イブン=ルシュドのプラトン『国家』注解 特にその理論的な諸論考、つまり政治学の第二の部分、に関して 1  (1.1)この論考の目的は、プラトンが国家論の政治機構論において成し遂げた気高い論議を要約することである。しかし、単なる議論のための弁証的な論は省く。こうして論考を要約していく過程全体において、我々は厳格を心掛けるが、ただし、順序立てて理解を進めていくために先に序論を述べる必要がある場合は、そこで学習の過程をあらかじめ整えることとする。というのも、実際プラトンがこの書物をまとめたのは、彼がこの学について既にいくつもの論をものした後だったのであるから。また、ここで、そういったこととともに、この学の有益さ、その目的、その諸部分についても少し述べることがあるからである。  (2)さて、我々も言う通り、いわゆる実践知は理論知とは根本的に異なっているし、後者の原理は前者の原理とも異なっている。  (3)つまり、この知の対象は意志に関する事柄であって、その実現は我々に依存している。これらの事柄の原理は意志と選択である。それはちょうど、自然学の原理が自然であり、その主題が自然に従う事柄であるのと、また、神学の原理が神であり、その主題が神的な事柄であるのと同様である。  (4)さらにまた、この知は観想的な知とも異なっていて、その違いは後者の目的が単に知識だけであるという点にある。仮にそうした知識において何事かが作り出されたとしてもそれは偶有的なことに過ぎない。ちょうど、学者が探究する多くの事柄においてそうである通りである。しかしながら、実践的な知の目的は行動だけである。もちろんそれらの諸部分は行為をもたらすことに関して程度の違いがあるのだが。  (5)つまりそれは、こうした知に備わっている原理が一般的であればあるほど、行為の実行からは遠ざかるということであり、逆に、一般的でなくなればそれだけ今度は近くなるということである。つまり、医学におけるのと同様の事態である。それだから医学者達は医学の第一の部分を理論的な部分と呼び、第二の部分を実践的な部分と呼ぶのである。  (6)同様の理由で、今問題の技術も二つの部分に分かれる。つまり、第一の部分で取り扱われるのは性向、意図的な行為、行動一般で、それらが包括的に論じられる。また、それら相互の関係もそこで論じられる。また、それらの性向のうちどれがどれに依存しているのかも論じられる。また、第二の部分で論じられるのはそうした性向がどのように魂に植え付けられるのか、また、どの性向がその性向に関わり、かくして、目的の性向から由来する行為があり得るもののうちで最も優れたものとなるのか、ということも論じられる。また、どの性向がどの性向を妨げるのかということも論じられる。総じて、この部分で取り扱われる事柄は、一般的な原則に条件付けられれば実現可能なそれである。  (7)この問題の学の第一の部分と第二のそれとの関係は、医術における『健康及疾病論』と『健康保持及疾病除去論』との関係と同じである。  (8)この学の第一の部分は『ニコマコス』と呼ばれるアリストテレスの書に、第二の部分は『統治の書』(『政治学』)と呼ばれる彼の書に含まれているし、後者はまた我々が注釈しようとするプラトンの書にも含まれている。[プラトンの書を注釈するのは]アリストテレスの『政治学』がまだ手に入っていないからである。  (9)しかし、[これから論じていく]これらの論考の内容に逐語的な注釈を加えていく前に、ここでこの[第一の]部分に論じられている事柄、つまり、第一の部分で説明されている事柄、我々がまずここで述べようとする事柄の根本原理となるであろうものを想起しておくべきだろう。  (10)つまりこういうことである。既にこの学の第一の部分で明らかにされたことだが、人間の完全性は一般に四種類にわたる。つまり、観想的な徳、思考上の徳、倫理的な徳、実践的な技術である。そして、こうした全ての完全性はひとえに観想的なそれのためにあるのであり、その準備となっているのである。ちょうど、目的に先立つ準備が目的のためにあるのと同様である。 2  (2.1)また次のことも明らかであった。これら全ての徳において卓越している者はいるはずがないか、見い出しにくいとも言われていたのである。しかしまた実際、多くの人々に徳が完成されるというのもどだい不可能なことである。