検証・石田三成 

関ヶ原合戦の号笛を鳴らしたのは誰だったのか!?


以下の記事は、97.9.28から10.6にかけて、Nifty-serveFrekimtmes(4)に登録したものです。

082/082 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(1)通説への疑問

( 4) 97/09/28 11:36

三成ファンの私にとって、「関ヶ原」という言葉は特別の思い入れがあります。

でも歴史ファン一般には、「関ヶ原合戦」というと、「何を今さら」と言われる方も多いかも知れませんね。

日本史上最も有名な戦いであり、史料・軍記物・出版物の類も多い。史跡も良く残ってますしね。

戦いの経緯は通説化した観があります。

しかし、それでも関ヶ原合戦を巡る謎・疑問は、多くあると思うのです。そのあたりを、この機会に是非検証してみたいと思います。

ここで、私がまず疑問を呈したいのは、戦いのキッカケです。

なぜ三成が大垣城での持久戦を捨て、関ヶ原での決戦を選んだか?、です。

多くの通説では、こうなっています。

「大垣城に籠もる西軍をみて、城攻めの苦手な家康は一計を案じ、こう流言を流した。

『家康は、大垣城をほっておいて、佐和山・大坂城を直接攻めるつもりである。』

計略はまんまと当たり、佐和山を攻められてはたまらない、と恐慌をきたした石田三成は大垣城を出て、関ヶ原へ走った。

かくて、まんまと西軍を城からおびき出した家康は、関ヶ原で予定通り大勝利をおさめたのである。」

・・・そ、そ、そぉんな筈は、な〜い!!!、・・・というのが私の考えです。

その理由は、いくつかあります。

まずその一つとしては、かの「信長の戦国軍事学」の藤本氏も喝破されてますが、真実、家康が西軍をおびき出したのなら、関ヶ原であのような不利な陣を敷くのは全く不自然であるからです。

氏の文章を引用すれば・・・

「家康が三成を関ヶ原に誘い出すべく、西軍に対して佐和山攻めの情報を流すほどの計略を立てていたならば、(中略)計略にかかって移動してくる西軍を徹底的に叩かせたであろう。事前に布陣を済ませた軍勢が夜間移動中の軍勢を迎え撃つほど楽なことはないからである。」

・・・となります。計略が図にあたって三成をおびき出した筈の家康側が、不利な位置に陣しているのは理屈に合わない、ということです。卓見だと思います。

また史料的・状況的にも、合戦のほんの直前までは、三成・家康とも短期戦を指向していなかった事を匂わせる点も多く見つけられます。

                      ・・・・・(続く)

三成陣跡笹尾山から関ヶ原合戦場を俯瞰したもの。

084/084 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(2)長期戦狙う両雄

( 4) 97/09/28 11:51 082へのコメント

客観的にみて、家康には開戦時期をもう少し遅らせたい事情がありました。

というのは、皆さんご存じの通り、東軍の家康側は東山道から来る徳川主力・秀忠軍の到着を待っていたからです。

家康は、9月11日に清洲に入り、その後「風邪をひいた。」と称して清洲に逗留していますが、これは秀忠軍の到着を待つための時間稼ぎ、とみる向きが多いですね。

一部には、家康が豊臣系外様大名を中心に合戦に臨んだのを、

「豊臣系大名を共倒れさせて、徳川本隊を温存させることを狙ったのだ」

との穿った見方をされる方がいますが、これは理屈に合わなくて、家康が当初から、関ヶ原で福島正則ら豊臣系大名に大功をたてさせたくはなく、結果として大功をたてた彼らを遇するのに苦慮した事は、笠谷氏が「関ヶ原合戦」(講談社)で論証されています。

