しかし、僕の心を最も引きつけたのはそのタイトルではなく実はジャケットのゲリマン様の「顔」だった。我ながら「あ、オレに似てる」と思ってしまったのだった。当時学校のバカ女子どものせいで自分の顔にはすでに一種のコンプレックスを持っていたのだが、この時は何か同胞というか、もっと言えば分身というかに巡り会えたような気がして嬉しかったものだ。それ以来ゲリマン様は筆者にとっては何か身近な存在なのだ。
最初に買ったアルバムは、これほどショックを受けたにも関わらず実はどういうわけか『テレコン』で、すごく楽しんだ記憶がある。当然歌詞の意味などよく分からないまま(しかし歌詞カードに対訳はついていた。今改めて読むとこれは『アサイラム』などのよりもはるかによい訳である)「You You - Oh No!」とか口ずさんでいたものだ。歌詞カードに日本語がそのまま書いてあったのにも驚いた。当時ポリスやクラフトワークが日本語の曲をリリースしていたが「日本語を勉強している」なんてところまでいっちゃったお方はいなかった。
その後に遅ればせながら買ったのが『エレクトリック・ショック!』つまり"The Preasure Principle"。こっちは子供ながらも『テレコン』に比べて単調だなぁと思った記憶がある。「カーズ」にしたってキャッチーなのはともかく、あんなにヒットする曲だろうかと正直思った覚えがある。当時のゲリマンの曲を表して「クラフトワークの縮小再生産」と確か石野卓球だったかが言っていたが、確かにそう感じた。
というわけでゲリマンの存在を身近に感じながらも当時買ったのはその2枚に終わった。学部生時代にミック=カーンを目指してフレットレスベースを買って友人とバンドを組み(ちなみにバンド名は「ラオス」だった(笑))コスプレまでしていた筆者が『ダンス』を買わなかったのを意外に思う方もおられるかもしれないが、当時の筆者はジャパンを「気持ち悪い音を出すバンド」としか思っていなかった。
で、シルバースターズに導かれてHR/HMに走り、さらにスターリンに導かれてパンクに走った筆者は、もう行くところまで行っちゃって中学生のくせに生意気にもロックでできることにはもう限界があるなどと悟っちゃって、クラシックに走ってしまうのだった。そして丁度高校に入る頃に、いい機会だと思ってそれまでせっせと集めたロックのレコードを全て中古屋に売り飛ばしてしまった。そして、筆者とゲリマン様の関係は一旦ここで切れる。多分その頃だと思ったが『ウォーリアーズ』のレビューを多分プログレ雑誌か何かでみた記憶があるがその時にはもう「あぁ、まだやってるのか」くらいにしか思わなかった。
高校3年間はほとんどクラシックしか聴かなかった。ロックは坂本龍一、キングクリムゾン、ローリー=アンダーソンくらいしか聴かなかったというか「許せなかった」。せいぜいでもフィリップ=グラス程度だった。で、当然こんな筆者がまともなクラシックを聴いていたはずがなく、「現代音楽」という今の日本じゃおよそだれも好き好んで聴かないジャンルを聴いていて、古典はもちろんワーグナーだマーラーだなどと騒いでいる連中もバカにしていた。
音大に進みたいなどと今考えるとアホなことを考えていた筆者だったが、そんな才能はないと自覚し普通の進学をすることになった。そしてやってきたのが、ここ筑波大学だったわけ。オーケストラに入ったものの肌が合わずにすぐやめてしまった筆者は少しづつロックに戻っていった。その時の通路になったのはどういうわけか、数年前には「気持ち悪い音」だったジャパンだった。当時哲学科にいた先輩と偶然ジャパンの話題で盛り上がり、家でキーボードの山を見た筆者は生まれて初めて「バンドを組みたい」と思うようになり、程なくフェンダーの安物のフレットレスベースを買ってミック=カーンのベースをコピーするようになった。ゲリマン様の名を思い出す日が近づいてくる。
当時流行っていた「前向きな」ロックが嫌いだという点で意気投合した筆者とその先輩が一緒に演奏したり曲を作ったりするのにそう時間はかからなかった。その際、参考としとりあえずコピーしたのはもちろんジャパンとミック=カーンのソロだった。善く言えば内省的、悪くいえば根暗なコンセプトを2人は目指していた。曲作りのために差し当たりの歌詞を用意してみるとサビが必ず"I hate you. I can't believe anyone.""Alienation makes me liar"とかそういう内容になったのを思い出す。
ここで当時の筆者は永らく忘れていたあるミュージシャンの名を、いや顔を思い出した。もちろんゲリマン様である。当時アナログレコードからCDへの移行がほぼ完了しつつあった頃だったが、ゲリマン様の作品は未だ国内未CD化、レコードもなぜか手に入りにくかった。実家に帰省した折に富山市内の中古盤屋でやっと『テレコン』を見つけたくらいだった。
相棒はあまり気に入らなかったようだったが、懐かしい音だった。とりわけ、ベーシストになっていた筆者の耳を引きつけたのはポール=ガーディナーの地味ながら奔放なプレイだった。相棒とは反対に、どんどんテクニカルな方向に走ろうとしてパーシー=ジョーンズやクリス=スクワイア、スティーブ=ハリスのコピーまでしていた筆者にこのプレイは実に新鮮だった。ミック=カーンのベースに興味をもった頃を思い出した気分だった。