また、個々人がこれらの徳のうち一つにおいて優れることも、同胞達に助けられることなしには、ありえないことであるように思われる。つまり、人は徳を獲得するために他の人々を要するのである。それだから、人は本性上国家的(政治的)なのである。  (2)このことは人間にとって、人間としての完成のために必要とされるだけではなく、生活上必要不可欠な事柄のためにも要される。これらはある程度人間と動物とで共有されている事柄である。例えば、食物の摂取、住居や衣服の獲得、総じて人に、生命力をもって発揮される能力に関して要される物事一般である。  (3)そして、こうした必要不可欠なことは様々な仕方で存在する。つまり、方やそれなしでは生存すらままならないものもある。例えば、個々人では衣食住に不可欠なものをそろえることすらままならない。またあるいは他方で、生活をより容易ならしめるために必要なこともある。つまり例えば、ザイードは別に地を耕さないでもよいし、種をまかなくてもよいのだが、地を耕し、種をまけば、生活はより容易になるであろうし、その限りではより善くもなるのである。  (4)つまり、もし人が若い頃の初めから術に親しみ、長い間それに習熟するなら、この術でこのものが作る作品はよりよくなるし、これが一つの理由となって、プラトンは、国家の市民は、一人が一つ以上の術に関わるべきではないと考えたのである。それはそもそもできることではないし、たとえ可能だとしても、それは最善なことではないのである。  (5)というのも、人間の完成が達成されるのは限定された共同体においてのみであって、この共同体はその各々全てが、これらの完成が異なるのに応じて異なっている。それだから、共同体の全ての個人が人間の完成一般に至れるようになっているとしたら、この点において自然は徒なことをしたことになる。なぜなら、ここで、何事かが可能でありながら、あらわにならないよう引き止められているというのは、真実ではないからである。  (6)そしてこのことは既に『自然学』の中で明らかにされており、経験も個別の人間がこのような形態にあるということを証拠立てている。また、このことが最も明らかになるのは賞賛に値する完全性においてである。というのも、全ての人があらかじめの性向からして戦士でもなければ、弁論家でも詩人でもないし、何よりも哲学者ではないからである。  (7)こうした全てのことが素描された通りに、必然的に、様々な人間的完成が十全に備わっている人々が存在し、人々は完全性に向けて助けられるのである。こうして、不完全に完成されている者は完全に完成されている者に従って、彼等を己が完成することの導きとし、最高度に完成されている者は不完全な者を助けて、完成の始源を与えるのである。  (8)このことの実例は、馬術と馬具製作術である。なぜなら、馬具製作術は馬術に仕えてその準備となり、馬術はその術に、どのようにしたら馬具がもっともよくなるか、また、両者が一つの目的にまとめられるのはいかにしてかということも示すのであるから。 3  (3.1)ある術が別の術の上に立つのにどのくらいのあり方があるかということは第一の部分で既に述べられた。翻って言えば、たとえこのような集積が[現実には]ないとしても、それは人々の不徳の致す所であるか、彼等の徳が至らないために過ぎない。  (2)総じて、こうした諸徳と国家の諸部分との関係は、魂の諸能力とその諸部分との関係と同じなのである。こうして、国家が知恵あるものとなるのはその観想的な部分によるのであって、この部分によって国家の全ての部分は統治されるのである。同様にして、人が知恵あるものとなるのも理知的部分により、この部分が魂の全ての能力を統べているのである。つまり、理性に結び付けられている部分、すなわち、気概的部分と欲望的部分を、である。このようにして、倫理的な諸徳は魂に備わるのだ。  (3)つまり、[このような人は]動くべきであると思うものへと動くのであり、知性がよしとした程度に、また、知性がよしとした時にそうするのである。  また、[このような人は]気概的部分において勇敢ではあるが、しかしながら、それは知恵がそう強いる場合において、また、そうされる程度に、そうされる時においてであることは言うまでもない。  (4)それはちょうど、人が実際勇敢であるのは、気概的部分においてで、しかも、知性がよしとするものを用いる場合、そうされる時、そうされる程度においてであるのと同様である。  (5)節制(過誤への怖れ)と[その他の]個々の徳においても全く同様である。さて、総じて、人が卓越しているのは全ての知的及び倫理的な諸徳においてであり、このことにおける統括は、これらの諸徳相互の統括に従っている。  (6)以上のことが正義であって、これをプラトンはこの著作の第一巻で探究し、第四巻で詳論したのである。すなわち、正義とは、国家の成員個々全員が、そうするのが自然本来においてよりよい事柄を、できる限り、なすことに他ならないのである。  (7)しかし、このことが成り立つのは、国家の諸部分が、観想的な知恵とそれを修めた者達の決定に服する場合である。ここからして見て取れるように、この部分が国家の指導者である。つまり、観想的な知恵の持ち主であり、それを修めている人々である。正義が個々人の魂の内にある仕方も同様である。つまり、個々人の[魂の]部分個々全てが、なすべきことを、なすべき程度に、なすべき時になす、これが正義である。そして、必然的なことだが、このことが実現するのは、魂の諸部分において、知恵がそれらを支配している場合なのである。要するに、国家の場合と同様である。 4  (4.1)次のことは知っておくべきである。これらの諸徳目には、そのある部分に備わることによって国家に備わるものもあれば(例えば知恵や勇気がそれである)、全ての部分に備わることによって国家に備わるものもある(例えば正義や節制がそれである)。それはそれらの徳目の本質からも明らかである。  (2)しかしながら、自由市民らしさという徳が、こういう国家の部分全てにあるのか、それともその一部分に備わっているのかということは後に考察することとしよう。詳しい考察の場はそこにあるのだから。  (3)さて、全てこうした事柄が我々の見た通りであり、また、総じてこうした諸徳目が何に存するかはこの学の第一部で既に明らかになったのであるが、しかし、こうした事柄における知識を完全にするには、まだここで三つの事柄が残っている。  (4)そのうち一つはこうである。個々の徳目が働くために措定されねばならない諸条件を我々は定めねばならない。例えば、既に言われたように、総じて勇気が何であるかということ、つまり、魂における、臆病さと無謀さの間の一定の比率であり、つまり、それによって人がなすべき仕方で持ちこたえ、つまり、なすべき程度に、なすべき時に、そうすることになる性向である、というのは決まってはいる。しかしながら、この性向から行為がなされる際、この定義には個別の諸条件が与えられねばならない。さもなくば行為は不可能である。ここでこのようなことを認識する目的は、専ら、アリストテレスも言うように、「なすべきだ」ということであって「知るべきだ」ということではないのである。  (5)第二は、どのようにしてこれらの徳目が若者達の魂に築かれ、そこでそれらが徐々に成長し完成されるのか、また、完成された後にどのようにしてそれを保つのか、ということである。さらに、どのようにして悪人の魂から悪徳を除去するのかということもそうである。総じて、この学におけるこうした問題は医学におけるそれに似ている。つまり、後者の、より後に来る部分は、どのように肉体を健康に育て上げるか、どのようにしてその状態を保つか、また、健康を逸脱した場合にどのように病気を肉体から取り除くのか、まとめあげて知らせるのである。ここでの問題もそれと同様である。  (6)第三の課題は、何か徳と共にされるとその徳の働きがより十全に発揮されることになるのはいかなる性向、いかなる徳か、また、いかなる性向がいかなる性向を妨げるか、ということの輪郭を描くことである。つまり、医者は、肉体において他のものと共にされると健全な状態を作り出し、また保つのはいかなる性向か、それを告げるが、ここでの問題も同様である。  (7)そして、ここで以上のこと全てに得心がいくのは、これら全ての目的の理解を通じてである。つまり、国家の部分としての、完成とその目標の目的を、である。それはちょうど、身体器官の健康の維持やその回復が得心されるのは、大抵、他の器官との関係や地位の理解を通じてであるのと同様である。 5  そして、以上全てが明かとなった後に、市民の魂に各々[の徳]が成立する方途と、その方途がいかなるものであるかを明らかにする。あわせて知るべきであるのは、言葉の上でそれらを描写することができるとしても、それではまだそれらが国家や共同体において実現するには不十分であり、判断力がこれに加わらねばならない、ということである。