他にも史料面で、家康が長期戦を考えてたことを窺わせるものがあります。

「古文書集」にある9月1日付けの真田信之あての書状がそれです。

内容は・・・・

「急度申し候。よって大柿(垣)に治部少輔、島津、備前中納言、小西摂津守籠り居り候。

即ち取巻きて水責めを成すべしと、早速出馬せしめ候」

・・・となっており、家康が大垣城を水攻めにする、即ち長期戦を覚悟してたこと窺わせてます。

一方で、西軍三成側にも合戦を遅らせたい事情がありました。

西軍三成は、大坂城の輝元の出馬を要請しており、また畿内の友軍を美濃に集結させるのに躍起になっていました。

輝元は結局出馬しなかった分けですが、大津城攻めをしていた立花宗茂らは、13日に城を陥落させ、合戦当日は草津まで来ていました。

もし西の勇将立花宗茂が関ヶ原合戦に間に合っていたら、合戦の様相は大きく変わっていただろう、と言う人は多いですね。

三成自身も決戦は、すぐには起きないと考えていたことは古今消息集にある9/20付けの増田長盛あての手紙でも明らかです。

これは長盛の手に渡らず、家康の手におちたことで有名ですが、その中では・・・

「江濃の境目松尾の御城、いずれの御番所(郭)にも中国衆いれおかるべき御分別もっともにて候。(中略)敵陣二十日のうちに敗り候わん。」

・・・とあり三成が松尾山を含む関ヶ原戦域での籠城、および今後20日以上にわたる長期戦を考えていたことが明らかになっています。

当時、家康・三成らが友軍の情報をどこまで掴んでいたかは良く分からないのですが、(家康は秀忠の状況は良く分かっていたようですが)ともかく双方にとって合戦をもう少し先に延ばしたいという事情は確かにあったと思います。

もし彼らの意志通りになったのであれば、関ヶ原合戦はもう4,5日後に、東の榊原康政、西の立花宗茂らを加えて更に大規模な合戦・長期戦になった可能性もあった分けです。

ところが双方の思惑に関わらず、皆さんご存じの通り、結果的には関ヶ原はわずか1日の短期決戦に成ったわけですね。

そこには、三成・家康双方の思惑を崩したある脇役、陰の人物の暗躍があったように思うのです。

それらに関する私の独断と偏見の推理を、最近関ヶ原戦で注目されている、いわゆる「松尾新城説」を絡めながら語りたいと思います。

                    ・・・・・・・(続く)

大垣城天守

085/085 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(3)関ヶ原までの歩み

( 4) 97/09/28 11:55 084へのコメント

結論から言う前に、まず関ヶ原合戦までのタイムスケジュール・状況を振り返って起きたいのですが、日を追って書くと、以下の通りになります。

 7月24日  小山会議。

 8月10日  西軍、三成、大垣城に入る。

 8月14日  東軍、福島・池田ら清洲城に入る。

当初、岐阜−大垣ラインが西軍の防衛線になるかと思われましたが、この後、福島らの岐阜城攻めで戦局は一挙に進展します。

 8月21日  東軍、竹ヶ鼻城を陥す

 8月23日  東軍、岐阜城を陥す。

  同日    西軍、石田隊、合渡川で破れる。

岐阜城の失墜で、西軍の前線は大きく後退します。一方で西軍側には援軍もやってきます。

 8月23日  宇喜多秀家、大垣城に入る。

 8月27日  東軍、美濃赤坂(大垣西北4km)まで進駐。

 9月2日   大谷吉継、関ヶ原に布陣。

 9月7日   毛利秀元、吉川広家、長曽我部盛親ら南宮山に布陣。

大垣城の背後の美濃赤坂まで一気に侵攻した東軍ですが、西軍も増強され、このあと戦線は、一時的に膠着状態に入ります。

その中で、三成の盟友で最も信頼できる大谷吉継が、最前線の大垣城に入らず、関ヶ原に布陣してるのは注目できます。当初からこの方面を三成が重視していた傍証と考えられると思います。

まとめると、この時点で注目したいのは、8月27日以降、合戦前日の9/14まで戦線が大垣−赤坂間で停滞していること、三成の最大の盟友、大谷刑部が大垣に来ずに関ヶ原にいることではないか、と思います。

局面が次に大きく動くのは、やはり家康来着からです。

                        ・・・・・(続く)

086/086 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(4)決戦前日の事件

( 4) 97/09/28 12:03 085へのコメント

家康が名古屋へ入って以降の状況を見ます。

9月1日   家康、江戸を出発

9月11日  家康、清洲へ到着

9月13日  家康、岐阜へ到着

同日    小早川秀秋、松尾山城へ入城

9月14日  (早朝)  家康、美濃赤坂へ到着

 同日    (夕刻)  石田方、島左近、杭瀬川で東軍中村隊を破る。

 同日    (夜7時) 西軍主力、関ヶ原へ転進を始める。

9月15日  (朝3時) 東軍、関ヶ原へ移動開始

 同日    (朝7時) 開戦

家康が9/11に清洲にいながら、そのすぐ先の美濃赤坂へなかなか進まなかったのは、真田勢の奮闘で延着している秀忠軍を待っていたため、と言われてます。

家康としても徳川主力を含めた、万全の状態で開戦に望みたかったのですね。

ただその後、家康が美濃赤坂に入ってからは戦局が一挙に動くので、従来、家康の着陣後に一気に戦機が高まった、と言われてました。

しかし戦いの前日には、もう一つ注目すべき出来事が起きています。

  「 同日    小早川秀秋、松尾山城へ入城」

という事です。

従来、この事実は開戦との関係ではあまり重視されてませんでした。

秀秋が合戦で重要な役割を果たしたのは周知のことですが、この秀秋が合戦前日に関ヶ原に現れたことは、ただ何となくやってきた、という感じで諸書でもあまり注目されてません。

