芝居というには役者が不足している。

    三上治

Aさんに

【1】宮崎にはスパイする動機も目的も見当たらない。
 前略 お手紙は拝読いたしました。あなたの懸念しているところはよくわかりました。僕は今後も宮崎と付き合って行こうと思っていますから、あなたの疑念を払拭するためにも僕の考えを明瞭にしましょう。
 以前、宮崎選挙の勝手連のホームページに僕の考えは展開しておきました。また、ロフトプラスワンの席でも僕の考えは述べました。僕の考えは少しも変わっていません。あれに付け足すことは何もないのですが、もう少し詳しく僕の考えを述べることにします。
 今の取り沙汰の元になっている『公安調査庁スパイエ作集』ですが、読みました。この本を読めば宮崎が、公安調査庁の樋口と会ったことは事実であることがわかります。それは宮崎も認めていることです。ここまではなんら疑問はありません。
 Aさん ここから先が問題なのですが、まず彼が、公安調査庁の調査員と会ったことから、直ちに「公安のスパイ」ということが言えるのでしょうか。
これについて僕にはさまざまな疑問があります。「公安のスパイ」というとき、公安に必要な情報を流す人をさします。その意味ではスパイと言っても、協力者と言っても同じことです。
 スパイ(協力者)というのは何らかの目的、あるいは動機があって、情報を流す(情報を売る)人をさします。何らかの動機とか、目的というのは何でしょうか。
 それは大ざっぱに言って、お金を得るためか、思想的な動機として国家権力に協力したいという欲求を持っているためか、また何らかの必要で自分の身を守るためでしょう。
 これには三つくらいが考えられます。
 この『公安スパイエ作集』を読んでみて、気が付くことは宮崎の方には、この三つの動機のどれもみえないことです。つまり、彼が金を得る目的で樋口と会ったことは考えられません。「公安調査庁」が使える金がどの程度のものかはこの工作集から推察できるのですが、この程度の端金を宮崎が動いたとは思えません。宮崎にはそんな動機はみられません。それに彼は金を受け取っている形跡がない。
 国家権力に協力するという思想的動機から樋口とあったということは考えられない。国家のために協力するためにという動機もないと思います。そして何らかのかたちで身を守るためにということも考えられません。

 要するに、この宮崎の方に情報を流す(売る)動機は見当たりません。また、実際のところ宮崎から権力の方に情報が流れて、何らかの実害があったということはないのだと思います。そうすると、官崎は何で樋口とあったのだということになります。
 僕は彼が言っているようにオウムの信者の問題だと思います。オウムの信者が何人か彼の周辺に逃げ込んできていて、その救済も含めて、情報を得ようとしたのでしょう。ある意味では救済のため国家権力との取引まで考えていたのかもしれません。これが有効な方法であったか、どうかはわかりませんが、彼の動機として考えられることです。
 これについては、あぶなかしいからやめた方がいいよということは言えると思います。こういう動機に基づいて彼が樋口と接触したことは国家に情報を流す目的であったということは別です。権カとの交渉や取引ということは政治行為としてあります。マキュアベリズムというわけではありませんが、政治行為としてあります。国家との間で交渉や取引する必要な政治的行為はあります。それにははっきりそのことを踏まえた政治者(政治的能力)が必要ということです。今回の宮崎のそれは意図として僕には了解できます。だから、樋口と接触したことをさしてスパイ(協力者)というのはおかしなことです。はっきり目的を持って接触した人からスパイできるものなどないのですね。この程度の想像力も働かないのでしょうか。

【2】何がスパイされたというのか

Aさん 僕は宮崎が権力に何かの情報を流す動機や目的が見当たらないといいました。そしてまた公安の職員に何を流したかもはっきりしません。オウム信者の話はある程度信懸性がありますね。川本君というオウム信者の話ですね。工作集を読むと、宮崎は協力的で中核派のことをあれこれしゃべったことになっています。
 でも工作集から宮崎がどういう情報を流したからはっきりしません。接触したとき、あれこれ雑談をしたことはあるのでしょう。工作集に書かれていることはこういうことでしょう。僕はむかし、逮捕された時、警察官や検事と取り調べ時に雑談はしたことがありました。事件以外の一般的な話です。
 完全黙秘(完黙)ということが当時言われていましたが、それは別段、雑談までしないということではなかったはずです。事件や自分の住所などを黙すというわけで、雑談はやっていました。
 雑談も階級的警戒心が足りないという人もいたが、こういう連中は何も分かっていなかったのです。雑談するということと、情報を流すということは別のことです。
 宮崎は樋口と雑談はしたのでしょう。樋口は上司に工作を印象づけるために情報を得た(得る可能性がある)として作文したとも考えられます。
 彼は仕事として、成績をあげるための動機があるのだから、中身をそのまま信用はできません。
 いずれにしても宮崎が情報ということにあたいするものを流した形跡は見当たりません。実害も第生していないはずです。