これは、医学上の問題と同じ事情である。 6  それだから、国家の指導的部分についてプラトンはそれが長老達にあらねばならないと言うのだ。彼等においては、観想的な学問の理解と人生経験がまとまっているからである。医者も同様であって、医者として完成されるのは、不変の原理を完全に理解すると共に、知的な徳が彼に備わり、経験を通じてそれを現場に実現させられるようになった時なのである。さて、こうしたこと全てはこの学の第一の部分で明らかにされる。つまり、我々は我々が初めにあった所に戻るのである。 7  (1)我々の主張では、プラトンがこれらの徳の成立に関する論述を開始した端緒は勇気である。また、これも我々の言説であるが、最も完全な形でこの徳が市民に獲得されて留まり、彼等にとって内部の守護となる仕方という問題を、我々はまず、国家におけるこの徳の働きの目的は何かという問題として探究する。  (2)またこれも我々の主張であるが、市民の魂一般に徳が成立する方法には二通りある。一つは、弁論や詩の言葉を通じて[正しい]信念が彼等の魂に成り立つことによってである。これは大衆向けの理論的諸学に特有の事柄である。  (3)しかしながら、優れた者たちだけに理論学を教授できる方法こそが真の方法である。これについては後に述べられる。  (4)さて、[プラトンも]大衆に知恵を教えるにあたって弁論や詩の手段をとったのである。次の二つの場合のそれぞれに応じて。つまり、大衆が論証を通じてそれを知っている場合と、全く知らない場合とである。しかし、前者はありえない。他方、後者はあり得ることだが、それでも、人は全て、人間としての完成を獲得せねばならない。できるだけ、本性においてそれらを獲得するべくなっているのに応じて。また、それに対する備えに応じて。  (5)さらに、第一原理に関する知識であると彼等が懸命に信じているものへの信念、また、彼等の本性において正しくそう信じている限りのそうした目的[の信念?]は、彼等にその他の倫理的な諸徳や実践行為をもたらすのに有益である。  (6)しかしまた、ここで言うこの第一の方途によって倫理的諸徳や実践的な知識を市民の魂に涵養することは、そのようにして彼等をこうした実践や徳を実行することへと広げることでもある。その際、二種の言論が共に用いられる。つまり、説得的な言論と感情を引き起こす言論とである。これらが彼等をよい性格へと導くのである。  (7)しかし、この第一の教授法はほとんど、市民のうちでも、このような事柄に幼少の頃から関わって成長してきた人々に向けられる。この方途は自然に適った二つの教授法から導かれる。  (8)さて、第二の教授法が用意されているのは、敵や、期待される徳に方途が結び付けられていないような人々のためである。つまり、強制や、懲罰による矯正である。明らかに、この方途は理想国の市民には不要であるか、あるいは、[仮にあったとしても]最も偉大な技術ではない。これは懲罰*を通じて実行されるものであるから。あくまでこれは、戦闘活動であって、戦争用の技術なのである。 *blqichhを読まない。  (9)しかしながら、よい国家ではなく国制が人間的でもないその他の国家にその他の教示法はない。つまり、戦争によって市民を徳へ無理矢理結び付けるのである。この二つの方途、つまり大衆への教示に関して自然の導きに従う方途、のあり方は、家長が家族、つまり子供・青年・奴隷、に道を説く際に従うあり方から明らかである。  (10)全く同様にして、よくない国家の指導者達は国民を矯正するのである。つまり、晒しもの、公開鞭打ち刑、処刑によってである。しかしながら、我々がこの論考の中で描写している国家ではこの方法のようなことは少ない。つまり、脅しによる教育はあまり行われないのである。ところが、これ以外の残りの国家にとっては、そのような方途が不可欠である。また、頑強な国家においては、戦争以外の脅しはありえない。  (11)人間の法に従う法においても事態は、我々が論じる神的法におけると同様である。なぜなら、神に導く方途も二つあるからである。一つは言葉によるものであり、もう一つは戦闘によるものである。 8  (1)この従属的な術は倫理的な徳によってない限りは不完全なのである。その徳とは、ふさわしいことをふさわしい時にふさわしい程度に成し遂げる徳、つまり勇気の徳である。