しかし、私は・・・

「決戦前日の9月13日に行われた、小早川秀秋の松尾山城奪取こそが、開戦時期を早めた要因だ!」、

・・・と、いま思っています。

ただ、自分でもちょっと強引な説だと思うので、少し順を追って説明して、できればご意見ご批判頂きたいと思います。

まず最初は、小早川秀秋が陣した松尾山とは、関ヶ原合戦上どのように重要な意味を持つのか、またのような状況下で秀秋が松尾山へ入ったかを振り返りたいと思います。

087/087 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(5)松尾新城説とは

( 4) 97/09/28 16:18 086へのコメント

最近、注目される松尾新城説とは、どういうものか。ご存じの方も多いと思いますが、ここで振り返っておきたいと思います。

江濃の境目関ヶ原は古くから戦略上の要地であり、古くは不破の関が置かれ、関ヶ原の戦い以前も壬申の乱、青野原の戦いなど、日本史上重要な戦いが行われていました。

その関ヶ原の西南の一角を占める松尾山の重要性も勿論言うまでもなく、戦国期も美濃近江を巡る戦いの中で、いくつかの城が築かれてます。

記録に残るところでは、戦国期の1520年前後、土岐氏・浅井氏の争いの中で、浅井氏の家臣堀氏が関ヶ原の松尾山に長亭軒城を築いています。長亭軒城(旧松尾山城)の縄張りは、あまりはっきりしないようですが、各史料の書き方からは、松尾山の東麓あたりにあったように感じられます。

長亭軒城(旧松尾山城)は、その後浅井氏の美濃側の拠点となりますが、浅井・織田抗争中の1570年の4月になって織田方の竹中半兵衛の調略により城代樋口三良兵衛が開城し、織田方に接収されています。

(この辺の記述は「関ヶ原町史」による)

織田方に接収されたあとの旧松尾山城の様子はよく分かりませんが、(不破光治が城主となったという話もありますが)、江濃一帯が織田に属したことから戦略上の重要性は薄れたことから、荒れるに任せた状態にあったように想像できます。

ところが近年になって地元郷土史家らによって、この松尾山城が関ヶ原の戦いの直前になって、三成らの手によって大規模に拡張され西軍の主要拠点になろうとしていた、という考えが示されました。

いわゆる「松尾新城説」です。

松尾新城説のポイントは以下があります。

1.松尾山の城跡の遺構は、松尾山の各尾根・山腹にわたり広さは約4万平方メートルにおよぶ。

 これは、浅井氏時代の遺構とは思えない大規模なものである。

2.「寛政重修諸家譜」の稲葉家譜に、小早川軍が「松尾山の新城に入った」 との記述がある。これは浅井氏の旧城と区別していったものと考えられる。

3.三成が、増田長盛に出した手紙(既出)に、「松尾の御城、いずれの御 番所(郭)にも中国衆入れおかれるべき」とあり、松尾山城がかなりの大 規模だったことが推定される。

(この辺の記述は、主に学研「歴史群像」1992/8号による)

三成ら、西軍が関ヶ原の松尾山に大規模な築城をしていたこと、これは「三成は関ヶ原におびき出された」という通説を覆すものでした。

私も、関ヶ原の松尾山に登った時は、その遺構の規模と見事さに驚きました。

それでは何故三成の思惑は外れたのか、西軍の松尾山新城はどのように築かれ、どうして決戦日に小早川秀秋がそこにいたのか、について、次に私論を展開させていただきたいと思います。

                         ・・・・(続く)

 

松尾山の秀秋陣跡

092/095 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(6)小早川秀秋の動き

( 4) 97/09/29 23:41 087へのコメント

ここで関ヶ原戦のキーパーソンの一人である小早川秀秋の、関ヶ原戦までの動きを見てみましょう。

小早川秀秋は、皆さんご存じの通り、8月1日までの西軍の伏見城攻めには参加するのですが、その後、不可解な行動を取り始めます。

石田三成・宇喜多秀家らに、伊勢路への参陣を指示されますがそれには応じません。8/17になって、ようやく大坂城を出ますが、その後石部に十余日滞在、それから伊勢鈴鹿に赴き西軍の伊勢攻めに参加するのかと思えば、また近江高宮に舞い戻り、柏原を経て決戦前日に関ヶ原松尾山にのぼっています。