【3】結局のところ樋口を信用するのか、宮崎を信用するのか

 Aさん 僕は今回の騒動を奇妙なものとして見ていました。それは樋口が公安スパイ工作として宮崎にあったという報告があり、宮崎がオウムの信者の救済のために接触したということがあり、そのすれ違いを検討しないまま「宮崎スパイ説」が流れて行ったことです。
 樋口の工作は職業的な工作だから、接触することをスパイ養成というのは当然でしょう。でも、その工作の対象にされた者にスパイする動機や目的がなけれぱ、彼のいうスパイに仕立て上げることは不可能でしょう。
 ですから、結局のところ樋口の工作ということをそのまま鵜呑みにして、宮崎をスパイに仕立てあげるか、スパイというには何もないではないかという間で騒動があったのです。『公安調査庁スパイエ作集』を出した小酉誠は、樋口がスパイに仕立てあげようとして接触したのだから、スパイだと言っているだけです。要するに樋ロがスパイに仕立てる目的で宮崎に接触と言っているから、それを信用すると言っているだけでしょう。どういう動機で、何をスパイしたのかは明らかにできてはいません。そうであるとすれば、宮崎がオウム信者の救済という動機で接触したということを信じてもいいのだと思います。
 宮崎は1995年当時、不動産やなどをしていたわけだし、そこにオウムの信者が救済を求めてきたらそういうことを考えても別におかしくはありません。その接触も3回くらいで辞めたというのも事実でしょう。