その相棒、結局訳あって彼の実家に帰ってしまい結局そのまま大学を辞めてしまったのだが、彼と入れ替わりに筆者の下に転がり込んできたのが何と5年ぶりに国内発売されるゲリマン様の新作『ニュー=アンガー』だった。彼の予期せぬ帰還を喜んだのはほんのわずかなファンだけだったが(『ロッキング・オン』には「ゲイリー=ニューマンと不機嫌」という見開きの記事が載り、『キーボードマガジン』でレビューを書いたのは何とホッピー神山だった!)、筆者はその一人だった。嬉しかった、とともに音の変わりように仰天したものだ。それもそのはず『テレコン』とせいぜいで『エレクトリック=ショック!』しか聴いていなかったのだから。既にポールが他界していたことを当時はまだ知らなかったが、あの重い人力リズム隊は影も形もなく代わりに空間を埋め尽くす金属質のリズムギターと饒舌なギターソロが幅を利かせていた。ゲリマンのアンドロイド=ボイスだけは全然変わっていなくて、この変化を「進歩」として肯定するのにそれほど苦労はいらなかった。そのものズバリな「黒い」音楽はくどすぎて受け付けない体質の筆者だったから、ゲリマン流のブラコン解釈はちょうどいいくらいだった(当然『ミュージック・マガジン』一派は口汚くこの「中途半端なソウル」を罵ったが、筆者がMM系のロック評論を毛嫌いするようになるきっかけは振り返るとこれだったのかもしれない)。
程なくアルファレコードからベガバン時代の全作品がボックス全3集で発売されると知り、これは当時本当に楽しみだった。ミック=カーンのファンでもあった筆者がとりあえず買ったのはもちろん『ダンス』が収録されている『アサイラム2』だった。筆者の恐らく生涯通じての愛聴盤となるであろう『テレコン』が、当時聴きたくても聴けなかった「アイダイ、ユーダイ」をも含んだ形で聴けるのは本当に有り難かったし、お次はゲリマンとミック=カーンの競演という夢のような作品『ダンス』(もちろんベースはすぐにコピーした。「君という名の地下道」は今でも手癖になっている)、ピノ=パラディーノのチョッパー=ツイン=フレットレスベースという驚愕のアレンジに度肝を抜かれた『アイ、アッサシン』、ビル=ネルソンの参加に驚き、「名盤!」と認識してめちゃくちゃ聴き込んだ『ウォーリアーズ』とめちゃくちゃ濃い世界に少々消化不良を起こしつつも聞き入ったものだった。
すぐ後に『アサイラム1』『3』も買ったが、これは少年時代と同様、あまり楽しめなかった。当時の日記を見ても「退屈だ」「ワンパターンの曲ばかり」と書いてある。参加ミュージシャンや制作に関するデータの記載がいいかげんでお粗末だったのに怒り、当時の筆者が見ても間違いだらけで失笑ものの歌詞対訳には怒りを通り越して呆れ果てた。今になってみると写真満載で資料的な価値はかなり高いのだが。
一方の新作の方は比較的コンスタントにリリースされていたが、日本での評判は今一つだった。筆者も『スキン=メカニック』には興奮したものの、『アウトランド』は買った当初は全然楽しめないで、理解するには相当な時間を必要とした。そんなこんなで「ニューマン=ショックを再び!」なんてことには程遠いありさまで尻すぼみとなった復活ゲリマンだが、その後リリースが滞り「あれからゲリマンも何をしているんだろう?」な気分のまま再びゲイリー=ニューマンの名と顔は筆者の記憶の片隅に沈んで行ったのだった。
そんなある日、行きつけの中古盤屋で何げなく洋楽Gのコーナーを見ていた筆者の目に懐かしい名前が飛び込んできた。もちろんゲリマンである。そのシングルCDには"Machine & Soul"とタイトルがついていて、リリースは92年となっていた。何とゲイリーはIRSから再びNUMAに戻っていたのだ。しかし再びゲイリーを忘れていた筆者がそれを買うにはほとんど1年間という期間を要した(つまりその間売れ残っていたわけである…)。
P-modelの活動再開やYMO復活、90年代のいわゆる「テクノ」の流行などがきっかけとなって80年代テクノの見直しも盛んで、テレックス、ジョン=フォックスなどのCDも再発売されたりしていたが、ゲイリー=ニューマンが再び注目されることはなかった。そんな中で天の邪鬼な筆者はゲリマンとの再再会を果たすことになる。とにかく、"Machine & Soul"を買った、聴いた、驚いた!。曲名の他には何も書いてないジャケットってのはある程度慣れてはいた。しかし!多分ゲリマン初のカバー曲、しかもプリンス!!。何よりもこれに驚いたが、内容的には完璧な完成度で、IRS時代には筆者も感じないわけには行かなかった多少のちくはぐさも全く感じられなかった。ゲリマン流ブラコンは見事に完成されていたのだ。しかしこの再再会もたったこれだけで終わり、その後の情報は何一つ得られないままだった。
その状況が変わったのは筆者がインターネットに手を染めるようになってからだった。接続してほんの数日後、何げなくYahooでGary Numanを検索してみた。検索結果は何度目かの冷却期を完全に吹っとばすものだった。本人による公認サイトをはじめ出てくるわ出てくるわ。内容がまたどのサイトも濃かった。「ゲリマン健在!」とはIRS時代にも聞いていたし、本国のファンの熱狂ぶりは『スキン=メカニック』でも分ったが、それを本当に実感したのはこの時だった。筆者はファンぺを作りたくなり、とりあえずゲリマンと日本の関係を英和辞典引き引きえっちらおっちら書いてみて、日本とニューマンをひっかけてタイトルを「ジャパニューマン」とし(当時「オジャパメン」なんてのもあったし(笑))とりあえず沢山のゲリマンファンぺの作者のうち最も気合いが入っていそうな方にメイルを書いてみた。それがジョーイ=リンドストローム氏で、彼は筆者のブロークンな英語に辟易しつつも「面白い」と言ってくれJAPANUMANがスタートしたのである。その後は読者諸氏が御存知の通りである。
JAPANUMANがなくなるまでつづく…