三上「感想」批判=国家論

2001.9.27 T.S.(投稿)

 宮崎学の行為についての詳細な分析は、三上=味岡氏の「Aさんへの手紙」に対する批判として述べた。
 ここでは、三上氏の「感想」と「手紙」の中の、運動論・権力論に関わる部分をとりあげ、統一戦線とセクト主義そしてスパイ問題、個人情報保護法案のとらえ方と運動戦略(スパイ問題に関わる限りで)を主に扱いたい。また、三上氏の国家論についても若干の紙幅をさく。

 なお、この文章はあくまでT.S.個人の私見である。


 まず、「感想の本論」と言える4)の前に、簡単に1)〜3)について触れよう。

 1)では、三上氏は、集会は「専門的知識人の統一戦線」として成功したと自画自賛している。
 実は、ここに、9・2集会実行委事務局が、スパイ問題についてきちんとした対処をできない理由がある。まさに当日の一つのパネルでも指摘されていたようであるが、法案の性格把握と運動の作り方に大きな限界があったと指摘せざるを得ないのだ。三上氏は自画自賛する集会の中身をちゃんと聞いていなかったと見える。

 2)では、三上氏の国家論、そして氏の哲学的構えの陳腐さからの大混乱が見られる。

 3)では、1)でも触れたが、当日のパネルのなかで重要な指摘がなされたのにも関わらず、運動を広げ、内実を強く高めていくために避けて通れない問題を具体的に今後の課題としてあげることができず、抽象的な総括に終始している。

 さて、本題である4)から具体的に論じていこう。
 三上氏は、「ある政治グループが参加するとそれに反発するグループのアクションがあるという問題」という非常に平板かつ抽象的な問題にわざと問題をすり替える。
 そして、「さしあたりの原則」なるものを提起している。

 統一戦線を維持・発展させるための原則を確認すること、すなわち、セクト主義・急進主義・分裂主義を克服することは、日本の運動の歴史に鑑み、極めて重要なことである。
 しかし、三上氏がここで行ったことは、セクト主義の克服という原則を換骨奪胎して、単に動かぬ証拠と本人の発言によってスパイ行為、秘密裏に運動圏の情報を公安調査庁に売り渡したことがはっきりした人物を、かばい立てするための、粉飾作業である。

 セクト主義の克服について、三上氏が意図的に行った粉飾作業は次のようなものである。

1)流出資料、被害者である中核派の声明、そして何より宮崎自身の発言・コメントによって、
・破防法適用請求のためのオウムの情報を公調に売った。
・中核派非公然メンバーのアジトの情報を、事前・利用中に公調に売った。
・中核派非公然幹部の人相等に関する情報も公調に売った。
・暴対法に関する暴力団側の資料も公調に売った。
ことは、事実として明らかになっている。(これは「見解」の問題ではない。三上「Aさんへの手紙」批判において詳細に論証してある。)

2)ところがそれを、「資料でわかるのは宮崎が公調に会ったことだけ」「雑談に過ぎない」とし、それを「スパイ行為と見るかどうか」は「見解の相違」と言い募り、事実問題を「意見の違い」にすり替えてしまう。

3)2)でのすり替えの上に、「宮崎を排除しろというのは、特定の意見を正義として押しつけるもので気にくわない」と言い、「宮崎を排除しない」という宮崎擁護派の結論を、あたかも中立的、一段階上の結論であるかのように粉飾して、相手に押しつける。

 これが許されるなら、ある人物がスパイ行為を働いた証拠が発覚しても、誰か一人が「見解の相違」と言い続ければ、永遠にその人物を運動から追い払うことは不可能となるだろう。問題は、なぜそんな「擁護」をする人間が出てくるのか、ということだが、三上氏が宮崎氏を何とかかばおうとする理由については「手紙」への批判で述べたので、ここでは繰り返さない。

 誰も「1995年に宮崎が公調と会った」なる単純な事実と、現在の問題、個人情報保護法案反対運動を結びつけてなどいないのだ。合理的かつ丁寧な検証の上に、また、個人情報保護法案反対運動の理念に照らして、しかもその運動を守るために、宮崎の処遇を問題にしているのである。(理念との関連の問題は後述する。)

 さて、統一戦線を維持・発展させるために、特定の人物・勢力を排除すべき場合があるかどうかについてまず考えよう。
 次のようなケースを考えてみよう。意見の違いを相手に対する暴力(はなはだしくは殺人)で「解決」しようとする勢力が、重要な課題の運動の中軸に居座っているとする。これに対して、「意見の違いを相手に対する暴力で解決しようとする勢力とは一緒に運動できない、結集も協力もできない、なんとかしてくれ」という批判があった場合、「見解の相違」「自分たちの意見を正義として押しつけている」とうそぶいてこの批判を排撃することが、とるべき態度だろうか。
 そうではない。運動を広げ、また、道義的に信頼されるものにするために、セクト主義(この場合ウルトラ・セクト主義)を克服することが必要なことである。当該の団体(または個人)が、いくら説得しても反省しない場合は、その運動からご退出願うしかないはずだ。

