三上氏の「感想」を読んで見た。ひどい内容でありレトリックによる強引な結論の強要には辟易する。
三上氏の「感想文」を読んで見てすぐ気づくのは全体で四つに分かれたうち4)が異常に多く、半分以上のボリュームを割いている事である。最初の3)までは「集会の性格」についての感想を書き、4)は全部を「宮崎糾察する会」非難にあてている。しかし、よく読めばわかるのだが、1)から3)までは、その結論=「糾察する会非難」イコール「宮崎を弁護する」ために組み立てられたものにすぎない。
まず1)では
集会成功の原因を「集団より個人が主体となった」「政治党派や労組ではなくジャーナリストや専門知識人の統一戦線」に求めている。
ほんとうにそうだろうか? 「集団より個人主体だからよかった」という風に言っていいのだろうか? 参加団体にはマスコミ文化情報労組会議、出版労連、民放労連、出版ネッツなどの労組や日本消費者連盟、JCAネット、日本ジャーナリスト会議などもあったではないか? また志を同じくする多くの賛同人がそれぞれ関連する政党や団体や運動組織に呼びかけたからこそ、集会が成功できたのではないのか? なぜ「集団」と「個人」とを対立させて「個人」を重視する必要があるのか? また、確かに実行委員会の人たちが頑張ったことは認める。しかし「実際は吉岡さんや吉田さん、国貞さんなどが奮闘してくれた」などと、実行委員会の個人だけを持ちあげるのは、集会を成功させるために自主的に参加してきた参加者・団体・政党の努力を無視する行為であり、このような総括の仕方は今後の運動の発展にとっても害をなす認識の仕方であると判断せざるを得ない。
次に2)では
対立するふたつの認識が持ち出される。つまり「国家は抑圧を強化しているというアジテーション」認識を「否定するべきもの」として持ち出し、その対極に「情報と国家権力の関係の分析を深めてて行こう」という認識を主張している。
しかし、この対比はとてもヘンではないだろうか。前者を否定しておきながら、後者は、それに対立する認識ではなく「考え方の交流」「これからの課題」といっているだけではないか。それならば、その認識のうちに「国家は抑圧を強化している」という認識も「選択肢のひとつ」として含まれてもいいではないか。それに「みんなで考えていこう」というのでは何の「認識」にもなっていない。
次の3)では
「それぞれの場所から」の「発言」や「分析」を望み、「もっと活発な発言があってしかるべきであろう」と、まるで他者に責任があるかのような言い方をしている。しかも、他者に対してそのように要求しておきながら、自分の主体的な展望はなにも書いてないではないか! なんという無責任! なんという傲慢! また、三上氏自身に展望がないなら、なぜ2)において「国家が抑圧を強化」などという「認識」をわざわざ否定したのだろうか? また、全く事実を無視して「集団より個人の重視」を運動の柱に掲げるのはなぜなのか?
結局それは
4)のための伏線にすぎない事がわかる。三上氏はここで「A)集団より個人を基本とした組織づくり」という。実行委員会を「個人参加」にせよと主張する。結局その意図は「糾察する会」という「集団」の排除ではないか? また「B)個人情報保護法案以外の問題を持ち込まないようにせよ」と主張するのも「宮崎スパイ問題は関係ない」と言いたいためであろう。我々は「宮崎が公安のスパイである」事実を暴露し「権力による情報統制を阻止するための集会に公安のスパイを主催者として参加させるのは言語道断」と言ってきた。だから「宮崎スパイ問題」は“個人情報保護法案以外の問題”ではないのである。しかし三上氏は「個人情報保護法案」と「宮崎スパイ疑惑追究」とを切り離すために「共同行動の原則」を恣意的にすり替えて説得しようとしている。
三上氏は「宮崎がスパイであるかどうか」を問題にしない、と言う。そこについての結論を互いに強制しないで、「宮崎糾察派」も「宮崎弁護派」も共に「個人情報保護法案に反対していこう」という。よろしい。我々の主張を尊重するなら我々もあなたの主張を尊重しよう。だが、三上氏、國貞氏他の一部実行委員の当日の行為はどうであったか? 「宮崎を司会として集会の運営に参加させる」という、「宮崎弁護派の方針」だけを100%押し通そうとしたではないか。これは三上氏が言っている事と正反対ではないか!
われわれは宮崎スパイ疑惑についてネット上で議論し、当日も参加する表明をし、会場で批判する事も事前に実行委員会から了解を得ていた。ところが、実行委のひとりである國貞氏は「よそで自分たちだけの集会をやれ!」と、明らかにわれわれを排除する発言を繰り返したのである。「感想」に見る三上氏の主張も同じである。共に集会に参加しようとする者を意見の違いによって排除しようとしたのは三上氏や國貞氏のほうではないか! さらに「きつね目組」の人々は我々を暴力的に排除するための相談をネット上でおこなっていたではないか!
「共同行動の原則」について三上氏は意図的にすり替えをおこなっている。もちろん「宮崎がスパイである」という事実を受け入れないのは三上氏の自由である。では宮崎糾察派と宮崎弁護派とが共に集会に参加できるようにするにはどうすればいいのか? それは宮崎問題を「まるごと棚上げする」ことではないのか? つまり運営の局面において「争点になっている人物を持ち出さない、運営に参加させない」という事ではないのか? これが「共同行動の原則」と言うべきであろう。我々としては「スパイ宮崎が参加しない」集会なら共闘できる。ところが三上氏や國貞氏はそうではなかった。当日宮崎が勝手に逃亡するまでは我々を無視して宮崎を司会として参加させようとしていた。フェアなやり方ではない。9・2集会において三上氏が國貞氏や多くの「宮崎防衛隊」と共に目論んだのは「宮崎派による集会の引き回しであった」と断定せざるを得ない。三上氏が我々に投げつけた言葉「集会の規範を破り、集会参加者に主観的な思いこみを押しつけようとした」のは「宮崎弁護派」の事であり、その一部である三上氏、あなたなのだ!