イブン=シーナー(アヴィセンナ)『高等学術教程』 慈悲深く慈愛遍きアッラーの御名に於て  感謝を賞賛を、創造主であり知恵をお恵みくださった主に。挨拶を、神に選ばれた予言者ムハンマド=モスタファに(彼にアッラーの祝福と加護あれ!)、また彼の家族と友人達に。  大いなる勅令が我が主、義なる王にして、アッラーの加護深き、栄光なる、エズド=ディーン=アラー=ドゥーレ、ファクル=ル=マラ=ワ=タージ=ル=アマ、アブー=ジャファル、ムハンマド=イブン=ドゥシュマンディアール、僕達の主にして指導者−−長命万歳!幸運に栄光あれ!王権繁栄!−−から僕にして下僕であるこの私に宮殿で下された。王の御好意で、私は平穏や大度・鷹揚・満ち足りた思いをまさに私のものとして与れたし、知識を治め、王の側にもいられたのである。私は王その人と膨大な集まりをなすあの従僕達のために一冊の本を、ダリー調のペルシャ語で、起草せねばならなかった。その書には伝統的な哲学的知識の五科の原理と素描をまとめあげた。つまるところそれらというのは要するに:  第一、規範学としての論理学。  第ニ、自然学、つまり感覚に依る対象、運動し変化する物事に関する学。  第三、天文学、つまり世界のあり方に関する学であり、天空と天体の運動の形態がどうあるかということに関する学、その真理がどのようにあるはずかということに関する知識を明らかにする限りのそれ。  第四、ミューズの学(音楽)、つまり音声の調和と不調和、旋法の本性について理論を明らかにする。  第五、超自然的な事柄の学(形而上学)。  論理学をどのように論じ進めていくかということについては、次のように決めて、工夫しておいた。つまり、最高度の学から始めて、徐々に下位の学に及ぶ。慣わしとなっていることや慣習に反することではあるが。さらに、下位の学から始めてこの学に移行するという以外に差し当たりやりようがなければ、そうされてもよかったのである。  さて、下僕であり、召し使いの一員に過ぎない私は、自分自身をこの知識の権威とは思っていないし、並外れてこの領域に携わっているとも思わないので、主の命に従うことが私には幸福・従順・繁栄への賜物そのものなのだと考えて、創造主を恃み、首尾よくこの仕事をできるよう命じられることを信じよう。 論理学における目的の説明と、その使用について  知ることには二つの種類がある。一つは直覚によるもので、アラビア語では「覚知」と呼ばれている。例えば、誰かが「人」「精」「天使」あるいは何でもこれに類似のことを言う時、その表現にあるところのものによって、その後が何を意味しているかを理解しないだろうか。  二つ目は欲求であって、例えば、人が「天使が存在する」とか「人間は神命に服している」とか何であれこれに類似のことを言う時のようなものである。これはアラビア語で「承認」と呼ばれている。  以上二つの内の前者はさらに二つに別れる。一つは、恐らく知性によってとらえられるもので、どうしてもこれは知恵を通じて恐らく求められねばならない。例えば、直覚によって、魂がなんであるかということが把握されるように。また、魂が節であることを信じ、それを確証するように。  そして他方は、知覚はされるが、それが信じられるのは思考によるのでも知恵によるのでもなく、第一の知恵によるのであって、例えば、何か二つのものが等しいということは、一方があるものに等しく、他方もそれに等しいということから知られる。また他方、感覚によって知られるものもあって、例えば、太陽は明るいということがそれである。また他方、偉人や賢者の権威によって受け入れられるものもある。例えば、宗教上の規則や指導者に従うことによるものがそれである。また、人々の同意があるもの、同意がなされたものに従った場合のものもある。例えば我々が「嘘は醜い」とか「不正をなしてはいけない」とか言うようなものである。またさらに別のものもあるが、それらについては後に言及するだろう。  知覚であろうと、判断であろうと、何であれ思考で認識されるものは、それに先立つ何か別のものが我々に知られているのでなければならない。未知のものをそれによって知るために。  知覚に関する例が以下である。人がなんであるか我々が知らない場合、誰かが説明して「人は言葉を話す動物だ」と言ったとしよう。その場合、まず第一に我々は「動物」と「言葉を話す」の意味を知っていなくてはならないし、それらに[直覚的に]達していなければならない。こうして、「人」の意味について知らないことが何かあったら、それを知るのである。  信念や判断に関する例が以下である。世界が創造されたということを我々が知らない場合、誰かが説明して「世界は配剤されたものであり、何であれ配剤されたものは創造されたものである」と言ったとしよう。その場合、我々は「世界が配剤されたものである」ということを信じており、知っていなければならないし、また、「何であれ配剤されたものは創造されたものである」ということも同様である。こうして、世界の創造という事態について知らなかったことを知るのである。  従って、我々が知らないもの、しかし知りたいとは思っているものはそれがなんであれ、あらかじめ我々が知っているものによって知られるのである。そして、何であれ知られていないものは知られているものを通じて知られるのである。しかし、あらゆる既知のものがあらゆる未知のものへの道程となるわけではない。なぜなら、あらゆる未知のものが知られるのは、それを通じて知るのが適切なものによるのであり、道程となるものを通じてなのであるから。つまり、道程となるものがあって、無知なものから知へと至ることができ、知ることができるのである。  そして、論理学とはどのような知識かと言うと、それによって人が、既知のことを通じて未知のものを知っているという状態に至る、そのような知である。つまり、真実のものとはどういうものか、真理に近い(確からしい)ものとは、偽とはどういうものか、ということに至るのである。これらそれぞれにはさらに下属するいくつかのものがある。  論理学は規範の学であって、他の学は利害の学である。そして、人間の救済は魂の清浄さにあり、魂の清浄さが成り立っている状態は、持分がそのうちに十分含まれており、自然の汚染から離れているということにある。そして、これら各々への道程は知識にある。  何であれ、規範によってはかられていない知識は確実なものではなく、従って、本当の意味での知識ではなく、どうしても論理学を学ばないわけにはいかないのである。また、古人たちのこうした学問にはある特質があって、それは、営みの最初の段階では、これから学んでいくものにどんな利益があるのか分らない学習者が、しまいに突如としてそれを覚り、その利益を受けることになり、また目的とするところに至る、ということである。それで、どうしても必要なことだが、この書を学ぼうとする人々は、すぐ役にたつように見えないからといって、それを聴講するに当って散漫にならないようにすべきである。 論理学の原点:語及び概念のうちで「単純」と呼ばれるものの説明  まず知らねばならないことだが、語には二種類ある。一つは、「単純」と呼ばれるもので、語の個々の部分が意味の個々の部分を示さないもののことである。例えばまさしく、「ザイード」「ムハンマド」のようなもの、また、「人間」「賢者」のようなものである。もう一つは「複合的」「構成的」と呼ばれるもので、言葉のいくつかの部分が意味のいくつかの部分を表現しているものである。例えば、人が「人間は賢い」とか「賢い人間」とか言うようなものである。  そして、単純な言明のあり方を知らない限りは、複合的なそれのあり方を知ることはできない。 普遍語と個別語の説明  あらゆる単純語は普遍語であるか個別語であるかどちらかである。  普遍語とは、一つの意味によって多くの個物に等しく当てはまることができるもののことである。例えば、人が「人間」と言う場合のようなもので、というのも、「人間」という語は一つの意味によってザイードにもアムルにも該当するからである。そして、もしその語が、一つの物事に当てはまるなら、それを多くの物事に投げかけることが可能である。なぜなら、その語の意味を通じて多くの物事を考えることができるからである。そのようにして、多くの太陽や月を考えることすらできる。  個別語とは、一つの意味によって他のものに当てはまることができず、まさにその意味において何か他の物事に投げかけられることが不可能なものである。