そうであるから、どうしてもなされねばならないことであるが、理想国においてこの徳はその活動に備えていなければならないのである。そして、その本性から明らかなことであるが、この徳が完全に活動するには、この徳に従属的な述が結び合わされねばならず、それも、多くの倫理的徳や実践技術の本性において見い出されるようにしてそうされていなければならないのである。  (2)というのも、多くの徳において明らかなことだが、それらの徳は技術のために用意され、また、多くの技術は徳のためにそうされているからである。アブー=ナスル(アル=ファーラービー)の書によると、アリストテレスも理想国における戦争についてこのように考えていたということである。  (3)しかし、プラトンのその書で我々が見い出すのは、この部分がそこにあるのはかの目的に備えてのことではなく、むしろ、必要に駆られてのことである、ということである。その第一の目的は、他の国家から、その種の強いられた物事を取り去るためである。必要に迫られてのことにせよ、改善のためにせよ。また、第二の目的は、外部から国家に悪影響を与えかねない物事に対する防御の助けとなるためである。  (4)しかしこの見解が妥当するのは、ある種の人々が人間としての完成、とりわけ観相的なそれにそなえている場合である。思うに、プラトンはギリシャ人においてこのようなことを想定していたのである。無論、彼等が本性上この知の獲得に大いにそなえているということを認めるにしても、この人々のような人々がまだ多く見い出されることは否定できない。つまり、アンダルシア、サミア、イラク、エジプトにおいてということである。この事態がギリシャにおいてより一層認められるとしてもである。  (5)さらに、このことを仮に認めるとしても、おそらく我々はこう言えるはずである。つまり、その他の徳目に関して、これこれの国家が本性上これこれの徳目に大いに備えられているということはあるはずである。例えば、観相的なそれはギリシャ人達により分配されているが、気概的なそれはクルド人やガリシア人にそうされている。  (6)このことに関してはより力を入れて追求する場があるであろう。というのは、理知的部分がより強い場合には、より相応しく適切な徳目、つまり、本性上備わった徳があるだろうが、しかし、この問題をどう展開するにしても、大半の種の国家は、これらの徳目がそれらに広まり、配分されるようになっているからである。さらに言えば、程々の二つの有り様、つまり第五・第四のそれによっているのである。  (7)思うに、プラトンを擁護してこう言えるかもしれない。人間がこれらの徳において優れたものとなれるのは、幼少の頃からそれらに向けて成長した場合に限る。しかしながら、そういう年を過ぎた後にそのようなことを強制されても*達成は不可能である、と。このような事態なので、理想の政体においてとは言え、既にこの年令を超え成長した人に、なんらかの威嚇を用いるいわれはないのである、と。しかし、もしこれがその通りであるとしても、強制的に彼等の子供を取り上げたり、徳に向けて彼等を制御する、といった措置はどうしても必要である。 *ヘブライ訳の際に誤読が生じたと見られるらしい。詳細は底本参照。  (8)また、たとえ青年期を過ぎた人々であっても、彼等の大部分にとっては、ある程度は徳を獲得することも不可能ではない。とりわけ、非常に優れた政体に近い政体において育てられたのではない*人々についてはそう言える。 *常識的に考えれば逆ではないかと思うが… 9  (1)「義しい戦争」ということが何を意味するかということは既にこの論考を通じて明かにされたので、次になすべきは、これらの徳に向けて整えられるこれらの本性の選択についてプラトンが語った事柄を逐一たどることである。つまり、いかなる仕方でそれらが市民の魂に落ち着くのか、また、いかなる仕方でそれらを彼等の魂に習慣付ければ、それらからなされた行為がその目的においてそれらの徳にかなうようになるのか、ということをである。  (2)(II 374b-e)我々の言うべきことはこうである。プラトンの考えでは、あらゆる市民は一つより多い技術の中で育てられてはならない。というのは、全て人というものは本性上、一つよりも多い技術に向いているようになってはいないからである。また同様に、人に性向が具わり、それによって技術的な活動がよく行われるのは、彼等が若年の頃からそれに向けて成長してこそなのである。