飛鳥文化は日本最初の仏教文化であり、この飛鳥文化を土台に様々な特徴的で華やかな文化を生み出した。推古天皇が飛鳥小墾田宮で即位し、それにともなって摂政・聖徳太子と蘇我馬子が政治を補佐する時代、彼らの政治をみてみると、仏教庇護政策であって、これ故仏教が文化の中心となっていったのである。
日本への仏教の伝来は、もっとも有力な説としては『上宮聖徳法王帝説』に「百済国主の聖明王はじめて仏像経教ならびに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目に授けて興隆せしむ」とあり、また『元興寺縁起』にも同様の内容が書かれていることから、欽明天皇7年(538)頃には日本に伝わっていたと考えられる。しかし、まだ確実とはいえないし、それ以前に鞍作鳥の祖父である司馬達等が仏像を崇拝していたことが『扶桑略記』にもみえ、私的な仏教信仰は伝来以前に行われていたようである。いずれにしても日本に6世紀後半には仏教は伝わっていた。
しかしながらその事は本当の仏教思想を全員が理解したことを意味しない。私は聖徳太子が著したといわれる『三経義疏』の維摩経や、中宮寺につたわる聖徳太子(622)の没後、きさきの橘大郎女が侍女たちにつくらせた日本最古の刺繍・天寿国繍帳に残されている晩年の言葉から、この時代の人で仏教思想を理解した人は聖徳太子ただ一人であるとしばしば感じる。彼は、日本を訪れ飛鳥寺に住んでいた高句麗僧、恵慈に仏教を習った。しかし、このような人物はこの時代少数派である。豪族たちは、今まで古墳を作り自分の権力を誇示していたが、それに変わって舶来の寺院を建立するようになっただけで、その当時の寺院が古墳の造営と同レベルであった。「てら」の語源はパーリ語(サンスクリット語の一方言)とも 朝鮮語ともいわれているが詳細は不明で、中国で「寺」はもともと役所を意味していたが(日本でも「鴻臚寺」は外交を司る役所)やがて仏教伽藍をさすようになった。本来寺院の存在意義というものは、釈迦の遺骨(仏舎利)を安置することであったが、日本では初期から仏像を安置する場所であったのだ。このような権力誇示のための寺院は624年に46あったことが『日本書紀』にみえる。しかし、このような受容体勢であったからこそ、日本に仏教が浸透したことも事実であろう。あの難しい仏教思想が仏教文化と分けて伝来していれば、日本で仏教は受容されなかったと感ぜずにはいられない。
豪族が建立した氏寺とよばれるこのれらの寺院の代表的作例は、蘇我馬子が建てた飛鳥寺(法興寺)である。仏舎利を安置する塔を中心に、北と東西に金堂を配置する飛鳥寺式とよばれる形式で、588年に百済工匠の指導を得て起工がはじまり、596年完成、東西2町、南北3町という広大な寺域をもつ首都の繁栄を飾る寺でもあった。発掘調査によれば、ほんらい仏舎利をおさめるべき塔からは、挂甲・馬鈴など古墳の副葬品と同様のものが発見され、この時代の寺院建立の意味が推察される。
また、難波には四天王寺が建てられた。難波は、外交の玄関であり、外敵を滅ぼす四天王崇拝と結びつき四天王寺が建立されたと考えられているが、地名から荒陵寺とよばれたとする説も存在し、詳細は不明である。この寺院の伽藍配置は、塔・金堂が南北に並ぶ四天王寺式とよばれる形式で建立されている。
さらに聖徳太子は、小墾田宮から西北20キロメートルの地に斑鳩宮を造営し、こ の宮に隣接して法隆寺(斑鳩寺)を建立した。法隆寺は、670年に焼失して以後、再建されたものが今日に伝わり、世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されている。2001年2月、現存する世界最古の木造建築である五重塔の心柱の伐採年代をX線写真で分析した結果、594年に伐採したことがわかった。現在の法隆寺・西院伽藍 は、金堂・五重塔が東西に並ぶ法隆寺式とよばれる形式で、金堂には飛鳥時代を代表する仏像を安置した。
飛鳥時代を代表する仏教彫像、それはすなわち鞍作鳥の作といわれる法隆寺金堂釈迦三尊像であろう。中国北魏様式の影響が強く認められ、その作風は正面鑑賞性が強調されている。つまり正面でしか鑑賞できないのだ。実際鑑賞したとき、斜めから見ると後がただの平らに成っているだけであった。これらは雲崗 ・敦厚石窟などの影響であろう。岩山に直接仏像を彫っているわけであるから、背中のことを気にしなくていい。また独特な俗にアルカイックスマイルとよばれる表情や左右対称に描かれた図式的な衣のひだ(左右対称性)にその特徴があり、これらの特徴を止利形式とよんでいる。
一方、この時代の仏像すべてが止利形式で作られたわけではない。法隆寺百済観音、中宮寺菩薩半跏像、束京国立博物館丙寅銘菩薩半跏像など以外の作品もつくられ、両者を見比べるとその違いは明らかであり、二つの流れが日本に流入したことがおもしろい。
このように、寺院は今までの日本の建築様式から比べると非常に広大で、豪華なものであったし、そればかりではなく寺院は流行の最前線であり、日本と世界とを結びつける唯一の接点で、外来文化は常に渡来僧によってもたらされた。例えば、7世紀ごろ来日した高句麗僧、曇徴は紙・墨や絵の具の製法を伝え、百済僧、観勒は7世紀はじめに暦や天文地理書をもたらした。また法隆寺の中門・回廊は、円柱の柱身の胴部にふくらみをもたせ、古代ギリシャの神殿を思い起こさせる。遙か遠くのギリシャから文化がもたらされたことは、文化のダイナミズムを感じさせ、そしてこの当時の人々は、私たちが感じているよりもかなり世界主義的な文化の中で生活していたのではないだろうか。
*本文中にはふれなかったが、元興寺釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂釈迦三尊像、四天王像、百済観音像、中宮寺如意輪観音像などもこの時代の作例である。