例えば、人が「ザイード」という場合がそれで、というのは、ザイードという意味はただザイードにだけ当てはまるのであり、さらに、もし人が何か別のものを「ザイード」と呼ぶなら、それは別の意味で呼んでいるのであり、まさにその同じ意味においてそうしているのではないからである。  知識のある人は個別語のあり方や個別の意味にはかかずらわず、むしろ、彼等の関わるべき仕事は普遍的な意味である。そして、疑いなく、あらゆる普遍の下に個別の物事は包括されているのである。 本質的普遍と遇有的普遍の説明  普遍的なものは、個別的なものとの関わりにおいて、本質的であるか遇有的であるかどちらかである。本質的なものとは、その意味や、その個別事例の意味を知るならば、間違いなく三つの状態を知ることになるようなものである。  知ることになる第一の事柄は、その個物にその意味があるということである。例えば、人が何かを動物であるとか、人間であるとか、数であるとか、四であるとか知る場合、人は動物であるということを知らないということはありえないし、同様に、四が数であるということを知らないということもありえないが、しかし、「動物」「数」を「実在する」「白い」に置き換えるなら、人があるということを知らない、あるいは、四があるということを知らない、あるいは、人が白いかどうかを知らない、ということもありうるのである。  知ることになるもう一つのことは、まず第一に、そのものの意味が個物にもあるためには、本質であるところの意味が、そのものの「何であるか」でなければならないということである。例えば、何ものかが人間であるためには、まず動物であらねばならないし、また、四であるためにはまず数でなければならず、ザイードであるためにはまず人間でなければならないのである。  知ることになる第三のことは、何かがこうした個物にそういう意味を与えているわけではなく、むしろこうした個物にそういう意味があるのは個物それ自身によるのだということである。例えば、よく分っているだろうが、何かが人間を動物にしているのではなく、四を数にしているわけでもないのである。さもなくば、もしそういう何かがないならば、人間は動物ではなくなるし、同様にして、四も数ではないことになってしまうが、こんなことは馬鹿げている。  今言ったことの意味はこうである。「何かが別の何かをかくかくにする」というのは、「何かあるものが、それ自身でそれ自身をかくかくにしているのではなく、むしろ、その外部から、それ以外のものによって、かくかくになっているのであり、そして、その何かそのものがかくかくのあり方以外でありえない場合、何かがそれをかくかくにするということもない」ということである。つまり、何かを人間にしているものが、それを動物にしているのであるが、しかし、それは人間を動物にしているのではない。人間自体が動物だからである。また、四それ自体が数であり、黒それ自体が色である。しかし、人間が白いというのはこれとは異なる。なぜなら、人間を、その本性によるにせよそれ以外のものによるにせよ、白くしている何かがあるからである。また、人間が在るというのもこれとは異なる。人間をあらしめているものが何かなければならないからである。  そして、これら三つの項目からなる意味は本来的な意味である。また、これらの項目のうち何か一つをかいているものは、偶有的である。しかし、偶有的なものには、単に思考上においてさえ、決してものから分離され得ないものもある。例えば、「千」から「二」を取り去ることはできないし、三角形から「三つの内角の合計が二直角である」ということをそうすることもできない(これについては後に論ずる)。また、同様に人間から笑いを分離することもできない。これは本性上人間に備わっているものであるが、これらの属性は物事の真の本質に後続するものであって、詳細に語ることが要されるのである。  人間には二つの属性があり、一方は他方に密接な関係を持っている。その第一のものは本質的であり、第二のものは偶有的である。そして、本質的なものとは例えば「理知的」であって、この語は次のようなことを明らかにする。つまり、人間には言語を用いる理知的な魂があり、この魂が言葉を話すのである。そして、人間の特徴や特質はこれに由来する。以上のことを。さて、他方偶有的なものとは例えば「笑える」であって、それが明らかにするのは、人間はその本性上、何か驚くべきことや奇妙なことを見聞きするとそれに驚嘆し、もし妨げるものがなければ、本能的にあるいはひとりでに笑ってしまう、ということである。* *底本の註「笑いの原因は驚きであり、驚きの原因は、その人が自分から物事の原因を見つけだせないことにある、と言われていた。というのも、若者や無知な人々の驚きというものはちょうど、習慣の中で慣れ親しんでいることもその外では奇妙に見えるので、それに驚くというようなものだからである。ホスロヴの補佐がこう言われたようなものである。「些細ではないことから笑いは起こる。私は何故笑うのか。/些細なことほど難しいと言われているからだ」」  しかし、これら二つの属性よりもさらに、人間があるためには、まず最初に魂がなければならないのである。しかるに、こういう魂が肉体と共になり人間になると、そこで人間が存在し、そして笑いや驚嘆をするようになるのである。  そして、これより後の属性が備わるのは、人間が人間になってからである。それ以前に、こう言うことはできる。まず人に人の魂が備わって始めて、人は人になり、本性上笑うこともできるのだ、と。しかし、こう言うことはできない。つまり、本性上笑えるようになって始めて、そのものに人間の魂が備わる、とか、人間になるとかは言えない。  しかるに、最初の属性は真に本質的であるが、第二の属性は、どれも人間には欠けていないものだが、本質的なものではなく、偶有的なものである。言い換えれば、「ザイードは座っている、眠っている、年老いている、若い」と言う場合、疑いなくこれらは偶有的なのである。それらにはすぐになくなるものも、もっと長い間残っているものもあるのだが。 種・類・差異・特性と普遍偶有性の説明  普遍的な名辞は全部で五種類ある。そのうち三つは本質的で、二つは偶有的である。まず、本質的なものには二種類ある。  第一のものは次のようなものである。何事かについて「それは何か?」と尋ねたとしよう。その質問によってその物事の本質的な意味を意図したのであれば、そのような、本質を表す語で回答が与えられる。例えば、「人間・牛・馬は何なのか」と問われたらどうか。「動物である」という回答が与えられる。「黒・白・赤は何なのか」と問われたらどうか。「色である」という回答が与えられる。「10・5・3は何なのか」と問われたらどうか。「数である」という回答が得られる。同様に、「ザイード・アムル・ハーリドは何なのか」と問われたらどうか。「人間である」という回答が得られる。こうして、「動物」「色」「数」「人間」はこれらのものが何であるかということに関する回答になっているのである。これらはアラビア語では「何なのか」に対する回答と言われている。  もう一つ[第二の名辞]は次のようなものである。誰かに、何か物事の本質そのものについて尋ねた場合、回答はこうなる。例えば、「人間はどんな動物か」ときかれたらどうか。「理知的なそれ」と言われるのである。それだから、「理知的な」は「人間とは何か」に対する回答なのであり、アラビア語では「何であるか」に対する回答と言われている。同様に、「四はどんな数か」と訊ねられればどうか。「二度二分すると一になる数」と言われるのである。何であれ、本質を表すものであり、「何であるか」に対する回答となるもののことで、[アラビア語では]「種差」と呼ばれている。  本質的な普遍は「何なのか」に対する回答になっているのだが、それにはより普遍的なものもあればより特殊なものもある。例えば、「物体」は「生物」よりも普遍的だが、「実体」よりは特殊である。また、「生物」は「人間」よりも普遍的だが、「物体」よりは特殊である。同様に、「数」は「量」よりも特殊だが、例えば「対」よりは普遍的である。また、「対」は「数」よりも特殊だが、「四」よりは普遍的である。「四」は「対」よりも特殊だが、あれこれの「四」よりは普遍的である。従って、より普遍的なものはより特殊なものの類であり、より特殊なものはより普遍的なものの種である。また、類でありつつ種でもあるというものもあるし、類であるだけで、それ以上さらに何かの下位の種になるということがないものもある。