 ここで「僕がこの間、考え続けたことは国家は抑圧機関としてあるのか、ということでした。」という三上氏に一つヒントを与えれば、強制に対する同意の契機(「強制でなく同意」ではない)、暴力に対する知的・道徳的ヘゲモニーの契機の重要性を強調したアントニオ・グラムシのヘゲモニー論を少しでも知っていれば、「勝つ運動」をつくるためには、市民的ヘゲモニー、知的・道徳的ヘゲモニーを自分たちが確立しなければならない、ということは誰でもわかるはずだ。
 道義的なヘゲモニーを確立するということは、「正義ぶりっこ」することとは、全然違うことなのである。こんな初歩的な勉強もせずに、「国家は抑圧機関としてあるのか」と「この間」「考え続けてきた」三上氏は、存在自体が戯画としか言いようがない。マルクス解釈は、あなたが陥っていたトンデモ解釈だけではないのだ。自分がトンデモなかったからと言って、学ぶべき先達まで自分と同類にしてお蔵入りさせるものではない。

 この思考実験からすぐわかるように、特定の存在を運動から排除することが、運動にとってプラス(マイナスを除くという意味で)であり、なおかつ道義的でもあるというケースはあり得るのである。なぜ、こんな簡単なことから説かなければならないのか。

 次に、スパイの問題に進もう。統一戦線、共同行動を守り、発展させていくために、セクト主義・急進主義・分裂主義を克服するということと、スパイを容認するということは全然別のことである。
 いや、別というよりも、統一戦線を守り、発展させていくためにこそ、スパイは容認してはならないのだ。

 以前に個人情報保護法案バスターズの掲示板に書いたものの一部を引用する。

「例えば、権力のやろうとしていることを阻止するために、イデオロギー的にまったく正反対の人々と、一緒に運動しているとします。
 その時に、その人々が、公安権力に自分の情報を流していたら、どうします? 逆に、自分たちの側が、その人々の情報を公安権力に提供するのは、許されることでしょうか?
 ボルテールなんか引用したくありませんが、「私はあなたの意見には全く反対だけれど、あなたがその意見を表明する自由は命をかけて守ろう」という原理に照らしてみれば、答えは明らかです。

 個人情報保護法反対の運動の核心は、言論の自由と知る権利を擁護することにあると理解していますが、そうであれば、「あなたが私と異なる意見を表明する自由は守る」という原理が運動の根幹に据えられるべきでしょう。

 この原理に照らせば、オウムだろうが、中核派革命軍であろうが、自分と考え・行動原理が違う人々であっても、その人々の情報を売ってくれと公安に言われたら拒絶するのが当然で、自分から売り込むなんてもっての他です。
 自分は拒絶するが、多様性を認める立場から、他人が売るのは容認する、というのはこれはいくらなんでも間違いでしょう。

 ですから、大きな権力に対抗するために、イデオロギーの違いを越えて協力するという運動こそ、公安権力に情報を売ることは容認できない、という原理原則を共有すべきなのです。そのような場を防衛するためにこそ、絶対に必要なことです。
 もし、運動の中枢部に公安の内通者をおいたまま、運動が発展して権力にとって目障りな存在になれば、絶対に致命的な攻撃を受けることになるからです。

 いま問われているのは、運動圏全体が、「公安権力に情報を売ることは、絶対にしてはならないこと」とする原理を共有できるかどうかです。
 この点で一致がとれるかどうかにこだわるのは、セクト主義・急進主義・分裂主義とは全く別の問題です。「公安に情報を売っても可。売り込んでも可。」なんていう運動は、運動圏全体から見て、足を引っ張る障害物になるのが関の山です。だって、他の運動も含めた運動圏全体の情報がザザ漏れになっちゃうんですから。

 また、一度内通した人間は、公安権力に弱みを握られている形となり、暴露されては困ることを抱えている限り、公安の要求に応えなくてはならないという泥沼にはまっています。公安側としては、情報をとるにも、運動を操作するにも、こんなに便利な存在はありません。」

 大きな権力と闘う統一戦線を守り、発展させていくために、なぜスパイとはっ
きりした人物の処遇にけじめをつけなければならないか、もはや言うべき事はあ
るまい。セクト主義克服とは完全に別問題なのである。

