−石田三成の城−

1.佐和山城
2.水口城(古城)


石田三成の城−1.佐和山城−

石田三成の城、として名高い佐和山城は彦根駅の東北に位置しています。
Nifty-serveの歴史フォーラムの集いで、この佐和山城を探訪してきました。以下はその報告文の抜粋で、これもNifty-serveの掲載文を抜粋したものです。


彦根駅よりみた佐和山佐和山城本丸祉

02774/02774 GAH00561 SHUN 【オフ報告】佐和山城(1)
(12) 97/04/02 23:56 02621へのコメント

だいぶ遅くなりましたが、先日の彦根オフでの佐和山城報告です。
三成ファンの私にとって、佐和山城は聖地巡礼にもあたるのですが、実は今まで佐和山城には行ったことが無くて、今回が初めての登城となりました。

オフから時間が経ち、だいぶ印象も薄れてきたので、勘違い等あるかも知れませんが、撮ってきた写真や資料を見返しながら書いてます。

地図を見ると、佐和山は主に四つの峰からなっています。

一つは山の東側、中山道方面へ延びており、これが大手道。
あと二つは西側の湖の方へ向かっており、これが搦め手になります。
一つは法華丸という名の出丸を経て南西方向に走る峰、もう一つは煙硝倉を経て北西方向の大洞弁財天または龍潭寺へいく峰です。更に法華丸へいく峰から分かれて城の南東方向へ走る尾根があり、そこに太鼓丸という出丸があったそうです。

今回のオフで地元のNさんの案内で登ったのは、その搦め手の法華丸から登り、大洞弁財天(ここはかつて、湖への船着き場、水門があったそうですが)へ降りるというものでした。
城の規模や構造を見るには大変良いコースのように感じられました。
ちなみに大手道の方は、今まったく道が残ってないそうですが、こちらも是非いつか探訪してみたいです。

登山口から暫く登ると、法華丸あとにつきます。ここは明らかな削平地になっているので、それと分かります。ただ、そのあとこの峰は結構長いので、絶対堀切等はあったはずですが、どうも気づきませんでした。
それから、今も水を湛える千貫井(千貫にも代え難い井戸という意味だとか)落城時、婦女子が身を投げたとされる有名な女郎谷(よく小説に取り上げられますね)を通り、更にNさんのご案内で道無き道を登り、佐和山に僅か二つだけ残っているという石垣の石を見たあと、本丸登城となりました。

本丸跡はさすがに広いですね。井伊家が三成の跡を残さないように削った為に広くなったという話もあるそうですが、五層の天守があったほどですから、往時もそれなりに広かったのでは無いかと思います。
ただし、さすがに破城の為か、土塁や虎口の跡などは残ってません。
(大手の方は土塁も残ってるそうですが)

そのあと煙硝倉跡をとおり、大洞弁財天に降りました。こちらではいくつか堀切の様に思われるものも散見しました。

城跡の感想はまだまだあるのですが、だいぶ長くなりましたので回を分けます。
97/04/02 <<GAH00561//SHUN>>
02798/02802 GAH00561 SHUN 【オフ報告】佐和山城(2)
(12) 97/04/05 16:01 02774へのコメント

佐和山報告の2回目です。

よく言われる事に、
「三成に過ぎたるもの二つあり、嶋の左近と佐和山の城」
というのがあり、佐和山の城というと三成の城というイメージが強いのですが、実は、皆さんもご存じの通り、三成が佐和山に在城した期間はそんなに長くはありません。
(ちなみに、この落首も元々は「嶋の左近と百間の橋」と言うのだと、地元のNさんにお伺いしましたが)

三成の佐和山入封には諸説ありますが、一番後の説の文禄4年(1595年)入封説だと関ヶ原まで僅か5年、最も早い説の天正18年入封だとしても関ヶ原までは10年です。
12世紀に佐保氏によって作られ、400年の長きにわたる佐和山城の歴史の中で三成の時代はその一瞬を飾るに過ぎないのですが、それでもこの城が三成の城と言われるのは、三成の知名度によることも勿論ですが、その時代に果たした佐和山の役割とその凄絶さによるところが大である、と思います。
おそらく江北の地元出身の石田一族にとっても、佐和山城は特別の感慨ある城だったのでは無いでしょうか。

さて、その佐和山城ですが、遺構があまりはっきり残っていないということは、#2774にも書きました。
ただ規模は雄大であり、これも書いたとおりです。また東山道と琵琶湖の内海(当時)に望む地の利もなかなかです。

・・・ただ、城自体については、どうも佐和山城は山の規模が大きく峰も多すぎて、出丸の郭間の相互の連絡が悪く、少人数では守りきれそうもないような印象も受けました。
遺構が残ってないせいで、そう感じたのかも知れませんが。