例えば、よく見られることであるが、トゥルニエと呼ばれる周回競技や馬術においてうまくできない人もいるが、それはどちらにおいても、若い頃からの習熟と成長がなければならないからである。そしてこの同じ事柄は戦争の術においても同様にあてはまらねばならない。さらに、多くの技術が同時に全うされ、それらの修得時期が重なることもあるので、一つの技術以上のものにかかずらうことは、それらの活動を妨げることに当然つながるのである。  (3)こうした事柄全てに基づいて、プラトンは守護者は他の仕事から解放されているべきだと考えたのであるし、この活動にふさわしい性質の持ち主を選び出すにあたって選ぶべき者は、動きが素早いという身体能力に優れた感覚をも結び付け、速やかに物事を感得しその道筋を追求するに至るような者だとも考えたのである。これは猛々しい犬、つまり狩猟に用いられる犬、の性質における問題と同様である。なぜなら、守護のために要されるという限りでは双方の本性には何の違いもないからである。それだからこそ、これらは守護や戦士であるために要される身体的性質なのである。  (4) (357b)しかしながら、魂の徳について言えば、本性において気概的人間である必要がある。というのも、気概を持たない者は熱くなることができないし*、撃退することもままならないからである。この問題は、人間におけるそれも、他の動物におけるそれも同様であるが、ただし、[人間の場合]こうした心身の徳へと形作られた者は愛や嫌悪を抱き難くなると思われる点だけが異なる。 *テキストに疑義があるらしいがそのまま読んだ。  (5)(c)さて、こうした人々は自らに二つの正反対の事柄を一つに合わせもたねばならない。つまり一つには、市民に対しては極めて高い愛と熱意を持たねばならず、他方、彼等の敵に対しては極めて高い力と苛烈さを持たねばならないのである。それだから、人がこれら二つの性格を持つよう自然に形作られるのは不可能であると人は考えるかもしれない。(d)しかし、守護者が本来的な守護者となるには、自らの内にこれら二つの性格がまとめられねばならないのである。しかしながら、ここで守護の内には不可能であると思われることであっても、多くの動物においてはありうることである。  (6)(e)例えば強い性質を持つ犬は事実いわばそのような本性によって形作られるのである。つまり、自分と交際し生活を共に享受する人々に対しては最良の隣人であり、知らない人に対してはその逆である。  (7)こう言われる。以上と共に守護者に要される条件は、本性上、知っている人を愛するということである。この本性は疑いなく哲学的な性質である。というのも、(376a)物事を自分にそなわる知識や心得を通じて選択する者は本性上優れた者だからである。そして、守護者が見知らぬ人を嫌うのは、もちろん後者が前者にかつて加えた災悪の故にではなく、ただ後者を知らないということのゆえにである。同様に、守護者が知人を愛するのも、かつて後者が前者に善いことをしたからではなく、ただ後者を知っているということのゆえにである。  (8)我々がかつて守護者を彼になぞらえた動物においても事態は同様である。つまり、それは、知らない者を見ると彼を嫌うが、それはそれまでに後者から前者に何ら害悪が加えられていなくてもそうなのである。また、知っている者を見るとその人がいるのを喜ぶが、それはその者からそれに何ら善いことがもたらされなくてもそうなのである。さて、我々がこの性質を守護者に要請するのは、これら矛盾する二つの性質が最もよくそなわるためである。つまり、知っている者(すなわち市民)への愛と、知らない者(すなわち外部からの敵)への嫌悪である。  (9)このようなことが重要であるのは、愛憎は利害の元であるが、しばしば交替する*からである。つまり、このような場合、敵が支配者に変わり、また逆に、支配者が敵になることもある。このことは自明である。 *原文に問題あり。 10  (1)(c)さて既に同様にして以上全ての事柄から明らかなことであるが、守護者達や勇者達は本性上哲学者であり、つまり知識を愛する者であり、無知蒙昧を嫌悪する者、気概の持ち主、機を見るに敏で、身体的にも強健、そして善い感覚の持ち主である。ところで、彼等に人柄の徳を教え、育て上げる方法には二通りの方法があって、その一つは体育により、二つめは音楽による。  (2)体育は肉体に真の徳を備え付けるためであり、音楽は魂の教導と徳の養育のためである。この教導が(377a)大抵時間的に先立つ(つまり音楽による教導のことであるが)。というのも、理解する能力は体育のそれよりも先にそなわるからである。「音楽」というのはつまり、模倣的な文学が節を伴ったものである。それらによって市民は教導を受ける。  (3)このことの主眼は「節による」ということである。というのも、そうすることで働きはさらに完全なものとなり、魂をより大きく動かすものとなるからである。なぜなら、音楽の術は、既に明らかなように、詩学に奉仕するものであり、それが表現したい内容に至らせるものなのだから。市民が躾けられる物語は、既に言ったように、理論的な物事に関わるものと、実践に関わるものとがある。  (4)これらの物語には二つの種類がある。論証的なそれと、弁証的なそれ、つまり、弁論的なものと、詩的なものとである。詩的な物語は若者達により適している。しかし彼等が成長して、彼等のうちに適者があり、より高い段階への学習へと進めるのであれば、その者にはそのようになされ、かくして、論証的な言論を学ぶ本性的な素質がある者が高次へ至る。彼等が「賢者」である。しかし、本性的にそのような能力がない者は、彼等が本性上超えることのできない段階に留まる。それは、弁証的な言論の段階であることもあれば、大衆の教示に共通する二つの方法、つまり弁論的な言論と詩的なそれの段階であることもある。詩的なそれはよりありふれたもので、若者には適している。  (5)観相的な物事は概ね全てのこうした人々に共有されるが、ただ、人間の目的や目標に似ている*のがふさわしいと考えられるものは別である。人間というのは、もっと言えば、目指す所の完成において得に優れている人間であり、さらに具体的に言えば、我々が話題にしてきた人々、例えば「生きている死者」やその他の、真実らしくない話の中で語られる人々のことである。 *疑義があるらしいがそのまま読んだ。確かに読みにくいが全く意味不明でもないだろう。  (6)観相的な事柄は彼等に卓越した程度に刻み込まれるべきものであるが、それらを既にアル=ファーラービーは彼の書『存在の諸段階』において数え上げたのである。しかし今はここから離れておく。  (7)(376e)しかしながら、実践的な事柄もまたこの学において明らかにされる事柄である。似像には、そう言われているように、近いものも遠いものあれば、虚偽のものも正しいものもある。虚偽の似像というのは例えば、人間の形が牛のそれに写されたものである。こうしたものがこの国家の中に作り出されるのはおよそふさわしくない。それらは大いに有害だからである。また同様に、遠い似像もできるだけ遠ざけなければならない。他方さて、近い似像に関しても、ここで論じておくべきことがある。それは、第一原理や第二の諸原理をそれらに類似の政治的原理で模倣した際と同様である。  (8)神的な理念は政治的な原理が活動することによって表され、また、生得的な原理や能力の働きは、意志の能力や技術のうちそれに類似するものによって表される。つまり、それらのうち原理的なものは、感覚に関わるもののうちそれらに類似のもので表される。これは質量が欠如や不明によって表されるのと同様である。また、究極的な幸福(つまり人間の徳が行うことの目的であるが)の種類はそれに似た善の種類で表されるのであり、こうした善は目的と考えられるものなのである。真の幸福である幸福は、幸福であると考えられるものにおいて表される。総じて、存在するものの実在の中における段階は、それらに対応する時空の段階において表される。 11  (11.1)(377bc-378de)プラトンは言う。子供達に最も有害なのは子供時代に偽りの物語を聞くことで、というのも、彼等はこの時期、自分達が受け入れたいと思う形のものを容易に受け入れがちだからである。それゆえ、この時期に必要なことは、彼等に虚偽の表象をいかなるものでも聞かせないよう監督することである。総じて、ここで最大の注意を要するのは教育の開始時期である。というのも、初めがあらゆる仕事で非常に重要だからである。  (11.2)また、プラトンが言うように、我々が目を光らせるべきなのは、彼等の魂を馴致し育て上げるにあたって程度の低い作り話を用いないということであって、このことは、雪に体をさらすとよくないことにそうするよりももっと重要である。