感想

三上治

 1)9・2集会はいろんな意味でよかったと思う。久しぶりに運動に関わってみて率直にそんな感想を持った。今回の集会の成功は基本的にはジャーナリズムや出版界のひとたちが中心になったことにある。

 「個人情報保護に関する法律」(以下個人情報保護法案)を自分に取って切実に感じるひとたちから反対運動がはじまるのが当然であり、自然だが、成功にはこういう事情もあるのではないか。

 その意味では政治団体がほとんど参加しなかったのは印象的である。政治団体などが主役になって、統一的な運動(統一戦線)ができあがるのではなく、それぞれの専門領域(仕事関係など)から運動ができるということだ。

 そうした基盤を中心にした運動がいろいろできるということが現在的なことである。政治団体ではなく、専門的知識人の統一戦線とかつてフーコーが言っていた。こういう形態のことだろう。それも労働組合などではなく個人主体の運動だ。いいろんな領域でそういう運動が起こるといいのだが、そういうモデル的なものだったようにも思う。実際は吉岡さんや吉田さん、国貞さんなどが奮闘してくれたわけだが、よかったと思う。

 2)「個人情報保護法案」をそれぞれの仕事の領域と関係づけることでこの具体的なイメージを深めていくことが要請される。この法案を構想し、推進せんとしている官僚や政治家の考えを探り国家意志として何が考えられているのかを分析することは重要だ。

 国家は抑圧を強化しているという(アジテーション風)の認識ではなく、情報と国家権カの現在的な関係の分析を通して、情報について僕らの側の考えを深めて行けれぱと思う。この点の論議は十分ではない。しかし、それを僕らの日常的な事柄や仕事など関連させて分析を深めていくことはそれ以上に重要だ。それがないと国民的な説得力を持つ言葉は出てこない。

 「個人情報保護」という概念は、明瞭なものとしてあるのではないと思う。この法律を現実の場面と関係させて深読みしていくことから、説得力ある言葉が出てくる。それはこれからの課題だ。当然のことだが「個人情報保護法案」の認識や理解に違いが出てきて、その考え方の交流があって運動は豊かなものになる。

 3)この隻会でいくつかのコーナーが設定され、専門領域ごとの討論がなされたのはよかった。
 これをそれぞれの領域で継続し、深められるとよい。これはなかなか難しいだろうが、それを深める方法を考えるとよいと思う。

 その討論や検討の成果はこちらの情報伝達手段を活用すれぱよいと思う。個人的には個々の条文をイメージのある言葉として読み込みたいと考えている。法律の一行と背後の現実を僕らのイメージで結び直してみることだが、日常的な経験や専門的知識はその力となると思う。

 ジャーナリズムや出版界以外の領域のひとたちがそれぞれの場所から発言したり、分析してくれたりすることを望んでいる。
 大学や研究機関、医療機関、企業、とりわけ情報産業の現場から発言が増えることを期待したい。ソフト産業からもっと活発な発言があってしかるべきであろう。

 4)この集会を準備する過程でいろいろのことが課題となった。それは宮崎問題も含あた異なる見解の処理である。宮崎問題については公開質問状もあるが、それ以外にもいろいろ存在した。

ある攻治グループが参加するとそれに反発するグノレープのアクションがあるという問題だが、これは厄介で解決する妙案はないが、さしあたり次のような原則を立てたらどうだろうか。

 A)集会の実行委員会は個人で構成されること。諸団体は賛同の位置にとどめる。政治党派や政治グループの案行委員会参加(構成団体とすること)は遠慮いただく。団体としては賛同グループとして協力してもらって、原則は個人参加。

 B)この実行委員会は「個人情報保護法案」についてのもので、それ以外の問題での対立などは持ち込まない。この法案以外の諸個人間の問題は持ち込まない。例えぱ、小泉首相の靖国参拝についての見解の違いなどは持ち込まない。

 問題を拡大解釈して単純に関連づけたがるが、それは注意すること。この場合には範囲が問題になるが常識的に判断すれぱよい。統一した行動や集会をどう運営するかということだが、ここは重要なことだ。

 それは言論の自由を抑圧することではなく、こういう集会や行動の規範(ルール)をどう作るかである。過去の内ゲバなどをふりかえると、こういう規範(ルール)作りにどう努力するかは大事なことのように思う。

 ここで公開質問状に僕なりの見解を述べておく。宮崎が公安調査庁の樋口とあったことは事実であるが、それをスパイ行為と断じるかどうかにはそれぞれの見解がある。それをスパイ行為という人はそういう見解があるということで、そうでないという見解を持つ人もいる。僕はそうだ。そうすると僕とこの公開質問状を発した人とは見解がちがう。

 僕は僕の見解を彼に押し付けようとしないし、彼から押し付けられる必要もない。僕はそういう人が実行委員会にいてもいいと思うが、この人も実行委員会の他の人に自分の見解を押し付ける必要はないと、思う。親切心で忠告したというなら、ごくろうなことですというしかない。

 この公開質問状は宮崎がこの集会で司会したりすることは、自らを裏切る行為だと述べている。
 この質問者がそう思うことは自由であるが、そういう妄想は迷惑なことだというのが僕の見解である。

 彼は1995年ころの宮崎のことと、「個人情報保護法案」反対運動を関連づけているが、それは彼の主観的な考えで、僕には客観性があるとは思えない。これは見解の違いだから、致し方ないが、自分と異なる考えや見解など検討もせず、自分の主観的な思い込みを正義のふりをして押し付けようとすることが気に食わない。
 こういう態度が運動をどんなに毒してきたか反省すべきだと思う。要するにこの集会がどのように構成され、どのように運営されているかを考えてはいない。
 異なる見解を持つ他者とどのように共同行動をするのかについての謙虚さもなければ、過去の運動在り方への反省の一片もないではないか。僕らはあらゆる領域の事柄で異なる考えを持つ人が、ある課題でどのように共同の作業をやるかという場面にある。

 例えぱ、靖国参拝で異なる見解の人といったが、宮崎の行為についても同じことだ。小泉の靖国参拝に賛成という人がいても、それでこの集会でどうこういわない。いや宮崎はスパイ行為をしたのだから別だというが、質問者が主観的にそう思っているだけである。少しも違いはない。異なる見解を持つひとたちとどう共同作業をやるかに腐心しているのは過去の運動の苦い思いもあるからだ。

 「宮崎を糾弾する」ことをこの集会に持ち込み、集会を混乱させたことこそ糾弾されてしかるべくことだ。それは彼らの「宮崎糾弾」が間違っているからではない。それを僕は問題にしない。個々人の考えの違いだからだ。

 それをする場所が違っているといいたいのだ。それは当人たちが考える以上に重要なことだ。それは集会についての規範(ルール)を破る行為である。僕らは内ゲバという苦い歴史とそれによって大衆的な信頼を失ってきたということがある。それを乗り越えるのにはこうした規範(ルール)を作り出し守っていくしかない。信頼はこの中からしかできないのだ。

 自分の考えが正義であると思い込むのはよい。だが、その正義も場面を違えてふりまわせぱ、不正義な行為になる。こういう初歩的なことが「糾弾する会」の人には分かっていない。そういう感想を持ったのだが、他の諸氏はどう思ったのだろうか。