「実体」や「量」はそのようなものの例である。また、種であるだけで、それ以上さらに何らかの種に対する類となることがないものもある。つまり、その下位には「何なのか」の問いに対する本質的な普遍がなく、個別のものそれだけがあるのである。例えば「人間」「四」「黒」である。つまり、ある黒と別の黒の間の差異は、ある色と別の色との間のそれとは性質が違うのである。なぜなら、色と色との違いは、例えば黒と白というふうのものであって、本質的な差異において対立しているからであるが、しかしながら、黒と黒は本質的な種差をもっておらず、付帯的な状態において異なるのみだからである。例えばある黒はカラスであり、別の黒は鉛筆であるが、カラスとか鉛筆というのは黒という性質には外的なものである。また、黒であることがカラスにあり、それでカラスが黒いのだといっても、それは本質的なことではない、(p.15)差し当たりたとえカラスから離れてはありえないとしても。しかしながら、想像の上では、同じ黒がカラスには分有されず、他のものにあるということもありうることである。要するに、個々の個物は、同一の種の下にあるならば、何か偶有的なことによって互いに異なるのである。例えば、ザイードがアムルと異なるのは、例えばザイードの方が背が高いとか、より色白だとか、年上だとか、違う人の息子だとか、違う町の出身だとか、こういったこと全て、要するに偶有的な属性によるのである。  それだから、なぜある種の類が種にならないのかは明らかである。つまりそれはいわゆる「種の種」であって、下属する全ての種の種である。それだから明らかに、全ての本質は、類であるか種であるか種差であるかのどれかである。  偶有的な普遍については、一つには、一つの普遍にだけ当てはまるものもある。例えば、笑いがそれで、これは人間[だけ]に備わるもので、特質と言われている。他方で、一つ以上のものに当てはまる普遍もある。例えば、運動は人間にも他のものにも当てはまる。また同様に、黒はカラスにも他のものにも当てはまる。これは普遍偶有性と呼ばれている。  かくして、普遍名辞は類であるか(例えば「人間」)、種であるか(動物の一種としての「人間」)、種差であるか(「理知的」)、特質であるか(「笑う」)、普遍偶有性であるか(「動く」「白い」「黒い」)である。 定義と記述のあり方の説明  定義の目的は物事の本質に関する真理を知ることである。また、従属する事柄において対象の差異を与える。記述の目的は物事の印を与えることであり、そのものの本質が真に理解されていなくてもそれは変わらない。要するに、印を与えるとは区別することに他ならない。従って、定義は物事の本質的な規定の一つである。  さて、定義を与えるとは、物事の最近類を得ることである。例えば、人間の場合なら「動物」である。(p. 16)それだから、人間の本質的種差を与えられるのは例えば「理知的」とした場合である。そして、人間は「理知的な動物である」と言われ、これが人間の定義となる。同様に、四は「二度分割すると一になる数」と言われる。  (16.3)他方、記述について言えば、それは例えば「人間は、笑い、泣き、平たい爪の動物である」あるいは「4は、その自乗が16になる数である」とか「2を自乗するとそうなる数である」とかいうものである。  (16.6)そして重要なことは、定義や記述において四種類の誤謬が生じないようにすることである。四種類の誤謬それぞれはある一つの事柄に関わっている。つまりそれは、知られていない事柄、あるいは人が知ろうとしている事柄が、それよりもよりよく知られている事柄によって知られなければならない、ということである。さもなければ、人が物事の規定を与えても得る所は何もないのである。その四種の誤謬は次のように分けられる。  (16.10)一つは、物事を同じその物事そのもので知らせることである。例えば、時間の定義において「時間とは運動の持続である」などと言う人々もいるが、時間と持続というのは同じことである。時間の定義が難しいという人がいれば、その人には持続のそれも難しいのであり、彼に「時間とは何か」ときくのも「持続とは何か」ときくのも同じことなのである。  (16.14)第二は、あるものを別のものによって知らせるのはよいが、曖昧にしろ明白にしろ、前者が後者に似過ぎている、という場合である。例えば、「黒は白の反対の色である」と言う人々がいる。この定義は全然よくない。「白は黒の反対の色である」と言うのと何ら変わらず、同じことを言っているに過ぎない。「白」も「黒」も、曖昧であるにしろ明白であるにしろ、同じ程度のことでしかないからである。  (16.18)第三は、あるものを、それよりもはっきりしないもので知らせる場合である。例えば、火の定義において「それは、魂に似たものである」と言う人々がいるが、魂は火よりもはるかによく分らないものである。  (17.1)第四は、あるものを、このものによらねば知り得ないもので知らせることである。例えば、太陽を定義して「太陽とは、昼に上がっている星である」と言う人々がいる。しかるに、太陽を知るのは昼にであるし、昼間であることを太陽によらずに知れる人は一人もいない。なぜなら、事実、昼というのは太陽が登っている時間のことだからである。それゆえ、太陽の定義が難しければ、昼の定義も難しいか、もっと難しくさえあるのだ。  (17.5)これら四つの条件は定義や既述を与える際に非常に重要である。それは、誤謬の余地がないようにするためである。 名詞・動詞・小辞の意味の説明  (17.8)あらゆる単純な語は名詞であるか、動詞であるか、小辞であるかのどれかである。アラビア語では、名詞は「名」と呼ばれ、文法家達は動詞を「能動詞」と呼び、弁証家達は「語り言葉」と呼んでいる。  (17.9)完全な意味を持つのは名詞と動詞の二つだけである。例えば、「お前は何を見たのか」ときかれたとして、「ザイードを」と言うならば、回答は申し分ない。また、「ザイードは何をしたのか」ときかれたとして、「行ったのだ」と言うならば、この回答も申し分ない。しかしながら、小辞は完全な意味をなさない。例えば、「ザイードはどこだ」ときかれたとして、「に」「の上に」「で」と言ったとしても、これは答えでも何でもない。「家に」「モスクで」「屋根の上に」と言わねばならないのである。  (17.14)さて、名詞と動詞の差異は次のようなことにある。つまり、名詞は意味を与えはするが、その意味の時を与えはしない。例えば、「人間」とか「友人」とか言う場合がこれにあたる。他方、動詞は意味を与え、その意味の時も表す。例えば、「打った」と言われる場合、これは「打つ」ということを表すとともに、それが過去においてあったということをも表している。「打て」と言う場合も同様である。動詞は常にその意味の担い手となる人、あるいは物事、を表すが(18.1)(例えば、打つものや這うもののことである)、[それだけでは]その誰かや何事かが一体何であるのかはっきりと知ることはできない。  (18.2)こう尋ねる者があったとしよう。「昨日」や「昨年」「去年」は名詞なのか動詞なのか、と。「名詞である」というのが回答である。そしてもし、この三つの語は全て時を表しているから動詞でなければならない、と言われれば、我々はこう言う。時を表すもの全てが動詞であるわけではない。というのは、動詞はまず意味を表し、それからこの意味の時を表す、というのでなければならないからである。例えば、「打った」と言う場合、まず「打つ」ということを表し、それからその「打つ」ことは過去においてであった、と言うのである。しかし、「昨日」というような語の場合は、時が意味の本質をなしていて、まず意味を表してそれからそれが過去であるということを表すというわけではないのである。  (18.7)我々がこれまで単純言明について語ってきた事柄はこれで十分である。今や、複合的な言明に付いて語らねばならない。 命題の説明:命題とは何か  (18.10)こうした単純言明から様々な混合が生じる。それらのうち一つを今論じねばならない。つまり、「命題」「陳述」また(19.1)「確言」と呼ばれるものである。これは次のようなもののことである。つまり、それを受け取った際に、事実真であるとか、実は偽であるとか言われうるもののことである。例えば、「人間には報罰がある」と言われれば、これに「それはその通りである」と言うことができる。また、「人間は飛ぶ」と言われれば、これに「それは事実ではない」と言うことができる。