【4】幽霊は自分のこころの中にいる

 Aさん 今回の騒動は不思議でした。なにやら「宮崎スパイ説」が流されてきて、その正体を突き詰めるとこの報告集だったわけです。これをみてほれみろ「官崎はスパイ」じゃないかという連中と、なんだこんなことかいう連中が対立しているということでしょう。僕ぱなんだこんなことかという立場ですが、この対立の背後には国家権力や運動についての現在的な見方の対立があります。それについて少し述べておきます。
 樋口の工作日誌を読んで、樋口と宮崎の接触を権カの協力者(スパイ)養成とみるか、単なる接触があったという程度にみるかの違いには、突き詰めて行きます考え方の大きな違いがあります。その解釈の違いには現在の国家権力や反国家権力の運動をどう認識しているかの違いがあります。それは無意識も含めて反射的に串てくるのですが、掘り下げていくとそれにぶっかります。
 現在の国家権力の見方の違いです。やはりそれを述べないとこの対立は分かりにくいのですね。この本の編集者がこの工作日誌から樋口が宮崎をスパイとして養成していたというように読むのはおかしぜ、と僕ならなります。そんなの鵜呑みにしていいのかということもありまずが、常識的にみて何を協力したのということになります。
 大げさすぎるよということでもあるのですが、編集者にすれぱ階級的良心に立ってということなんでしょうか。編集者は善意で運動への警戒ということなのでしょうが、むしろ背後の考え方の違いが問題です。
 Aさん 僕がこの間、考え続けてきたことは国家は抑圧機関としてあるのかいうことでした。この国家観からどう脱皮するかを考え詰めていたのです。国家はやがて死滅すべき存在であるというのはマルクスやレーニンから学んだ考えですが、それはそのまま僕の思想的立場です。この死滅にいたるまで国家は過渡的存在としてあります。その存在を根拠づけているのは階級対立からくる抑圧機関の必要でありません。それは国家という機能を人序が必要と認めているからです。
 権力的な機関を必要な機能として人々が認めていることにあります。階級的な抑圧機関の必要として国家があるという理解と、杜会的機能として必要という理解は似ているようですが、とても大きな違いです。国家は杜会の必要とする機能としてあるということはどういうことでしょうか。それは国家の性格とか、構成とか、構造とかが問題になるということです。社会的に必要な機能として国家はどういう形態や構成、性格を持つべきかということです。
 国家を開いていくという言葉がありますね。これは国家をより共同的なものにすることであり、国民的意志の反映形態にすることです。民主的なものにするということでいいのですが、国家は閉じられた形態になる傾向を持ちます。
 国民のための国家は理念としてはともかく、国家(官僚)のための国民に転倒していく傾向を持ちます。国家(官僚)のための国民になる傾向を持ちます。大衆のための前衛政党が転倒して前衛政党のための大衆になっていくことと同じです。
 これと対抗し、国家を開いたものにしていくということは国家を国民のための国家にしていく闘いを続けることです。それは国家的な重大事を最終的に決めるのは国民の判断であり、意志でるということになります。
 この原則に国家を近づけていくことが、過渡的存在として国家の在り方です。僕らは、歴史的にみてふさわしい国家のかたち(形態や構成や性格)を構想することが課題となります。それを現在の国家の支配者たちと闘うことで実現していくのです。
 勝負は国民の支持の獲得です。それには国家がどのように開かれているかがかぎです。言論の自由はどのように保証されているか。大衆的意志の反映はどのように保証されているかなどです。反国家権力運動とは国家を開いたものにしていく運動のことであって・そのためには運動主体の性格が問われるのです。
 抑圧的な国家機関の粉砕とか、それから解放されるという定説的な反国家権力運動とは違うのです。僕は国家が抑圧機関であり、軍隊であり、警察であるという認識をとりません。国家は抑圧機関であり、暴力的にそれを粉砕し、奪取した権力を階級的抑圧機関として維持するというレーニン主義的な国家観を否定しています。
 ですから、こうした暴力的な闘争のための非合法組織も運動体も必要とはしていません。国家と反国家権力との間の闘争や運動が暴力的な形態を取るということを僕は否定していません。現在の国家を開いて行こうとする運動(異議申し立て運動)が国家権力との闘争の中で自衛的な要素としてそういうことが生じることもあります。でもそれは抑圧機関としての国家を暴力的に粉砕するという目的から出てきたものではありません。そういう理念にもとずいた暴カではありません。
 このことは、暴力革命をを前提とした運動体に対する国家の諜報活動(スパイ養成も含めて)はさしたる根拠はないということになります。暴力革命を防ぐために、そういう運動からスパイする必然性など大してないのです。
 例えぱ、日本共産党などから権力はどんな情報を得たがっているのでしょうか。ちょっと想像してみれぱすぐにわかることです。スパイすべきことなどほとんどないのです。共産党やほかの左翼的グループも同じことです。
 公安調査庁などがやることがなくなり、機能縮小となってリストラが起こるのもこういう必然性があるのです。逆にいえぱ、公安調査庁の利権的な存在確保のために、共産党が暴力革命を考えているという幻想を必要としてだけです。
 そうしないと彼らの活動も職場も確報できないからです。公安調査庁にとって共産党は必要不可欠な存在です。この皮肉な意味がわかりますか。
 僕らは現在、国家からスパイされなければならない情報などほとんどないのだし、運動は合法的な運動です。それ亡いいのです。合法運動でも守るべき機能はあるでしょう。それは守ればいいのですが、スパイされるということがさしたることではなくなるのです。これは蓬動によってさまざまで一概にはいえませんが、抑圧的な国家権力から守るべき機密ということが、暴力革命から出てくる非合法というようなものとしては存在してはいません。
 国民に支持されるような国家の構想やイメージを現在の国家批判の中からどうつくりあげるかが、僕らの課題なんですね。運動にともなう機密ということはあるでしょう。でも、非合法闘争や暴力闘争を前提にした機密などの必要ではありません。国家との闘争ということの課題が、その第一義的課題がそこに設定されないからです。