 さて、一方、三上氏のご高説についてである。国家が「抑圧機関」「暴力装置」であるかどうかはおいておくとして、少なくとも公安調査庁や公安警察が抑圧機関であることは間違いない。その卑劣な運動破壊の対象が「暴力革命」を目指す「非合法運動」だけだ、などという陳腐な認識そのものが、議論の対象になっている公調の現在、また自分自身が称揚している「合法」の「開かれた国家をつくる」運動の現実を知ろうともしない三上氏の知的怠慢の産物であることは、「Aさんへの手紙」への反論のなかで述べた。公安調査庁はリストラを免れるために、90年代に「業務・機構改革」と称して、「合法」の「開かれた国家をつくる」運動をこそ、その情報活動の対象として名指しするに至っているのである。

 ここではまず、宮崎が協力していた相手が、まさに、個人情報保護法案反対運動が闘っている相手と同一なのだ、という点を指摘しておきたい。
 世の中のことをちゃんと見据える人ならたいてい知っていることであるが、公安警察や公安調査庁は、有力政治家達にたいして定期的に秘密のレポートを配布している。その内容は、選挙の票読みから、落選運動、住民監査請求や住民訴訟、環境保護・公共工事批判の運動などなど、彼ら利権屋の利権を脅かしそうな運動すべてについての「調査」結果である。その方法の一環が、金と脅迫でのスパイづくりによるものであることは言うまでもない。
 特に公安調査庁は、三上氏も言うように、「革命勢力」の退潮に伴って、リストラの危険が迫り、政治家や他の中央官庁にその存在意義を認めてもらおうと必死で、せっせと利用してもらうための各種運動についての「データベース」をつくり、レポートを配って、権力者や官僚達の利権・特権を守るのに役立つ「運動情報」を提供している。(公調の「業務・機構改革」をちゃんと勉強されよ。)
 個人情報保護法案の一つの側面が、まさに同じこの権力者・官僚達の利権・特権を守るためのものであるということは、三上氏はどうか知らないが、他の方々にはすぐに理解してもらえることである。
 だから、個人情報保護法案に反対する運動は、公安調査庁のスパイを中枢においておいたら、まさに自殺行為なのである。法案をつぶせるところまで運動が発展したら、必ず内部からの卑劣な情報漏洩や工作、デッチアゲ弾圧によって、壊滅的な打撃を受けるに決まっているのだ。そして公調は政治家や官僚達に誇るのだ、反対運動をつぶす鍵となる情報を入手したのは私たちです、と。反原発運動に対する「日本赤軍関連の旅券法違反容疑」での連鎖的ガサ入れを想起されよ。 運動を守るために、公安スパイであることが証拠ではっきりしてしまった人物は、運動からご退出いただくしかないのである。

 三上氏が主観的にいくら否定して見せようが、権力者たちと個人情報保護法案反対運動の理念及びその目標は、客観的に対立している。だから、反対運動は、否応もなく権力機関との緊張関係を強いられるのだ。権力機関との緊張関係にある運動は、運動を守るための原則をルール化しなければならない。
 この原則にこそ、個人情報保護法案に反対する運動の理念とスパイ問題が別問題でなく、本質的にリンクする根拠がある。
 先に引用した文章でも述べたことである。
 個人情報保護法案に反対する運動にとって、言論・表現の権力からの自由は、機軸的理念であろう。そして、言論・表現の自由を守る立場からは、自分と意見の違う者に対するものであっても、その意見を理由とした権力からの弾圧には、これに反対する、というのが当然の理念・原則のはずだ。権力と緊張関係にある運動は、みなこの原則を踏まえなければ、分断・各個撃破されてしまう。最初に共産党が攻撃された……という有名なドイツのクリスチャンの痛苦な反省の教訓を持ち出すまでもなかろう。
 言論・表現の権力からの自由を擁護する運動は、権力者の利権を脅かす運動=権力者の利権を脅かす意見の集団だという理由で、スパイをつくり、情報を盗み、弾圧を企てる公安権力への協力者を容認していいわけがないのである。
 ましてや、公安調査庁は、言論・表現の自由を不当に侵害する破防法のための機関である。
 だからこそ、公安調査庁のスパイを運動に放置することは、個人情報保護法案反対の運動にとって、自らを裏切る行為なのだ。「見解の相違」などと悠長なことを言っていられる問題ではない。

 問題になっているのは、「見解の相違」や、「ある政治グループが参加するとそれに反発するグループのアクションがあるという問題」という非常に平板かつ抽象的な問題ではないのだ。客観的な証拠によって公安権力のためのスパイ行為を働いてきたことが明らかになった人物をどうするか、という具体的な問題なのである。