また、「太陽が登れば昼である」と言われれば、これに「その通りである」と言うことができるが、「太陽が登れば、星が現れる」と言われれば、これに「それは事実ではない」と言える。「数は奇数であるか偶数であるかどちらかである」と言われれば、「その通りである」と言えるが、「数は黒か白かどちらかである」と言われれば、「それは事実ではない」と言える。しかしながら、「私にあること(ある問題)を教えてくれ」と言われても、それに対する回答は「事実そうであるか、事実に反するかである」というものではない。また、「私と一緒にモスクに行こう」と言われても、これに対する回答は「それは事実そうであり、君は真実を語っている」でも「それは事実ではなく、君は虚偽を語っている」でもない。 命題の分類の説明  (19.11)命題には三種類ある。  一つは「帰属的」と呼ばれる。例えば「人間は動物である」「人間は動物でない」と言われる場合がそれである。  もう一つは「連結条件的」と呼ばれる。例えば「かくかくである場合には、かくかくである」「もしこれこれであればこれこれである」「かくかくであるかしかじかであるかどちらかの場合、かくかくであるかしかじかであるかどちらかである*、ということはない*」と言われる場合がそれである。 *…*不要な気がするが…  もう一つは「選言条件的」と呼ばれる。例えば「かくかくであるか、さもなければしかじかである」と言われる場合がそれである。あるいは、「かくかくであるか、さもなければしかじかである、ということはない」と言われる場合である。 帰属的命題の説明: 肯定・否定、普遍・個別、関係的  (19.18)帰属的命題の特質は、それによって「何かが何かである」とか「何かが何かでない」とかの判断が下されるということである。例えば、「人間は動物である」とか「人間は動物ではない」と言われるように。「〜である」と言われる場合は「肯定命題」と呼ばれ、「〜でない」と言われる場合は「否定命題」と呼ばれる。  (23)さて、判断がそれについてなされる要素(例えば、上例では「人間」であるが)は主語と呼ばれ、それによって、つまりそれ「である」とかそれ「でない」とか言われることによって、判断がなされる要素(例えば、上例では「動物」であるが)は述語と呼ばれる。  (25)これら二つの要素のそれぞれは単純語であることもあるが(例えば「人間は動物である」のように)、複合であることもある(例えば「食物が消化されない人は、(20.1)胃が何か病気にかかっている」のように)。後の例では、「食物を食べても消化されない人」という陳述全体が主語であり、「胃が何かの病気にかかっている」という陳述全体が述語である。しかしながら、何か単純語を用いること、つまり、これら二つの陳述の変わりに二つの表現を置くことが可能である。すなわち、「食物を食べても消化されない人」をAと名付け、「胃が病気に犯されている人」をBと名付けて、その上で、「AはBである」と言うことができ、しかも意味は同じである。要するに、こうした二つの要素が一つの主語と一つの述語であると言える。  (20.7)こう言う人がいるとしよう。我々が「ザイードは目が見えない(盲目である)か、家にいない(不在)か、もの書きでない(文盲?)か、である」と言う場合、それは肯定命題なのか否定命題なのか、と。我々はこれを肯定命題であると言う。というのは、「目が見えない(盲目)」全体が一つの述語だからである。人が命題を確言するのであれば、それは肯定命題であるし、命題を否定するのであれば、それは否定命題である。  (9)それだから、我々が「彼は盲目である」と言う場合、「である」という語で我々は確言をしているのであり、従って、この命題は肯定命題である。これは不定肯定命題と呼ばれる。この命題を否定命題にしたければ、我々は「ザイードは目が見えない」と言うのである。この二種類の命題の違いは次の通りである。仮にザイードがこの世界に存在しなければ、「ザイードは目が見えない」と言うべきである。存在しない人間であるザイードが目は見えないということであるから。そして、ザイードが実在しない限りは、「ザイードは盲目である」と言うべきではない。こう訊ねられたとしよう。我々が「ザイードは盲目ではない」と言う場合それは肯定命題なのか否定命題なのか、と。我々はこれを否定命題だと言う。「盲目」が述語であり、「でない」という語がそれを否定しているからである。これは不定否定命題と呼ばれる。  (17)このことを踏まえた上で知っておくべきことは、主語は普遍語もしくは個別後だということである。  (18)個別語の例はこうである。「ザイードは書記であるか、または、書記でない」と言う場合、これは個別命題もしくは個人命題と呼ばれる。この命題の最初の部分は肯定命題であり、二番目は否定命題である。  (19)さて、主語が普遍語である場合、(21.1)次の二つの場合にどうしてもならざるをえない。一つは、判断がどのくらいの量に及ぶのか明らかでない場合である。つまり、全部に及ぶのか、それとも、そのいくつかに及ぶにすぎないのか、ということがである。例えばこう言う人がいたとしよう。「人間は動くものである」と。この場合、人間全部がそうだと言われているのか、そういう人間もいるというだけなのか、それは言われていない。このような文は「不定肯定命題」と呼ばれる。また、「人間は動くものではない」という場合は、「不定否定命題」と呼ばれる。もう一つの場合は、判断の及ぶ量が明らかにされている場合である。これは「限定命題」と呼ばれる。また、量を明らかにする語をアラビア語で「限定語」という。  (21.5)限定命題には四種類ある。  (6)一つは、肯定を通じて判断が全体に及ぶものである。例えば「人間であるものは全て動物である」あるいは「あらゆる人間は動物である」と言われる場合である。これは、全称肯定命題と呼ばれ、限定語は「全ての」「あらゆる」である。  (9)第二は、否定を通じて判断が全体に及ぶものである。例えば「いかなる人間も不死ではない」と言う場合で、これは全称否定命題と呼ばれ、限定語は「あらゆる」である。  (11)第三は、肯定を通じて判断が個別のものに及ぶ場合である。例えば「ある人はもの書きである」と言う場合である。これは単称肯定命題と呼ばれ、限定語は「ある」である。  (13)第四は、否定を通じて判断が個別のものに及ぶ場合である。例えば「どの人ももの書きではない」と言う場合で、これは単称否定命題と呼ばれ、限定語は「どれも…ない」であるが、別の限定語もあって、それは「あらゆるものが〜ない」「ひとつも〜ない」である。というのは、こう言うこともできるからである。つまり「あらゆる人がもの書きではない」あるいは「誰もがもの書きではない」「人であるものならどれでももの書きなのではない」と。この場合、判断は非在においてなされるのである。だから、否定命題なのである。また、判断は全体に及んでいない。なぜなら、「あらゆるものが〜でない」と言われる場合、個別のものがそうだというのでなければならないからである。それだから、以上我々が挙げた例は、単称否定命題である。  (20)不定命題は個別命題[と同様?]である。なぜなら、「人間はかくかくである」と言われる場合、その「人間」という語は個別の人間でも、「人間というもの」でもなければならないからである。つまり、個々の人間も人間であるし、(22.1)「人間というもの」も人間である。しかるに、誰かある人はそうだとしても、あらゆる人間がそうだというのは疑わしい。例えば、「誰かある人がかくかくだ」と言う者がいるとしよう。しかし、だからといって、必然的に別の誰かある人がその反対になるということはない。全体がかくかくなら部分もかくかくだからである。それだから、物事のある部分に関する判断は、他の部分がそのようであるということを妨げはしないのである。しかし、部分に関しては確かであるが、全体については疑わしいということもある。  (22.4)従って、明らかに、不定命題は個別命題と同様であり、同様に明らかであるが、帰属命題は8種類ある。個別肯定命題、個別否定命題、不定肯定命題、不定否定命題、そして四つの限定命題、つまり、全称肯定、全称否定、個別肯定、個別否定である。  (7)そして、これら八種類の命題のうち、個別命題はこの学には貢献しない。そして、不定命題は個別命題と同様である。それゆえ、この学に貢献する命題は、四つの限定命題だということになる。