 Aさん あなたは僕の考えをみて、転向したのね、というかもしれません。そう言われれぱ転向したのです。そういわれても一向にかまわないのですが、国家権力を暴力的に奪取することが革命であり、反国家権力運動はそれに収敷するという考えからは卒業しました。僕はあなたと二緒に闘ったあの1960年代から1970年代の闘争が権力の暴力(暴力的抑圧)に負けたというより、国民の支持を獲得できないで負けたと総括しています。支持を獲得するどころか、失う方向にいくしかなかったところに根本的な敗北をみているのです。国民に支持さるべき国家や権力の構想など持ってはいなかったのです。確かに運動の中で、国民的な共感をえるものを作り出しました。でもその意味も可能性も潰してしまいました。この総括から、国家をどうすべきか、国家との関わりの僕のイメージを再構築したのです。
 すこし、遠回りしてしまいましたね。これと「宮崎スパイ論議」とどんな関係があるのでしょう。国家は抑圧機関であり、それを維持するために反国家権力運動に対してスパイ(諜報活動)を必要としているというイメージがありました。
 ロシアや戦前の日本の運動の中にはそういうことはあったでしょう。それはそういう歴史的な段階のことで現在は違うと思います。スパイということの意味も役割も違うのです。なぜ、僕かこんなことを言うかというと日本の左翼運動の歴史の中の不幸な事柄としてスパイ問題があったことを想起してもらいたいためです。
 戦前のスパイリンチ事件から、連合赤軍事件までそうでした。とりわけ、僕らの同時代に起こった連合赤軍事件は強い印象を残しています。スパイとして処刑したことからはじまってスパイ恐怖で自壊したというのがあの事件です。これは自作自演のようにみえるのですが、権力についてのイメージ(つまりは幽霊のような恐怖感)が根底で支配していたようにみえます。これらは結局のところ、国家抑圧機関論からきているのです。スパイ問題はそこから派生したことです。これは国家についてのイメージの所産です。僕はこういう国家との関係意識から自由になりたいと思います。それは階級的抑圧の機関というこのイメージからです。これは左翼を歴史的に呪縛してきた思想です。僕は幽霊とそれをよびます。この幽霊は無意識まで含めたものとしてあって、ふっと顔を出すのです。

【5】芝居というには役者が不足している

 Aさん 工作日誌を読んで、編集部の人が反射的にスパイだとイメージしたことには、彼らのこころの中に幽霊が潜んでいるからです。これは遺伝的な資質になったものです。僕はやはりそこを問いたいです。今、国家権カはどうあるべきか。国家権カをめぐる課題は何か。それの中で反国家権力を目指した運動体や思想は何を問われているのかが問われなけれぱなりません。こういう前提的な問いかけがなければ、いつも出てくる答えはステロタイプ的な国家抑圧強化論です。中身も関係なくスパイという言葉が幽霊のように出てくるのはこうした理由です。
 つまり、思想的な地金が露出したのでしようが、それが問題なのですね。
 Aさん なぜ僕らはここ何十年も国家権力に負け続けてきたのでしょうか。それは僕らを支配している古びた思想から脱皮できなかったからです。そこから自由になれなかったからです。僕はこの工作集へのサヨク的反応にそれをみていました。この工作集にもロフトでの僕の発言が載っていますが、小西さんはなぜ笑い飛ばせなかったのでしょう。多分、いい人なんでしょう。だけど、自分の国家観そのものを疑わなかったのですね。そんな印象です。この工作集にはこういう文章があります。
「これでは運動内部で『疑心暗鬼』が生じるだけでなく、そのスパイ・協力者の『暗躍』でさえ許容してしまうことになりかねない」(『公安調査庁スパイエ作集』)
 疑心暗鬼になっているのは小西であり、そういうことで運動を混乱させているのは彼自身なのですね。少なくとも1995年のころことなど関係ないと思っている連中にあいっはスパイだから気をつけよと言ってよけいなお節介を焼いているのは彼でなのです。
 それを関係のない運動にもちこんで余計な混乱をさせ、うんざりさせているのは彼にほかなりません。みんな判断は自分でするからほっといてくれと言っているのです。「サヨクの小さないじわる運動」は「サヨクの小さな親切運動」でもあるんですが、僕はどちらもごめん被りたいのです。

 Aさん 「宮崎スパイ説」に踊った人たちは、自分がいかに古びた思想に支配されているかを告白したようなものですね。その意味ではおもしろい芝居でした。宮崎には気の毒な気もしますが、そんな見世物を見たという思いです。