この不可解な行動は、当然西軍諸将の疑いを招いたでしょう。

鍋島・京極などの寝返り派も、当初は西軍と行動を共にしていた事を思えば、この秀秋の西軍から一線を画した動きは、寧ろ彼らより一歩踏み込んだ東軍への荷担ととれると思います。

この辺の事情は、寛政重修諸家譜の稲葉氏伝によればもっと劇的です。

この史料は徳川の世になってから作られたので、その辺割り引いて考える必要はあるかと思いますが、私の推論の上では重要な史料なので、少し長くなりますが主要部分を引用します。

伏見城攻めの後の秀秋は・・・

「三成、秀秋をして伊勢国津の城におもむかせむといへども、秀秋心に服せず、関地蔵より引き返し、近江高宮に陣す。これによりて三成等、秀秋が二心あることを疑う。

ときに大谷吉継、佐和山の城にありて秀秋を欺き、捕らえんとてこれを招く。

秀秋あえて行かず。

吉継また平塚因幡守為広、戸田武蔵守重政をして高宮に至り、秀秋に謁せんこと請しむ。(稲葉)正成、その偽って害せんことを察し、秀秋をして病と称し会わざらしむ。

すでにして秀秋、柏原に陣を移す。賊徒、相図りて、秀秋が陣を攻めんとす。

九月十四日、政成、諸士と相議し、兵を率いて美濃国に赴き、松尾山の新城に入り、その城主伊藤長門守某を追い払う。

十五日、関ヶ原の戦いに秀秋かつて東照宮(家康)に約したてまつるに違わず、戦いの半ばに松尾山より兵を発し、大谷吉継が陣を攻む。」

・・・となっています。

西軍の勢力圏内にあって、大兵力を抱え独自の行動をとる小早川秀秋に、西軍が対応に苦しんだことが記されています。

特に「秀秋誅すべし」とした西軍首脳の最先鋒として大谷吉継の名が挙げられているのは注目して良いと思います。

小早川秀秋の存在を西軍のアキレス腱であると喝破し、その対応に最も苦慮していたのが大谷吉継であることは、後の経緯からもあきらかであるからです。

                   ・・・・・・(続く)

苔むした大谷吉継の陣跡の碑

098/099 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(7)吉継と秀秋

( 4) 97/10/03 00:11 092へのコメント

小早川秀秋が、松尾山城に入城した状況は、どうだったのか。

この辺にふれてる史料は少ないですが、先に引用した寛政重修諸家譜に、

   「兵を率いて美濃国に赴き、松尾山の新城に入り、

          その城主伊藤長門守某を追い払う。」

書いてあるのは興味深いと思います。

あまり平和裡に入城したわけでも、まして一部に言われてるように三成ら西軍側が招いて松尾山に入らしたとはとても思えません。

この辺の話に関連して、興味深い記述が「関ヶ原町史」に出ています。

 「(合戦前日)関ヶ原の大谷吉継から、本日正午に小早川秀秋が松尾山に来て陣取っ たが、態度が怪しいので警戒の要があり、全軍関ヶ原で家康の軍を迎え撃とうとの書 状があった。(中略)三成は即刻全軍関ヶ原に移動してかの地を決戦場とすることと した。」

大谷吉継が小早川秀秋を警戒し、その裏切りに備えていたのは有名です。

関ヶ原古戦場の大谷吉継の陣跡に立つと、そのことが更に実感できます。

大谷吉継の陣は、裏切り組を除くと西軍の最右翼に位置するのですが、その陣は東からくる東軍の福島・藤堂らの軍勢と向かい合う形にはなっていません。

吉継の陣はまっすぐ松尾山だけを見据えています。

大谷吉継はその軍才を秀吉に絶賛された人物ですが、それだけに松尾山の秀秋の動きが持つ重要性を良く理解していたように思います。

また、それだけでなく吉継には、なにがあろうと松尾山を抑えなければならない、個人的事情もあったように感じられます。

                   ・・・・・・(続く)

 