事実、不定命題は、全称命題の代用として用いられる場合は、虚偽と不信をもたらすのである。それは、別の場所で我々も明らかにした通りである。それだけにこれはできるだけ控えなければならない。  (11)また、認識されるべきことであるが、あらゆる命題における判断は、必然的であるか(例えば、「人間は物体である」と言われる場合のように。これを必然的な判断と言う)、そうであることもそうでないこともありうるか(例えば、「人間は物書きである」と言われる場合のように。これは「可能な判断」と言う)、ありえないか(例えば、「人間は天使である」と言われる場合のように。これは「不可能な判断」と呼ばれる)、どれかである。  (14)「可能」という語は二つの意味を持っている。  (15)一つは「ありうる」、つまり総じて「ありえないわけではない」ということを意味する。「必然的」というのはこの意味の「可能」に当てはまる。なぜなら、「必然」とは「ありえない」ということに向けられてはいないのだから。もう一つの意味は「あることもないこともありうる」ということである。こちらが本来の意味での「可能」である。しかし、「必然」はこの意味での「可能」には当てはまらない。この意味で「可能」である「可能」事は、そうでないことも可能である。しかし、前者の意味で「可能」である事柄がありえないということはありえない。  (19)さて、このくらいで、帰属的な命題がどのようなものかという説明は十分である。 連言条件命題、選言条件命題の説明 帰属命題に当てはまるのと同様であるということ  (23.4)帰属命題には主語と術語という二つの部分があるのと同様に、条件命題にも二つの部分がある。  (6)連言条件には二つの部分があり、それ以上の部分はない。つまり、前件と後件である。前件は仮定が結び付けられている部分であり、後件は応答が与えられる部分である。例えば、次のように言われる場合がそうである。「もし太陽が登っているなら、昼である」何か「太陽が登っているなら」というような発言は前件であり、何か「昼である」のような発言は後件である。  (10)選言条件においては、一つの前件に一つの後件があることも、多くの後件があることもある。前者の例は、「この数は偶数である。または、この数は奇数である」と言われる場合である。最初が前件であり、二番目が後件である。この場合、後件は一つだけしかありえない。また、後者の例は、「この数はあの数と等しいか、少ないか、多いか、どれかである」と言われる場合である。この場合、一つの前件に二つの後件があるからである。この場合、後件は二つであるが、際限なく増やすこともできる。例えば、「ある数は2であるか、3であるか、4であるか、である」と言われる場合がそれで、これは際限なくできる。  (16)さらに、前件と後件の差異、主語と述語の差異は、次のようである。主語と述語は、単語で置き換えられるが、前件と後件はそうできない。というのも、前件と後件はそれぞれがそれ自体として命題だからである。例えば、「太陽が登れば、昼である」と言うとしよう。その場合、「太陽が登る」という言明も、「昼である」という言明もそれぞれ一つの命題である。しかし、条件辞が前件を命題でないものにする。なぜなら、「もし太陽が登るならば」と言っても、「もし」という語から始まっているので、この言明は命題ではなくなり、真でも偽でもなくなるからである。また、応答辞も後件を命題でないものにする。なぜならば、「それならば昼である」と言っても、これもまた真でも偽でもないからである。  (23)選言条件文においても同様であって、例えば、「この数は奇数であるか、または」と言った場合、「か、または」という語がなければ、(24.1)この前件は命題である。また、「または偶数である」にしても「または」という語がなければ、この後件は命題である。さて、以上が、前件と後件の間にある、また、主語と述語の間にある第一の差異である。  (24.3)もう一つの差異は次のようである。主語と述語の場合は「主語は述語であるか、そうでないかである(F(a) or ~F(a))」と言える。例えば、「ザイードは生きているか、そうでないかである」と言える。しかし、前件と後件の場合は「前件は後件であるかそうでないかである(A->(Bor~B))」とは言えない。  (5)さて、前件と後件の間にも、条件的であるか選言的であるかに応じて二つの差異がある。  (7)一つは次の通りである。連結条件文に関して、前件が後件になる、あるいは、後件が前件になる、つまり位置を入れ替えられる、ということはできない。例えば「太陽が昇るならば、昼である」と言われる場合である。前件が後件となり、後件が前件となるならば、この命題は元の同じ命題ではあり得ないからである。しかしながら、選言条件文においては、任意のものを前件としてかまわない。つまり、位置を入れ替えてもかまわないのである。例えば、「数は偶数か奇数かである」と言ってもよいし、「数は奇数か偶数かである」と言ってもよい。  (12)もう一つの差異は次の通りである。連結条件文の後件は前件と両立しており、調和している。例えば、昼であることは太陽が昇ることと調和している。しかし、選言条件文の後件は前件と相容れず不調和である。例えば、偶数であることは奇数であることと相容れない。  (14)つまり、まさしくこの理由で、連結条件文が確言する肯定命題であるのは、この整合があるという判断に基づいている。例えば、「太陽が昇るなら、昼である」という場合のように。他方、連結条件文が否定的な否定命題であるのは、この整合がないという判断に基づく。例えば、「太陽が昇るのに、夜である、ということはない」という場合のように。つまり、この整合があると判断する場合は、前件と後件は否定命題でなければならないが、しかし全体の命題そのものは確言的でなければならない。例えば、「太陽が昇らないならば、昼ではない」という場合のように。この文が確言的であるのは、昼ではないということと太陽が昇っていないということに整合があると判断されることに基づいている。  (21)さて、連結条件命題が限定あるいは非限定であるのは次の事による。例えば、「太陽が(25.1)昇るならば、昼である」と言われる場合、「常に」「あらゆる場合に」あるいは「時折」ということを明言しないならば、それは不定(連結)条件命題である。しかし、「あらゆる場合に」と明言する場合は、普遍確言命題となる。他方、「太陽が昇る時に、時折、雲がある」とこう言う場合、これは個別の確言命題である。また他方、「太陽が昇るのに、夜である、ということは決してない」と言う場合、これは普遍否定命題である。また、「太陽が昇る時は常に雲があるというわけではない」と言う場合、これは個別否定命題である。しかし、連結条件命題が、前件後件とも個別的であるにも関わらず、全体としては普遍的である場合もある。例えば、「人々のうち誰かがもの書きであるならば必ず、動物のうち何かがもの書きであることになる」と言う場合である。この命題が普遍的であるのは、「〜ならば必ず…」と言われているからである。  (25.7)さて、選言条件文の確言力は、両件の不整合を明言するということにある。例えば「このようであるか、あるいはあのようであるかである」という場合である。また、こうした命題の否定は、不整合を否定することにある。例えば「数は偶数であるか白いかどちらかである、ということはない(むしろ、偶数か奇数であるというのが正しい)」と言う場合である。このような命題のうち普遍的なものは、この不整合が常にあるということに基づいている。例えば「常に、このようであるか、それともあのようであるか、である」と言う場合である。また、このような命題のうちの個別的なものは、この不整合が時にはあるということに基づいている。例えば「ある時には、人間は船に乗っているか溺れているかどちらかである」と言う場合である。そしてこの「ある時」というのは「海上にいる場合」ということである。さて、選言条件文が真となるのは、この不整合があるということに基づいている。(26.1)しかし、ある命題の部分がただちに正しい命題になるとは限らない。例えば「ある数は別の数に対して等しいか少ないか多いかどれかである」と言う場合のように。 矛盾のあり方の説明  (26.4)命題の矛盾とは、肯定と否定ということに関して命題が対立するということである。つまり、ある命題が肯定命題であれば、もう一方は否定命題で、前者が否定命題であれば後者は肯定命題である。