そしてそれ[が特に重要なの]は、彼等がまだ全く小さいうちに乳母に預け、躾を施す際なのである。そしてまた後に、彼等が逞しくなった時、祈る場所や犠牲を捧げる場所に連れていく際も同様である。いずれにしても、虚偽のおぞましい物語は目的を達成することができない。プラトンは彼の時代に有名だったものを挙げ、それらに注意を促している。  (11.3)そこで我々は彼に従ってさらに進み、我々によく知られた事柄からもいくらか記録しておこう。(379c)我々はこのように言う。これら醜悪な似像には、観相的な諸学問によって説明される事柄によると、人々の間で当たり前に通用しているものもあり、例えば「神は善の原因であると共に悪のそれでもある」というものである。(380b)しかし神こそは完璧な善であり、いかなる時にも悪をなさず、その原因であることもないのである。我々の時代のこうした人々のうち物事の本質を極めた人々の言説に、善悪は神との関係においては考えられえず、神に依ってなされたことは全て善である、というものがあるが、まさしくこれは詭弁であり、明らかに虚偽であることが自明である。というのも、この論に従うと、それ自体として善悪には定まった本性などなく、善悪は単にそうであるとされたものに過ぎないということになるからである。  (11.4)それゆえ、悪は別の原理に帰すべきである。例えばすなわち魔王アスモデウスや悪魔達にである。他の点に関してはこうした表象はこの通り悪いものかもしれないが。つまりこういうことである。およそ若者が出し抜けに聞くことが、そら悪魔達が壁を揺さぶって人間に襲いかかろうとしている、鍵をかけても無駄、だの、あいつ等は自分等が見ることはできるが人には見えず、どこでも望む場所に在ることができ、望む形で現れることもできる、とかいうことならば、彼等のうちから卓越した守護者が出るということはないであろう。というのも、こうした言説は青年たちの心に柔弱な精神と恐怖心を種蒔き、それらを彼等に植え付けるからである。  (381e)しかしこのことよりもさらに卑しいのは、天使でさえも色々違う形に描くことである。これは奇蹟のなせる技だからである。それゆえ、よりふさわしいのは悪を物質の似像に帰することで、例えば、悪を闇や虚無に帰す人々の仕方がこれにあたる。悪を神のせいにする類の連中が悪辣な言説を垂れ流しているのは、彼等の中に頽廃を見てとる人々には明々白々なのである。  (11.5)また同様に、何もよい所がない似像というのは、幸福のそれであって、幸福を、幸福につながる行為への報賞、あるいは、それがなければ幸福に至れる行為を控えたことへの報いとするものである。  (11.6)また実に、苦痛は賞賛に値する行為を放棄したことや、いたらない行為に固執したことに対する罰である[という似像も悪質である]。というのも、このような似像にあるような事柄に由来する徳は、徳よりも悪徳により近いからである。つまりたとえば、それらを節制する者は、実は、それよりも大きい快楽を得るために快楽を節制しているということなのである。同様に、勇敢な者も、死がよいものであると考えるから勇敢なのではなく、それよりも酷い悪への恐怖がこれを上回っているからなのである。また正義に関しても同じであって、他の人々の持ち物から遠ざかるのはそれ自体が義務であることによるのではなく、そうすることによってその何倍ものことにありつくためにそれらに手を付けないでいるだけなのである。  (11.7)さて、このように、称賛される多くの徳目に彼が向うのは程度の低い物事のためであり、というのも報賞に関する表象の大部分は事実感覚的な快楽に関わるものだからである。その結果、実に人が勇敢・公正・忠実であり、また徳目による麗しさを得るのは、飲み食いし交わるためである、ということになる。こうしたこと全ては、学問の修練がある人には明白である。  こうした表象から魂に生ずる性格は、抑圧によって人々の魂にそなわる性格に似ており、全く徳ではないと思われる。方や、信をおくに値することであるが、幸福が達成されるのは、それによって幸福が達成される行為を通じてであり、それは健康が食物と薬から得られるのと同じである。また、悲惨における事態も同様であって、知識が学習によって得られるのと同じである。それゆえ、幸福を表すにあたり、それが精神の健全さ、それが存続し、永遠に生き続けることとされれば、それが正しい叙述というものである。 12