線で戦い、その勇猛ぶりは「黒田家譜」等多くの記録に残っている。戦い半ばにして、黒田隊の銃手管六之介らに撃たれて負傷して退き、その後は戦死したとも、生きて落ち延びたとも言われている。

(2)島左近の出自の謎−左近は信長の従兄弟だった!?

島左近の略歴は以上のとおりなのですが、実は左近の出自については良く分かっていません。筒井家で重臣となる以前の島左近に関しては、なかなか史料が無いのですね。
一般に左近は対馬出身だと言われてますが、これも確証があるわけではありません。
よく言われるのは畿内出身説で、これは「常山紀談」に・・・
「左近がもと父、室町将軍家に仕え・・・」
と幕臣であったことを示す記述があるのが論拠になっています。しかし、この「常山紀談」は、実は史実を見る上ではあんまり当てにならない本だと言う方が多いですね。

島左近は大和出身だ、とする説もあります。
「平群村史」によると、左近は興福寺一条院領荘官の嶋氏の血を引く者だとされています。

もっと驚くべき説として、「左近=信長の従兄弟」説があります。これはNifty-serve歴史フォーラムで会員の方(ハンドル名:マハラジャさん)が史料から発見して話題になった説です。出典は「寛政重修諸家譜」であり、これは江戸期にまとめられた有名な系図集で、少なくとも「常山紀談」よりは信頼がおけるものです。
それによれば、織田信長の父信秀の弟に信正というものがおり、これが美濃国嶋村に住んで嶋氏を名乗ってますが、「寛政重修諸家譜」では、その嶋信正の三男に関ヶ原で三成に属し戦死した左近がいることになってるというのです。(ちなみに嶋家は、その後、長男が継いで1600石の旗本として続いてます。)

これが正しければ、「島左近は実は信長の従兄弟だった!」という事になるのですが・・・
ただこの史料を見つけた会員の方本人が、「でも、これは旗本嶋氏が先祖を飾るために言った可能性が高い。」とされていますが、何とも魅力的な説ですね。

私自身は、左近は近江出身では無いかと思っています。直接的な根拠は無いのですが、左近が一時、近江高宮へ隠棲したこと(人間はおそらく引退したら故郷のそばに帰るでしょうから)あたりが、どうもそういう気になります。
当時、近江には嶋氏を名乗る国人が多数おり、中でも坂田郡飯村の嶋一族は浅井氏の被官として佐和山城攻防戦で活躍しています。
私は何となく、島左近はこの嶋一族の流れを汲むものであり、だからこそ佐和山の三成の招請に応じたのでは無いかという気がするのですが・・・
坂田郡飯村と三成の出身の石田郷はそんなに離れてなく、もし左近が近江の嶋一族出身だとすると、左近と三成は、主従になる遥か昔から知り合いだった可能性も出てくるのですが、これはまあ小説家的発想かもしれません。

さて、左近の出自として・・・
「対馬説」「畿内説」「大和説」「美濃説(信長の従兄弟説)」「近江説」
・・・等々出ましたが、あなたはどう思いますか?

(3)関ヶ原戦後の謎−左近は死なず!

関ヶ原で壮烈な戦死を遂げたとされる島左近ですが、実は関ヶ原戦で左近は戦死せずに生き延びたとする説は数多く、また史料も多く残ってます。
「関ヶ原町史通史編」「石田三成の生涯(新人物往来社)」には、この辺の記録が詳細に記されており、それによれば左近は関ヶ原戦後、京都に隠れすんだことになっています。
記述をいくつか抜粋すると・・・・

・慶長八年の合戦図にの竹生島に「(合戦の翌日)十六日夜島左近宿す」の記述がある。
・京都市の日蓮宗教法院に島左近の過去帳、墓碑があり没年は寛永九年(関ヶ原の32年後)になっている。
・・・などの史料があります。
また東北へ落ち延びた説もあり、陸奥国で浜田甚兵衛と名乗ったという話もあります。
これもNifty-serveの会員の方の紹介ですが、現在、岩手県陸前高田市の浄土寺の過去帳の正保五年の死亡者の中に
「香誉浄林 八月晦日 浜田甚兵衛」
と書き記され、その横に嶋村左近と添え書きされ、享年八十六歳であったそうです。

東北説はともかく、京都へ落ち延びた説はかなり信憑性があると思っています。戦後の落ち武者狩りは厳しかった筈ですが、左近の場合は、大和柳生家との強い繋がりもあり、その保護を受けたのではないでしょうか。

(4)島左近と柳生一族の関係

最後に島左近と、将軍家師範役柳生一族の関係に触れておきます。
これは大変強かったらしい、というのは左近の娘が、柳生家に嫁入りしているからです。
左近の娘が嫁いだのは、柳生兵庫頭利厳であり、後に尾張柳生の祖となった人です。
有名な柳生連也斉は左近の孫に当たるわけです。
左近と柳生家の関係は、おそらく左近が筒井家に居る頃には始まっていたと思います。左近が関ヶ原戦後も生き延びたとすれば、この柳生家との関係を無視することはできないでしょうね。



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