そして、それらが矛盾対立している場合、一つは真で、もう一つは偽でなければならない。こうして、一方はもう一方に矛盾対立することになる。  (6)こうした矛盾対立が生じる条件は次の通りである。  (7)主語と述語に意味があり、一方と他方の[命題における]意味が同一でなければならない。さもなくば、両者は互いに矛盾するものとはならない。例えば、ある人が「子羊には父親がある」と言い、別の人が「子羊に父親はない」と言っているが、一方は「子羊」ということで羊を意味し、もう一方は星座のことを意味しているとしたら、彼等の発言は互いに矛盾してはいない。主語の意味するものが異なっているに過ぎないのである。あるいはまた、「砂糖はshirin(甘い)が、砂糖はshirinではない(牛乳から作られたのではない)」と言われるとしても、この二つの命題はそれぞれ正しく、互いに矛盾してはいない。述語の意味するものが異なっているだけである。これらの事例において以上の事柄は非常に明白であるが、学問においては非常に分かりにくく、誤謬を作り出すのである。  (14)別の条件が以下である。全体においても部分においても、総意があってはならない。例えば一方で「ある者の目は黒い」と言われ、他方「ある者の目は*白く、黒くない」と言われる場合、前者は「黒い」ということで瞳の黒さを意味し、後者は「黒くない」ということで目の白い部分を意味している。 *syAh waを読まない。  (17)さらに別の条件がある。二つの命題は(両者とも)可能態においてあるか実現態においてあるかでなければならない。例えば、ある人が(67)「この火は燃やす」と言う場合、それは可能態においてということを意味しており、別の人が「燃やさない」と言う場合、それは実現態においてということを意味している(今は何も燃やしていない)ということがありうる。この場合、これら二つの命題はどちらも真であり、互いに矛盾してはいない。  (67.3)また別の条件は、二つの命題[の共通部分]に加えられるものが同一であるということである。例えば、ある人が「10はより大である」ということで「9よりも」ということを意味し、別の人が「10はより大ではない」ということで「11よりも」ということを意味している、ということがあってはならないのである。この場合この二つの命題はどちらも正しく、矛盾してはいない。  (6)さらに別の条件は、時間が二つではなく一つであり、場所も二つではなく一つでなければならないということである。  (7)総じて、二つの[命題]からなる判断は一つの条件を要する、つまり、述語も同じであり、主語も同じであるということである。それゆえ、主語が普遍的である場合は、一つの命題は普遍的であり、もう一つは個別的でなければならない。二つの普遍命題が両方偽であることがあり得るからである。例えば、「人間誰もがもの書きであり、人間は誰一人としてもの書きではない」と言われる場合がそれである。また、二つの個別命題が両方真であることもあり得る。例えば、「ある人はもの書きであるし、またある人はもの書きではない」と言われる場合がそれである。それだから、「全て」に矛盾するものは「全てが〜ではない」であるし、「何も〜ない」に矛盾するものは「或」である。そして、これらの条件が満たされる場合、命題のうち一つは真であり、もう一つは偽である。以上の論によって条件命題のあり方が知られよう。 置換のあり方の説明  (16)置換とは、主語を述語にしたり、述語を主語にすること、あるいは、前件を後件にしたり、後件を前件にしたりしつつも、命題の肯定や否定、真偽はそのままにすることである。  (18)さて、普遍否定命題はその逆をとっても普遍否定命題に戻る。というのも、どの甲も乙ではないというのが真である場合、どの乙も甲ではないというのもまた真であるからである。この命題に矛盾する命題が真でない限りは。つまり、乙のうちには甲であるものもある、というのが真でない限りは。そのいくつかの乙は何か別のあるもの、丙である。従って、この丙は乙であり、それがまた甲である。つまり、このものは同時に甲でありかつ乙でもある。それゆえ、甲に(28.1)乙であるものがあることになるが、しかし先ほど我々が語ったのは、いかなる甲も乙ではないというのが真である、ということであった。こんなことはありえない。故に、明らかに、いかなる甲も乙でないならば、いかなる乙も甲ではないのである。  (28.3)普遍肯定命題は、その逆も普遍肯定命題だとは全く限らない。例えば、あらゆる人間は動物であると言うことはできるが、あらゆる動物は人間であると言うことはできない。しかし、その逆が個別肯定命題になるのは必然的である。なぜなら、あらゆる甲が乙ならば、或る乙は甲でなければならないからである。さもなければ、いかなる乙も甲でないからである。また、既に示されたように、或る甲は乙ではないというのも必然となろう。我々はあらゆる甲が乙であると言うにもかかわらず。  (8)個別肯定命題はその逆も個別肯定命題である。例えば、或る甲が乙であるならば、或る乙も甲でなければならない。その理由は既に述べた。  (10)個別否定命題は、その逆が成り立つとは限らない。なぜなら、「あらゆる動物が人間とは限らない」と言うことはできるが、「あらゆる人間が動物とは限らない」とは言えないからである。 推論の理解  (28.13)あらゆる未知の物事には、それによって知られる何事かがある。さて、そういった物事に到達し把握するということには、定義し記述するという方途がある(このどちらについても既に言及はされている)。また、意図し判断するには、推論という方途がある。  (15)推論には三通りあると言われている。演繹、帰納、類比である。既に確証の得られている物事によって、いまだない物事を論証するのも類比の一種である。さて、これら三つ各々のうち最も確かなものは演繹であり、演繹全体の中では論証的なそれがそうである。しかし、演繹一般がなんであるかを知らなければ、論証的な演繹がなんであるかも知りようがないであろう。  (29.1)総じて演繹とは、ある発言が承認されると、そこから必然的に別の発話が確実に導かれる、そんな発言が述べられる陳述である。例えば、ある人がこう言ったとしよう。「あらゆる物体には形が与えられている。また、形が与えられているものは全て被造物である」と。この陳述は演繹である。というのも、これら二つの命題が受け入れられ承認されると、別の陳述がどうしても必然的なものとなるからである。つまり「あらゆる物体は創造されたものである」と。同様に、ある人がこう言ったとしよう。「世界が形作られたものだとすれば、世界は創造されたものであり、しかも、世界は形作られたものである」これも演繹である。なぜなら、この陳述は二つの命題から構成されていて、両者が承認されると第三の陳述が必然的に生じるが、これは先の二つの命題のどれとも別のものだからである。それらの一方の部分なのではあるが。つまりこの陳述である。「世界は創造されたものである」  (29.9)演繹には二つある。一つは連言によるもので、もう一つは選言によるものである。 連言による演繹の説明  (29.11)さて、連言による演繹とは、二つの命題をまとめたもので、その各々には共通の部分がある反面、他の部分では異なっている。さらに、これらからは必然的に別の命題が生ずる。すなわち、これらの命題に共有されている二つの部分から生じるのである。その例は例えば我々の誰かがこう言う場合である。「あらゆる物体は形を持ち、形を持つあらゆるものは被造物である」ということが承認されると、ここから必然的に導きだされるのは「あらゆる物体は被造物である」ということである。さらに言えば、これらは二つの命題からなっており、一つは「あらゆる物体は有形である」、もう一つは「あらゆる有形のものは被造物である」である。またこうも言える。前件の先の方は二つの部分からなり、一つは「物体」一つは「形のある」である。前件の二番目は、一つは「形のある」という部分であり、もう一方は「創造された」である。すなわち、「形のある」という部分は両方にあるということになるが、一方にだけ「物体」はあり、「創造された」も一つにだけである。他方、必然的に帰結する命題は、一つの部分は「物体」であり、もう一つは「創造された」である。推論はこれら三つの部分において行われている。つまり、物体、有形、被造である。