103/103 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(8)吉継の狙い

( 4) 97/10/06 23:17 098へのコメント

関ヶ原戦に関する私の推論をまとめる前に、この戦いにおける大谷吉継の役割を私なりに振り返りたいと思います。

関ヶ原の古戦場を巡った人は、石田三成ら西軍の布陣が、実に要所を押さえ地の利を得ていることに驚かれるのではないかと思います。

石田隊に土地勘があったとはいえ、深夜から未明にかけて悪天候の中での移動の中で、これほど整然とした布陣ができたのは不思議です。

これには当然、すでに以前から関ヶ原に布陣していた大谷吉継の働きがあったと思います。

関ヶ原に友軍を誘導し各人の布陣場所を決め案内したのは、大谷吉継だったのではないでしょうか。関ヶ原決戦を吉継の提案としている「関ヶ原町史」にもそれを示唆する記述があります。

また三成の笹尾山、秀家の南天満山には数重の竹矢来も設けられていたといいます。

布陣から決戦までのわずか4時間の間に、果たしてそれほどの防御施設を作れたか、というのも疑問があります。(まあ戦国時代の日本人だからできたのかもしれませんが)

私は、これらの防御施設も予め大谷吉継によって作られていた、という可能性もあるのではないか、と思います。

以下、さらに想像をたくましくしますが・・・

あるいは決戦時点で、松尾山のみならず笹尾山・南天満山など関ヶ原を巡る要所はすでに要塞化されていたと考えることも出来るんじゃないでしょうか?

そう考えると三成の最大の盟友である大谷吉継が、最前線の大垣城に入らず関ヶ原にとどまっていたことに納得がいくのです。

大谷吉継は、おそらく西軍の主力が大垣城に集中していることへの危惧があったのでしょう。

それこそ大垣城が水攻めにされたり、関ヶ原を東軍に奪われるなどして、大垣城の三成・秀家と上方の輝元・宗茂らとの連絡が絶たれたら西軍の崩壊につながることの危険性をよく吉継は承知していたのではないかと思います。

大谷吉継の戦術観は、おそらく石田三成より確かでしょう。

吉継としては関ヶ原を要塞化しそこに毛利輝元らが入城し、大垣城の三成らと鼎立して不敗の体制で長期戦に持ち込むことを狙っていたのかもしれません。

ただ残念ながら、吉継の配下は四千弱しかおらず、八千の小早川秀秋が松尾山城を奪取するのを防ぐことはできなかった。松尾山を奪られた以上、吉継としては早く西軍主力を大垣城から脱出させ、孤立を防ぐしか無い、と思ったのかもしれません。

関ヶ原決戦の西軍側のプランナーは、私は大谷吉継では無いかと思っています。

そして決戦当日の大谷吉継の小早川秀秋に対する苛烈な戦いぶりは、自分の策が失敗した事による自責の念によるものもあったのではないか、と。

(うーむ、しかし我ながら史料根拠がない推論だなあ)

106/106 GAH00561 SHUN 【検証・関ヶ原】(9)まとめ

( 4) 97/10/06 23:38 103へのコメント

今までの議論をまとめると、私の推論としては・・・

「関ヶ原決戦は、家康の流言によって始まったのではない。

西軍の大垣城から関ヶ原への移動は、東軍・小早川秀秋の松尾山城奪取に伴い、関ヶ原の拠点を奪われたことにより退路を絶たれることを恐れた西軍の大垣城脱出を目的とし行われた。

そしてこの行動を主導したのは、大谷吉継である。」

・・・となります。

そしてその推論の根拠としては・・・、

1.当初は東西両軍とも短期戦を意図していなかった状況がある。

2.関ヶ原松尾山には関ヶ原戦当時作られたと見られる大規模な城の遺構がある。

3.西軍側は、当初から松尾山を重視していたことを窺わせる史料がある。

4.小早川秀秋の松尾山城入りは西軍の思惑に反していた、と思われる史料があ

  る。

5.西軍の大垣から関ヶ原への移動は、大谷吉継の進言によったと思われる節が

  ある。

6.小早川秀秋は日和見していたのではなく、当初から東軍側であったと思われ

  る節がある。

7.大谷吉継が当初から関ヶ原にいたのは、松尾山築城はじめこの地に野戦築城

  を行う為だった可能性がある。

・・・といったあたりでしょうか。

まあ史料的根拠が薄いのは批判を待つまでもないのですが、それにしても「6」

の小早川秀秋が日和見派ではなかった、というのは自分でも少し強引かな、と思

います。(「7」も強引ですが、それはまあおいといて(^^;;)

「検証」を終わるにあたって、何で私はそう思ったのか、あとで私見をすこし書

かせていただきたいと思います。

では最後までおつきあいいただいた方、どうもありがとうございました。




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