しかし実際、関ヶ原後の佐和山落城の際に、出丸、櫓の多くに使われた形跡が無いそうであり、それもその辺の事情によるような気がします。
関ヶ原後、戦巧者の井伊直政が、一旦は佐和山に入城しながら移城を志したのも、(その理由は、佐和山が戦で荒廃してたからとか、いろいろ言われてますが)、ひょっとすると佐和山自体の軍事上の弱点によるの面もあったかも知れないと、思います。

古くから、この地方の中核的な城塞であった佐和山城に対する愛着も、地元の石田一族と、進駐軍的な井伊家とは大きく違ったものがあったでしょうし。

いずれにせよ、今回は主に搦め手の尾根と本丸付近しか見ていないので、今度は是非、雑木林に埋もれた大手も探訪してみたいと思います。
また佐和山城と連携する位置にあった諸城塞も行ってみたいですね。そうするとまた少し違う佐和山城の姿が見えるかもしれなという気がしてます。
佐和山城本丸祉に残る石垣跡。井伊氏の徹底した破城のため、石垣2個しか残らなかったという。



石田三成の城−2.水口城(古城)−

水口城・・・といえば、三成が初めて一国一城の主となった記念すべき城です。
ただ、その城は現在市街地の中心部に整備されて残っている水城の水口城ではありません。現存する水口城は、徳川家光のころ作られたものです。
三成のころの城は、市街東方の大岡山(古城山)にあり、別名を岡山城と言われていました。以下の記事はニフティ・城フォーラム(FSIRO)に載せた水口城紹介文の抜粋です。

水口古城(岡山城)碑城址に残る苔むした石垣 水口古城跡遠望

00183/00183 GAH00561 SHUN 【三成の城】水口古城(岡山城)

( 5) 97/07/22 00:43

【城 跡 名】水口古城(別名:岡山城)
【所 在 地】滋賀県甲賀郡水口町
【交通機関】近江鉄道水口駅下車。駅から山頂まで徒歩15分程度。
      中腹まで車乗り入れ可能。駐車場あり。
【築城年代】戦国末期(1583年以前)
【廃 城】1635年
【形 式】連郭式山城(標高281m)
【主要城主】石田三成、中村一氏、長束正家
【主な遺構】石垣、堀切、削平地らしきものなど

先日、三成が初めて城主になったとされる水口城へ行って来ました。

水口城といっても、家光が築いたという現存する水城の水口城の方ではなく、市街地東方の古城山(大岡山)にある古城(別名:岡山城)の方です。

新人物往来社「石田三成のすべて」の記述では、遺構は残って無さそうなので、

「麓から眺めれば良いか。」

と思って所用のついでに寄ってみたのですが、実際に行ってみると・・・???




水口古城がたつ大岡山は、川近くの独立丘陵で、まさに城作りの教科書通りの場所に建っています。

水口駅を降りると正面に、その山が見えます。

「どっかから、登れるのかなあ・・・。」

と思って山の周りを歩いていると、中腹を巻いて上るような道があり、「どこまで行くのか。」と思って歩いてると、なにやらブランコと駐車場のある広場に出まして、そこには何と案内板までありました。

しかし、その案内板の記述たるや・・・

「緑陰のお花畑」「リフレッシュの園」「展望広場」「子供の園」等々

・・・な、なんだ、これは!?

と思わず唸りましたが、要は水口古城は市民の憩いの丘陵公園に生まれ変わっているようでした。(ま、良くあることかも知れませんが)

しかし、せっかく城跡に立ってるのに、「本丸」とか「大手道」とか、城を偲ばせる名前が何も無いのも、ねえ。

あ、一つだけ「石垣探訪の道」なるハイキングコースがありましたが、誰も石垣には興味がないのか、その道は草茫々で足下が見えない状態。

無理して進んでいくと、白黒の蛇の出迎えを受けました。(だから、夏の山城は嫌なんだ(;_;))

とりあえず苔むして草に埋もれて崩れかけた、野面積みの石垣は遺構として残っていることを確認しました。

その他、本丸とおぼしき展望広場まわりには切岸が見られ、またそこと二の丸とおぼしき「緑陰のお花畑」の間には、堀切らしき遺構も見られます。

また山中には郭跡のような削平地が多くありますが、どの辺が遺構で、どの辺が公園造成の際に作られたものか、私には良く分かりません。

本丸の広さから、かなり大がかりな城だったことは、おぼろに推定されますが。

整備してくれたお陰で、山頂まで楽なハイキングコースで行けるのは有り難いのですが、造成前にちゃんと発掘調査はやってあるのか気になるところです。

遺構を一度崩してしまうと、もう以前は偲べない分けですから。

また山中に怪しげな石仏のオリエンテーリグコース(?)があるのも、気になります。宜しくお願いします>>>水口町教育委員会殿。




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