これらは「項」と呼ばれる。  (21)さらに、「形のある」や何であれ類似のものは「中項」と呼ばれる。「物体」は、(30.1)必然的に帰結するものの主語であるが、「小項」と呼ばれる。「創造された」は、必然的に導かれるものの述語であるが、「大項」と呼ばれる。推論のうち、[先]二つの命題各々は「前提」と呼ばれ、必然的に導かれる命題は「結論」と呼ばれる。結論の主語が含まれる命題は「小前提」と呼ばれ、結論の述語が含まれる命題は「大前提」と呼ばれる。これら二つの前提をまとめることを「連言」と言う。連言の形態を「型」と言う。その形態には三種類ある。  (30.7)一つは、中項が一つの前提では述語になっており、もう一つでは主語になっているもので、これは第一の型と呼ばれる。  (30.9)もう一つは、両方の前提で述語になっているもので、これは第二の型と呼ばれる。  (30.10)さらに、両方の前提において主語となっているものがあり、これが第三の型と呼ばれる。  (30.11)連言推論における前件と後件の関係は限定文における主語と述語のそれに同様である。  (30.12)否定命題が二つあってもそこから推論はなされない。また、個別命題が二つあってもそこから推論はなされない。また、小前提が否定命題で、大前提が個別命題である場合も推論はなされない。したがって、いかなる型にもそれぞれ決まった性格があるのである。 演繹の第一の型のあり方の説明  (31.3)第一の型には二つの優れた点がある。一つは、この演繹は、演繹として成り立っているとするための証明が不要である、ということである。他の二つの型はこのようなあり方をしていない。もう一つは、四つの限定命題全て(つまり、普遍肯定命題、普遍否定命題、個別肯定命題、個別否定命題)がこの型においては導き出されることである。他方、第二の型ではいかなる結論も全称肯定命題ではないし、第三の型においてはいかなる結論も全称命題ではない。これは既に明らかにされた通りである。  (31.8)演繹が第一の型の連言であるには、二つの条件がある。一つには、その小前提が肯定命題でなければならず、もう一つには、大前提が全称命題でなければならない。そうでない場合には、諸前提は真なのに結論は偽ということがありうる。また、何をどうしてもその結論が全く真でないということすらあり得る。前提が全て真なのにそんなことになることまであるのである。こんなものは演繹でも何でもない。  (31.11)さて、こうした二つの条件があるとすれば、この型の演繹には四種類ある。  (32.1)第一の演繹は二つの全称肯定命題からなる:例えば次のように言われる場合である。「あらゆる甲が乙であり、あらゆる乙であるものは丙である」ここから帰結されるのは「あらゆる甲は丙である」である。次のように言われる場合も同様である。「あらゆる物体は形を持ち、形を持つものは皆被造物である」ここから帰結されるのは「あらゆる物体は被造物である」である。そしてこの帰結は全称肯定命題である。  (32.5)第二の演繹は二つの全称命題からなるが、大前提は否定命題である:例えば次のように言われる場合である。「あらゆる甲は乙であるが、いかなる乙も丙ではない」ここから帰結されるのは「いかなる甲も丙ではない」である。次のように言われる場合も同様である。「あらゆる物体は形を持つが、形を持つもののいかなるものも永遠ではない」ここから帰結されるのは「いかなる物体も永遠ではない」である。そしてこの帰結は全称否定命題である。  (32.9)第三の演繹は個別肯定命題の小前提と全称肯定命題の大前提とからなる:例えば次のように言われる場合である。「或る実体は魂であり、あらゆる魂は知識の形相を受け入れる」ここから「或る実体は知識の形相を受け入れる」が導かれる。この結論は個別肯定命題である。  (32.12)第四の演繹は個別肯定命題の小前提と全称否定命題の大前提とからなる:例えば次のように言われる場合である。「或る実体は魂であり、いかなる魂も物体ではない」ここから「物体ではない実体もある」が導かれる。  連言による演繹もこれと同様である。 第二の型の演繹  (32.16)第二の型の演繹の真理条件は次の通りである。つまり、前提の一つは肯定命題であり、もう一つは否定命題で、いずれの場合も大前提は全称命題である。この演繹は四つ[の種類が]ある。  (32.18)第一のものは、二つの全称命題からなり、大前提は否定命題である。例えばこのようなものである。「あらゆる甲が乙であり、あらゆる丙は乙ではない」ここから帰結するのは「あらゆる甲は丙ではない」である。このことの証明は何か次のような例文で表される。「あらゆる丙は乙ではない」が真であると、その逆、つまり「あらゆる乙は丙ではない」も真である(これは「逆」の章で述べられた通りである)。したがって、「あらゆる甲が乙であり、あらゆる乙が丙でない」と言うならば、ここからの正しい結論は「あらゆる甲は丙ではない」である。  (33.1)第二は二つの全称命題からなり、小前提が否定命題である。例えばこうである。「いかなる甲も乙ではなく、全て丙は乙である」帰結は「いかなる甲も丙ではない」というのも、小前提を逆にし、前提を入れ替えるとこうなるからである。「全て丙は乙であり、いかなる乙も甲ではない」帰結は「いかなる丙も甲ではない」となる。この帰結は逆にされているので、次のようにするのがふさわしい。「いかなる甲も丙ではない」と。  (33.6)第三は、個別肯定の小前提と普遍否定の大前提からなる。例えばこうである。「或る甲は乙であるが、いかなる丙も乙ではない」帰結するのは「或る甲は丙ではない」である。というのも、大前提を逆にすると第一の型の第四形になり、同じ結論となるからである。  (33.9)第四は、個別否定の小前提と普遍肯定の大前提からなる。例えばこうである。「或る甲は乙ではないが、全て丙は乙である」帰結はこうなる。「或る甲は丙ではない」この結論を転換によって得ることはできない。理由はこうである。小前提が個別否定命題であり、転換させることができない。また、大前提は普遍肯定命題なので、それを転換させると個別命題になってしまう。そして、この転換と小前提をあわせても、二つの個別命題が得られるだけであり、二つの個別命題だけでは推論をなすことができない。そこで、この形が結論を導くと示すには二つの方法がある。一つを「仮定」[による論証]と言い、もう一つを「破棄」と言う。  (34.1)さて、仮定による方法とは次のようなものである。「ある甲は乙ではない」と言われるとしよう。この「あるもの」は必然的に何ものかであるから、これを「丁」としておこう。その上でこう言うとする。「ある丁は乙ではないが、丙は乙である」と。ここからこう結論される。「ある丁、それは丙ではない」と。これは真であるから、こう言える。「ある甲は丁である。さて、ある丁は丙ではない」するとここからして真なる言説は「いかなる甲も丙ではない」である。  (34.6)他方、破棄による方法は次の通りである。何か命題を言い(例えば「ある甲は丙ではない」)それが偽だとする。すると「あらゆる甲は丙である」のでなければならない。さて、「あらゆる丙は乙である」と言われると、「あらゆる甲は乙である」のでなければならず、「あらゆる甲が乙であるわけではない」という言説は不可能である。したがって結論は真である。 第三の型の推論  (34.11)この型の推論の真理条件は次の通りである。小前提はともかく肯定命題である。そして、前提のどれかが(どれでもいい)全称命題である。この型の推論には六種ある。  (34.13)(a)第一のものは二つの全称肯定命題からなる。  例えばこう言う場合である。「あらゆる甲は乙であり、あらゆる甲は丙である」(35.1)帰結はこうなる。「ある乙は丙である」というのも、小前提*を逆にすればこうなるからである。「ある乙は甲であり、あらゆる甲は丙である」そして、第一の型の第三の推論形を用いて展開すればこの結論が得られる。 *いわゆる三段論法を「小前提−大前提−結論」という順で書く習慣があるらしい。以下同様。  (35.4)(b)第二のものは二つの全称命題からなるが、大前提は否定命題である。  例えばこう言う場合である。「あらゆる乙は甲であり、いかなる乙も丙ではない」帰結するのは「あらゆる甲が丙というわけではない」である。というのも、小前提の逆をとると、第一の型の第四の推論になるからである。  (35.7)(c)第三のものは二つの肯定命題からなるが、小前提は個別命題である。  例えばこう言う場合である。「甲である乙もあり、あらゆる乙は丙である」帰結するのは「丙である甲もある」である。というのも、小前提の逆をとると、第一の型の第三の推論となるからである。  (35.10)(d)第四のものは二つの肯定命題からなるが、大前提は個別命題である。  例えばこう言う場合である。「あらゆる乙は甲であり、丙である乙もある」帰結するのは「丙である甲もある」である。というのも、大前提の逆を取るとこう言うことになるからである。「乙である丙もあり、あらゆる乙は甲である」帰結するのは「甲である丙もある」である。そして、この命題の逆も真であるから、「丙である乙もある」となる。  (35.14)(e)第五のものは、小前提が不変肯定命題であり、大前提は個別否定命題である。  例えばこう言う場合である。「あらゆる乙は甲であるが、あらゆる乙が丙であるわけではない」帰結するのはこうである。「あらゆる甲が丙であるわけではない」このことを逆命題をとることによって論証することはできない(これは別のところで述べた通りである)が、仮定や「棄却」によってすることはできる。  (35.18)さて、仮定による証明はこのようになされる。或るものが丙ではない乙であり、この「或るもの」は、そのいかなるものも丙ではないと仮定する。その上でこう言うとしよう。「あらゆる乙が甲であり、或る乙が「或るもの」である」結論はこうである。「或る甲は「或るもの」である」その上でこう言うとしよう。「いかなる「或るもの」も丙ではない」結論はこうである。「或る甲は丙ではない」  (36.1)さて、後者(「棄却」による証明・帰謬法)は次のようである。例えば何か「あらゆる甲は丙ではない」といった文を偽とする。すると、あらゆる甲は丙である。さてそこでこう言うとする。「あらゆる乙は甲であり、あらゆる甲は丙である」結論はこうなる。「あらゆる乙は丙である」さて、こう言っていたはずである。「あらゆる乙が丙であるわけではない」これは不可能である。したがって、上で得られたあの結論は真である。  (36.5)(e)第六のものは、個別肯定命題の小前提と全称否定命題の大前提とからなる。  (36.5)例えばこう言う場合である。「或る乙は甲であり、いかなる乙も丙ではない」結論はこうなる。「いかなる甲も丙ではない」なぜなら、小前提の逆をとるならば、先の型の第四の[推論]になるからである。  (36.7)さて、他の二つの型もこれと同様であり、主語と述語の代わりに前件と後件を用いる連言推論なのである。 連結された命題から選ぶことによる推論  (36.10)連結された命題の一つを選ぶことによる推論は、命題の連結と選別からなる。例えばこのように言う場合である。「ある人に熱があるなら、彼の脈は速い」これは連結された命題である。さらにこう言うとする。「さて、この人には熱がある」これは先のものから一つを取り上げている。ここからして、結論はこうなる。「この人の脈は速い」。  (36.12)この推論には二種類ある。  (36.14)一つは、選ばれるのがまさに前件で、結論がまさに後件であり、今述べられたのと同じである。  (37.1)もう一つは、選ばれるのが後件の否定である。例えば先の例を用いて言えばこうなる。「しかし、彼の脈は速くない」結論は前件の否定となる。つまり「故に、このような人に熱はない」と。さてしかし、選ばれるものを前件の否定とし、「このような人に熱はない」としても、熱はがこのような人にやはりあるとかないとかの結論を導くことはできないし、同様に、選ばれるものを後件そのものとして、「さて、彼の脈は速い」としても、「熱があるかないかどちらかである」という結論を導くことはできない。 「分離」された命題から選ぶことによる推論  (37.7)「分離」された二つの部分からなる命題(選言命題)があり、そのどちらかを問わず一方を選ぶならば、結論として生ずるのは、他方に矛盾する事柄である。  (37.8)例えばこう言う場合である。「この数は偶数か奇数であるが、偶数である」そうすると、こう言うことになる。「奇数ではない」また、「奇数である」と言う場合は、こう言うことになる。「偶数ではない」と。また、どちらかを問わず、ある部分に矛盾する事柄を選ぶならば、結論となるのはもう一方の部分そのものである。例えばこう言う場合である。「しかし奇数ではない」ならば「偶数である」となる。「しかし偶数ではない」ならば「奇数である」となる。  (37.11)さて、このことは真正の分離命題には成り立つが、真正でない分離命題においてはこの通りにならないことがある。  (38.1)ところで、分離命題に二つ以上の部分がある場合は、全体から何を選ぶにせよ、その残りがこのような結論を得るのである。  (38.2)例えばこう言う場合である。「この数は<あの数よりも>大きいか小さいか等しいかであるが、より大きい」結論はこうなる。「故に、等しくもより小さくもない」  (38.3)また、何であれその部分に矛盾するものを選ぶならば、その残りが結論となり、その時それが残るようになる。  (38.5)例えばこう言う場合である。「しかし、より大きくはない」結論はこうなる。「等しいか、より小さいかである」 複合された推論  (38.7)全ての帰結が、二つの前提で充分であるような一つの推論から生じるわけではなく、個々の問題は多くの推論によって処理される。例えば、二つの前提から結論が導かれるが、さらに、この結論が別の推論の前提となり、最後の結論に至るまで全体がこのようになり、問題が解決される。しかし、全ての推論がこのような順序に並べられ語られるわけではない。推論を切り詰めるためやより巧妙にするために(トリックのために?)いくつかの前提を省略することもよくあれば、前提を前後させることもよくある。しかしながら、事実最終的にはこのように、我々が語った推論がなされるわけである。  (38.12)この議論には幾何学から例を引いてこよう。このような例である。ユークリッドの書の第一の図形があるとせよ。    G    /\   /  \ A/____\B[各辺に他の二辺を半径とする弧があると思って下さい]  (39.1)線分があるとし、これをABとしておこう。そして次のようなことをする。この線上にある型の論証をするため三辺を作る(三角形と呼ばれる)。また、この図形の各辺が互いに等しくなるようにする。そして次のように要請し語る。つまり、コンパスの中心を点Aにおき、点Bまで開いて、Aの周りに円を一つ描く。また再びこうする。つまり、今度は中心を点Bにおき、点Aまで離して、Bの周りに円をもう一つ描く。二つの円は必然的に互いに交差する。交差した点をGとする。そしてこの点から線を引き、点Aまで延長する。また、別の線を(Gから)Bまで引く。  (39.10)さて次のように言おう。これらの諸点の内部にできた図形は三角形であり、その各辺は等しい、と。このことの証明は次の通りである。二つの線、AB及びAGは等しい。なぜなら、これらは中心から円周へと引かれたものだからである。同様に、線BAとBGも等しい。また、二つの線AG及びBGも等しい。どちらも線ABに等しいからである。こうして、線AB上に、その各々三辺が等しい三角形を作ることができる。  (39.14)さて、物事を述べる中で推論はこのように働くのである。実際にはどうであるかを、これから述べたいと思う。この場合、用いられている推論は全て第一の型である。  (39.17)第一のものはこうである:二つの線AB・AGは二本とも(同一の)円の中心から引かれた直線であり、円の中心から(円周へと)引かれた任意の二本の直線は等しいので、結論は、二つの線ABとACは等しい、ということになる。  (39.20)もう一つのものとして、二つの線BA・BCに同じことをする。  (40.1)そして第三のものはこうである:二つの線AG・BGは、もう一つの直線、つまりABに等しい直線である。さて、第三の辺に等しい二つの直線は各々互いに等しい。結論:二辺ABとAGは各々互いに等しい。  (40.4)さらに第四のものはこうである:線ABの上にある図形ABGは、等しい三辺に囲まれている。さて、互いに等しい三辺に囲まれた図形は各三辺が等しい三角形となる。結論:線ABの上にある図形ABGは、各三辺が等しい三角形である。  (40.7)さて、この推論において別の問題を解消しなければならない。 帰謬推論