 この危機感がないのは、共同アピールの会や、9・2実行委コアメンバーがやってきた法案反対運動の戦略に決定的な限界があるからでもある。
 当日のパネルでも指摘されていたそうだが、権力側は確実にメディアによる個人のプライバシー侵害の問題をつきだしてくるはずだ。沖縄の米軍兵による婦女暴行事件の被害者に対するメディアのセカンド・レイプはその実例である。
 知的・道徳的ヘゲモニーをめぐる攻防戦だ。(三上氏には永遠に理解できない概念かもしれないが。) これに対して、出版業界の経済的=同業組合的な既得権益擁護の陣形にとどまっているのでは、負けるのは目に見えているのだ。
 ところが、共同アピールの会、9・2実行委コアメンバーには、権力の側が口実として持ち出してくる「市民の人権」をまさに掲げて、市民の団体が前面に立って法案に反対するという形を意識的に押しだそうと追求した痕跡が、微塵も見られない。三上氏の1)における、現実をある一方向で無理やり整理しようとする総括は、その反映である。
 権力と日ごろ緊張関係にある市民団体に運動を広げ、共同行動、統一戦線をつくろうという自覚的な目的意識がなければ、中軸に公安スパイとわかっている人物が居座っている運動、それを容認している運動というものに対して、これらの運動・団体が抱く警戒心も理解できないというわけだ。
 試しにオンブズパーソン運動に「私たちは宮崎学氏と一緒に運動していますが」と言って、法案反対運動での共闘を働きかけてみれば良い。「開かれた国家を作る運動」の代表だ。まず十中八九、ご遠慮申し上げると言われるに決まっている。

 最後になるが、ついでに三上氏の「思想」の根本的欠陥を指摘しておきたい。よく見られる現象だが、昨日まで極端な主張をしていた人物が、自分の主張の限界を感じると、今度は全く逆の極端に移行する、という傾向がある。
 これは、ものごと、正確には事態というものを、関係主義的にではなく、実体主義的=形而上学的にとらえ、「お湯はお湯だ。永遠にお湯だ。冷水ではない。」と考えるタイプに多い。冷水としての側面を自覚すると、今度は「水は水だ。永遠に水だ。お湯ではない。」と正反対の主張を同じように連呼し出す、というわけだ。
 言うも愚かながら、ものごとは一面的でなく同時に複数の側面がある、「実体」という独立自存にして不変不易かつ自己同一なる形而上学的なものが「本質的属性」を「有している」のではない、という発想がそもそもない。情況人脈から広松渉を学ばなかったのか?だから、「国家は抑圧装置か、それとも社会に必要な機能を担うものか」などという二者「背反」の形而上学的問いが出てくるのである。これは法案についても同じである。権力者の不正・利権隠しという側面と、市民のプライバシー侵害の防止の要請の側面という二つの側面が同時に存在する、ということが理解できないのだ。ここから、対案づくりを戦略化できないという致命傷が生じる。

 だから、口先では「この法律を現実の場面と関係させて深読みしていくことから、説得力ある言葉が出てくる。それはこれからの課題だ。当然のことだが、「個人情報保護法案」の認識や理解に違いが出てきて、その考え方があって運動は豊かなものになる。」「この集会でいくつかのコーナーが設定され、専門領域ごとの討論がなされたのは良かった。これをそれぞれの領域で継続し、深められるとよい。」という抽象的な一般論を述べながら、一方で、当日のパネルで既に具体的に指摘の出ている市民のプライバシーとメディアの暴力という問題を、今後の課題として総括において提起できないのである。

 現在に至っても、無反省に「国民的な説得力」などという、国籍での排除という社会的問題意識の欠如した物言いができる三上氏。この言葉の中身が、「階級的」=セクト主義的・急進主義的・分裂主義的な傾向に対置する、市民的ヘゲモニーの思想を指しているのならとりあえず了解もできようが、それはないものねだりというべきであろう。

 「僕らは内ゲバという苦い歴史とそれによって大衆的な信頼を失ってきたということがある。それを乗り越えるのにはこうした規範(ルール)を作り出し守っていくしかない。信頼はこの中からしかできないのだ。」という言葉、100%ノシをつけて三上氏にお返ししよう。卑劣な運動破壊、個人の人格・生活・人生を破壊してきた公安権力に秘密裏に協力してきた宮崎という人物を擁護する運動は、いつになったら「大衆的な信頼」を得ることができるだろうか。信頼は、三上氏が考えているルールとは別のルールの中からしか、生まれないようである。

(なお、この問題は、中核派と革マル派の対立とは切り離してきちんと考えるべき問題であることを付言しておく。)